やくせん@ ウィキ

伊藤智仁

最終更新:

匿名ユーザー

- view
だれでも歓迎! 編集

伊藤智仁


  • 1992年ドラフトで広島、オリックスと競合するも1位で入団。おっさんと山本樹が同期入団。サトシンさんも福岡ダイエーでこの年入団。
    他球団では、MLB NYヤンキースの松井、元中日・巨人の野口茂樹、現巨人・豊田らがいる。
  • 禿s… いや、宮本キャプテンとは同い年で、おっさんとともに仲がいい。
  • 社会人時代からスカウトの目に止まっていて、福岡SBの小久保、サトシンさんとともに出場した1992年のバルセロナオリンピックでは、1大会27奪三振のギネス記録を残している。

  • 全盛期は150km/h超の直球に、直球と殆ど変らないスピードで気持ち悪いくらい曲がる変態高速スライダーでファンを魅了した。その投球はニコ動でランキングに入るほどのものであった。
  • 当時ノムさんが実際打席に立ってスライダーを自身の眼で見た最初の感想は、「9回裏、2アウト満塁、得点0-0、カウント2-3。この場面でも投げられるボール」と絶賛するほどであった。
  • もしかすると昨今聞かれるようになった「高速スライダー」という言葉は、この人のスライダーが発端ではないかと思われる。

  • これを武器にルーキーイヤーの1993年には7勝2敗・防御率0.91・4試合完封、対巨人戦でリーグ記録となる16奪三振など、もの凄い活躍を見せる。後半に右肘を故障、離脱するものの、前半だけの活躍にも係わらず新人王を獲得。それだけインパクトを与えた。
  • このリーグ記録となった16奪三振は、巨人・金田氏、阪神・江夏氏、広島・外木場氏に次ぐ4人目であったが、負け試合での記録は初。
  • さすがにあれだけのスライダーを投げるのは肘や肩に非常に負担だったようで、すぐに故障、手術を行いリハビリに長期間を費やした。
  • 1997年に故障からやっと復帰。150km/h超まで回復したストレートと変態高速スライダーを武器にクローザーとして7勝2敗19S・防御率1.51を挙げ完全に復活、カムバック賞も受賞!
    1998年からは再び先発に転向し29試合登板、6勝11敗3S・防御率2.72の成績を残した。
  • 1999年と2000年は登板数は少なく二桁勝利には届かなかったものの、安定した成績を残す。ちなみに1999年オフに肩を手術している。
  • 2001年は、またまた故障。3回目となる手術を受け、復帰に向け戸田でリハビリを続けた。
  • 途中球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるも、現行から9割減という異例の大幅減俸と引き換えに現役続行に拘っていたのだが、2003年に現役を引退…。
  • ルーズショルダー故の負担や度重なる故障によって肘と肩は既にボロボロで、最後の試合では直球ですら最速で109km/h。全盛期の彼を知る全てのヤクルトファンは涙した。

  • このように現役時は常に故障との闘いで、実働年数は非常に少ない。
  • 記録よりも記憶に残る選手として名を馳せた。
    ちなみに現役通算成績は、127試合登板・37勝27敗25S・防御率2.31。

  • 野球実況chでたまに「変化球別歴代何ちゃら」というスレが立つが、スライダーは今でも必ずこの人の名前が出てくる。このとき変態高速スライダーを見たことがない人が動画で一目見ようと、ニコ動を見る。これがニコ動のランキングに入る要因の一つと考えられる。

  • 引退後はスワローズの1軍投手コーチを務める。
  • 打撃練習でバッティングピッチャーとして投げることがあるが、公式によると2009年から館山が持ち球に加えたナックルカーブを投げることができたことが明らかに!ちなみに現役のときは投げてないとのこと。
  • 試合中、マウンドに行くのは荒木コーチがほとんどであるが、ブルペン側で荒木と連絡を取り合い、控え選手へ準備の指示などを行っている。

  • 2009古田敦也(元監督)のTV番組「古田の方程式」で引退後、公の場では初めてそのピッチングを披露した。振りかぶってからテイクバックまでは現役の頃と変わらぬフォームに全やくせん民が涙した。同番組にて古田はもちろんのことノムさんをして過去見た中でNo1ピッチャーと言わしめた。同番組中ではスライダーの投げ方も披露。さあ、みんなでやってみよう。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー