猿渡寛茂
- 1969年のドラフト5位で三菱重工(長崎)から東映フライヤーズ(現・日ハム)に入団。
ヤクルト(当時はアトムズ)では、グフフの八重樫さん(1位)、2009年も横浜の監督を務めるあの方(7位)がいる。他球団では南海(現・福岡SB)の門田、中日・信頼と安心のブランド、早大から谷沢、巨人・総統のチームメイトで名ショートだった河埜、大洋(現・横浜)・数あるスワローズ黒歴史の主人公の1人、荒川(堯)さんら、懐かしい方が名を連ねる。
- 実家は静岡県伊東市にあるが、正月用のお飾りや、しめ縄を自作し毎年地元のお寺に奉納されているというお話しも。特にしめ縄作りはご自身も「下手な職人よりもオレのほうがうまい」と自慢するほどで、お飾り用の材料も自分で採取されるらしい。
- ポジションは内野手で、現役の大半を1軍の控え選手として守備固めとして出場した。
今のスワローズにも似たような選手がいたような、いないような…。 - 代打でも起用されることしばしばあり、1975年には19打数6安打・打率.316とリーグNo.1の代打成績も残した。
- 現役引退は1977年で、通算成績は164試合出場、49安打・打率.244・0HR・8打点・盗塁数5であった。
- 引退後は主に日ハムのコーチを担当するが、2002年の戸田軍守備・走塁コーチ就任以前に1985年、1986年は戸田軍コーチを担当していた。
- 2002年の戸田軍守備・走塁コーチ就任以降、小川監督のもとで若手を指導、2008年小川監督が1軍ヘッドコーチへ昇格に伴い、戸田軍監督に就任。
- 以上のように主に2軍中心のコーチ時代が殆どであったが、古くからマスコミは若い選手の熱血指導ぶりを高く評価している。
- 就任となった2002年に、この年野手へ転向した、でっかい子の守備を徹底指導したのはこのお方です。
- 自身の経歴初の監督となった2008年は「育成は個性を大切にしたい。」と言う信念のもと、戸田軍を10年振りのリーグ優勝に導いた。
その功績・手腕を称賛する関係者は多いと言う。 - そんな2008年で残念だったのは社会人時代を過ごした第二の故郷、長崎で行われたファーム日本選手権で福岡SBに負けてしまったこと。 高… いや、もう過去のことだ。
- やくせん民は、総統の若手積極起用の煽りを受けたベテラン選手の活躍が大きかったのではと言う声が聞かれるが、そのベテラン選手の多くが2008年オフにチームを去った。
- 2008年に現役引退したニコライさんとおっさんをコーチに迎え、更に2009年育成を含むドラフトで交渉権を獲得した7選手のうち4選手が高校生と、本当の実力を見せるのは2009年からと言うことになるでしょう。
たのんまっせ―!