2006.7.7
明治時代の文筆家の様な、格調高く解り易い文章を書くエッセンスが詰まってゐます。
筆者の福田氏は言語学者で、戦後の「日本語ローマ字化論」を源流とする「表音文字(かな)全面採用論」、完全かな文字化まで当面は使って良い「当用漢字」の制定、そして何よりも伝統的なかな使ひの廃止即ち「現代かな使い」の制定に何よりも反対した人です。
表音文字と表意文字
例えば英語は表音文字であるアルファベットを使ってゐますが、時代に連れて徐々に発音が変わったからと言って其の綴りを発音に合せて修正したりはしない。だから実際の綴りと現在の発音は大分異なる事が多い。皆さんもご存知だと思う。だから読み書きが出来るようになろうと思えば、ある程度の時間をかけて勉強をする必要がある。
「アメリカ人の赤ちゃんは生まれた時から英語が喋れるの、すごいわねー」
なんて冗談がありますが、読み書きに関しては我々同様、一語一語綴りを覚えるのであります。(その御蔭で同音異義語も綴りにすれば一目瞭然に判別できます。)
「此れが敗戦と言ふものか」
ところが我が邦は、戦後のドサクサに紛れて、其れを「子供達の学習の便宜のために」やつて仕舞った。何も其の様な事をしなくても、当時日本の文盲率は世界屈指の低さだった筈である。其れに加へて上記の様々な改変。
そして、我々は古典に親しむ事が出来なくなって仕舞った。何たる愚策か。
文法に疎くてもいい、少々漢字に弱くてもいい。先人たちが気品と拡張のある言葉を使っていたこと、もっと限定すれば、真剣に言葉を使うという事があり得るということが伝わるだけでいい。先人への敬意こそが子供達を育てる。
その結果は如何に
伝統からの隔離は、恒久なるものへの畏怖の念を醸成する大切な機会を奪うことに成ってはゐないか。
更には「読み書き」を厳しく教えると言ふ事が無くなって仕舞った為に、文章を安易に書いて良いと言ふ誤解を敷衍して仕舞った。安易な文章への過信は、話し言葉の次元でも稚拙な意思疎通をもたらしてゐないだらうか。疎通で在る筈のものが単なる奔言となっていないだらうか。謂く「ダルい」「キレた」。
そしてその愚策を推し進めたエネルギーは姿を変え、今は、男女差を無くしましょうと言って思春期の男女を同じ部屋で着替えさせ、「価値観の多様化の為に」育児施設を増やしてまで、家で子供を育てたいという母親達を職場に引っ張り出そうとしている。
かくして、我々は伝統というアイデンテティーを失い、男或いは女、家族としてのアイデンテティーをも失いつつある。
唯物論が招く荒廃は彼岸の出来事ではない。
- 目次
- 「現代かなづかい」の不合理
- 歴史的かなづかひの原理
- 歴史的かなづかひ習得法
- 国語音韻の変化
- 国語音韻の特質
- 国語問題の背景
- 詳細
- 引用されている文献
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- (謝 世輝 (著),講談社現代新書)