深影の大陸という名をご存じだろうか。
そう、遥か昔に繁栄を極め、しかし神々の怒りに触れて滅び去ったというあの大陸だ。
そこから逃れてきたという少数のエルフの内の一人が、死の間際に私に譲ってくれたものがある。
それがこの古びた日記帳だ。何冊かある内の一つ、赤い背表紙のものを手にとってみる。日記帳、とは言うがその分厚さは百科辞典をもはるかに凌ぐ。
よほど長い間書き綴ったのだろう。とはいえ、その中身はかなりの部分が茶色く変色していてほとんど解読できないのだが。
表紙には流麗な古代文字でただ『日記』とだけ書かれていた。
考古学の学者である私は、その中身を頭の中の知識と照らし合わせて現代語訳していく。
それはこんな風に始まっていた。
(勇士の日記)
時々、私は皆が考えているような人間では無いのではないかと思うことがある。
勇士たる私が顕現した今こそが城壁の内から打って出るときで、徴とも一致していると、哲人や賢人たちは私に言って聞かせる。
それでも、私は悩んでいる。
本当は私は勇士などでは無いかもしれない。
どうしてか彼らは間違って私のような男を選んでしまったのではないかと、そんな考えばかりが私の頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
あまりに多くの人々が私を頼りにし、予言の言葉に縋り付いている。
しかし実際のところ、私はただの農夫の小倅に過ぎない。期待されているような力など何一つ持たない凡夫なのだ。
彼らは私の中に潜む、虚偽と堕落の影を見てとることが出来ないのだろうか。
彼らは本当に私が魔王討伐の使命を神より与えられた勇士だと信じているのだろうか。
美しい秋晴れに似合わず世界の終焉は近い。魔王とその眷属の勢いはいや増し、
もはや単一の種族ごとの攻撃では太刀打ちできない程に強大になっている。
そんな情勢の中で、この大陸に住まう魔族以外のあらゆる種族が同盟を結ぶに至った事は近年では珍しい朗報であろう。
とはいえ、魔王の軍勢と対等にやり合える程の戦力をすぐにでも用意できたのは人間とエルフの2種族のみであるのだが。
ドワーフは各地に散在しているために集結に時間がかかり、この場にいるのはごく少数のみ。
ホビットは体格の小ささから最前線で戦うのには不向きである為、補給線の確保など後方支援に徹している。
私の親友、エルフ族の王子であるグローフェンドとドワーフ族の族長であるギルワイムは私の床几の左右に侍り、
相対する魔王の軍勢に連合軍をどうぶつけるかで口論をしている。
グローフェンドの言い分はこうだ。
「敵は必ずいくつかの部隊を後方からの奇襲に使ってくるだろう。我が方も軍の一部隊を後方の警戒に残すべきだ。」
もう一方のギルワイムの言い分はこうだ。
「敵は雲霞の如き大軍勢、こちらの全軍をもって当たらなければ撃破はおろか互角にやり合うことも難しいだろう。ここは一気に総攻撃をかけるべきだ。」
どちらの言い分も的を射ている。
魔王は狡猾で強力であり、全力で戦いつつ背後も気にしなければならない。
わたしがここに留まっていれば魔王の手下たちも下手にこちらを攻めることは出来ないだろうが、私はここに留まることは出来ない。
というのも、私の使命が魔王の軍勢を殲滅することでは無いためだ。
グローフェンドとギルワイムを信じて、この場は任せるほか無い。
我が使命は滅びの危機に瀕する世界を救済することだ。
そのために私は探求の旅を続けなければならない。私の中に眠る力を覚醒させると予言にあった、ある場所に向かって。
その場所はここから遥か北方にある。伝説の眠る地、カハル。
錬金術が著しく発達し、魔法との区別すら曖昧になってしまったこの時代に『伝説』などとは、時代錯誤も甚だしいと
常人ならば鼻で笑うだろう。
私自身でさえ最初にその話を聞いたときは呆れてしまったのだから無理もないことだが。
しかし我が友グローフェンドの父であり、私を勇士であると断定したエルフ王クウェンヤダールの話によれば
彼の地には古き神々の力を封じた巨大な魔力泉が実際に存在するという。
数千年に一度顕れるというその魔力泉に封じられている力を私が取り込めば魔王とその眷属を滅ぼすに十分な力が手に入る。
少なくとも予言にはそうある。
しかし予言は、私がその力を取り込めば世界を救済することも破壊することも自在になるのだと仄めかしている。
過ぎた力は災いを招くのみだ。それが神々の力であるとするなら尚更のこと。
これを読む者があれば警告しておこう。
力を求めてその軛につながれることなかれ。
とはいえ現実の脅威がすぐ身近な所まで迫っているとするならば、その力が後になっていかなる災いを招くとしても使わざるを得ないだろう。
残念な事ではあるが、人は世界の命運が問題となるとき、使えるものならばなんであれ使うものなのだ。
ともあれ私は我が朋輩の予言者に事の次第を伝えた。彼、獣人の一族出身の予言者グリムは私の探求の旅に最初に参加した仲間である。
農夫の小倅に過ぎなかった私を勇士に祭り上げ、人々にもそれを認めさせた男だ。
彼の助力なしにこの旅を完遂することは難しいだろう。そんな予感がする。
実際、伝説の眠る地カハルは、彼ら獣人たちの故郷だ。
彼の地では今まで以上にグリムの力を借りる必要があるだろう。
時間は限られている。破滅の刻限が迫っている。急ぐ必要があるだろう。
魔王が世界を破壊し尽くすその前に神々の力が眠っているとされる場所にたどり着かなければ、この世界には骨と廃墟しか残りはすまい。
この旅はどこかの国の王や皇帝が始めた訳ではない。
大いなる国の首都から華やかに旅立った訳でもない。
この事実は人々に記憶されるべきだろう。
それはどうということのないちっぽけな農村に住む若造によって始められた。
それはこの私から始まったのだ。
時々思うことがある。あそこに留まっていたらどうなっていたろうかと。
私の生まれ育ったあの退屈な村に。
恐らくは父の跡を継いで私も農夫になっていただろう。
農場で朝から晩まで働き、村娘の誰かを娶り、子供も授かっていたかもしれない。
そして他の誰かがこの重責を担うことになったろう。私などよりずっと上手く担えるだろう者が。勇士に相応しい人物が。
物事を正しく観るならば、私の幾度かの結婚は、諸王たちとの間に血の流されぬ結びつきを与えることになり、
それよりはるかに多かった敵対国の討伐も、来るべき魔王との決戦に備えて、
全世界を統合するという我々の究極的な目的の為の足がかりとなるものであった。
だが、一体私以外の他に誰がこんな後付けの言い訳で納得するというのか。
明らかに私は勇士の使命から逸脱している。予言には、勇士が世界を制覇するなどとは一言も記されていないのだ。
今や私は周囲から大帝陛下と呼ばれるようになっている。
世界統一を果たした私に対する皮肉だろう。私が勇士としての本来の使命から逸脱して行動している事に
一番胸を痛めていたのは私の旅の仲間たちであったのだから。
おそらく影では私のことを予言を盾にとった圧制者か、血塗れの暴君とでも呼んでいることだろう。
別にそれでも構わない。私の目的は人類の、いや魔族を除く全種族の存続を確実にすることであって、人々からの支持を得ることでは無いのだから。
私は昨日、許されざる罪を犯した。
旅の仲間の一人を殺めてしまったのだ。
今までのように事故のために失ったのではない。私がこの手で殺したのだ。
彼女を生かしておくことは出来なかった。あのまま放置しておけば取り返しの付かない事になっていただろう。
だが、彼女を殺したことが本当に正しい判断だったのか自分でも分からない。
彼女、エイダは私の旅の仲間のグリムの同輩で『探索者』の一人だった。
その彼女が旅の途中に突然私を勇士などではないと言い出したのだ。
いやしくも『探索者』の一人がそう断言したのだ。私が率いていた旅の一行は大混乱に陥った。
その混乱を収拾するためには、彼女を黙らせるほか無かった。
二度と世迷い言を吐けなくなるように。
しかしグリムは私のこの処置に不満げであった。当然だろう。
グリムとエイダは将来を約束し合った仲であったのだから。
最終更新:2011年07月20日 10:21