ラピスラズリ 第2話

私はふわふわと空を飛んでいた。
 ぽかぽかのお日様が空から降り注ぎ、暖かく身体を包む。
 雲ひとつ無い真っ青な空と、大地を埋め尽くす草原ははどこまでもどこまでも続いていて、そんな中を私は飛んでいく。
 どこまでもどこまでも。
 ふと、眼下の草原に小さな点のようなものを二つ見つけた私は、自然と体をひねり、ゆっくりと高度を下げていった。
 段々と二つの点は形を変え、ようやくそれが人影だと認識できたその時、私はまどろみの世界から目覚めた。


「いってらっしゃい」


 閉じていたまぶたの隙間から、ほのかに暖かい光が差し込む。
 ぼんやりとした頭と、まるで痺れているかのような身体中の筋肉を総動員して起き上がり、ゆっくりと目を開けると、少し冷たい空気が頬を撫でた。


「…………?」


 ここはどこだろうか。
 しょぼしょぼする目をこすりながら周りの様子を伺うと、まずは自分の体を包む毛布とベッドが目に入る。
 次に、綺麗に整頓された部屋の内装と、暖かな陽の光を漏らすカーテンの付いた窓が目に映った。
 どろどろだった思考が速度を上げて覚醒し、自分の状況を思い出させる。


 そうだ。私は昨日、人間に買われたのだ。


 そこへ思考が辿り着いた瞬間、私は飛び跳ねるようにベッドを抜けだした。
 とんでもない事をしてしまったという考えで頭がいっぱいになる。
 日の高さから見て、どうやら今は昼に近い。
 普段の自分ならば、寒さで深く眠ることもない為、日の昇る前には起き上がり、人買のために水桶いっぱいに水を汲んでいたのに。温かな寝床というものは、こうまで人を油断させるものなのか。
 恨み言を考えても仕方がない。まずは罰を受けなければ。どれだけ人間が怒っているのか想像もできないけれど、昨日の様子から考えるに、殺されるようなことはないとはずだ。


「……っ!」


 考えるのももどかしく、ゴムまりが跳ねるように部屋のドアを開けると、そこでは昨日の人間がお茶を飲みながら本を読んでいた。


「おや? そんなに慌ててどうしたんですか?」


 人間の言葉が終わるか終わらないかの所で、私は身体を床に這いつくばらせ、頭を下げる。
 こういう時、何かを言うのは逆効果でしかない。静かに、悲鳴をあげず、ただ殴られ、蹴られ、相手が飽きるまでは耐えるしかない事を私は知っている。
 相手が欲しいのは謝罪の言葉などではなく、自分を苛立たせた相手が血を吐き、苦痛に呻くのを見たいだけなのだ。
 この後に来るであろう苦痛を少しだけ想像し、震えてしまう身体を抑制しようと力を込めるが、真逆に震えは大きく、誰からも見えてしまう形で現れる。自分にも聞こえる音で歯がカチカチと鳴るのがわかる。
 そんな私の耳に、人間が椅子から立ち上がる音が入った。人間は椅子から立った後、ゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。 
 まずは蹴られるのだと予想し、人間が来る側へぎゅっと力を込める。だが、予想された衝撃は来ない。
 音と気配で人間が私の前に立ちはだかっているのがわかる。この体制ならば、踏みつけられるか殴りつけられるか。もしくは蹴り上げられるのか。
 どの選択肢を選ばれるかわからないため、頭と身体は混乱し、自然と瞳から涙がこぼれる。
 どうしてベッドの中で眠ってしまったのか。眠りに付く前に、こうなることを予想し、ベッドから抜けだして床で寝るという選択肢もあったはずなのだ。
 それなのに、油断してしまった。この人間の与えてくれた食べ物と、暖かい寝床を享受し、甘えてしまった。
 幾度も幾度も人買いから殴られ、蹴られ、絞めつけられ、繰り返し言われた言葉を今になって思い出す。


 私は『物』なのだ。


 物には意思も、自由も、尊厳もありはしない。
 ただ主を喜ばせるためだけに存在し、主のためだけに尽くさなければならない。自分自身が幸せを享受するなど以の外。そう学ばされたではないか。
 思考は堂々巡りを始め、瞳からは涙が溢れ、喉からは嗚咽が染み出す。
 そんな私に業を煮やしたのか、人間が身体を近付けるのがわかる。どうやら人間は殴りつける選択肢を選んだようだ。
 そう考え、頭と背中に力を込めようとするが、混乱した身体はうまく力を込められない。このままでは痛みが増してしまう。悲鳴を上げてしまう。苦痛が続いてしまう。


 死にたくない。


 思考がその言葉でいっぱいになった瞬間、私の耳に、人間の言葉が優しく飛び込んできた。


「安心して。ね?」


 おそるおそる顔を上げると、困ったような、それでいて笑顔の人間がそこにいた。


「涙と鼻水で顔が大変なことになってますよ?」


 人間は苦笑し、自分の服の袖で私の顔を拭う。
 混乱した私がどうしていいかわからず、顔を上げたままで固まっていると、人間はゆっくりと優しく私の身体を抱きしめ、ポンポンと優しく背中を叩き、言葉を続けた。


「大丈夫。大丈夫ですから」


 その言葉はとても優しく暖かく、ゆっくりと私の心に染み込んでいった。
 不思議と体の力が抜け、同時にカチカチとうるさかった歯も、身体の震えも収まる。
 だが、涙だけはどうしても止まること無く、後から後からぼろぼろと溢れ、優しく抱きしめる人間の服を濡らし続けた。

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最終更新:2011年09月21日 00:29
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