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大田卓司

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大田卓司


  • 1969年ドラフト9位で西鉄ライオンズ(現・西武)に入団。同期に東尾修氏がいる。ヤクルト(当時はサンケイアトムズ)は藤原真と言う方が1位で指名されている。
    他球団では阪急(現・オリックス)の山田久志と福本豊、東京オリオンズ(現・ロッテ)の有藤道世、広島の山本浩二、阪神の田淵幸一、中日の星野仙一氏ら。
    あれっ? 最後の3人のメンバーってどこかで見たような気が…。
  • 出身校は大分県の津久見高校で川崎憲次郎の大先輩にあたり、1967年のセンバツ甲子園で優勝を経験している。

  • 身長170cmと小柄な体格ながら「必殺仕事人」の異名を取る個性的な打撃フォームで、高い集中力と勝負強い打撃が売り。今でも「プロ野球歴代の強打者でミスター・フルスイングといえば?」とのアンケートにこの方と答える人がいるほど。

  • ルーキーイヤーこそ2試合の出場に止まるが、2年目以降はコンスタントに出場しチームに貢献し続ける。
  • 1976年に指名打者として初めて規定打席に到達し、118試合出場、打率.270・23HR・68打点で指名打者部門でベストナインに選出された。
  • 1982年、この年に就任した広岡監督から早速「彼は落伍者だ」の烙印を押される。しかしその言葉に奮起し、この年106試合出場、打率.279・17HR・58打点で同年の日本ハムとのプレーオフでMVP、日本シリーズで日本一と東尾修氏、田淵幸一氏らとともに活躍した。
  • 翌1983年も105試合出場、打率.297・20HR・67打点と活躍。リーグ優勝と2年連続日本一になり、シリーズMVPを獲得した。ちなみにMVPは7戦通じて1度もお立ち台にあがらなくての受賞。珍しい…。
  • 以降は秋山幸二氏や石毛宏典氏らの若手が台頭するなど出場機会が減り、1986年に現役を引退。現役通算成績は1314試合出場、923安打・打率.267・171HR・564打点。
    とにかく日本シリーズやオールスターなどの大舞台に強かった。

  • 選手時代は長嶋巨人からの再三のトレード要求にも応じず、「長嶋の恋人」とも呼ばれていた時期もあったほど。
  • 西鉄ライオンズ時代から在籍し、その後太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズと、ライオンズ一筋を貫いたのは東尾氏と大田氏の2人だけ。
    ちなみに東尾修氏は1988年に現役を引退。

  • 現役引退後は解説者を経て1990年から1995年は福岡ダイエーホークスの打撃コーチし小久保裕紀らを育てた。1996年から球団のスカウトとして井口資仁、松中信彦らを入団させる。
  • その後スポーツ新聞の評論家、2003年から2004年まで台湾のLa・New高熊の監督、2005年にスポーツ新聞の評論家に復帰するが、2007年から韓国プロ野球・SKワイバーンズの打撃コーチに就任する。
  • SKワイバーンズの在籍時にはロッテでコーチを務めたキム・ソングン監督のもと、元巨人の加藤初氏や元中日の福原峰夫氏もコーチとしてチームの指導にあたり、2007年のアジアシリーズではNPB出場チームに初黒星を付け、シリーズ優勝へ導いた。

  • 2008年からヤクルトの監督に就任した総統から「これまでの指導経験を十分に評価している。だから、ぜひヤクルトで存分に生かしてほしい」と口説かれ、1軍打撃コーチに就任したが4月に首痛のため戦線を離脱、戸田軍の土橋コーチが1軍に昇格し代役を務めた。
    ちなみに本当かどうかわからないが、就任の裏には辛い食べ物が大の苦手であったので1年で退団、ヤクルトへと言うウワサも…。
  • 2009年からは体調を考慮し、戸田軍の打撃コーチとして若い選手の指導にあたる。

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