上田剛史
- 2006年高校生ドラフト3巡目指名。ぶっちーとダイナマイトとともに入団。
- 関西高校出身でNPB初の両リーグ1000本安打を達成したヤクルト伝説の大打者、故大杉勝男氏や1989年から1998年まで在籍していた松岡大吾氏の後輩にあたる。
- 1年生から外野手のレギュラーを勝ち取り、日ハム・ダースとは同級生であった。
甲子園では斎藤佑樹擁する早稲田実業と対戦、斎藤から8打数4安打・1HR・2打点と完全に打ち崩した。 - 打撃はミートの巧さが際立つが、通算25HRと意外と長打力も持ち合わせている。遠投110mの強肩。50m走は5.9秒の俊足で守備範囲も広く「稲葉2世」の呼び声が高い。
- 目標の選手は青。
- 入団する前の仮契約の段階で当時の監督ターフルから、光並みの速さで内野手コンバートを言い渡され、新人合同自主トレ前に内野用グラブを購入することとなってしまった。
- でも実際にフタを開けてみると、でっかい子やメッシら多くの外野手も内野手へコンバートされていて外野手が不足したことにより、この年1軍昇格ならずも、戸田軍で出場した試合全て外野手での出場だった。
2007年は78試合出場、打率.223・1HR・23打点、9盗塁と1年目にしてはまずまずだったが、58三振は反省すべきところ。
- 2008年に入り、3月のリーグ戦で初めてサードで出場し無難にこなす。
この年新たに就任した猿渡監督が「内野手も経験があるので守らせている。練習も必要だが面白い」と期待しての起用だった。
打撃の方は4月までボール球に手を出し打ち急ぎが原因と自身が分析するとおり不調が続いていたが、青から「センター返しを中心とし右方向を狙っていけ」とのアドバイスにより5月以降は打撃技術が飛躍的に向上、安定した打撃成績を残す。
夜も打ち込み、猿渡監督との守備練習と練習・練習の毎日。
- これらの努力から出た好成績が評価され、2年連続フレッシュオールスターに選出。3番・サードで先発出場するも成績は先制となる犠牲フライのみと少し物足りなかった。
それよりもやくせん民はサードでの出場を心配し、当日建てられた「とりせん」内では他の内野手もあまりうまくなかったらしく、ファイヤーフォーメーションとの声もあった。
- その後も打撃は好調をキープするも、サードの守備はやらかしが多かった。
- 2008年も1軍昇格は果たせなかったものの戸田軍最多の90試合出場、打率.294・3HR・35打点・16盗塁で戸田軍10年ぶりの優勝に貢献するとともに、好成績が評価され11.21のウエスタン、イースタン・リーグ表彰式で優秀選手賞を受賞した。
- 長打率も昨年の.273から.372と若干上がったものの、やはり61三振は…。
- 問題のサードの守備は46試合で失策数10、守備率.885は来季への最大の課題。
逆に本職の外野では69試合で失策数2、守備率.978で合格点。
- 2008年オフの秋季キャンプでは、課題の守備を重点的に練習。居残り特守も行った。自身外野からサードへコンバートされた経験のある総統から「グラブの型の作り方が悪い」とダメ出しを喰らうも、ドバ様からの愛の贈り物(現役時代のグラブ)をもらって練習に打ちこむ。本人はこの愛の贈り物が気に入ったようで「うまくなって恩返ししたい」と…。
- とにかく課題のサードの守備を克服し、2009年は初の1軍昇格!
- 2010年はオフから青木と合同自主トレを行い、青木本人から「なんでもっと早く1軍に上がらないのかわからない」と言われるほどの期待をされている。
本人も背番号1へ変更し空き番号となった青木の背番号23の継承を希望しており「それまではメジャーに行かないでください」と青木にお願いする始末。
野手転向した高井と共に青木の後継者として未来のスワローズを目指す。
A
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