はじめまして、こんにちは。
私は、この春桜ヶ丘高校に入学したばかりの1年生です。
突然ですが今回は、私の部活の先輩と、その先輩の先輩、
素敵な2人の素敵なエピソードをお話ししたいと思います。
私が入った部活、それは軽音楽部(以下軽音部)です。
カスタネットやタンバリンなど簡単な楽器で軽い音楽をやる部活…ではなく、
ギターやらベースやらドラムやらでバンドを組む、アレです。
実は私、中学の頃からギターをやっているので、軽音部があると聞いて興味津々でした。
そんなわけで、やはり中学の頃からドラムをやっているという、
入学式の日に早速意気投合した同じクラスの友人と一緒に、
勧誘期間の初日に行われた新勧ライブを楽しみに見に行ったのです。
果たして、ステージ上に現れたバンドはギター&ベース&キーボードのみで
ドラムがいないという変則的なスリーピースでしたが、
その演奏はそうした制約の中でも最大限のパフォーマンスが発揮できるよう
よく工夫されていることが感じられる、大変素晴らしいものでした。
特にギタリストのレベルは女子高生のそれを確実に上回っていて、とても惹かれました。
というわけで私と友人はその場で2人揃って入部を決意し、
その日のうちに、入部届を片手に軽音部の活動場所である音楽準備室を訪れたのでした。
まさか初日にいきなり入部希望者が現れるとは思っていなかったらしく、
3人の先輩たちは少し驚いたようでしたが、それ以上に大変喜び、それはもう大歓迎してくれ、
そしてこちらが恐縮するくらい熱烈に感謝の意を伝えてくれました。
なんでも、この学校の部活は最低4人の部員が必要と定められており
(バンドは3人でもできるのに…)、
軽音部はもし新入生が誰も入部しなければ即廃部という危機にあったそうで、
それゆえに私たちは先輩たちの目にはまさしく救世主のように映ったようでした
(特にドラマーが入部したのは嬉しかったようです)。
先輩たちは3人とも3年生ですが、1年生の時からずっと軽音部にいるのは
部長でありギター・ボーカルを務める梓先輩だけだそうです。
去年までは梓先輩の上に4人の先輩がいたそうなのですが、
今年の春に揃って卒業してしまい、梓先輩がひとり残される形になってしまったのだとか。
そこで、2年生までジャズ研に所属していたベースの純先輩と、ずっと帰宅部だった
キーボードの憂先輩、2人の親友が助っ人として移籍・入部したのだそうです。
それでも4人には足りなかったため、勧誘はまさに正念場だったとのこと。
そもそも梓先輩が入った時の軽音部も、先代の部長が入学した時点で
誰ひとり部員の残っていなかったところから4人かき集めて立て直したという、
かなりギリギリのところで生き残ってきた部だったようです。
それだけに、卒業した先輩たちの軽音部に対する思い入れは相当のものだったはずで、
そんな部を引き継いだ梓先輩は、自身のそれはそれで非常に強い愛着に加えて
その先輩たちの思いも同時に背負っていたのでしょうから、
自分が潰すわけにはいかない、とかなりのプレッシャーを感じていたに違いありません。
それを考えれば、私たちが部室を訪れたときの梓先輩たちの、
異様なまでの歓迎ムードや安堵に満ちた表情の意味も理解できるというものです。
そんなわけで、早々に軽音部への入部を決めてしまった私たちは、
仮入部期間が終わらないうちから本格的に活動に参加させていただきました。
先輩方は皆さんそれぞれ性格が違いますがとても仲良しで、私たちにも優しくしてくれます。
この部活なら楽しい高校生活を送れそうだ、と思ったわけですが、
最初の頃ちょっとびっくりしたのは、軽音部なのになぜかティータイムがあることでした。
梓先輩いわく、先代部長の頃からの習慣だとか。
入部当初の梓先輩は練習時間を少なくさせるこの習慣に馴染めなかったといいますが、
そのうちにこの時間が色々とプラスに作用していたことを理解できるようになり、
次第に受け入れられるようになったとのことでした。
そうは言ってもちょっとティータイムが長すぎた気はするけどね、
と梓先輩は苦笑いしていましたが、ひとまず今年も続けてみることにしたようです。
私も友人も女の子ですからお菓子や紅茶は大好きですし、
午後の授業も終わってちょうど小腹が空き始める時間帯のティータイムは
正直なところありがたいので、特に反対はしませんでした。
そんなティータイムに交わされる会話の内容は様々ですが、
梓先輩がよく話すのは、やはりというべきか、卒業した4人の先輩たちの話でした。
あまりちゃんと練習もせず、ティータイムやおしゃべりを優先しがちで、
性格もみんなバラバラかつ個性的で、でも結束は他のどんなバンドよりも強くて、
全員の演奏が合わさると不思議なくらい輝いていたという先輩たち。
高校に入った頃はとても真面目で、しかしどこか堅苦しく考えがちだった自分も、
そんな先輩たちと過ごすうちにだいぶ影響を受けて良くも悪くも丸くなってしまった、
と梓先輩はまた苦笑いをしていました。
しかし真面目ながらもそれ一辺倒ではなく、
適度に肩の力を抜きつつ締めるところはしっかり締め、
部員全員のことを考えて気持ちよく活動できるようにまとめてくれる今の梓先輩は、
その先輩たちとの関わり合いの中で育て上げられてきたのでしょう。
そう考えると、その先輩たちの功績は色々な意味で大きかったと言えそうです。
実際、何だかんだ言いつつも梓先輩がその先輩たちを尊敬しているということは
本人の口からも語られたことですし、傍目にもそれはよく分かることでした。
梓先輩が語った、梓先輩の先輩たち。
廃部寸前だった軽音部の復活の立役者でありながら活動態度は適当で、
大雑把でガサツで書類申請もよく忘れ、ドラムも走りがちだったけど、
部員全員のことをよく見ていて、ここぞという時にはみんなをパワフルに引っ張りあげる
頼もしいリーダーシップを発揮してくれたという、先代部長の「律先輩」。
その律先輩の幼馴染で、先輩たちの中では一番真面目な普段の軽音部のまとめ役、
ベースの腕も抜群で歌も上手く、作詞も手掛け、成績優秀、その上美人でスタイルも良く、
ファンクラブができる程の人気があり、でもちょっと周りに流されやすくて、
恥ずかしがり屋で怖がりという可愛らしいところもあったという「澪先輩」。
大企業の社長令嬢で、この部活にティータイムを作った張本人であり、
家から高級なお茶やお菓子を毎日持ってきては惜しげもなくみんなに振舞い、
幼い頃からピアノで鍛えられたキーボードの腕は確かなもので、作曲のセンスも高く、
ちょっと世間知らずだけどおっとりぽわぽわで天使のようだったという「ムギ先輩」
(ちなみに「ムギ」はあだ名で、本名は「紬」だそうです)。
いずれの先輩についても、聞いているだけで楽しくなるような
たくさんのエピソードを聞かせてもらいました。
そしてもう1人。
これまでに挙げた3人のどの先輩についてよりも明らかに、
それこそ今まで聞かされたうちの少なくとも半分はその人についての話だったのではないか、
と思えるくらい、圧倒的に多くのことが語られた先輩がいました。
「唯先輩」。
憂先輩の1歳年上のお姉さんであり、
リードギター&ボーカルを務めていたというその人についてまず語られた内容は、
誤解を恐れず端的に言ってしまえば、文句であり、愚痴でした。
梓先輩はその人の演奏に惹かれて軽音部に入ったのに、
実際はとてもぐうたらで、大いに裏切られた気分にさせられたこと。
高校に入るまで実はギターに触れたことすらなく、
実際の腕は小学生の頃からギターをやっている梓先輩とは比べるまでもなかったこと。
部活の時間はお茶やおしゃべりにばかり熱心で、ろくに練習しようとしなかったこと。
イヤイヤながら練習し始めたらし始めたで、楽譜も読めず、
コードの押さえ方も分からないから教えてほしいと後輩の梓先輩にすぐ泣きついてきたこと。
そうやって何度教えてもしばらくするとまたコロっと忘れていて、
何度も教え直す羽目になったこと。
ギターのメンテナンスも自分じゃまともにできなかったこと。
とにかく音楽やギターの知識がまるでなく、教えるのに苦労させられたこと
(だから梓先輩は教えるのが上手なのかもしれない、と思いました)。
日常生活でも天然ボケでドジで危なっかしくて頼りなくて、目が離せなかったこと。
家の仕事はほとんど妹の憂先輩に任せっきりの世話になりっぱなしだったこと
(当の憂先輩はそれを苦とも何とも思っていなかったようですが)。
勉強も嫌いでだいたいいつも赤点スレスレで、
それなのにテスト直前に演芸大会に出ようとしたりしたこと。
3年生になっても進路をなかなか決められず、周りをヤキモキさせたこと。
梓先輩をいたくお気に入りで、ちょっと迷惑なレベルで猫可愛がりしてきたこと。
「
あずにゃん」という、梓先輩曰く妙なあだ名をつけてきたこと。
スキンシップが激しくて、春夏秋冬朝昼晩、ところ構わず抱きついてきて、
それだけでは飽き足らず頬ずりをしてきたり、
エスカレートするとキスまでしようとしてきたり、
隙あらばベタベタくっついてくるので大変だったこと。
あの真面目な梓先輩が人の文句を、よりによってその人の実の妹さんがいる目の前で
お構いなしに言いまくるものだから、最初は本当にびっくりしました。
しかし、いくら相手が親友といえどもお姉さんのことをここまで言われて平気なのだろうか、
と恐る恐る憂先輩の顔を見ると、これがまた驚くべきことに、
憂先輩はニコニコと笑いながら梓先輩が話す様子を眺めていたのです。
確かに憂先輩はとても優しい人ですが、決して怒らない人ではありません。
ましてや、憂先輩はお姉さんのことが本当に大好きで、
溺愛していたといっても過言ではないほどだったと聞かされています。
そんな人がなぜ笑顔でお姉さんへの文句を聞き続けていられるのか、実に不思議でした。
もしかして裏では梓先輩への激しい怒りを燃やしていたりするのだろうか、
とも思いましたが、その笑顔はどう見ても本物で…。
私と友人が理解できずにいると、ニヤニヤしながら梓先輩を眺めていた
純先輩が私たちの様子に気付いたらしく、こっそり耳打ちしてくれました。
「梓の顔をよく見てみな」と。
そう言われて見た梓先輩の顔。
そこに浮かんでいたのは、とても楽しそうな笑顔でした。
他の先輩たちについて話す時も十分楽しそうにしていましたが、
それよりももっと、ずっと楽しそうに、「唯先輩」のことを語る梓先輩は笑っていたのです。
そこに人の悪口を言って楽しんでいるといったような悪意は欠片も感じられず、ただ純粋に、
「唯先輩」のことを思い出すのが、話すのが、本当に楽しくて仕方がないと言わんばかり。
そんな自分の様子に気付いているのかいないのか、
梓先輩はなお笑顔のまま「唯先輩」の「文句」を言い続けます。
純先輩はそんな梓先輩を生温かい目で見やりながら、
「ね、分かったでしょ?」と、また私たちに耳打ちをしました。
つまり、言葉だけをそのまま受け取ってしまえば「唯先輩」への
文句であり愚痴でしかない数々のエピソードは、
確かにその額面通りの意味合いも多少は含まれているのかもしれませんが、
しかし実は梓先輩にとってはそれ以上に、本当に楽しくて、とても輝いていて、
何よりも大切で、かけがえのない「唯先輩」との
思い出の数々なのだということが、
その笑顔からは容易に読み取ることができるのでした。
もちろん、1年生の頃からの付き合いになる憂先輩もそれが分かっていたのでしょう。
そして、「唯先輩」について梓先輩が語ったのは、それだけではありませんでした。
ひとしきり「文句」を言い終えた梓先輩は、そこで「でもね」と話を反転させると、
その時点で既に他の先輩について語った量を軽く上回るくらいには
「唯先輩」について語っていたというのに、
今度は同じくらいたくさんの言葉をもって、「唯先輩」を褒め始めたのです。
部活の時間はなかなか練習しなかったけど、実は陰では一生懸命練習していたこと。
記憶の定着にこそ少し時間がかかったけど、飲み込みはとても早くて、
ちょっと教えればすぐにその通りに弾きこなしてみせたこと。
音楽的センスが優れていて、みるみるうちに上達していったこと。
なかなか集中できないけど、いざ本気になったときの集中力は人並外れたものだったこと。
ライブとかでそれを発揮した時には、梓先輩が心惹かれたときとまったく同じように、
他の誰にも真似できないような、思わず聞き惚れてしまうような音を奏でたこと。
甘くて柔らかくて優しい声で歌いあげる歌も、一度聴いたら忘れられないものだったこと。
「ギー太」と名付けてとても大切にしていたという、
重くて弾きにくいはずのレスポール・スタンダードを見事なまでに、
そして誰よりも楽しそうに弾きこなしながら歌うその姿は、
見とれてしまうほどにカッコ良かったこと。
とても優しくて、何も考えていないように見えてもさりげなく周囲を気遣う人だったこと。
テスト期間中に演芸大会に出ようとしたのも、
自分のことを二の次にしてでも隣のおばあちゃんを喜ばせたいという一心からの行動で、
それくらい純粋に人を喜ばせるのが好きな人だったこと。
本気になるとすごいのは音楽以外でも一緒で、
結局演芸大会に出た後のテストでも高得点をマークしてみせたこと。
実は料理もそれなりにちゃんとできたこと。
憂先輩に何かと頼りきりだったけど、それをちゃんと自覚していて、
憂先輩に感謝する内容の、とても素晴らしい歌詞を書き上げたこと。
梓先輩のことを、とても大切にしてくれたこと。
しょっちゅう抱きつかれるのは恥ずかしかったけど、
そうやって抱き締められた時の温もりは、不思議と心を落ち着かせてくれたこと。
梓先輩が困った時にはすぐに駆けつけてくれて、安心させてくれたこと。
不安な気持ちになったり悩んだりした時はいつも手を差し伸べてくれて、
いつもの頼りなさが嘘のように、頼もしく引っ張ってくれたこと。
一緒にギターを弾いたり、おしゃべりしたり、お出かけしたり…とにかく、
そばにいることがとても楽しかったということ。
このとき梓先輩が見せた表情は、それはもう何通りにも及びました。
少し照れくさそうに頬を染めることもあれば、自慢そうにしたり顔をしてみせることもあり、
うっとりとした眼差しになることもあれば、
「文句」を言っていた時の何倍もキラキラと輝いた笑顔を見せることもありました。
そんな梓先輩を見ながら、私はある確信をしました。
いえ、それは梓先輩が「唯先輩」の「文句」を言っていた時には
既に確信していたことでしたから、その確信をより強固なものにした、
と言った方が正確でしょう。
そして恐らく友人も――いえ、梓先輩が語るあの様子を見れば、
どんなに鈍感な人でも絶対に私と同じ確信をしたに違いありません。
しかし私は、それを敢えて梓先輩本人に言う必要はないだろうと思い、
その確信は胸の内にとどめておくことにしました。
が。
「梓先輩は本当に、その『唯先輩』のことが大好きなんですね!」
友人は思いっきりそれを言ってしまいました。
出会って数週間、薄々感づいてはいましたが、
この子は思ったことをすぐに口にしてしまうタイプのようです。
これもまた、ここで確信しました。まあそれはとにかく。
「…な、ななな、な、なっ!?」
友人の言葉を聞いた梓先輩の顔はものの一瞬で火が出そうなほど真っ赤に染まり、
頭からは湯気が吹き上がるのが見えたような気がしました。
「な、なな何を言って…!?べ、べべべ別にそっ、そういうワケじゃ…!」
言葉もしどろもどろになり、誰の目にも明らかな程に動揺する梓先輩。
そのリアクションでは図星だということを自ら暴露してしまっているも同然です。
と、そんな梓先輩を見かねて助け船を出すつもりなのか、
さっきからずっとニヤニヤと梓先輩を眺めていた純先輩が口を開きました。
「そうそう、梓ってばホント唯先輩のこと大好きでさー♪」
違いました。味方の救助船かと思ったら大砲を積んだ敵の戦艦でした。
これも薄々感じてはいましたが、この人は梓先輩をいじるのが好きそうです。
「ちょっ、純も何言ってんのよ!」
「うんうん。私たちと3人で話してる時もお姉ちゃんの話ばっかりだもんね、梓ちゃん♪」
「うっ、憂までぇ!」
真っ赤な顔のまま純先輩に抗議する梓先輩に、
天使のようなにこやかな笑みで無慈悲に追い撃ちをかける憂先輩も、
実は梓先輩をいじるのが割と好きだったりするのかもしれません。
「まーでも、今日の梓はちょっと新鮮だったね」
「何が?」
「だって、前は唯先輩のことちょっと褒めたと思ったら、
すぐにそれを打ち消すように文句言ってたじゃん」
「ん…まあ…」
「でも今日は文句を先に言ってから打ち消すように、
しかもいつもよりいっぱい唯先輩のこと褒めてたじゃん?
私らの前だと素直に褒めるのは照れくさいけど、
後輩たちには自慢したい気持ちが勝った、ってとこ?」
「…まあ、何だかんだでいい先輩だったし…」
「好きな人のことは良く思ってもらいたいもんねー。分かるよ、梓!」
「だから何でそうなるの!?別に好きじゃないって!」
「え?梓ちゃん、お姉ちゃんのこと嫌いだったの…?」
「そういうわけでもない!もう、分かってるくせに2人して!」
親友が2人とも援護してくれないどころかむしろ背後から撃ってくるような状況に、
ついには目尻に涙を浮かべながら必死に弁明する梓先輩。
軽音部を頼もしくまとめてくれるいつもの部長の姿はもはやなく、
そこにいるのはまるで、淡い想いを冷やかされて恥じらう、ひとりの恋する乙女のよう。
――いえ、もしかすると「まるで」ではなく…。
と、先輩方の様子が少し落ち着いたところで、
騒ぎの原因を作った張本人の友人が再び口を開きました。
「でも、梓先輩。そんな大好きな先輩と離ればなれになっちゃって、寂しくないですか?」
ああ、この子はどうしてそんなことを訊いてしまうのでしょう。
それは訊くまでもなく分かりきっていることだし、
訊いたところで梓先輩がそれを丸っきり素直に肯定するはずもないと、
さっきのリアクションを見れば想像できるのに。
「…確かに、最初はちょっと寂しかったけど、もう慣れた。だから大丈夫だよ。
それに、憂も純も、あんた達2人もいるしね」
梓先輩は、今度は顔を赤らめることも取り乱すこともなく、
穏やかに微笑みながらそう言ってくれました
(大好きなのは結局否定しないんですね、などと余計なことを言うのはやめておきました)。
だけど、私たちがいるから大丈夫だと言ってくれたのは嬉しいけれど、
でも「慣れた」というのは、やっぱり間違いなく嘘でした。
友人に訊かれた時、梓先輩がほんの一瞬だけ表情を強張らせて
言葉を詰まらせたことに私は気付いていましたし、
何よりその微笑みには、言いようのない寂しげな影がたたえられていたのですから。
そして、そんな梓先輩の様子を見ていた私の心には、俄然興味が湧きあがってきたのです。
あんな楽しそうに笑わせたり、こんな寂しそうにさせたり、
梓先輩の心をこれほどまでに左右し、これほどまでに魅了する「唯先輩」とは、
一体どんな人なのだろう、と。
せめて梓先輩が最初に惹かれたという演奏だけでも聴いてみたい、と思い訊いてみると、
演奏を録音したカセットや学祭ライブを録画したビデオがあるということで、
今度持ってきてくれると約束してくれました。
しかし結局、私はそれらを、少なくとも「唯先輩」を知る、
という目的で聴いたり見たりすることはありませんでした。
その後に訪れる出来事のおかげで、その必要はなくなったのですから。
あれから数日経った、ある日の
放課後。
いつもより大幅に早く帰りのHRが終わった私たちは、
まだHR中の他のクラスを尻目に早速部室へと向かいました。
きっと先輩方もまだHR中だろうから全員揃うまでしばらく暇かな、
まあ友人とおしゃべりでもしながらギターのチューニングでもして待とう――
その時の私はそんなことを思っていたのですが、結果的にその暇は、
予想外の出来事により、予想外の形で潰れることになりました。
そう、本当に予想外でした。
部室のドアを開けたら、髪を下ろした私服姿の憂先輩が、
ソファの上で横になって、ギターを抱えて眠っているなんて。
私に続いて部室に入った友人も驚きを隠せない様子。
なんで憂先輩こんな所で寝てるの?まだ帰りのHR中なのでは?
しかも髪まで下ろして寝る気満々ですか?
っていうかなんで校内で私服?なんでギター抱えてるの?
予想外すぎる光景に頭の中が大混乱でしたが、
そのこんがらかった思考回路に、やがてある一人の人物が引っ掛かりました。
一度も会ったことはないけれど、まつわるエピソードとか特徴はよく知っている――
数日前によく知ることになった、あの人。
落ちつきを取り戻し、すーすーと寝息を立てている「憂先輩」を改めて観察してみます。
憂先輩の寝顔を見たことがあるわけではありませんでしたが、
それでもやっぱり、その穏やかな寝顔はどう見ても憂先輩のものにしか見えません。
しかしそれは逆に、この人が憂先輩ではないと判断する材料の一つでもありました。
そう、ヘタな一卵性双生児すらも凌駕する勢いで憂先輩とそっくりで。
ふわふわしたクセ毛気味の髪、その前髪を2本の黄色いヘアピンで留めていて。
腕の中に抱えられた愛用と思しきギターは、
チェリーサンバーストに彩られた本物のレスポール・スタンダードで。
それらはすべて、梓先輩から聞かされていた通りでした。
そうか、そうなんだ。
この人が。
「唯先輩」――。
私がその名前を思わず口にした瞬間。
「ん…」
「唯先輩」の口から小さな声が漏れ、閉じていた瞼が薄く開きました。
すぐに閉じたかと思うと、ふわあ、と大きなあくびを一回。
再び目を半開きにして、のそのそと起き上がり、
抱えていたギターを膝の上に横たえながらソファに座ると、
ぐいっと伸びをして、それからあくびをもう一回。
その後もまだ眠そうに目をこすっている唯先輩に、私は声をかけてみました。
おはようございます、唯先輩。
「あ、うん。おはよー」
まだ半分寝ているようで、ちょっと気が抜けた感じで、
だけど甘くて柔らかくて、とても優しい。
そんな声で返事をした唯先輩は、そこで初めて私たちの方を見ました。
最初はとろんとした寝ぼけ眼でしたが、
何度かしぱしぱと瞬きをしながらこちらを見ているうちにだんだん目が覚めてきたようで、
次第につぶらで大きな瞳がハッキリ見えるようになりました。
そのまま無言で数秒間見つめ合う私たち。
ようやくぱっちりと開いた、その澄んだ瞳に思わず見とれかけたところで、
唯先輩はこてん、と首を傾げました。
「…だれ?」
まあ、そうなりますよね。
私たちは色々とお話を聞かされていたので唯先輩のことを知ってましたが、
実際にはこれが初対面ですから。
というわけで、友人ともども自己紹介。
「おお、なるほど。キミたちが新入部員ちゃんなんだね!2人ともかわいいねぇ~」
ふにゃっと緩んだ笑顔を見せる唯先輩。
顔立ちは憂先輩と瓜二つですが、そこに浮かべる表情は案外似ていない気がしました。
それにしても、本当に梓先輩のことを「あずにゃん」って呼ぶんだ、と、
ここでまたひとつ答え合わせ。
ついでに、かわいい女の子が大好きというのも本当のようです。
自分で自分のことをかわいいだなんて自惚れるつもりはありませんが、
友人は確かにかわいいと思いますし、
梓先輩はじめ軽音部の先輩方も唯先輩のお墨付きだそうなので信用してもいいかな、と。
ちょっと照れちゃいます、なんて思っていると、唯先輩が再び「あれ?」と首を傾げました。
「でも、なんで私のこと知ってるの?」
ああ、それはですね。
「梓先輩が、卒業された先輩方のこと色々話してくれたんですよ。
で、その話に出てきた『唯先輩』と特徴が一致したので…」
今度は友人が答えてくれました。
「へー、そうなんだ。でも一応自己紹介するね。
はじめまして!憂の姉で、あずにゃんの先輩の平沢唯です!
それから、この子はギー太!よろしくね!」
膝の上に寝かせていたレスポールを起こしてこちらに向ける唯先輩。
本当に「ギー太」って名前付けてるんだなぁ。
あれ、そう言えばあのレスポールを選んだ理由も「かわいいから」だと聞いたような。
…さっきの「かわいい」、本当に信用していいのかな…。
そんなことを考えていたところで、友人がおもむろに尋ねました。
「あの、ところで、唯先輩は何故ここに?」
「んー、今日入れてた講義が全部休講になって、いきなり暇になっちゃったんだよ。
友達は他の講義があったりして遊び相手もいないし、
しょうがないからお部屋でゴロゴロしようかなーとも思ったんだけど、
そう言えば軽音部どうなってるかなーって気になったから、
そのまま電車に飛び乗って遊びに来たんだ~。
でもちょっと着くのが早すぎたからここで待ってたら、眠くなっちゃって…」
えへへ、と頭をかきながら答える唯先輩。
思いついたからってそんなすぐに実行するとは、
何とも大胆な行動力というか、行き当たりばったりというか。
だけど、梓先輩は案外唯先輩のこういうところに助けられたりもしていたのかも知れません。
しかしもう一つの選択肢がお部屋でゴロゴロって。
しかも結局遊びに来たこの部室で寝てたわけですし、
ここまでで既に梓先輩から聞いていた通りのところが多すぎます。
逆に言えば、梓先輩は唯先輩のことよく分かりすぎです。
「ところでさ、2人はどうして軽音部に入ったの?
あずにゃん部長はどう?
今はどんなことやってるの?あっちでちょっと聞かせてよ」
今度は唯先輩から尋ねられ、私たちはいつもお茶をしているテーブルに移動し、
入部した経緯や、これまでの活動について話しました。
「そっかー、私たちの代とは違ってしっかりやってるんだね。さすがあずにゃん!…ねえ」
私たちの話を聞きながらうんうんと感慨深げに頷いていた唯先輩は、
聞き終わると少し真剣な面持ちになりました。
「2人ともありがとうね、軽音部に入ってくれて」
急に改まって言われたので少し戸惑っていると、唯先輩は続けました。
「聞いてると思うけど、今年は軽音部、あずにゃんひとりになっちゃうところだったんだ。
私たちがしっかりしてなくて、あずにゃんの後輩を入れてあげられなかったから…。
憂と純ちゃんが入ってはくれたけど、
それでも4人いないと廃部になっちゃうから、あずにゃんきっと不安だったと思うんだ。
真面目で責任感の強い子だから、もし廃部になったりしたら私たちにも申し訳ないって、
すごく責任感じちゃってたと思うんだよね。
そこにキミたちが入ってくれたおかげで、軽音部はちゃんと続けられることになった。
憂や純ちゃんもそうだけど、誰よりあずにゃんが一番安心したと思う。
だから、ありがとう。
軽音部に入ってくれて、あずにゃんの頑張りを受け止めてくれて…本当にありがとう」
そう言って、深々と頭を下げる唯先輩。そんな、かえって恐縮です。
頑張りを受け止めたとかそんな大層なものではなく、本当に単純に演奏に惹かれただけで…。
それに人数は揃いましたけど、
私たちみたいな後輩で梓先輩が本当に喜んでくれてるかどうか…。
「大丈夫。あずにゃんは2人みたいな後輩ができて、絶対喜んでる。私が保証するよ!」
ドン、と胸を叩く唯先輩。梓先輩のことなら何でも分かる、と言わんばかりに。
「分かるよ。あずにゃんのことなら、何でも。
離れてたっていつもあずにゃんのことを想ってるし、
想ってるから分かりたいと思うし、分かりたいと思うから分かるんだよ。
例えば…そろそろあずにゃんが私たちに会えなくて寂しがってる頃かな、とか。
そろそろあずにゃんが頑張り疲れしちゃう頃かな、とかね」
唯先輩は、何でもないことのようにそう語りました。
梓先輩が寂しそうだったのは確かにその通りですが、頑張り疲れというのは…?
少なくとも私には、入部した時から梓先輩の様子には変わりがないように見えました。
「そう?まあ、あくまでも私の想像だし、もちろん外れることもあるよ。
でもそれはそれでいいんだ。
私の想像通りのあずにゃんでも、想像以上のあずにゃんでも、どっちでも嬉しいからね」
何でも分かると言っていたのにいきなりそれを否定するようなことを言いましたが、
それはともかく、本当に嬉しそうにそう語る唯先輩を見てハッキリと分かりました。
唯先輩も、梓先輩のことが本当に大好きなんだ、ということが。
「そりゃもう、あずにゃんのことは大大大好きだよ!
2人も好きでしょ?だよねぇ、あずにゃんは本当にかわいいし、
しっかり者でいい子だし、いい部長、いい先輩になると思ってたんだよ~!」
一気にテンションの上がる唯先輩。
フンス、と鼻息荒く、私たちは何も言っていないのにどんどん一人で先走っていきます。
それにしても「大好き」ってものすごくあっさり言いますね。
口では絶対に唯先輩が大好きなことを認めようとしなかった梓先輩とは対照的です。
だからこそ梓先輩は唯先輩に惹かれたのかも知れませんが。
きっと梓先輩も去年まで直接言われまくったのでしょうし。
「あ、そういえばさ。あずにゃんが私たちのこと色々話してたって言ってたけど、
私のことはなんて言ってた?」
興味津々といった風に訊いてくる唯先輩。
しかし、梓先輩の語ったことは多すぎて、果たして何から話せばいいのやら。
とりあえず「文句」を言ってたことは黙っておこうかな…と思いました。
が。
「えーっと、まずは色々と文句言ってましたよ」
思ったことをすぐに口にしてしまう友人がまたしてもやらかしました。
少しは言おうかどうしようか考えるそぶりを見せてもよさそうなものですが。
この前の梓先輩の一件のあと私に叱られたというのに、懲りていないのでしょうか。
「え、あ…そ、そうなんだ…」
ああ言わんこっちゃない、唯先輩の顔が凍りついてしまいました。
何とか平静を装おうとしているようですが、口元が引きつっています。
そんな唯先輩の様子も顧みずに話を続けてしまう友人。
「はい、ちゃんと練習しなかったとか、ギターのこと全然知らなかったとか、
危なっかしくて目が離せなかったとか、しょっちゅう抱きつかれて大変だったとか…」
おいコラそろそろ自重しろ貴様、
という意を込めて友人をひと睨みして黙らせてから唯先輩の方を見ると、
案の定眉はハの字になり目には涙を浮かべて半泣き、完全にお葬式ムードです。
大先輩をここまで凹ませるなんて、なんと罰当たりな。
というかこの状態を梓先輩や憂先輩に見られたら私たちの身の危険が危ない気がします。
さすがにまずいと思ったのか慌てている様子の友人に、あとで覚えておけ、
という意味合いの視線を送ってから、私はフォローにかかることにしました。
――あの、唯先輩?
「ぐしゅ…なぁに?」
私、唯先輩のギターが聴いてみたいです。
「…ふぇ?」
せっかく「ギー太」も連れてきてるんですし、大先輩の演奏を聴かせてください。
「え…でも、私なんかよりあずにゃんの方が上手いよ?
さっきのは確かにショックだったけど、
あんまり練習しなかったのも、ギターのこと全然知らないのも本当だし…」
確かに梓先輩はそんなことも言ってましたけど、それと同じくらい、
もしかしたらそれ以上に、唯先輩のことたくさん褒めてましたよ?
「――え、ホントに?」
はい、本気になった時の演奏はとてもすごくてカッコよかったとか、
いざという時は頼りになる人だったとか、
抱きつかれるのだって本当はそこまでイヤじゃなかったとか、
一緒にいてすごく楽しかったとか、もう数え切れないくらいに。
それに、さっきのだって言葉だけ聞けば文句ですけど、
話してくれた時の梓先輩は思い出話をしてる感じで、とても楽しそうでしたよ。
「ホントに?ホントにそうなの?」
ホントです。だから、梓先輩が惹かれたという唯先輩のギターを、是非聴いてみたいんです!
「そっか…。えへへ、そっかぁ…あずにゃんそんなこと言ってたんだ…えへへへへ。
うん、完全復活!今ならいい演奏ができそうだよ!」
落ち込んでいたのが嘘のように瞳を輝かせる唯先輩。
気分屋で、少々凹んでもちょっとしたことですぐ立ち直ると梓先輩から聞いていたので
それを参考にフォローしてみたのですが、どうやら上手くいったようです。
もっとも、唯先輩のギターを聴いてみたいというのは、
ギタリストの端くれとしての私の本心でもありましたが。
すっかり元気を取り戻した唯先輩は、それじゃ準備するね、と足取りも軽く
「ギー太」のところへ向かい、手に取って構えると、何度か軽く開放弦で鳴らしました。
「うん、チューニングもバッチリだね!」
えっ、今ので分かるんですか?ああ、そういえば絶対音感持ちでしたっけ。
「あとは持ってきたカセットをセットして…よし、準備おっけー!
――そういえば、あずにゃんたちはまだ?」
「あ、はい。私たちのクラスは早めにHRが終わっただけで、先輩たちはまだHR中かと…」
「そっか…じゃあ」
友人の返答を聞いて、唯先輩はその大きな瞳に少しいたずらっぽい色を浮かばせました。
「教室にいるあずにゃんにも聞こえるくらい、大音量でいっちゃおうかな――。
それではお待たせしました、『放課後ティータイム』平沢唯の凱旋ソロライブ、開幕!
聴いてください、『ふわふわ時間』!」
唯先輩がそう言って、他の先輩方や梓先輩との演奏が
録音されているというテープをセットしたラジカセのボタンを押し、
そこから流れてきた曲に合わせて「ギー太」を弾き始めた瞬間。
大げさではなく世界が変わり、私はその世界に、その一瞬で惹き込まれていました。
ああ、なるほど。
これが、最初に梓先輩を惹きつけた、唯先輩の奏でる世界。
力強くて、でもどこかふわふわしている、不思議な音色。
そこに被さる、甘くて柔らかくて優しい、澄んだ歌声。
心の底から演奏を楽しんでいることが伝わってくる、とびきりの笑顔。
信じられないくらいにエモーショナルで、聴き手の心を直接抱き締めるようで。
気持ちが高揚してきて、楽しくなって、身体が熱くなっていく――。
しばらく聴き惚れてから、努めて冷静になってその演奏をよくよく分析してみれば、
ひとつひとつのストロークの精度やリズムキープの正確さなどは、
キャリアの差もあってか梓先輩の方に分があるように感じました。
けれど、並のギタリストでは足元にも及ばないほどの演奏技術を誇る梓先輩でさえ、
きっとこんな世界を再現することはできないでしょう。
他ならぬ梓先輩自身が「他の誰にも真似できない」と表現したように。
そう考えている間にも、唯先輩の音は私を再び恍惚の海へ引きずり込もうとします。
小難しいことを考えるだけ無駄だよ、気の向くままに楽しもう、と語りかけるように。
その声に誘われるがまま、どんどん思考能力を手放していく中で、
私の中にギタリストとしての衝動が生まれました。
今すぐにでも自分のギターをケースから取り出して、その演奏に混ざりたい、と。
きっと、この人とギターを弾くのは素晴らしく楽しいはずだから。
けれど僅かに残った冷静さがすぐに、それはできない、と思い直させました。
キャリアはほぼ同じはずなのに、唯先輩のその音に私はついていけそうにない…
それももちろん理由の一つですが、それ以上に、分かっていたのです。
唯先輩がこの音を本当に聴かせたい相手は、共に奏でたい相手は誰なのか。
誰を想って「ギー太」をかき鳴らしているのか。
だから、この音に寄り添うべきギターの音はただひとつで。
この人の隣にいるべきギタリストはただひとりだけなのです。
そう、それは――。
最終更新:2011年05月10日 22:59