「見えたぞー!ヴァッサーだ!!」
マストの上から見張りの声が響いた。
テルデンとのあの会話から二週間の後、やっと目的地に到着したのだ。
「ようやく到着か。案外時間がかかったな。」
「仕方あるまい。アルヴィングの船は船足より船の安全を重視しているんだからね。それよりほら、マリユス見てご覧、ヴァッサー自慢の要塞だ。」
テルデンはそう言って陸の方を指さした。
その方向に目をやる。
………なんだ、あれ。
テルデンの指さした方向には、完全に要塞化された小島がヴァッサーに面した湾を塞ぐように浮かんでいた。
要塞は戦略的要地に砦を設け、それらを堅牢な石壁で繋げたような五角形をしている。
砦には衛兵が詰めているらしく、時々巡邏中の衛兵の鎧が陽光を反射して輝いているのが見えた。
紅地に双頭の竜が描かれたその旗を眺め、いつ見ても軍事大国らしい旗だなと思いながら要塞をもっと観察してみた。
砦も石壁も、高いというより厚いという印象を受ける。
砲弾の直撃を受けても、あれだけ壁が厚ければそう簡単に崩れたりはしないだろう。
石壁の所々には四角い穴が開いていて、そこから大砲が顔を覗かせていた。
おそらく航行中の船の横っ腹を吹き飛ばせるように、あの位置に置いているんだろう。
海側から襲い来る者たちはここで砲弾の洗礼を浴びて門前払いされてしまうというわけだ。
こいつは徹底的に大砲対策の施された近代的な要塞だ。
それくらい、大して軍事技術の教養のない俺にだって分かった。
故国アルヴィングにもあれと同じような形の要塞がいくつかあるからだ。
だが、ここまで徹底的に対策の施された要塞を見るのは初めてだ。
「驚いたかい?初めてヴァッサーを見た人は大抵ここで驚かされるんだよ。」
テルデンは驚愕を露わにしている俺を見て愉快そうに笑っている。
「ヴァッサーは豊かな街だからね。よく他国の私掠船団やら海賊やらが襲ってくるのさ。」
「なるほど、それでこんなに警備が厳しいのか。」
物々しい要塞島を尻目に船は湾内を滑るように進んでいく。
「しかしヴァッサーはでかい街だな。ひょっとしたらアルヴィングよりでかいかも。」
「レヌリア帝国最大の港湾都市だから。」
「……格が違うなぁ。」やれやれ、この街じゃあ俺は完全に田舎者扱いだな。
アルヴィングが都会だと思っていたからショックだ…
「なに、気にすることはないさ。街の大きさだけでその街の良さが決まる訳ではないのだからね。ヴァッサーにはヴァッサーの、アルヴィングにはアルヴィングの良いところがあるものさ。」テルデンはそう言うとニヤリと笑った。
どうでも良い事だが、テルデンは普通の笑みをあまり浮かべない。
今のようにニヤリと口の端を歪めて笑うばかりだ。最初は海賊のような笑い方で気味が悪かった。
しかし、テルデンは貴族的な風格を備えた人格者だ。ここまでの船旅でそれが良く分かった。
嵐にあった折には船長と並んで水夫たちを励まして荒波と大風を乗り切り、シーモンスターに襲われたときには自ら率先して銛を振るって追い払った。
結果、この船に乗っていた者たちは船長から一般の乗客まで皆が彼を慕うようになっていた。
俺もその例外では無く、今やテルデンの言うことなら大抵は疑いもせず信じ込んでいる。
別にそれで不都合なことも無かったからな。
中央大陸最大の港湾都市ヴァッサー。
かつては南のアルヴィング、東のルオレット、北のメイリンストックと並び、西のヴァッサーの名でその名を轟かせた四大海洋都市国家の一角、世界中の海を股にかける船乗りたちの国だった。
しかし数十年前にレヌリア帝国に併合され、その領土の一部となってからは船乗りの街の特徴である自由な気風は取り締まりの対象となり、かつてのような自由奔放な空気は今の街からは影も形もなくなってしまった。
とはいえ、帝国もこの街のことは貴重な財源と見なしており、さまざまな特権を与えてかなりの保護をしている。
いや、まあこれはテルデンに教えて貰った歴史の受け売りなんだけどな。
仲間が待っているという市場への道すがら、テルデンはお得意の蘊蓄を俺に披露してくれた。
「この街は都市国家として自由を謳歌するより、帝国に政治を丸投げして自分は安全にお金を稼ぐ道を選んだのさ。」
「自由と自決を捨てて従属するなんて俺には理解できないなぁ。」
「ヴァッサーの為政者たちはそうは考えなかったんだろう。まぁ実際、君の考えは間違っちゃいないよ。北方の
機工王国ギムリアースなんかも未だに帝国の侵略に抵抗しているようだしね。」
ギムリアースの民兵団についての噂は俺もよく耳にしていた。
なんでも十数年前のレヌリア・ギムリアース戦争の結果をいまだに引き摺っていて、強く正統なギムリアースを取り戻すと公言して憚らない危険な国粋主義者たちの集まりなんだとか。
彼らの不穏な噂は、遠くアルヴィングまで届いていた。
………その残虐なやり方も。
だが、俺個人としては彼らの信条を応援したい気分だ。
レヌリア帝国の覇権下でいつ潰されるかと帝国の顔色ばかり窺いながら細々と自治を保つ自分の故郷の事を思うと、他人事とは思えない親近感を感じる。
「やっぱりテルデンもそう思う?亡国の民になるなんて嫌なもんだぜ。きっと。」
俺にはアルヴィング公国が消滅するなんて事は想像できない。
自分の故郷が消えて無くなることを一体誰が望む?
ヴァッサーを帝国に売り渡した当時の連中はそのことを何とも思わなかったんだろうか?
「ふむ、私はてっきり君が祖国に愛想を尽かして冒険家に志願したのだと思っていたが、意外に愛国者なのだな。」テルデンが眼を細めて俺の顔を見ながら呟いた。
ぞくりと背筋が粟立った。
テルデンと出会ってかれこれ二週間は経つが、いまだにこの表情には馴れることが出来ない。
テルデンは温厚な人物だが、いかんせん顔が怖いのだ。初見で損をするタイプだな。
「すっげぇ、これがヴァッサーの市場か。」
見渡す限り人、人、人。ヴァッサーの市場は大勢の人でごった返していた。
「ああ。とても活気づいているだろう?ここには毎日百隻近い数の船が出入りするからね。
異人種、異文化、異言語のるつぼさ。」そう言ってテルデンはいかにも商人らしい目付きで市場の目抜き通りにところ狭しと並んだ露店やら商店やらの品物を品定めしていた。
一方そのころ俺はといえば、通りの一角でやっていた大道芸にすっかり心を奪われていた。
今までほとんど眼にしたことのない肌の色(褐色に近い色)のセクシーな踊り子達が、音楽に合わせて踊っていたのだ。
彼女たちの着ている服は薄い更紗の舞踏着らしく、肌がギリギリの所まで見えていて、この大道芸を見ている観客の大半が男である理由が窺い知れた。
だが、そんな客へのサービスを抜きにしても彼女たちの踊りは素晴らしかった。
蝶のように可憐に舞い、くるくると回る彼女らの姿は、故郷の有名な教会のステンドグラスに描かれた『天使のワルツ』と呼ばれる題材をなんとなく思い起こさせた。
両手両足につけられた金色のアームレットとアンクレットが彼女らの動きに合わせて鈴のような音をたてている。
どうやら鈴に似た丸っこい楽器が飾りとしてくっついているらしい。
彼女たちがくるくると回る度に薄い更紗の舞踏着が大きく広がって、さながら天使の翼のように見える。
………褐色の肌の天使、か。悪くないな。
などと一人妄想に耽りながら俺は踊りを眺めていた。
出来れば最後まで彼女たちの踊りを眺めていたかったのだが……
現実は非情だった。
ちょうどクライマックスに入ったというところでテルデンの邪魔が入ったのだ。
「やあやあ、こいつは随分と良い品だ!マリユス、こっちに来て見てご覧!!」
唐突に何かを見つけたらしいテルデンが興奮したように大声を出して俺を呼んだため、俺は渋々舞姫たちから眼を背け、何事かとそちらに目をやった。
そこには真っ黒い粒が大量に入ったザルを見て、年甲斐もなく有頂天になっているテルデンの姿があった。
「おいマリユス、これがなんだか分かるかね?」
そう言ってテルデンは黒い粒を掌に載せて俺の鼻先に突きつけてきた。
「……見りゃわかる。胡椒だろ?」
「ご名答。」
「胡椒くらい商いやってるなら珍しくも無いだろうに、何をそんなに興奮してるんだ?」
「こいつがただの胡椒じゃないからだよ。」そう言ってテルデンはあのニヤリと口の端を歪める独特の笑みを浮かべた。
「おお、お客さんお目が高いねぇ。コイツがそんじょそこらの胡椒とはモノが違うって事をお分かりでいらっしゃる。」ザルの向こう側で胡座を掻いて座っている肌の浅黒い商人が得たりとばかりに得意げに語り始めた。
「こいつはずっと南東にある香料諸島で栽培されてる希少種の胡椒なんでさぁ。香り良し、色つや良し、ただの肉料理に一振りするだけであら不思議、世界で一番美味い肉料理に大変身で御座い!今なら一袋で帝国銀貨三十枚だよ!!」
その一言に俺は衝撃を受けた。
一時的に麗しの舞姫達の事が頭の中から吹っ飛んだほどだ。
え、今なんて言った?と思わず聞き返してしまった。
「帝国銀貨で三十枚だとさ。少し高いが、ま、今の時期では仕方がないか。」だがテルデンは落ち着き払っている。そして待て、この値段で高いだと?
「いや、ちょっと待ってくれよ。胡椒が銀貨三十枚だって?いくら何でも安すぎるだろ!?」
そう、俺の故郷アルヴィング公国では胡椒はそんなに安くなかった。
最安値の時の相場でも金貨で十五枚、銀貨換算で百五十枚くらいはした。
普段の相場であれば銀貨二百枚はくだらないような超のつく高級品のはずなんだ。
アルヴィングに限らず、気候風土の問題で香辛料が育たない中央大陸の大半の国々では胡椒のような香辛料はとても貴重な品だ。
しかしここヴァッサーでは事情が違うらしい。
胡椒がこんなに安い値段で手に入るとは、流石は大陸最大の港湾都市と言うべきなんだろうか………
「レヌリア帝国は様々な国と通商関係を結んでいるからね。遠方の特産物でも国が運営している定期交易船団が決まった月に品物をこの街に荷揚げするのさ。で、その交易品をギルドが一括で買い上げて小売業者が売り捌く。間に第三国を置かない直接交易だから余計な税金もかからないし、街のギルドと帝国政府の協議のお陰で相場の変動も少ないから安定して値段を低く抑えられるんだよ。」
胡椒を買えるだけ買い込んで、待っているという仲間の所に向かう途中、テルデンからそう聞かされた。
……なるほど、ギルドと政府が手を組むのもアリなのか。
ウチではギルドと政府は別行動をとっているから摩擦が生じやすい。
というかそもそもギルド自体が政府からの過干渉を嫌って商人達が設立したものであるため、政府との協調自体あり得ないと考える商人もいるほどだ。
お陰で商売に差し障りが出る場合もある。
そう考えると帝国のやり方もアリなのかもしれないな。
ただ、ギルドの存在価値はほぼ無いに等しくなるが……
ところでテルデンはさっきから何処に向かっているんだろうか。
市場でテルデンの仲間が待っているという話だったのだが、どうも事情が変わったらしい。
テルデンは俺にその事情を簡略に説明すると先に立って歩き始めた。
市場を抜けると急勾配の坂が立ち塞がっていた。石畳で整然と舗装された広い道路が坂の上まで続いている。
「ここを登れば私の仲間が待っている場所に着く。急ごうか。実はもう結構彼らを待たせてしまっているのでね。」
「それは分かったけど、なんで急に集合場所を変えたんだ?何かマズい事でもあったのか?」
「すまないが今はそれについて話すことは出来ない。だが君の心配が杞憂に終わることは保証するよ。」
テルデンはそれだけ言うとさっさと背を向けて坂を登り始めた。俺はその後に黙って従った。
議論は無用。
テルデンの背中がそう語っているように見えたからだ。
最終更新:2011年09月14日 00:56