丸山貴史
- ゴリ不在の燕投手陣の中で、高井・まさるさんなどと並び、期待されてはいるものの独り立ちしきれなかった左腕の一人。
- とはいっても「メイデン」の由来となったことでも有名な愛甲大名電のエースとして、高校時代は2003年の春と夏、2004年春の3期連続の甲子園出場と活躍。
- ヤクルトへは2004年のドラフト6巡目で指名され入団。
- プロ入りしてからのことは知らずとも、高校時代地区大会で2者連続で頭部付近への死球を放ったことで知っている人はいるかもしれない。
- 村中・高井と並び、ヤクルトのノーコン左腕三人集の一角であった。
- 大きく変化するカーブにロマンを感じざるをえないが、とにかくコントロールが悪いためカウントが取れない。
- 2005年のルーキーイヤーは戸田軍で基礎体力作りを主としてたが、シーズン終盤の10月に1軍初登録、初先発を果たす。
- 2年目となった2007年にプロ初勝利を記録。同年のオフにはハワイ・ウィンターリーグへ派遣される。
- 2007年は1軍登録はなく戸田暮らし。この年のオフにもハワイ・ウィンターリーグへ派遣されたが現地で故障してしまい、1試合も登板せず帰国。
奇しくも代わりとして派遣された松岡が同リーグで活躍。2008年に中継ぎエースとして1軍定着へのきっかけを作ったことは、やくせん民なら誰もが知っている(と思う)お話し。 - 2008年も主に戸田暮らしであったが、2009年には長年のチームの懸案事項である左の中継ぎとして期待され、自身初の開幕1軍でシーズンを迎えた。
- しかし制球難は相変わらずで、2009年5月9日の広島戦では1回を無安打3四球無失点の自演劇場を繰り広げ、解説の金村から「0点で抑えましたけど、評価も0点ですよね」と言われてしまう。
- 2009年6月14日のオリックス戦でチームが11打数連続安打のNPB記録を打ちたて楽勝ムード漂う中、2死1塁の場面でハギーの後を受けてお試し登板する。しかし、そこから三連続四球で1アウトもとれずに降板。ベンチでは総統が未だかつてない程の鬼の形相をしていた。ちなみに、交代したハッシーが満塁被弾したため防御率も跳ね上がり7点台に。翌日登録抹消されたのは言うまでもない。
- その後、戸田軍でも3連続四死球をやらかすなど期待を裏切り続け、10月1日についに戦力外通告を受けた。球団側は育成選手としての契約も打診したが、本人の希望により退団しトライアウトを受けることになった。
頑張れよー。
- 在籍5年間の1軍通算成績は、29試合登板 1勝2敗0S 投球回数43回・被安打33・被弾8・与四死球27・防御率5.65であった。