ゆいあず その10 - すれちがい
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「こんにちは」
「あ!
あずにゃん!やっほー!」
ようやく部室に来てくれたあずにゃん目掛けて、私はいつもの調子で抱きつきに走る。
「にゃっ!」
「今日もあずにゃん分の補給ー!」
「来たばっかりなのに止めてくださいよ、もう」
お構いなしに、ぎゅっと抱きしめる。『止めてください』なんてもうすっかり言われ慣れてるから、今更気にする必要はないもんね。
今日はいつもと違って、すぐに振り解こうとしない。何かあって元気がないのかな?それとも、私の愛情表現に抵抗するのは無意味だと、やっと分かってくれたのかな?
「……唯先輩。もう、止めませんか?」
「えっ?何を?」
「……こういうことを、です」
あずにゃんは私の腕をちょこんと抓んでいる。要するに、スキンシップの強要を指しているんだろう。もちろん腑に落ちないので、訊き返す。
「なんで?」
「それは……その……」
「理由がないならいいじゃ〜ん」
「だ、ダメなものはダメなんです!」
「えーっ!私はしたいー!」
私から離れて体勢を整え、あずにゃんはびしっと指さして言い放った。
「金輪際、私に抱きつくのは禁止です!」
こんりんざい?
「……澪ちゃん。こんりんざいって何?」
「ああ……確か『どこまでも』とかそういう意味だったかな。言い換えるなら『今後』とか『一切』みたいな感じかな」
「『
これからずっと』ね!なるほど、さすが澪ちゃんだね」
その意味を咀嚼してから——澪ちゃんの博識ぶりを少しだけ恨めしく思いつつ——再びあずにゃんに向き直る。
「……そんなことになったら……わたし……死んじゃうよ……?」
「大袈裟ですね……」
やれやれと云った表情をするあずにゃんだけど、私にとっては深刻な問題だ。このままスキンシップが出来なくなるのはとても困る。どうにかして考え直してもらわないと。
「おねがーい!せめて期限をー!」
「……それじゃあ、私が許可をするまでにしましょう」
「えっ!」
それって明確な答えになってなくない!?
「あずにゃーん!なんでダメなんて言うのっ?なんで急にっ!?」
「え、えーと……」
「……?」
心做しか、あずにゃんは言い淀んでいる風に見える。視線もどこか游いでいて、言葉を継ぐに継げていないような、そんな気がするんだけど……
「とーにーかーく!ダメなものはダメなんです!」
「うえーん、あずにゃんがよくわかんないけど怒るー」
「練習しましょうよ、練習!ほら、律先輩も、澪先輩も、ムギ先輩も!」
「お……おう」
「そ、そうね。お茶も後にしましょう」
「梓、取り敢えず落ち着け……」
私たちを横目で見ていた三人も、急に振られてちょっとビックリしたみたい。
*
それから三日が経って。
「唯、調子悪いのか?」
「うん……」
「源因って、やっぱり梓ちゃん不足?」
「……うん。多分そう」
「冗談だと思ってたのに、まさかこんなになるとは思わんかったぞ……」
禁止を言い渡されてほんの数日。幾ら短いといえども、何も思わない筈がない。ほとんど毎日のようにしていたことを急に止められてしまって、満たされる筈の充足感は欠けたままになり、どうにも落ち着くことが出来なかった。
「ねぇ、みんな」
その中でも、ある疑問がずっと胸の中で鬩いでいて、今ももどかしい気持ちを引き摺らせている。
「あずにゃんは、なんであんなこと言ったんだと思う?」
今朝は思い切って、みんなに意見を尋ねてみることにした。
「う~ん……単に鬱陶しくなったから、とか」
「それ、想定する中でも最悪の答えだよぅ……」
「あ……ごめん、唯」
澪ちゃんも悪気があった訳じゃなくて、うっかり口にしちゃったんだと思うけど……心の傷を刳るには充分な言葉だ。
「ま、そんな気を落とすなって」
りっちゃんはここぞとばかり部長らしく、優しく声を掛けてくれた。
「別に無視されているとか、そういうんじゃないしな。そこまで気落ちするほど大事じゃないだろ。実際、唯がこんなに落ち込んでるんだし、梓も実は後悔してるんじゃないか?」
「そうよね。梓ちゃんが本気で言ったとは、到底思えないもの」
「……うん。ありがとね、みんな」
ムギちゃんも賛同してくれた。みんなの優しいフォローが、少しだけ振り向きかけた私の感情を、前向きにさせてくれた。うん、みんなに打ち明けてよかった。
でも、こういうことは本人に直接訊きたいよね。
*
「——こんにちは」
部室の扉を開けて覗く、見慣れたその顔。
私の憔悴具合とは対照的に、あずにゃんはあの日からあまり変わっていない。
「あずにゃぁぁぁん!」
「だーめーでーす!」
……いや、前言撤回。あずにゃんの抵抗が、今までとは打って変わって熾烈になった。私とのスキンシップを何が何でも避けようとしていて、最近のあずにゃんの攻勢は何かと強気だ。
「うっ……あずにゃんはまだ許してくれないのね」
「唯ちゃん。今日も美味しいお菓子を持ってきたから、早くお茶しましょう」
ちょっと淋しいけど、今日も美味しくお菓子はいただきます。
「今日はシュークリームでーす」
「わーい!いただきまーす!」
うん、うまい!ムギちゃんのオススメのおやつにハズレはないね。毎日食べられるなんてホントに贅沢だなぁ。
「あ……唯先輩、口元が」
「んん?……おっと」
あずにゃんに促されて、人差し指で軽く口元をなぞる。シュークリームから溢れ出したクリームが、べったりとついていた。
私は何気無しに、さも当然のようにお願いをする。
「あずにゃんとってー」
「……それぐらい、自分でやってください」
もう、あずにゃんったらなかなか剛情なんだからっ!でも、もう一押しすればきっと拭いてくれるはず。今までずっとそうだったもんね。
「んーっ!」
身を乗り出して、顎を出す。ところが、あずにゃんは構ってくれるどころかそっぽを向いてしまった。
「律先輩、やってあげてくださいよ」
「なんであたしが……しょうがないな」
りっちゃんはポケットからハンカチを取り出して、私の口元を拭ってくれた。
……何か違う。何か違うよ、これは。
「りっちゃん……もっと優しく……」
「っるせー!つーか自分でやれ!」
りっちゃんに軽くお叱りを受けて、ハンカチを受け取り自分でも拭く。
「……梓ちゃん?」
「……梓?」
「……あずにゃん?」
「……」
いつもの調子で流されてしまうと思っていたのに、そうならない。そこに引っかかりを覚えたのか、みんなして違和感を隠せないといった顔をしている。
あずにゃんを覗ってみても俯いたままで、私と目を合わせてくれない。もしかして、気まずい空気にさせちゃった……?
「梓、そろそろ話してくれないか。この前から……唯と何かあったのか?」
そんな私たちを見兼ねたのか、澪ちゃんが話を切り出してくれた。
「……すみません。お話します」
あずにゃんは椅子を引いて立ち上がり、私たちを一瞥してから、話を始めた。
「一年以上一緒に過ごしてきて、やっと分かりました。今まで、唯先輩を甘やかし過ぎたと思うんです。あと一年もしないうちに卒業して、大学生なんですよ?社会人に少し近づく訳じゃないですか。それなのにこの体たらく……。今からでも矯正するべきじゃないかって、思ったんです。これは……言うなれば、唯先輩のしつけです」
「私のしつけ!?」
「しつけ……いい響きねぇ……」
「その言葉はちょっと違わないか……」
あずにゃん曰く、何時までも後輩が世話を焼いているようでは先輩の為にならないから、多少厳しく接するべきだと考えたそうだ。他ならぬ私を思っての対応に過ぎないらしい。
しつけ、という表現に若干の衝撃を受けながらも、その行動の意図は明かされたわけだ。
「まあ、正論に聞こえなくもないか。……唯、なんか言ってやることはあるか?」
「うん……まぁ、ちょっと淋しいかな。でも、あずにゃんは私のことを思ってくれてたんだね。ありがとう」
「よ、喜んでいただけるのなら……」
「うん。あずにゃんの為にも、私、頑張る!……でも、最後に一回だけ」
「だーめーでーすー!」
・
・
・
*
——あれから、帰宅して。
最近はベッドに横になってからも直ぐに寝付けずに、天井を見つめて物思いに耽ることが多くなった。思惟の中心はもちろん、あずにゃんのこと。
「……結局、あずにゃんの答えが聞けなかったなぁ」
さっきの
帰り道、あずにゃんにどうしても訊きたかったことがあったので質問した。けれども、あずにゃんは何も言わないで、急ぎ足で帰ってしまったのだ。
「……もしかして、嫌われちゃったのかなぁ?」
心の奥底で芽生えていた、後ろ向きの感情が疼く。
約束を言い渡されたあれからも、部活では普段通り接しているし、指摘されるほどぎくしゃくした感じではない。触れることには異様に拒否感を示されていることだけを除けば、だけど。
その割にはさっきもそうだったけど、いつもの帰り道で二人切りになることは何も考えていなかったみたいだ。
「質問自体が直截的すぎて逆に怒らせちゃった……とか、かな」
帰り道は二人切りで、どうせ誰にも見られていないのだから、無理矢理にでも……と少しだけ不躾な発想が掠めたこともある。今日なんて絶好の機会だったかもしれない。でも、そんなことしたら益々あずにゃんに嫌われるだろうと、思い留まった。
「別に、そんなつもりじゃないんだけど……」
……本当にそうなのかな?
あずにゃんが可愛すぎるから、抱きしめたくなるんだけど……
やっぱり好きだからかなぁ?
「好きだけど……うーん?」
好きってどういうことなんだろう。改めて考えてみると、それはなかなか不思議な感情だと思い知らされる。ぱっと考えてみたところで、ちっとも分かりっこない。
やがて、胸の中で得体の知れない感情が湧き起こる。
「うーん……」
抑々、この習慣は何時から始めたんだろう。もしかしたら、出会った時からこうしてたかな。
最初のうちは振り解こうとして、私の腕の中でよくもがいていた。それはそれで、じたばたする仔猫のような愛らしさを覚えて、更に抱きしめる力を強くしていたっけ。
それから私の粘り強さを思い知ってくれたのか、抵抗する時間がどんどん短くなっていった。言葉に表すと変な感じだけど——抵抗されなくなっていくのには、正直ホッとした。私に対する危機感が拭われたのだと思えば、却って嬉しかったからだ。
今でも続けちゃうのは——それだけ、あずにゃんのことが可愛くて仕方ないと思ってるってことなんだけど、ちゃんと伝わってるのかな。
「……明日はちゃんと、お喋りしたいなぁ」
私があずにゃんと一年以上過ごして分かったことって、何だろう?
——すぐに答えが出てきそうにない自問をしてから、瞼を閉じた。
*
——翌日。
思考を巡らせれば、必ずあずにゃんの顔が付き纏う。これは完全にあずにゃん欠乏症だと、自分でもはっきり分かる。足りなさすぎて、思わず不敵な笑みもこぼれてしまうぐらいに。
「ふっふっふ……」
放課後になってからみんなに断って、私はあずにゃんが居るであろう教室へと足を運んでいた。今は、何としてもあずにゃんに会いたかったのだ。
「あ!……あずにゃぁぁぁん!」
「んにゃ!」
あずにゃんの姿を発見したとき、私は異常なまでに昂揚感を覚え、全速力で駆けた。あろうことか、その勢いのまま飛びついた。当然ながら私の力を受けきることが出来ずに、あずにゃん諸共廊下に倒れ込んでしまった。
しばらくは周囲を気にせず、あずにゃんの胸元に顔を埋めることに専念する。両腕から伝わる感触。この抱き心地……。久し振りに味わうこの感覚。私にとっての倖せって、もしかしてこれなんじゃないかな……なんて。
三日分のあずにゃん分を取り戻せたと思い、いざ顔を上げてみると。
「……せん……ぱい……」
あずにゃんは、涙を浮かべていた。
「……え?」
「ダメって、ずっと、言ってきたのに……」
咄嗟の行動に出てしまったが、彼女の涙を見てようやく今の状況を呑み込む。後輩を押し倒す上級生。なんて最低な光景なんだろう。
慌ててあずにゃんを起こした。は、早く謝らないと……
「ご、ごめん。つい、出来心で……」
すっくと立ち上がったあずにゃんの、強烈な一言。
「……先輩のことなんて、もう、知りません!」
顔を真っ赤にさせて、脱兎の如く駆け出してしまった。
私はその姿を、ただ惘然と見つめるしかなかった。
「……あれ?あれれ?」
どうすれば、いいの?
「……という訳で、本気で泣かれっちゃったんだけど」
「おまえは何をしたんだ!」
あずにゃんが去ってしまい途方に暮れた私は、とりあえずみんなが待っている音楽室へと駆け込んだ。
「そのまんまだよ!廊下であずにゃんを見かけたから、ぎゅーってしようと思ったんだけどさ。勢いつきすぎて押し倒しちゃっただけだよ」
「あらあら……公衆の面前でだなんて、唯ちゃんってば大胆♥」
「……ムギはさて置きだな」
仕切り直すぞ、とりっちゃんは言った。
「梓が泣いた理由って、多分抱きついたからじゃないと思うんだよなー」
「えっ、違うの?」
「梓も、唯の抱き癖みたいなのは充分に理解していると思うし、今更抱きつかれたぐらいで泣くっていうのも考えにくいんだよ」
「……そういうものなのかな?」
「実際のところは分からないけど、大方律の言う通りだと思うよ。傍から見ている私たちが言うんだから——多分、間違いない」
三人の意見を聞いて、私は驚きを隠せなかった。当事者よりもはるかに冷静になって答えを出せている。
みんな、すごい。
「唯は本当に、それ以外で梓に泣かれるような覚えがないんだな?」
「……うん」
「じゃあ、梓がちゃんと説明してくれるのが一番だな。とにかく、話を訊いてみるしかないだろ」
「うん……とりあえず、探さないと」
「私たちも手分けして探すぞ。澪もムギもいいよな?」
「もちろん」
「当たり前、だろ」
「……みんな、ありがとう」
*
「あずにゃ〜ん……どこー?」
みんなで散り散りになって探すことにしたけれど、誰一人向かった先の検討が付かない。私はひとまず、あずにゃんの教室に向かってみることにした。
「失礼しま〜す」
ドアを開け恐る恐る覗いてみたけど、案の定誰も居ない。
「……当たり前、だよね」
しばらく教室内を見回してみる。昼間の賑々しさを失った、静謐な空間。どのクラスも同じ造りにはなっているのに、私たちと学年が一つ違うだけで受ける印象はがらっと変わってしまう。……なんだか不思議だ。
がらんとした教室の真ん中に立つと、また物思いに耽ってしまう。彼女が見つからないことも相俟って、淋しさがくたふつふつと湧いてくる。
——あずにゃんも何時かは、私の傍を離れちゃうのかな?
そうやって感傷に浸る度に、考えてしまう。あずにゃんは、とっても大切。だから、これからも
ずっと一緒に居たい。離れ離れになんか……なりたく、ない。
「あずにゃん……」
ケータイの着信を知らせる振動音が、微かに響き渡る。
「……ムギちゃんからだ」
<梓ちゃんは屋上にいます。唯ちゃんを待っているから、早く迎えに行ってあげてね>
「……屋上!」
メールを見て、一目散に駆けだす。廊下は全速力で、階段も一足飛び。息切れに喘ぐ暇も許さず、目的地まで辿り着いた。
呼吸を整えて、屋上へと続く錆び付いた扉を開ける。
「……あずにゃん」
「唯……先輩」
まずは——謝らないと。
「ごめんね!」
「ごめんなさい!」
二人同時に頭を下げてしまった。妙なところでシンクロしてしまうのが、何だかおかしい。
「今まで迷惑をかけすぎて、呆れちゃったんだよね……?だから、私のことを気に掛けて、色々してくれてたのに……。さっきは、本当にごめんね」
「ち……違います。そうじゃないんです。その……色々事情がありまして。今はまだ、ちゃんとお伝えできないんですけど……」
「……私のこと、許してくれる?」
「……許すもなにも、最初から怒ってなんかなかったんです」
「最初って、あの約束の時から?」
「——そうですよ」
その言葉を聞いて、急に身体から力が抜けてしまった。
「よかったー。あずにゃんに嫌われたのかと思ってずっとモヤモヤしてたんだけど、もうこれで心配ないね」
「すみません、私のせいで……」
「いいのいいの。これからもよろしくね、あずにゃん」
「……はい」
嬉しそうなあずにゃんにつられて、私も顔を綻ばせる。拗れた糸が元通りに解かれて、ほっと胸を撫で下ろした。
何よりも、この笑顔がまた見れて良かった。
「許してくれるってことで、仲直りに一回だけ〜」
「にゃっ!」
「……やっぱり嫌だったりするの?」
「……あ……いえ……スミマセン。それより早く……部活に戻りましょう」
「……うん、そだね」
これからもずっと傍に居てほしい。
何時の日か、言えることを願って。
あずにゃんに寄り添いながら、私たち二人は、屋上を後にした。
◆ ◆ ◆
「はあ……私、何してるんだろう」
曲がり角を飛び出してきた唯先輩に押し倒されてから、どうも記憶が飛び飛びになってしまっている。先輩から逃げることに必死すぎて、無我夢中で駆け出して、気が付いたら屋上に避難していた。
私が今まで拒み続けてみせたのに、言い付けはつい先程破られてしまった。その事に絶望して、悲しくなっているのか。
……違う。全然、違う。そう、全部自分が悪いのに、危うく唯先輩に責任転嫁するところだった。私ってば……
屋上の鉄扉を開ける音が、ぎしっと響く。
「あら、ここが正解みたい」
「……ムギ先輩?」
意外な人が目の前に現れて、私は目を丸くした。
「先輩、どうしてここに?」
「梓ちゃんこそ」
「あ……べ、別に意味はありません」
「そっか。そうなのね。でも、私は梓ちゃんに用事があるの」
「……え?」
私に、用事って?
「率直に言うわね。……唯ちゃんのこと、どう思ってるのかな?って」
「唯先輩のこと、ですか?」
それは、どういう意味でしょうか。
「いきなり躾だなんて言うから、驚いちゃったわ」
「それは、この前説明した通りですよ。唯先輩の将来が心配になったから——」
「……うん。それは、違うんだよね?」
「えっ……」
ムギ先輩は、あくまで淡淡と語りかけてくれる。
「梓ちゃんが優しい子だって、みんな知ってるもの。だから、ここ最近の振る舞いも、ただぶっきらぼうになっているんじゃなくて、本当の考えがあったからなんじゃないかなって、思ったんだけど……どうかな?」
「……」
あれから沢山思い巡らせてみたけれども、否定し続けられなくなってしまった。
私の考えは——私の思いは、得てして深みにはまっていたのだろう。
「気持ちの整理とか、どうかしら?唯ちゃんとお話しして、解決できそう?」
実はもう、とっくに見抜かれていたということでしょうか?
「はい。やって、みます」
「じゃあ、唯ちゃんにここに居るって伝えるわ。連絡したら、私も部室に戻るね」
先輩はケータイを取り出して、慣れた手つきでメールを送信する。風に靡くその後ろ髪が、とても綺麗。
「ムギ先輩は、何でもお見通しですね」
私の言葉にムギ先輩は振り向いて、決して気取った風のないまま、言い聞かせてくれた。
「そんなことないよ。これも、一年一緒に過ごして分かったことだから、ね?」
そう言い残して、先輩は扉の向こうへと消えてしまった。
「……ありがとうございます」
——私の考え、か。
いつか臆面なく、正直に出してみたい。
固く心に決めて、先輩の到着を待ち望むことにした。
◆ ◆ ◇
いつもの交差点で、私と唯先輩の二人に分かれた後の、帰り道。
「それでですね、澪先輩が……」
あれから三日が過ぎた。先輩は、ちゃんとあの約束を守ってくれている。
拘束されなくなって平穏無事な生活を送る最中、常に一歩引いた位置で観察し続けてきたけど、私がそんな風に捉えていた節は無かったんだと実感したのは大きかった。
先輩にとっては非情な約束だったかも知れないけど、そんなしおらしくなる先輩を見るのも珍しくて面白かったし。
「……唯先輩?」
「……あ、ごめんね、あずにゃん。何の話だっけ?」
唯先輩は、部活が終わってからしょんぼりしているように見える。まさか、しつけって表現をまだ気にしているのだろうか?それとも、そもそも取って付けたようなこの提案の内容が苦しかったのかな?でも、さっきは頑張るって、言ってくれてたのに……うーん。
「さっきからぼーっとしてますけど、どうかしましたか?」
口数少なくダウナーな唯先輩に、そこはかとなく漂う魅力を感じなくもないんだけど……って、私は何を言ってるんだ。
「……私ね、さっきから変なコトばかり考えてるの」
「……変なコト、ですか?」
唯先輩なりの変なこととやらが想像できずに、私は訝しむ。
「ねっ、あずにゃん。二人切りだし、ここでならいいよね?」
「えっ?な、何がですか?」
唯先輩、何を言ってるんですか……?
「二人切りだなんて、そんな……」
変な予感が脳裏を過ぎる。
「だってあずにゃんってば、触らせてくれない癖に、二人で一緒に帰るのは良いみたいだからさ。こういうのはアリなのかな?って」
「……あっ」
しまった、完全に考えが及んでいなかった。仮にも唯先輩はそういうコトを積極的にしてくるとは思わなかったから、防備も考えていなかったけど、まさか、そんな訳が……
「ねぇ。聞いていいかな?」
「ど、どうぞ……」
「みんなに言わないから、ホントのことを言って欲しいの」
心臓が早鐘を打ち出す。緊張が感覚を鈍らせる。落ち着け私、落ち着け私……
「……私のこと……どう思ってるの、かな?」
「……っ!」
せんぱい。それ、どういう意味ですか?
私の歩みは完全に停まっていた。顔も火が出そうな勢いで、どんどん赤らんでいる。そんなこと、真正面から言われるなんて計算外だし、相応の答えなんて用意してある筈がない。
「ゆ、ゆ、ゆい、ゆい先輩のことは……その……あと……ええと……」
ダメだ、自分で何を言おうとしているのかが分からない。身体がどんどん火照っていく。暑い……
もしかして、先輩に、意識されていた?
それともまさか、唯先輩に気付かれていた?
「……あずにゃん?」
「し、し、失礼します!」
羞恥心に耐えかね上擦った声をあげ、寄りにも依って私が選んだ行動は——逃げ帰ることだった。
◆ ◇ ◇
さっきは蔑ろにしていたとは言え、内容が過激なこともあってか、どうしても頭から離れていかない。自分がそんな人間だったのかと思うとちょっぴり凹んでしまい、机に突っ伏す。
「どうしたの、梓。元気ないね」
「なんだ、純か……」
「……なんだとは何よ」
「ごめんごめん。今朝からちょっとアレで……」
「アレ?ってなに?」
「……ちょっと耳貸して」
口外するには恥ずかしい内容なので、ひそひそ話。恥ずかしいとは言え、こうして誰かに打ち明けることで、少しでも気が紛れることを期待している。
「……っていう感じで」
「はは〜ん……」
「まあ、それだけのことなんだけどさ。なんか、朝から変な感じなの」
「うん。それで、梓はどう思ってるの?」
話半分で喋り始めてみたものの、純の追究の眼差しは何時になく真剣味を映している。……純もこんなに真面目な顔をする時もあるんだ。
でも、私としてはこれ以上話を広げる積もりは無かった。印象が強いとは言え、ほとんど空想に近いものなのだから、取り立てて議論する必要性を感じていない。
「何が?」
「何がってことはないでしょーが。こういうのって、本人の願望とか欲求とか、深層心理が色濃く表されるっていうのは定番でしょ?」
「そ……そうなのかな」
「そーよ」
純は真顔で突っかかってくる。この反応は想定外だった。でも、このことについて元々考えたことはないのだから、どう思うも何もないとしか言えないので、この場はひたすらお茶を濁すしかない。
そうこうしているうちに、もう一人の友人が教室に見える。
「憂、おはよ」
「おはよう、純ちゃん。梓ちゃん。何の話?」
「それがねー」
私からの話のタネを、憂の耳元で囁く純。わざわざ私がひそひそ話でしたことを忘れずにいてくれたようで、律儀に守ってくれている。割とデリカシーを弁えてるから、やっぱり良い子なんだろう。
その話を受けて、憂の感想ときたら。
「あ……梓ちゃん……私だってまだなのに……」
「……なんか、ごめん」
憂もなかなか底知れない感性の持ち主だと思う。まさか羨ましがられるなんて、誰が予想できたことか。
その日は時間の経過が早く感じて、あっと言う間に放課後になった。帰りのホームルームも終わり、二人と別れて部室へと辿り着く。
実はあれから、純の念押しがどうしても吹っ切れなくて、授業中だというのに唯先輩について考え出してしまったのだ。頑なに拒んでいたつもりがこうもあっさり崩れ去るとは、実に浅はかだと思う。
そんなこんなで想像を巡らせていたばっかりに、今日に限って部室に入るのが気まずくて仕方がない。昨日の今日で見てきたものだし、記憶を掘り起こせば鮮明に思い出せるのから厄介なのだ。私の記憶にあることが、当人に自覚させられる訳もない。その人は何食わぬ顔で触れてくるだろう。
これはもう、避けては通れないのだ。覚悟を決めるしかない。
「——こんにちは」
「あ!あずにゃん!やっほー!」
いの一番に私の元に駆けつけては、両手をひろげて抱きついてくる先輩。
「にゃっ!」
「今日もあずにゃん分の補給ー!」
「来たばっかりなのに止めてくださいよ、もう」
そう、この人はこうするのが好きな人なんだ。これ自体に特に深い意味はないに、違いない。
きっとそうなんだろうけど……今の私には、如何せん刺激が強すぎる。
「……唯先輩」
しばらく、遠ざけないと、冷静に判断ができなくなりそうだから。
「ん?なーに?」
聞き返す先輩に向かって、一言、呟いた。
◇ ◇ ◇
私は今、大きなダブルベットの上で寝ている。
蒲団の感触が膚へ直に触れてくるものだから、恐らく何も着ていないのだろう。
「——ねぇ、あずにゃん」
声がする方を振り向くと、そこには居たのは、唯先輩。合宿以来久し振りに見る素膚が眩しかった。やっぱり、私と同じで裸みたいだ。
「ずっと前から言いたかったことがあるの」
「なんですか?」
この状況——まあ、そういうことなんだろう。
「あずにゃん——愛してるよ」
先輩が優しく手を取ってくれる。
されるがままの私も、さぞかし恍惚とした表情をしていただろう。
「……好きだよ」
「先輩……私も」
唇が、少しずつ距離を縮めーー
既でのところで、目が覚める。
「……何なの、今の夢」
我ながらどうしようもない夢を見てしまったものだ。
「唯先輩が私を愛してる……?そんなまさか」
確かに好きとは言ってくれている。でも、先輩はわりと大袈裟な表現もするタチだし、好きを越えて
愛してるなんて、ギー太にだってしょっちゅう言ってる。決して特別な言葉ではないだろう。
私に向けて言うそれが、異性との間に芽生える物とは一線を画しているのも分かっている。
「……愛してる、か」
なのに何だか、落ち着かない。作り出されたあの状況が、私をその気にさせているのだろうか?それよりも私は、先輩のことを色眼鏡で見ていたというのだろうか。それはそれで、問題な気もする。
たかだか夢なのに真面目に考察するのも莫迦莫迦しい。私は登校の仕度を始めることにした。
——この頃の私には、まだ実感が無くて。
これから起きることなんて、まだ知る由も無かった。
【おしまい!】
- いまいち時系列が伝わりにくいな -- (名無しさん) 2010-12-11 03:51:24
- 素晴らしい作品。 -- (名無しさん) 2021-01-06 23:15:42
最終更新:2010年12月10日 20:07