エリュオス西部に位置する
ディルフィリウスの森。エルフたちの里である。強力な呪いのようにがっちりと里を囲む木々のせいで、入口などという概念はそこに存在しない。
ただ巨大な樹木の前にわたしはぽつんと立っていた。
奥からは頭が溶けてしまいそうな花の蜜の香りが漂っている。
ここまで来るだけでも相当骨が折れた。結界魔法を通り抜けようとすると、どこからかエルフが現れ、危うく戦闘になりかけた。そこを教授が――まったく普段のおちゃらけた態度からは想像できないが――交渉をして、ここまで来れた。
――非は相手方にもある。
教授が使った人間側の言い分だ。確かに、お祭り騒ぎで気を抜いて結界魔法を一時でも解いてしまったことは明らかに相手側のミスだと言える。その小さな穴の中を通り抜けていった“ネズミ”を、わたしたちもエルフも何としてでも捕まえなくてはならない。
「通信魔法で居場所がわかったわ」
一瞬だけ踊る小人のように顔を歪め、即座に慌てて顔を引き締めてから、そのエルフの少女は言った。
わたしは間髪いれずどこ、と訊ねる。
「すぐ近くよ。いい、ここまで連れてきたのはあくまでアタシたちの非を認めて、人間と対等な位置に立つため。ここから先はアタシたちの仕事よ。まあその子供とやらも過激派の連中にさえ見つからなければ無事だろうし。アンタたちはちゃんとこの場所で待機して……って、ちょっと!? 勝手に中に入ったら――」
既にその声は、子供の頃の記憶のように、ずっと遠くで感じられた。
話はほんの少しだけ遡る。
わたしは少しだけエリュオスに住んでいた時期がある。大学で休暇をもらったわたしは遊びに行くことにした。なにせ、そこにはわたしの小さなボーイフレンドがいるのだ。
ハイネという名前の少年とわたしのファーストコンタクトは、同年代の子供たちにいじめられていた彼を救ったことから始まる。先祖がどうたらとか意味不明な理由でいじめられていた奴らをあっという間に蹴散らしたわたしを見るハイネの目は、凄まじい熱を帯びていた。
それからというもの、彼とよくつき合うようになった。
そして問題。何を思ったか、ハイネが単身でディルフィリウスの森に侵入したという。間の悪いことにエルフたちのドンチャン騒ぎだ。
やつれたハイネの母親の顔を見れば、探しに行けないわけがない。わたしは早速、そのディルフィリウスの森に行くことにした。
存在は知っていたが、近づくのはもちろん初体験だった。それほど危険な場所と教えられていた。ハイネ……エルフたちに食べられてないかしら。
森と林の境界のような場所で、わたしは壁にぶつかる。結界魔法だ。透明のデブの腹にぶつかったように跳ね返される。
もちろんそんなことで諦めるわけにはいかない。わたしは魔法を唱えて、何とか結界を破ろうとした。すべてを破らないでも、少しだけ脆い場所に穴を開ければいい。
「ちょっと待ちなさいよアンタ!」
結界の先から、豊かな金髪を揺らして、緑目の少女が現れた。エルフだと一目で判断がついた。
「人間がこの森に何の用かしら?」
エルフが目を細める。
「返答次第じゃ、帰れなくするわよ」
好戦的な奴らだ。これではハイネが食われてしまう。
無理矢理にでも通してもらうしかないようだ。魔法で小さい炎でも出せば大人しくなるだろう。などと好戦的なことを考えていると、後ろから
「昨日のお祭り、随分と楽しかったそうだな。思わず結界魔法が解けてしまうほどに」
さっき棺桶から出てきたばかりな死者のような声。その不健康な顔。
違う。これはゾンビではない。教授だ!
「あの……教授、ですか?」
「どこからどう見てもな。理由は後で話してやる。それよりも……」
教授がニヤリと口角を吊り上げる。
「エルフの諸君は知っているのかな? 諸君らが楽しくお祭り騒ぎをしている間に人間の子供が森に迷い込んでしまっていたことを」
エルフはトカゲの死体を突き付けられたように渋い顔をした。
教授は何故、こんな所にいたのか。
「実は校長からな、エルフと和解するための足がかりを作ってこい、と言いつけられたんだ。エルフと人間たちの冷えた関係はもう数百年前からだ。人間たちは必要以上に関わることを辞めている。だからこそ、誰かが歩み寄らねばならん。
そこで選ばれたのが俺だ。どうも人外たちとの接点が多いからとかいう理由で選出されたらしい。こんな危険度大の任務はお断りしたかったんだがな……まあ、この前の白鳥の事件で随分と迷惑もかけたし。断るに断れなかった」
「どうしてエルフたちがお祭りしてたってわかったんですか?」
「何を言ってんだ。昨日はあの世界的な革命が起きた『先導者の宣誓』が発せられたその日だぞ。ディルフィリウスやその他の命を落とした多くのエルフの英雄たちを祀る英霊祭が行われたに決まっているだろう。お前は本当に俺の生徒なのか?」
教授から苦笑いをもらってしまった。
「エリュオスで子供が迷い込んだことを聞いた。お前がひとり突っ走ったこともな」
半笑いするなお化けみたいだぞ。
「どう口実を作るべきか迷っていたからとりあえず利用させてもらった。このまま里の長に会えればいいのだが。しかし奴らが現在どの程度人間を嫌っているのかがわからん限り、そうそう安直な行動はとるべきでないな」
皮肉かよこのクソ教授。
「まあ今からは俺の言うことに従って行動しろよ」
「着いたわ」
何か言い返そうとしたわたしに、先導していたエルフが冷ややかな声で言う。
巨大な樹木が胸を張るようにして聳え立っているのが見えた。
「ここから先がアタシたちの里よ」
再び時間は戻る。
わたしは木々を薙ぎ払うように走った。ハイネがどこにいるのか、肝心な部分を訊かなかったことを早くも後悔する。しかし近くで見つけたならば、エルフたちもそのすぐそばで待機しているだろう。
そう考えを巡らせて走り続けると、少し開けた広場のような場所にエルフたちが数人集っているのが見えた。
――ここにハイネがいるのね
「ハァ……ハァ、ハァ。おーいリンス、お前は死にたいのか? そんなに死にたいのなら俺が殺してやるぞ。今すぐに。ここはエルフたちの縄張りで、不用意なことをすれば本気で殺されても文句は言えんぞっ……て、聞いてんのか!?」
「ハイネ……どうしてあんな巨木の上に」
剥いた栗のような頭をした少年、ハイネは、教授を十人積んでも足りないほどの高さの巨木の上にいた。不安定な足場で、今にも落ちそうで
ある。
「恐らく『石苔』で登ったんでしょう」
追いついたエルフが果汁のような汗を滴らせながら息を整える。
「樹木に張りついて栄養を吸う苔よ。群体で動くの。栄養を吸っている最中は身体が硬質して、まるで小石のようになるわ。それを使って登ったのね……だけど石苔は一時間くらいで別の樹木に移動するから、ああして降りれなくなっちゃったわけ。アタシたちエルフはあんなの使わないでも登れるからいいんだけど。
ちょっと、そこのアンタたち。見てるだけじゃなくて、下ろしてやんなさいよ」
巨木を仰ぐエルフたちに呼びかける。しかし彼らは曖昧に首を振るだけで動かなかった。恐らくハイネを餌にするかどうかで揉めていたのだ
ろう。そうはさせない。
教授が後ろで呟く。
「彼らの顔、引っ掻かれたような傷があるが……」
わたしが先に進もうとするのを教授が抑える。その隙にエルフの少女が巨木に近寄り、小さな掌で触り、まるで木の意思を汲み取っているのだと言うように目を閉じた。
ボコッとエルフ少女の足元の地面が盛り上がる。地下から登ってきたのは巨木の根のようだ。それが掬い上げるようにエルフ少女をハイネの元まで運ぶ。
巨木の上でエルフ少女が手を差し伸べる。ハイネはかなり怯えていた――が、意を決したように地面を見ると、
「へ?」
迷わず飛び降りた。
その顔は、エルフの助けなど借りるものか、とせせら笑っているようだった。
ハイネの落下地点めがけて走ったわたしやエルフたちを押し退けて、彼を見事キャッチしたのはまさに教授その人だった。
まるでそうなることがわかっていたように、彼は真っ先に駆け出したのだ。
「馬鹿な真似を……これだから子供は考え足らずで嫌いだ」
教授が顔を歪めながら言葉を吐き出す。
「おい。どうしてこの森に忍び込んだ? 言ってみろ」
ハイネは答えない。
「無視か。じゃあ、何故この木に登った」
「……エルフたちに見つかると思ったから」
「ふん。覚悟もないくせに忍び込むんじゃない!」
「覚悟ならある。だから僕をエルフの長のところへ」
教授がハイネの頬を殴った。躊躇も遠慮もなく、本気でぶっ飛ばした。わたしはもう見てられずに、教授からハイネを取り上げた。
いくら子供が嫌いだからって、それを暴力として形に移したら犯罪である。
わたしは危ない銀のナイフでも見るように、教授を睨んだ。しかしそれを屁ともせずに教授はまたハイネに質問した。
「最後に、お前の名前は? 姓も合わせてな」
ハイネが答える。
「ハイネ・ヴァイスマン」
強い風が吹き、森が傷つき涙を流しながら震える狼のように咆えた。
わたしたちは結界魔法の外まで来ていた。見送りはエルフ少女ただひとり。
今回のことは上には報告されなかった、と表向きはそう言われた。しかしエルフの長ならそんなことはお見通しに決まっている。
しかしそれでも帰してくれるということは、何とか危ない線から出ずにすんだらしい。
教授もわたしもほっと胸を撫で下ろした。
しかしハイネはどこか不満げである。やはりゾンビ教授に殴られたことが相当ショックらしい。後できつく油をしぼらなければ、どこかでまた子供が泣くことになる。
「じゃーね。久々に人間と接触できて――それも嵐みたいな騒々しい感じだったけど――結構楽しかったわ」
エルフの少女が齧られたリンゴみたいな笑顔を作る。
「また今度入りたいときはアタシを呼びなさい。エルフ総出で歓迎したげる……はさすがに無理だけど、裏口からこっそり入れてあげるくらい
はしたげるわ」
それだけ言うと彼女は結界魔法の奥、自らの森に帰っていった。
わたしはふと疑問に思う。
「教授、よかったんですか? エルフと人間の和解のこと。結局誰にも言わないまま帰ってきちゃいましたけれど」
教授が苦い顔で煙草に火を点ける。
「いいんだよ。軽々とは言えないことも、あるんだ」
今回の話はこれでお終い。
ただ最後にひとつ付け加えるなら、わたしが大学の図書室で見つけたとある資料。
あの事件でわたしの知識が不足していると判断した教授は、エルフについてレポートを書くように言いつけてきた。ファック。しばらく調べていると『エリュオスの失態』という出来事にぶち当たった。
危険な『焼夷魔法』を使いエルフと森の多くを焼死させた事件。その暗い歴史に不名誉な名前を刻んだ一同。
胸糞悪い気持ちでその羅列を目で追っていると、その中に
『エリック・ヴァイスマン』
という名前を見つけた。偶然と信じたかった。しかしハイネは……
教授は何時から気付いていたのか。どこまでが偶然だったのか。どこまでが踏み込んではいけない事情だったのか。
決まっている。最初からだ。わたしたちが思うよりも、エルフと人間との歴史は深く、そして暗い。軽々しく口にはできない諍いがある。それを止める方法は、未だわからない。どちらもどちらで睨み合っているだけなのだから。
最終更新:2011年07月11日 12:34