亜人狩りは1000年前後にイクファターナで流行した亜人ならびに半亜人に対する一連の迫害運動の総称である。
背景
亜人がイクファターナに移住したのは紀元前101年のヤード帝国による北タヴェリア領有以後であると言われている。それまでタヴェリアにしか居住していなかった亜人たちは奴隷取引の対象となり、ヤード帝国各地に移住するようになった。特に兎族はその希少性からかなり広い範囲に離散した(兎族のディアスボラ)。
中世に入ると、ヤード帝国では一般的であった入浴の習慣が廃れ、衛生環境も著しく後退した。
そんな衛生環境下で、980年代後半から疫病が大流行し始め、990年には「皮膚が剥がれ落ちる病」で10万人以上が死亡したという記録が残っている。
迫害の始まり
医術の権威でマルマラ伯の侍従であったリチャード・シャムバルは皮膚病の原因は亜人の体毛にあると発表し、これは当時の多くの貴族層に受け入れられた。
さらに
円十字教普遍教会は、亜人は悪魔の使いという宣言を行ってしまい、民衆の間でも亜人種に対する差別意識が顕在化し始めた。
991年4月から5月に自由都市シャウエッセンで発生した亜人種に対する集団暴行事件を皮切りに、各地で亜人種に対する吊るし上げ行為やでっち上げ裁判が行われた。また、教会の強い後押しで、宗教裁判が行われ、亜人種は問答無用で火刑にかけられるなど迫害にさらなる拍車がかかった。
半亜人に対する迫害
ヒトと亜人の混血である半亜人に対しても同様の迫害行為が行われた。特に半亜人は、ヒトからの迫害に不満を募らせていた亜人からも敵視された。
半亜人に対しては強姦、耳削ぎ、尻尾切りなどの拷問が行われ、拷問に耐えきれず自らが悪魔の使いであることを「自白」する者が続出した。
混乱の終焉
これら一連の迫害運動で、イクファターナの亜人たちの多くはタヴェリアなどに逃れたり、または、さらに北方に離散したりした。
また、各地で亜人による反乱も続出したため、各国の君主はこれらの民間運動の規制をかけるようになった。
教会側も亜人種からの献金が激減し、教会収入が不安定になったため教会布告の見直しを迫られた。
宗教裁判自体も教会が禁止令を出し、多くの地域では収束していったが、宗教裁判の主催が教会から在地領主に移っていたため完全な収束までにはかなりの時間を要し、最後の亜人裁判が行われたのは1031年オルテンシアにおける裁判が最後と言われている。なお末期になるとほとんど無罪もしくは執行猶予がつけられており、実刑に処せられることは少なくなった。最後の死刑判決は1027年アルビナにおける裁判である。
これ以降公式な記録は一切残っていない。
その後の影響
亜人に対する公的な迫害行為は終結したが、民衆の間では亜人に対する偏見や差別の意識は強く残った。とくに、亜人の少ない北方地域や西イクファターナでは政治的な差別意識のみならず、その後の産業革命で経済的な差別を受けることが多いなど様々な不利益を被ることとなった。また、
古代ヤード帝国では長らく融和的な関係であった亜人とヒトの関係は長らく修復することがなくなり、近代に入って国民国家が形成され、「国民」として統合されるまでは別世界の住人と認識されるほどに隔たりがあった。
また、半亜人に対する差別はそれ以上に強く残り、亜人のコミュニティからはじき出されるなど、社会的に孤立するケースが各国で相次ぎ、現在でも社会問題となっている。
関連項目
最終更新:2018年11月29日 19:47