私と教授の秘境探検記 『外伝』

 どこかで女の悲鳴が上がった。一瞬身を竦ませるが、すぐにそれが風で揺れたカーテンの音だと気づく。心臓の鼓動音を掻き消すように一歩を踏み出す。
 腐った床に破れたカーテンやカーペット、床に散らばる本から小さな虫たちが出て来て我が物顔で這いずり回る。明かりはない。差し込む月明かりだけが頼りである。
 もう慣れたものだ。しばらく歩いて、歩き方のコツのようなものが掴めるようになった。こういう場所では立ち止ってはいけない。考えても暗闇はなにも答えてくれないのだ。

 ここは我ら大学の『図書室』の成れの果てだ。
 途方もない年月にすっかり蝕まれており、もしも世界中の本好きが革命を起こしたら真っ先に飛びつく場所である。現在は立ち入り禁止。
 こんな陰気な場所、わたしは……しかし、言いつけられてしまったものは仕方がない。

 目指すのは図書室の最深部だ。わたしたちの大学は「弱小」なくせして、大きさは半端ない。それは、わたしたちの大学がとりわけ古株だからだろう。どうしてここまで寂れてしまったのかが気になるところだ。
 図書室は地下三階まであり、わたしはやっとその最深部まで辿り着いたところだ。そこまで見てくればこの探検もお終い。

 まったく、教授も着いてきてくれればいいものの。

 後で来るとか適当にはぐらかしてわたしを突入させた。つまり囮にされたのだ。大学教授ともあろう者が、“使われていない図書室から夜な夜な聞こえる足音”の正体に怖れをなしたというわけだ。実は結構、尊敬していただけにがっかり。
 だいたい足音くらいでビビるなんて、大の大人がしっかりしてほしい。田舎にあるわたしの家など三日に一度は知らない足音が聞こえたものだ。

 やれやれ。表紙に騙されて残念な内容の小説を読んだときのような気分が、今のこの気持ちを最も的確に表しているだろう。嘆息する。この図書室も同じだ。いかにも“出そう”な雰囲気を醸しているが、ただそれだけ。ここは忘れられた本たちの墓場でしかない。実際にはなにもな
かった。
 嘆息。一歩。思考。嘆息。一歩。思考。嘆息。一歩。一歩、一歩……

 ふと、仄かな明かりが、視界の先に揺れているのを見つける。ランプだろう。恐らくは足音の正体。わたしは本棚の影に隠れ一歩一歩、慎重に距離を詰めて、そして

 凍りついた。

 気配に気づいてこちらを見たのは、まるで人間の髪のような黒蛇をわんさか頭に乗せて、むしろ人間のような図体に大勢の虫を引っつけて、もしや人間なのかもしれないなどと疑ってしまうほど人間に近しい化物だった。
 ギャーーー!! わたしは悲鳴を上げてひっくり返った。

 時間は遡る――

  レヌリア帝国 帝都カテドラ エインズワーク魔法大学

 選択の地理学の科目は、わたしたちの大学では最も人気がある授業だ。

 まずやることが派手だ。教科書などはほとんど使わず、講師自身が自ら出向いて取ってきたその地方特有の生物や鉱物などを持ってくる。おまけに講師は二枚目だし、その澄んだ声は耳の穴が三倍広がると有名な代物。思わず右耳から左耳まで滑らかに通り抜けていってしまうほど。
 この科目を受けていない同級生たちは涎を垂らして羨ましがり自分の選択を後悔する。受けている同級生は講師のイケメンフェイスに涎を垂らしながら釘付けである。

 しかし、なにか違う。確かに話を聞くだけの睡眠導入講義よりはよっぽど面白い。
 多様な生物とかたくさん見られる。教え方も上手い。
 だけどそれだけのことのために田舎から飛び出してきたのかと思うと……家の裏庭にもそんなのはたくさんいたし、それ単体で見せられても仕方がない気がする。

 それに教授の笑顔には、なんだか影があるように思えてならない。

 だいたい、わたしがあの牛の胃の中みたいに緩やかな時間の流れる、魔力泉が村の中央に残っているだけの黴くさい村を出てきたのは、もっと別のなにかを求めていたからだ。閉じた世界を捨てていろんなものを見ていろんなものに触れていろんなものを知っていろんな場所に……


「起きられますか?」

 澄んだ声に耳の穴が三倍広がった。欠伸をして起きると……おやおや皆さんどうしてこちらを見ているのかうふふふふ。教室中の視線がわたしを突き刺していた。
 どうやら居眠りしていたらしい。涎を拭う。よりにもよってこの講義でとは……ほとほとついていない。

 寝惚け頭に教授のイケメンヴォイスが炸裂する。 
「大丈夫ですか? 僕が誰だかわかる?」
「はい……『バーンハート先生』」
「よろしい。頭は大丈夫みたい。体調が優れないようなので医務室へ――誰か付き添いは要る?」
「いいえ。ひとりで行けます」

 特に体調が悪かったわけではない。しかし、わたしは一刻も早く教室を出ていかないと恥ずかしさで身体がポンと破裂してしまいそうだった。
 ――後で僕のところへ来てください、バーンハート教授はそれだけ言うと講義に戻った。

 わたしはバーンハート教授に呼ばれた教室の前にいた。ノックをしようとすると、中から長髪の男が現れる。こちらを一瞥するとさっさと歩き去っていった。きょとん。どうしてこの教室の中から? 疑問に思いながら扉をノック。

「失礼します、バーンハート先生」
「ああ。よく来たね」

 すっかり遅い時間帯だというのに、教授の笑顔は輝きを失わない。沈まない太陽。眩し過ぎて思わず目を反らしてしまったほどだ。

「さっきの人は?」
「ん?」教授は少し考え「ああ、彼ですか。いちおう教授。講師の仕事はしていなくて、研究専門だから、きみが知らなくても無理はないね」
 大学ではちょっとした有名人なんだよ、とピンで空間に留めるようなウインクをした。

 椅子に座り向かい合う。教授の顔は眩し過ぎるので床に視線を落とす。
 バーンハート教授は苦笑いして言った。

「まあ、そんなに緊張しないで。居眠りくらいで目くじらを立てるほど人間が小さくもありませんから。体調はもう大丈夫そうですね」
「はぁ……はい」
「しかし、どうも集中力が続かないね、きみは。授業はそんなにつまらない?」
「い、いえっ!」慌てて否定する「まさか、まさか、バーンハート先生の授業は、その、とても面白いです。みんなにもとても好評だし」

 教授はよく通る声で笑った。わたしの顔に赤みが差す。しばらく教授はわたしの顔を眺めて、やがてこう切り出した。
「図書室って知ってる?」
「図書室ですか?」ドキッ「はい、知ってますけど……あそこはもう使われてないはず」
「そう。そこに夜な夜なこそこそ忍び込んでる不埒な人物がいるらしい」
「えっ?」
「大学中でもなかなか有名になってる噂。図書室から夜な夜な聞こえてくる足音、って」
「――それで?」
 凄まじく嫌な予感がする。

「深夜のパトロール」

 イケメンスマイル! やめて、目に痛いです、目が焼けてしまいます!
 そんな顔でして来てくれるよね、と持ちかけられたらイエスと答えるしかないじゃないですか!
「僕も後で行くから、頼んだよ。入口は南校舎の一階の突き当たりね」
「知ってますよー」わたしは泣き顔で言う「うう、行ってきます」

 そして現在。
 わたしと化物は限りなく不毛な悲鳴の応酬を続けていた。何故だか化物の方も悲鳴を上げている。しかしそんなことはどうでもいい。わたしは急いで立ち上がり、図書室を出てバーンハート教授に人型モンスターの存在を伝えなくてはならない。
 立つ。走る。逃げる。
 しかし襟首を掴まれた。離せ、ともがく。力で床へ抑えつけられた。

「――待って」

 その右耳から左耳へ貫通して夜空に流星となって消えてしまいそうな声は、

 バーンハート先生!――イケメンがわたしを助けに来た。さすがだ。自分の役割というものをきちんと理解しているらしい。
 わたしは抑えつけられながらも、バタバタと陸に上がったサバみたいな動きで全身を使い喜びを示した。それに耐えかねたのか、化物の手がわたしから離れる。
 そして獰猛な化物が教授に襲いかかり――と思えば、

「ハート。こいつが例のあれか?」
「うん。ご苦労さま。それより服にめっちゃ虫がへばりついてる。取った方がいいよ」
「ああ。この虫ども、本の死体に群がってやがる。酷いものだ
 それよりハート、知っているか? さっきこの図書室の歴史を読んだのだが、この図書室が使われなくなったのは、ここで阿呆な生徒が“禁術”の本を発見し、それを試そうとしたせいらしい。失敗に終わったらしいがな。この荒れ具合は時間のせいだけでなく、そのときの被害もあるのかもしれんな。よくよく調べてみたがこの虫どもも、どうやら普通のそれではなくモンスターの一種みたいだ――クソ、離れろ離れろ」

 ――? どうしてバーンハート教授は人型モンスターと楽しげに話して人型モンスターがモンスターに悪態ついて……わたしにはこの状況が一部たりとも理解できない。いや、少しだけ理解できる。だけど、だけれど、まさかバーンハート先生はわたしのことを?
「バーンハート先生は知っていらしゃったんですか?

 “図書室から夜な夜な聞こえる足音の正体がわたしだっていうこと”」

「……居眠り常習犯は夜の散歩のせいですか。だめだめ、ちゃんと授業を受けないと陰険教授の恨みを買ってこういうことになるからね」
「現行犯で捕まえるために、パトロールなんてお題目をつけたんですね」

 つまらない大学生活。わたしが求めていた刺激は、バーンハート先生の講義にはなく、立ち入り禁止の図書室にあった。タブーを犯すという快感。わたしは虜になった。そして気がつけば大学中の噂話にまで上り詰めていた。
 気分が悪かったとは言えない。それだけ危険なことはわかっていたが、自分が話題の中心にいるというのはかなりの快感だった。

 だいたい、誰に迷惑をかけたわけでもない。散歩のような冒険だったのに。

「それで、わたしをどうする気ですか?」

 よろよろと起き上がって訊く。
 まさか、黙っててやる代わりに貴様の肉体とたーっぷりお話させてもらおう、とかいう展開はないと願う。バーンハート先生はともかく、もうひとり――どうやら人型モンスターではなく、さっき教授の部屋から出てきた男らしい。
(これも教授なのか。ネクロマンサーの間違いではなく)こんな奴に軽々しく触れさせられるほど乙女の肉体は安くない。

「ふふ」バーンハート教授が不敵に笑う「こうするんです!」

 ペチン――ぶたれた。手加減とかそういうレベルではない。虫を払う――いやもっと、愛しい孫を撫でるおばあちゃんの手のような力加減だ
った。
 思わず「はっ?」と声を出してしまう。もう一匹の教授も戸惑っているようだ。
 教授は相変わらず様になるウインクで答えた。

「既成事実です。あなたたち二人、勇敢な二人組に取り押さえられそうになった、図書室の足音の犯人は、最後の抵抗に生徒の方の頬を思わず
殴ってしまった。しかし犯人はさすがに逃げ切れないと覚悟を決め、呆気なく二人に捕まってしまいました」
「おい」ネクロマンサー教授が眉を顰める「お前、それ本気で言っているのか?」
 バーンハート先生は満面の笑顔で答えた。まるで重い荷物を下ろした後の馬のように素晴らしい笑顔だ。それを見てネクロマンサー教授は口をつぐんだ。

 しかし。待ってよ。そんなのわたしは納得できない。つまり教授はわたしの罪を被る、と言っているわけだ。そんなのおかしい。大きな罪だとは思わないが、それを他人が肩代わりするというのは気分が悪い。
 バーンハート教授を真っ直ぐ見つめ言う。

「どうして、どうしてっ――そんな、おかしいです。忍び込んでたのはわたしで、罰を受けるべきなのはもちろんわたしで、バーンハート先生はなにもしてないじゃ」
「悪いね。僕はもう疲れたんだ。講師というポジションに……」
「どういうことですか?」

「きみもきっと感じていたと思うけれど、僕は結構無理をしていました。ああいうのは向かないよ、やっぱり。僕みたいな小手先だけの道化じゃ駄目なんだ、ああいうのは講義じゃなくて所詮はパフォーマンスの部類。自己満足です。
 本当に人になにかを教えられる人間っていうのはもっと違う。たとえば、足音の正体を探ろうと持ちかけて子供みたいに目を輝かせて二つ返事する人間とかなんです。自分が本気じゃないのに、なにかを教えられるはずがない」
 そう言ってわたしから視線を反らす。

「待て」ネクロマンサーが言う「お前、まさか俺に後釜を」
「大学中を騒がせて、挙句の果てに女の子を殴った。講師解任は間違いない。いいだろう、きみは今の今までずっと研究に没頭できたんだから。そろそろ僕と交代してくれよ」
「しかし、俺なんかが講師になったら、教室がすっからかんになっちまうぞ」
「それでも! きみも男なんだから覚悟しなさい」
 ぴしゃりとネクロマンサーの言い分を断ち切るように言う。

 そしてバーンハート教授がわたしに向き直る。
「ねえ、きみ……名前で呼んでいいですか?」
「えっ?」わたしは驚く「だけど、知ってるんですか?」
「『リンスレット・フリア』、名前くらいは覚えてるよ」

 そのときようやく理解した。バーンハート先生は講師として半人前だ。

 わたしは苦笑いして、ウインク。
「『リンスレット・フレア』ですよ。リンスと呼んでください」

「あー、やっちゃった。どうかボロを出さないまま終わらせたかったんだけどな。
 ねえリンス、きみはやっぱり僕のことをわかってないと思うから言わせてもらうけれど、僕は別に同情して罪を被るわけじゃないんです。むしろ僕は卑怯者です。自分が辞めるための口実にきみを利用しているだけでしかない」
「けれど教授は良い人です。それだけは、確かです」
「ハハハ。良い人ですか、それはいい。良い講師と言わないでくれてありがとうリンス」

 バーンハート教授は床に落ちていた本を一冊、拾い上げる。開くと中からぶわっと虫たちが飛び出してきてから、顔を顰めていた。

「ここの本と同じです。誰もがみんな、究極的には自分の収まるべき棚があるんです……僕は収まる器でないから、きっと今回の事件がなくても勝手に講師なんて辞めることになっていました。いや、間違えた本はきっと、運命という管理人の手で振り落とされるものなんでしょうね」
「そうだな」もうひとりの教授が言う「俺もその器でなければ自然と落とされる。ひとつ棚探しでもするか、仕方なくな」

 バーンハート教授は、わたしともうひとりの教授を見て微笑んだ。

「リンス、きみの棚はきっと彼に着いていけば見つかるよ。

 だってきみらって、ぱっと見は違っても、書かれている内容は同じ本なんですから」

 現在、大学には二つの大きな話題がある。
 ひとつは大学からバーンハート先生が消えて、地理学の講義で見知らぬネクロマンサーが教鞭を振るっていたことだ。このA級ホラーのせいで半数の生徒が気絶したり、医務室の先生がヒステリックを起こしたりもしたのだが、その話はまた今度にしよう。
 バーンハード先生は教授の名誉を剥奪され、別の大学へ飛ばされた。しかしあの人ならきっとすぐにでも肩書きを取り返すほどの働きをするだろう。
 大学側も今回のこの劇的な変化を前にした生徒たちの気持ちを斟酌し、今更ながら選択科目を変更することを許した。

 半数以上が消えた。けれど、講義を受ける前に変えた連中はどうせ顔しか見ていないのだろう。判断するべき材料は、すべて講義の中で示されるはずなのに。
 まあしかし、講義を受けてから出ていった連中の気持ちはわからないでもない。教科書はバリバリ現役で使われるようになり、どちらかといえば睡眠導入講義に変わってしまったのだから。
 今日の講義でもほとんどが船を漕いでいた。わたしも寝ていた。午後の授業はないのでわたしは『図書室』へ行くことにした。

 ――あのとき、バーンハート教授に言われた言葉を思い出す。
『もしも、少しでも自分に罰がほしいなら、この図書室の床に溢れた本たちを再び、元の場所に戻してあげてください』

 それからしばらく時間をかけて図書室は見事に復興していた。まだ使用するまでには至らないが、これからも清掃を続けていけばいずれは開放できるだろう。
 もうひと月もすれば図書館が使用できるようになる――本当かどうかはいまいちだが、それがバーンハート教授の大学からの脱退と並ぶ話題である。

 図書室には既にネクロマンサーが来ていた。
「ん? なんだお前か」
「お前とか言わないでください。わたしはリンスレットです」
「俺に名前で呼んでほしいとは、一生徒がおこがましいわ」

 こんな性格だ。嫌われても文句は言えない、ちなみに既に学部内ではネクロマンサーは彼の正式名称に認定されている。流行らせたのはもちろん、わたし。 
 わたしはイーッ、と歯を剥いた。

「わたしだってあなたのこと、『教授」なんて呼びませんから!」
「おうおう。頼まれたって呼ばせねーよ」
「なによ。生徒からの支持率5%未満のくせして。センセー、授業がつまらないときはどーすればいーんですかー?」
「知るか。自分で考えろ、そんなもの。だいたい今までの俺は手加減していたにすぎない。お望みなら明日からでも噴火間際の火山にピクニックしに行ってやろうか?お前のような軟弱な女にはとても耐えられないハードな内容にしてやる!」



 これは、まだわたしがリンスと呼ばれていなかった頃の話で


「「なにを~」」


 これは、まだわたしが教授と呼んでいなかった頃の話で


「「フン!」」


 これは、まだ物語が始まる前の物語

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最終更新:2011年07月17日 01:33
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