岩隈久志
- 1981年4月12日生 東京都東大和市出身 右投右打
- 在籍時の背番号は「21」
- 楽天の初代エースである。
- 通称「クマ」。AAはクマーの流用。
- 近鉄では「なにわのプリンス」、楽天では「杜の都の貴公子」とあだ名されたイケメンキャラ。
しかし写真ではイケメン度が爆下がりしてしまう。
近鉄時代
- 1999年、ドラフト5位で近鉄バファローズに入団。
- その後エースの座をつかみ、2004年には15勝2敗で最多勝&最優秀投手に輝いた。
- この年球界再編問題が起こり、分配ドラフトでオリックス・バファローズからプロテクト(優先確保)を受ける。
しかし岩隈はオリックス入りを拒否。
- 最終的に、一度オリックスへ入団した後、金銭トレードという形で楽天入りすることとなった。
岩隈の経歴が「近鉄‐オリックス‐楽天」と表示されることがあるのはこのため。
楽天時代
- 2005年は新球団の開幕投手となり、記念すべき球団第1勝目をあげ門出を飾る。なお、翌日(ry。
- 初年度は「寄せ集め」「岩隈と礒部のチーム」と呼ばれ、冗談半分にシーズン100敗が囁かれるほどだった
(ちなみにシーズン100敗は奇しくも近鉄が記録している)。
- その中で、礒部と共に文字通り屋台骨として奮戦。
肩の故障をおして投げ続けたこともあり、2006年以降は不本意な成績となってしまう。
- 加えて、二段モーション禁止で投球フォームを変える必要に迫られたことが、不調に追い討ちをかけた。
- 肘や肩など複数個所を故障し、登板数も激減(06年6試合、07年16試合)。
2007年シーズン終了後に肘の手術に踏み切る。
- そして2008年、岩隈は復活を遂げた。
- 21勝4敗、勝率.840、被本塁打3、防御率1.87を記録し、投手三冠を達成。
- チームが5位であったにもかかわらず、パ・リーグMVP、同ベストナイン、同最優秀バッテリー賞、沢村賞など、
投手関連の主要な賞を独占する。
- 第2回WBC代表にも選出され、日本の二連覇に大きく貢献。
- 岩隈らしさが存分に出たのは第2ラウンド・対キューバ敗者復活戦である。
濃い霧の中という最悪のコンディションの中、丁寧な投球で6回までアウト18個中15をゴロでしとめ無失点に抑える。
- 決勝の韓国戦も7回2/3(WBC大会最長投球回記録)を2失点にまとめて、日本二連覇に貢献した。
- 活躍ぶりから影のMVPに挙げる人も多いが、二大会連続で松坂が受賞。
- 岩隈個人にとっても、アテネでの炎上・北京不選出の悔しさを晴らす舞台となった。
- 2009年は疲労の蓄積や他球団からのマークもあってか、成績は前年同様とはならず。
とはいえ、13勝6敗、防御率3.25と文句なしの数字。
- シーズン後半戦、ファンの中で「ひょっとすると。ひょっとするかも」と少しずつ高まっていった雰囲気は、
岩隈がヒーローインタビューで放った「CS行くのは、本気ですから!!」で頂点に達する。
- 熾烈なCSへの切符争いの果て、チームは2位でシーズンを終え、夢にまで見たAクラス入りを果たした。
- だが、夢の続きはここまで。勢いで勝ちあがってきたとはいえ、ペナントの覇者日本ハムには手も足も出ず。
- 1勝2敗で迎えたCS2ndステージ第4戦、2点を追う8回裏で「キャッチャー藤井、ピッチャー岩隈」がコールされる。
2日前に完投したばかりの岩隈のリリーフ登板に、球場は沸きに沸いた。
しかしスレッジにダメ押しとなる3ランを打たれ、敗戦。
- 山崎武司同様、悔しさと責任感から涙を流しインタビューに応じる姿がわしせん民の涙を誘った。
- 2010年はリーグ4位の防御率2.82ながら10勝9敗と、エースとして物足りない数字。
それもそのはず、壮絶なムエンゴで援護率はリーグ最下位の3.46である。- 0-1で敗戦投手となった開幕戦は、これをあらかじめ告げるものだったのかもしれない……。
- ちなみに21勝した2008年などは、援護率はリーグトップの5.66である。どうしてこうなった。
- そんなシーズン終盤、「岩隈・ポスティングでメジャー挑戦!」の報道が出る。
- 「嘘だと言ってくれ」「どうせ飛ばしだろ」とファンが騒然となる中、オフにメジャー挑戦を正式に発表。
- 入札の結果、アスレチックスが交渉権を獲得したが、年俸面で折り合いがつかず決裂。
一転して楽天残留となった。ズコー- このころわしせんでは、一番行ってほしくない球団はマリナーズという声が多かった。
- せっかくアメリカに行っても、ムエンゴに襲われて勝てなくなるのは我々にとっても悲しいことである。
- 仕切りなおしとなった2011年は開幕から勝ち星を積み重ね、特に4月は3戦全勝して月間MVPにもなる。
- だが昨年を上回る貧打の中、完投を続けたことが祟ったか、右肩を痛め5月半ばに登録抹消。
復帰後も明らかに本調子とはいえず、6勝7敗というとても寂しい数字でシーズンを終える。- スレでは「海外FA権の登録日数稼ぎだろ」「どうせ来年にはいない」などなど、叩きも合い混じった、
複雑な心情がうかがわれる声が多数見受けられた。
- 私見ながら、1ヶ月に3度も金子千尋と投げ合ったのはあまりにもやりすぎだったのではと思われる。
- 「そんなんじゃMLBで通用しないぞ」とのレスも。楽天に残ってもええんやで?
メジャー挑戦&マリナーズ入団
- 2011年オフ、海外FA権を行使。
- 同時に多数の選手がMLB行きを表明する中、岩隈はなかなか入団先が決まらず、わしせん民をやきもきさせた。
- そして年明けにシアトル・マリナーズとの契約が成立。背番号18をつける。
スレでは喜びと同時に、なおマ要員となることを心配していた。
- WBCでの投球テンポが良ったということで、イチローから「こんなに守りやすい投手はいないと思った」と歓迎される。
- 2月12日と全球団最速のキャンプインに、開幕後は日本に比べて過密な日程と移動にガラスの肩肘は耐えられるのか?
- オープン戦では絶不調で先発ローテーションから外れ、中継ぎ降格が決まる。
- からくりでのプレシーズンマッチ(対巨人)、不調を引きずったか4回6失点と大炎上。こんなクマーは見とうはなかった!
- 初登板は開幕から1ヶ月以上経つ4月21日。4回1失点(奪三振2、被HR1、四球1)と無難な内容。
ちなみにMLB全球団でロースター入りした選手中、この日まで唯一出番なしという状態だった。
- その後も敗戦処理として登板するも、防御率はイマイチ。しかもダルビッシュや松井秀喜、川崎に話題を取られがち。
- だが7月に先発ローテ入りし、以降は安定した投球を続け最終的に8勝4敗、防御率2.65の成績を残す。
球団にも評価され、2年契約を勝ち取った。
- 投げるまで1ヶ月かかったり、なかなか先発できなかったのは、トレーナーの診断によるものだったらしい。
「右肩周辺の筋肉が弱く、先発での中4日では難しい」との判断で、筋力アップに取り組んでいたそうだ。
ピッチングスタイル
- 岩隈といえば、故障前の腕をだらりと下げた独特のフォームを挙げる人が多い。
これは近鉄時代のコーチが肩の使い方をつかませるために指導した結果つくられたもの。
- 当時は最速153キロの伸びのある真っ直ぐ、スライダーとスローカーブを武器にしたパワーピッチング。
故障後はスライダーに加え、シュートやフォークなど多彩な球種で打ち取るスタイルになった。
- 好調時は27アウト中20個近くをゴロアウトで稼ぐ、通称ゴロクマ。
反対に三振や外野フライが多いと調子はいまいち、との見方もできる。
- 安打されることも多いが、得点圏にランナーを置くとフォークなどで狙って三振をとれる。
一死一・三塁ならゲッツーでピンチを脱出することも。
- いつぞやのファイヤーフォーメーションのときには、二塁の殿下に多くゴロを打たせるなど、高度なこともしていた。
- 本物の「打たせて取る」ことのできるピッチャーである。
- 被安打が多めのため、味方が大量リードしているとあっさり失点することも。
リラックマ……(最近は無援護なのでそんな場面も少ないがorz)。
- キャッチボールでは小さいラグビーボールを使う。
これによりひじの位置が前年よりも高くなり、フォークの落差が大きくなった。
- リリーフ登板はNPBでは2度しか経験しておらず、しかもいずれも被弾している。
- 現地で観戦の際は、試合前練習で外野守備や内野守備をしているクマの姿が見られるかも。
- 右投げ右打ちだが実は左利き。左で投げてもコントロールはいいらしい。
岩隈両投げ転向あるで。
- 性格は基本的におっとりしていて優しく、家族思い。
「おかあさんといっしょ」の曲を歌って踊れる。
- 選手会長になってからは少しずつ自覚が芽生え、リーダーらしい行動が増えている模様。
- 試合中は基本的にニコニコしている。
これは集中しすぎて周りが見えなくなってしまうのを防いでいる意味合いがあるらしい。
わしせん民的には「クマが笑ってるならまだ大丈夫」。
とはいえ僅差で袖達が登板したりすると、ものすごい顔でグラウンドを見つめていることも。
- 一度大きな故障を経験していることから、おそらくわしせん民が一番心配している選手。
クマーが痛そうな顔を見せるとスレは悲鳴で埋まる。
- 野村監督の「ボヤキ」で一番標的にされたため、巷では仲の悪いイメージがあるかもしれないが、
言われるような確執があったわけではない。
- 2007年納会の際に、「来年はお前の年だからな」「お前がエースなんだから」「うちはお前にかかってる」
などの言葉をかけられ、今までのボヤキを期待の表れとして受け取れるようになったと自著で語っている。
- 野村監督の方も「岩隈は繊細で気を使う」などとコメントしている。
早期降板を「岩隈病」と槍玉に挙げたりもしたが、基本的にクマーの希望通り100球前後で交代させていた。
- また、岩隈が100球降板にこだわっていたのはおおむね故障明けの2008年。
医師からの指示があったことも関係している。
最終更新:2012年12月07日 14:49