――ギムリアース北部 カルラ火山 山中
骨が軋むほどの寒さに目が覚める。そして気づいた。まただ、また鼻に灰が入ってる。まるで妖精のお茶目のように……苛立ち混じりに鼻から灰を掻き出した。
それにしても。くしゃみをする。この寒さはどうにかならないものか。さっきから鳥肌は立ちっぱなしでそのまま大空にはばたいていってしまいそうだ。うんざりした気分で毛布にしっかり包まり寝転がる。
隣でぐーすか呑気にいびきを掻いてる教授が恨めしい。
すべてはこいつのせいなのに、わたしがいちばん苦労している。
思えば長い道のりだった。教授の甘言に騙されてほとんど準備もしないままに、この『カルラ火山』までやってきた。気分はピクニックだったわたしは、狐に化かされた顔で教授の顔を見る。ニヤリと悪魔の顔。
騙された、と気づいたとき既に遅し。滑りやすい火山灰地を必死に登り、登る度に寒さは増していき、斜面で教授が三回は転んだ。
しかも山賊が出るという噂もあり、一歩進む度に寿命が十年縮む思いだった。
愉快なことなどせいぜい教授が転んだことと寝ている教授にたらふく火山灰を食べさせてやったことくらい。後は……
瞬間、爆音が山を震わせる。山頂から赤い鳥が一斉に飛び立った。
否、それは鳥ではなく、溶岩である。流星よりも綺麗な眺めとはよく言ったものだ。思えば教授の誘い文句など、それくらいしか合っていなかった。
綺麗だった。カルラ火山は数時間に一度は小噴火することが有名だ。しかし日が沈むほど落ち着いていくので、眠る分には静かでよかった。
わたしをここまで歩かせた原動力こそあの噴火だった。本物の噴火口はどうなっているのか。どれほどの熱さなのか。教授を突き落したらどうなるのか。
そんな期待に胸を躍らせていなければ、やってられないのが実情だった。
この誰も望んでいない冒険は例によって教授の一言から始まった。
「山に登ろう」
教授はその言葉を、古めかしい宝箱を開くような重たい口調で言った。
わたしは読んでいた流行りの小説『伯爵サンジェルマンは見た 湯けむりバスルーム殺人事件』を閉じて、教授をまじまじと見つめる。
「山、ですか? えっ……どこの?」
「それは着いてからのお楽しみということでな」
歯切れ悪く教授が答えた。
後で知ったことだが、教授はとある組織からの依頼でカルラ火山を調査しようとしていたらしい。カルラ火山は過去に大きな噴火を数度起こしており危険視されていた。
今でもときどき、大きな噴火で
機工王国ギムリアースに灰を降らせている。
しかし国を呑み込むほどの溶岩はもう流れて来ないだろう。それがもっぱらの学者たちの見解だった。そこで観光地としてカルラ火山を生まれ変わらせるという計画が持ち上がった。教授がどれだけ積まれたのかが気になるところである。
カルラ火山はそこまで大きな山ではない。教授は取り分が減るのが嫌で、他の人間を雇わなかったのだ。それでわたしを使うことを思いついたのかもしれない。
わたしは山に登るという誘いに、少しだけ疑問を抱いていた。だって、今まで教授が連れていってくれた場所にピクニック気分でお弁当を出してきゃっきゃうふふできるようなところはなく、どこもハンターが血を流してそうな場所ばかりだったから。
「怪しいです」
「何を言っとるんだリンス?」
「だって、どうしてわたしを誘うんですか?」
教授はちょっと口をもごもごさせながら小さく呟いた。
「それはぁ……お、お前と一緒に、行きたい、から、だ」
本当におめでたいことなのだが、わたしは、そのときちょっとだけ、ほんのちょっとだけだが、嬉しかった。
傾きかけた心の迷いを完璧に始末したのが、次の教授の謳い文句。
「それに、その山からは流星よりも綺麗な眺めが見られる」
カルラ火山行きの止まらない馬車が発車した。
三日目の朝。日が昇りわたしたちは目覚めた。鼻にしこたま灰を詰まらせた教授は水筒で鼻を濯いでいた。恨みがましそうな目でこちらを見ていたが、知らんぷり。
これくらいの悪戯は当然許されるべきなのである。
「ふん。しかしリンス」
教授が頭を掻きむしって言う。
「こいつらは何だ?」
わたしが聞きたいくらいです。
わたしと教授をサンドウィッチする形で道を塞ぐ、この謎のぼうぼう灰色髭の屈強な小男たち。何なんだろう。過去に教授が眠っている間に引き千切った無精髭の呪いだろうか。
もちろん違う。何故なら、小男たちの正体は、その身体的特徴から割り出される。
「親父ぃ、人間ですぜぇ」
『ドワーフ』のひとりが呟く。呟くと、その中でも最も濃い顔つきの男が口を開いた。
「人間サマが何の用でございましょうかぁ? ここはワタシたちの縄張り……擦り切れたドワーフたちが、人目を憚って暮らしているだけのつまらねぇお山でございます」
親父と呼ばれたドワーフは膝を折り曲げうやうやしい言葉を連ねた。しかしその口元には髭の他に嫌な笑みが添えられており、まるで山賊のような相貌だった。
――親父の捕えろ、という命令で、わたしたちはあっさりと手枷で拘束された。
そして数時間、どうやらわたしたちは上へ進んでいるらしい。これで下る何てことになったら過酷な重労働に耐えてくれた二本の足に申しわけが立たない。
というのもわたしたちは目隠しをされているのだ。足場が見えないので、何度も転びそうになり教授にいたっては坂から転げ落ちた。しかも目隠しの布が妙に汗臭くて気分だけが地の底を突き抜けていくようだった。
しばらくして、ようやく着いたらしい。冷気はおぞましいほどだったが、他に強い熱を感じる。目隠しを解かれ最初に見たのは赤色。どうどうと鳴動しながらうごめく真っ赤な真っ赤な溶岩。火口がすぐそこにあった。足元で落ちていった地の欠片が中に吸い込まれジュッと断末魔を上げる。
それは背筋が凍ってしまいそうなほどの熱だった。
「どうです? 凄まじぃ熱だと思いませんかねぇ。ほらほら、こうして鉄の欠片を、見ててください、投げ込んじまうと……どうです、こいつぁ何でも溶かしちまうんです!
こいつぁ、いくら世界のあちこちで王様気取りの人間サマでもひとたまりもありゃぁせんですぜ。アハハハハ。そんな顔をなさらないでも、心配しないでくださいませ。どうか! どうか! ワタシたちにそんな大それたマネはできゃぁせんよ。
それはそうと見ました、噴火? 今は小噴火は止んでいますがぁ、あの溶岩が噴き上がるときなんて絶景でございますよ。まぁさに、流星よりも綺麗な眺めです!」
こんな対面をしたくはなかった。せめて、この火口を見ることだけはいい思い出にしたかったのに。こんなことってない。
わたしは怒りの矛先を教授にぶつけた。キッと睨みつける。すべてはこいつのせいだ!
教授は無表情に火口を見下ろしていた。柵などがないので、あまり顔を出すと落ちていってしまいそうだ。しかしこの状況でどうしてこうも呑気でいられるのか? あまりの熱さに脳が溶けてしまったのかもしれない。
そんな教授が気に食わないのか、親父ではないドワーフのひとりが苦々しい顔をする。
「あんだおめぇ、そんなに落ちたいならオレが落としてやろうかぁ?」
「やめねぇか!」親父が叫ぶ「すんませんねぇ。こいつらぁ、久々に人間サマを見たものだからはしゃいじゃってぇ……血気盛ん過ぎて手を滑らせちまわないか心配心配」
部下の首根っこを掴んで引き戻す。そして鋭い眼光で教授の顔を覗き込んだ。
「さぁて、ここからは大人の話し合いといきゃぁしょうや。人間サマは、見たところ随分立派な身形ですがぁ、どこぞのお役人ってわけじゃぁないようで……いったい、ここに何の用があってきたんでぇございますかぁ?」
「ご名答。ただの登山客だ」
「それじゃぁ、人間サマたちはぁ、決して、決してここで山賊が出たから退治してきてほしいとか、“ここを観光地にしようとか考えて”来たわけじゃぁないと?」
いきなり当てられた。最近のドワーフは読心術に長けているらしい。
どうするんですか教授、とわたしは口を動かす。
沈黙。教授は火口の奥を覗き込んでいる。それは教授が考え込むときの顔だ。一応この状況を真面目に考えているらしいが、当てにはできないようだ。
親父が沈黙を答えと見做して口を開こうとした、その瞬間――彼の部下がそれを遮った。
「親父ぃ、見てくだせぇ!」
部下ドワーフが、わたしの鞄をを森のクマが蜂蜜壺を抱えるようにして持ってきた。
「こいつ、“お弁当”を持ってますぜ!」
場の全員に動揺が走る。
――え、弁当でございますか? 火山に弁当ぉ? しかも中身はちょっと可愛らしいぞ。いったい何を考えて。俺ではないぞ、俺はこんなちっこい弁当は作らん。じゃあ誰が……あーもう、どうしてこっちを見るの、見ないで、頼むから!
「リンス。まさかこの“二人分”の弁当は?」
「そんなに顔を引き攣らせなくてもいいじゃないですかぁ!」
三時間分の努力がその箱の中には詰まっている。わたしの渾身の一作が、何故に燃え盛る溶岩の前で開けられなければならないのか。
ドワーフ一同が弁当箱を真剣な表情で囲む。中には涙を浮かべてそれを見ている者もいた。泣きたいのはこっちだった。
そこに教授が何かを閃いたように小さく呟いた。
「和解の印」
「えっ?」親父が訊く「何ですって?」
「和解の印です。我々はとある情報から少数のドワーフたちがこの森で潜み暮らしていることを知りました。そこで人間代表として、こうして持ってきたわけです。どうでしょうサンドウィッチのひとつでも召しあがってくれませんか?」
――? わたしは疑問符を浮かべる。もしかして教授は……
ドワーフたちの涎が地面にぽとり。今か今かと親父のやっちまえええ、という号令を待っている。しかし当の親方は鉛を呑もうとするように鈍い表情だ。
そこに教授が追撃をかける。
「あなたたちは、その、お好きでしょう?」
「……人間サマはぁ、ワタシらのことを?」
「ええ。確証はありませんが予想はつきます。
過去に
レヌリア帝国に乗っ取られた
ライザール王国を解放するために立ち上がったドワーフたちの英雄がいました。『クラフター』と呼ばれていたらしいですね。
『青の三日月事件』については心中をお察しいたします。その後住処を追われ、生き残ったドワーフの少数は、このカルラ火山に」
「逃げ込んだ」親父が言葉を続けた「仲間たちを見捨てて、こうしておめおめと……エッヘヘ。ワタシたちは意地汚くけち臭く、こうして山賊をしながら人間にちっぽけな復讐をしているって次第でございます。
エッヘヘ。どうして笑っているかって? これが笑わないでいられましょうか? 人間サマが人間サマに襲われているのを助けようとしたら住処を奪われ、鉱山を奪われ、そして逃げ込んだ先で人間サマを襲ってたら人間サマがお弁当を持ってきた。
エッヘヘ。面白いご冗談でぇ。笑い過ぎて唾がかかっても、気を悪くしないでくださいませ。どうせワタシらドワーフは恥も誇りもない下等種族でごぜぇますからね!」
「えっ?」
手枷が外される。部下ドワーフたちはわたしたちが落ちないように丁重に触れる。
教授は手枷が外されるとすぐに親父に近寄る。遅れてわたしも。そして信じられない光景を見た。あの教授が頭を下げたのだ。あの鋼よりも硬いプライドを持つと比喩された、あの教授がだ!
「頼みます。どうか。どうか! 我々はあなたたちと仲直りをしたい。せめてサンドウィッチだけでも……」
「サンドウィッチですかぁ。懐かしい。昔は人間サマがどうしても、と言うから食べたもんです。泣きそうな顔で差し出す女の子がいましてねぇ。めんこいめんこい言い可愛がってましたが、その子も戦争でねぇ、
しかしワタシらは少しここに長居したようです。ほれ、見てくださいませ。この髭も、昔はもっと黒々としたんですがぁ、灰にまみれて、薄汚れちまいました」
「あなたたちは誰よりも誇り高い! それはよく知って」
「ワタシらが本当に誇り高けりゃ、女の子の手作りを勝手に平らげちまうことはできませんね」
その一言に教授は膝をついた。親父はわかっていたのだ。教授が口から出まかせを言ったことを。しかし、彼らを見る教授の目の輝きだけは
「あの、親父さん!」
「どうかしましたか? 人間サマのお嬢さん?」
「教授は意地悪で意地汚くて陰気で馬鹿ですけど、本当は大馬鹿なんです!」
「おいリンス」教授が言う「フォローになっとらんぞ」
「教授は黙っててください。だから教授はさっきのことを、何の話かはよくわからなかったけれど、それでも本気で言ってるんだと思うんです。確かにそのサンドウィッチはわたしが作った物です。だけど、だけどっ……」
言葉が繋がらない。感情が破裂して今にも何もかもぶちかましてしまいそうだ。
そんなわたしを安心させるように親父は言った。
「大丈夫! 大丈夫ですよ人間サマのお嬢さん! ワタシらはちゃんとわかっておりますとも。こちらの人間サマが立派なお方だということ、その真心をちゃんと受け止めましたとも。
人間サマに誓います。これからは山賊行為はいたしません。ですから、どうか、この山から追い出さないで……いいえ、人間サマ、あなた方ではありません。別の人間サマたちでございます。その方たちから、どうか、どうかお守りください! 我々も追い剥ぎしたくて山賊をマネてるじゃぁありませんからねぇ」
そう言うと彼らは岩陰の奥に消えていった。わたしと教授はその場に取り残される。
火口の鳴動する音が、やかましいネズミに出てけと非難しているようだった。
――お弁当、どうしよう?
カルラ火山が噴火するらしい。巷を駆ける住民たちの間で、今最も気になる噂話である。これから数カ月はこの噂一色だろう。それに感化されて本当に引越していった人もいた。
大学でも授業なんてそっちのけでぺちゃくちゃ喋っている。わたしもそのたちの悪い噂話に妙な尾鰭をつけて楽しんでいた。
もちろん、わたしはそれが眉唾の話だと知っている。
火山でドワーフの山賊たちと会って以来、教授には覇気がない。
観光地で一山当てようとした組織に、あの山は近いうちに大きな噴火を起こす、と予言するクールなことをしてのけたが、それ以降はめっきりとやつれた。
二三日後に骸骨が授業をしていてもわたしは決して驚かないだろう。
あれからわたしは図書室でドワーフの歴史について当ってみた。青の三日月事件ではほとんどが子供兵だったと書いてあった。もしかしたら親父というのは……
それはそうと親父の写真を発見した。クラフターの資料に彼の――随分と変わっていたけれど一目でそうと理解できた――記事が一ページを丸々使って書かれていた。
『 グレゴリー・ミシェロビッチ
クラフターの幹部であり青の三日月事件にてその怪力で奮闘した。一説によればドワーフの貴族であり、神話時代の英雄『鉄の騎士ベクメル』の血を引いているとも。
礼儀正しく誇りを重んじる性格で子供好きだった。人間との関係も良好であり、人間が作ったサンドウィッチが何よりの好物だったと伝えられている。
(中略)
彼がライザールにもたらした繁栄は並々ならぬものであった。
“彼を青の三日月事件で失ってしまったこと”は、人間としてもドワーフとしても大きな損失である。彼を屠ったのはライザール随一の騎士でありながらレヌリアの飼い犬と成り下がった『黒犬 クルス・ガンドッグ』である。
過去に親友だった二人に何があったのか、それは次のクルスのページで述べよう』
教授にそのページを見せると、何も言わずにその本をごみ箱に捨てた。図書室の本なのに。わたしが抗議しようとすると、それを手で抑えて
「リンス。お前はつまらん物を読んどらんで、こっちにしろ」
教授は『初心者から始めよう おいしいサンドウィッチの作り方』を差し出して、またトイレに駆け出した。わたしが見た中ではこれでもう九回目だ。
……あのサンドウィッチが三日で腐っていただけだと信じたい。だってわたしも食べたのになんともなかったんだから。
最終更新:2011年07月13日 14:05