「――唯先輩っ!!」

「ふわふわ時間」の2番が終わったちょうどその時。
バン、と大きな音を立てて乱暴に部室のドアが開かれると同時に大声で叫ばれ、
私と友人は驚いて振り返りました。
唯先輩もさすがに少し驚いた様子で演奏をストップさせましたが、

「――あずにゃん、おひさ♪」

血相を変え、すっかり息を切らせて部室に飛び込んできたその人物
――梓先輩の姿を確認すると、ピースサインをしながら顔をほころばせました。

「唯…先輩…なんでいるんですか…」

よほど急いで来たのか未だ呼吸が落ち着かない梓先輩は、
笑えばいいのか怒ればいいのか、はたまた泣けばいいのか分からないといった様子で、
そのどれも抑え込もうとして抑えきれずに少しずつ入り混じったような、
とても複雑な表情を浮かべていました。

「いきなり暇になっちゃったから遊びに来たんだよ~♪
 あずにゃん、私の演奏、ちゃんと分かってくれたんだね」
「…当たり前です。私が、唯先輩の音を聞き間違えるわけがないじゃないですか…!」

あっけらかんと言う唯先輩に、
梓先輩は今にも泣き出しそうな笑顔で言いました。
しかし零れ落ちそうな何かを誤魔化そうとしたのか、すぐに「きっ」と眉を吊り上げます。

「…じゃなくて!
 まだほとんどのクラスでHR中なのにあんな大音量で演奏して、何考えてるんですか!」
「いやー、あずにゃんにも聞こえるかな、と思って…」
「確かに聞こえましたけど、少しは迷惑ってものを考えてください!怒られますよ!」
「もう卒業したからモウマンタイ!」
「大問題です!在校生に卒業生が迷惑かけてどうするんですか!
 まったく、大学生になったんですからもう少し自覚ってものを…!」
「もー、久しぶりに会ったのにあずにゃんのいけずぅ。そんな子には…こうだっ!」
「にゃあっ!?」

いきなり、唯先輩が梓先輩にがばっと真正面から抱きつきました。
なるほど、これが噂の唯先輩の抱きつき…。
しかし梓先輩、「にゃあっ」っていうリアクションはどうなんですか。
だから「あずにゃん」って呼ばれるのでは…。
なんて思ってるうちに頬ずりモードに突入している唯先輩。
評判に違わぬスキンシップの激しさです。
でも、唯先輩のあのぷにぷにしたほっぺたはちょっと気持ちよさそうです。

「あずにゃん分補給~♪」
「ちょっ!や、やめてください!後輩の前で恥ずかしいです!」
「やーだ。せっかくあずにゃんが寂しがってると思って会いに来たのに、
 あずにゃんってば怒ってばっかりなんだもん。少しは素直になりなさい!」
「誰のせいですか!っていうか、寂しがってなんかいません!」
「え~、ホントにぃ~?」
「っ…ほ、本当ですっ!」
「ふ~ん…まあいいけどね。
 後輩ちゃんたちにも私のあることないことしゃべってくれちゃったみたいだし、
 お詫びとしておとなしくあずにゃん分補給させたまえ!」
「あることないことって、私はあったことしか話してません!いいから離れてください!」
「もう、つれないんだから…ねえ、あずにゃん?」
「…何ですか?」

しばらく抱きあったまま――パッと見は唯先輩が一方的に抱きついているようでしたが、
梓先輩も口では文句を言いながら、その実嬉しそうに頬を染めつつ、
ごくごく控えめに唯先輩の背中に手を回していたのを私は見逃しませんでした――
言い合いをしていた2人でしたが、唯先輩が急に改まったように名前を呼び、
強がっていた梓先輩も、それを不思議に思ってか語気を弱めて返事をしました。

「大きくなったね、あずにゃん」
「…はい?」

その腕に抱き締めたままの梓先輩の頭を優しく撫でながら唯先輩が言った言葉は、
どちらかというと田舎のおばあちゃんが久々に会った孫に言う定型文のようで、
約1ヵ月ぶりに会った後輩に言うものとしてはいささか的外れなように感じました。
梓先輩もそれは同じだったようで、少し呆気にとられたような様子。

「大きくなった、って…そんなすぐに身長は伸びませんよ」
「違うよ、そういうことじゃなくてさ」

怪訝そうな梓先輩の声に、唯先輩は軽く首を横に振りました。

「さっき入ってきた時、あずにゃんが大きく見えたんだよ。
 それはきっと、ひとりきりにさせちゃって色々と大変だったはずなのに、
 新勧ライブをバッチリ成功させて、新入生を2人も――私たちの倍も入れて、
 そうやってちゃんと部員を揃えて、軽音部を続けさせた
 ――ううん、新しい軽音部を立派に作り上げた、頼もしい部長さんの姿だったんだね」

唯先輩に言われて梓先輩は一瞬ハッとしたような表情を見せましたが、すぐに俯いてしまい、
そして呟くようなか細い声で、唯先輩の言ったことを否定しました。

「…それは、唯先輩の気のせいです」
「ふぇ?」
「私は、全然頼もしくなんかないですよ。
 部員が揃ったのは憂と純が自分から入ってくれたからで、
 新勧だってあの2人がいたからどうにかなったんです。
 普段だって、憂は人当たりが良くて何でもできるし、
 純は私なんかよりずっと後輩との接し方に慣れてて…。
 私は分からないことだらけで、色々手探りで、
 部長としてちゃんとやれてるのか、どうすればいいのか…全然分からなくなって…!
 受験生になるタイミングで入ってくれた憂、ジャズ研から移ってくれた純、
 入部してくれた後輩たち…みんなのためにも頑張らなきゃいけないのに…!
 先輩たちの大切な軽音部を、ちゃんと守らなきゃいけないのにっ…!」

梓先輩の声と身体は、途中から震えていました。
思いがけず露わになった、その胸の内に抱えていた悩み、不安。
それは、私たちにはその存在を今まで欠片ほども感じさせなかったもので、
だから突然梓先輩の口から吐露された言葉には、驚きと戸惑いを感じました。

「あずにゃん」

唯先輩は最初こそ僅かに驚いた様子を見せたものの、すぐに慈愛に満ちた微笑を浮かべると、
未だその腕の中にある梓先輩の身体をより力強く自らの身体に引き寄せ、
それまでよりもしっかりと包み込みました。
梓先輩はそれに抵抗する事はなく、むしろ自らの両腕をさっきまでよりもあからさまに
唯先輩の背中に回し、自分より僅かに背の高いその身体に縋りつきました。

「大丈夫。あずにゃんは立派な部長さんだよ」
「…適当なこと言わないでください、まだ活動の様子も見てないのに…」
「適当なんかじゃないよ。ちゃんと分かるよ。
 だって私は2年間ずっと、あずにゃんのことを見てきたんだから」
「唯…先輩…でも…」
「憂と純ちゃんが軽音部に入ったのは、あずにゃんの強い想いがあったからだよ。
 軽音部を想うあずにゃんの真剣な気持ちが2人を動かしたんだよ。
 それに、後輩ちゃんたちがライブに感動して入部してくれたのだって、
 演奏を通じてあずにゃんの想いがあの子たちの心に伝わったからだよ。
 あずにゃんの想いこそが人を集めて、それで今の軽音部が出来上がって。
 私たちの軽音部から『あずにゃんの軽音部』になって、ちゃんと守られてる。
 だからこの軽音部の部長さんにふさわしい人は、あずにゃん以外にはいないよ!」
「そう…でしょうか…」
「そうだよ。それに、さっき後輩ちゃんたちも話してくれたよ。
 あずにゃん部長はすごくよくしてくれる、って。
 優しくて面倒見もいいし、しっかり者でギターも上手いし、
 部員全員のことをいつもよく考えてくれてる、とっても素敵な部長さんだって。
 だから、何も心配はいらないよ」

梓先輩は縋りついていた腕の力を少し緩め、唯先輩との間に少し隙間を作ると、
その目に涙をいっぱいに溜めながら唯先輩の顔を見上げました。

「唯先輩…それじゃ、それじゃ私は…ちゃんと頑張れてるんですか…?」
「むしろ頑張りすぎ…かな。色々と余計な不安まで抱え込んじゃってるみたいだよ?」
「うう…だって…」
「あずにゃんは真面目で頑張り屋さんだもんね。
 大丈夫だよ。憂も純ちゃんも、後輩ちゃんたちも、
 りっちゃんも澪ちゃんもムギちゃんも――もちろん私も、みんなちゃんと分かってるから。
 だからね、まずはあずにゃんの頑張りを、あずにゃん自身がちゃんと認めてあげなきゃ。
 頑張って、でも頑張りすぎずに、自信をもって、胸を張ってね」
「…はい…」
「それでも自信がなくなったら、憂や純ちゃんに頼って。
 それでもまだ心配なら、後輩ちゃんたちの笑顔をちゃんと見て。
 それでもまだまだ、どうしようもなく不安なら…いつでも私たちを、私を呼んでね」
「唯先輩…ゆいせんぱぁい…!」

ついに抑えきれなくなって、再び唯先輩にしがみつく梓先輩。
その様子を見ながら、私は今更ながらに気付かされました。
結局、唯先輩の言う通りだったことに。
私たちのために頑張ってくれている梓先輩が、その裏で人知れず抱えていたものに。
いくら丸くなったと言っても、人の性質はそう簡単に変わることはなくて。
廃部の心配が消えてもなお梓先輩の不安が減ることはなく、
本質的に真面目で律儀な梓先輩の心には、また別の不安が生まれていたのです。
それはしんしんと降る雪のように少しずつ梓先輩の心に積もり、
いつの間にか抱えきれないほどの重さになりつつあったのでしょう。
私たちには…もしかしたら憂先輩や純先輩にも決して見せないように
日陰に隠し通されてきたそれを、唯先輩はいとも簡単に引き出し、暖かく照らしたのです。
だから、雪が暖かい春の日差しに溶かされ、水になって流れ、消えていくように。
梓先輩の不安は唯先輩の温もりに溶かされ、その目から流れ、消えていったのでしょう。
きっと、こんな風に梓先輩を溶かすことができるのはこの人――唯先輩だけ。
そうか、だから梓先輩は、この人のことが――。

「よしよし、あずにゃん泣かないでー。後輩ちゃんたちが見てるよー?」
「ぐすっ…唯先輩のせいですよぉ…」
「ふふ、そっかそっか。ごめんね♪」
「んにゅ…」

唯先輩に抱かれ、頭を撫でられ、気持よさげにうっとりと目を閉じる梓先輩。
その姿はまるで大好きな飼い主に、或いは母猫に甘える子猫のようで。
唯先輩が命名した「あずにゃん」というあだ名は、やはりピッタリな気がしました。
梓先輩にそれを言ったら怒られるだろうけど…。
と、そんなことを思っていたところで。

「やれやれ。HR中にギターの音が聞こえてきた瞬間そわそわし始めて、
 HR終了と同時に掃除当番を私に押し付けてものすごい勢いで教室を出てったかと思ったら、
 案の定大好きなご主人様にゴロゴロ甘えてたってわけね、この猫は」
「やっぱりお姉ちゃん来てたんだ♪よかったね、梓ちゃん♪」

純先輩と憂先輩がようやく現れました。
純先輩はニヤニヤ笑いながら、遠慮なしに梓先輩を猫扱い。
憂先輩もニコニコとなんだか嬉しそうです。
どうでもいいですが、やっぱり唯先輩と憂先輩はそっくりです。

「あっ!憂、純ちゃん!おひさー♪」
「…んなっ!?ふっ、ふふふ2人ともいつの間に!?っていうか誰がご主人様よ!」

いきなり声をかけられ我に返った梓先輩は、顔を真っ赤にして慌てました。

「つい今しがただけど、まあこんな事だろうと思ってたよ。
 唯先輩、お久しぶりです――にしても、さすがですね、唯先輩は」
「ふぇ?」
「私たちがそろそろ梓ちゃんに言ってあげなきゃって思ってたこと、
 お姉ちゃんが先に言っちゃったみたいだね。ずるいなぁ」
「ふふふ。憂よ、こういうのは早い者勝ちなのだよ!」
「それにしたってタイミングが絶妙すぎですよ」
「…え?私に言うことって…え?」
「――ね、だから言ったでしょ?あずにゃん」

きょとんとした表情の梓先輩。
なるほど、確かに唯先輩の言った通り、憂先輩や純先輩もちゃんと分かっていたようです。
親友だから当然といえば当然で、だから、もし唯先輩が今日ここに来なくても、
きっと遅かれ早かれ憂先輩や純先輩が梓先輩の不安を取り除いていたのでしょう。
けれど。

「でもまあ、良かったんじゃない。唯先輩に言ってもらうのが、梓には一番だろうからね」
「うん、それは間違いないね」
「ちょっと純、憂、それどういう意味?」

私も純先輩に同感でした。
言葉というものは、内容が同じでも誰が言ったかで受け手の感じ方はまるで変わるもので。
梓先輩にとっては、唯先輩にそれを言ってもらうことが、きっと一番の救いだったはずです。
だから、講義が休講になって暇だから遊びに来たと唯先輩は言っていたけど、
もし休講にならなくても、全てを見通してここに来ていたんじゃないか、なんて。
それは考えすぎかも知れないけど、それでもそんな風に思ってしまうのでした。

「さーて、それじゃ全員揃ったし、唯先輩も来てることだし、早速お茶にしますか!」

話も一段落したところを見計らって、純先輩がいつもの部活の始まりを宣言しました。

「ティータイムかぁ。私もお邪魔していいのかな?」
「もちろんだよ、お姉ちゃん」
「ぜひぜひ、むしろ積極的にお邪魔してってください!」
「――あ、あのっ、唯先輩っ!」

憂先輩や友人が唯先輩をお茶に誘う中、何か落ち着かない様子でいた梓先輩が、
意を決したように唯先輩を呼びました。

「なに?あずにゃん」
「あの…そのっ…もし唯先輩がよければっ、ですね…お茶の前に…」

気持ちが逸って言葉がついてこないといった様子で、どこかもどかしそうに話す梓先輩。
そのほんのり上気した顔を見て、唯先輩は全てを理解したように「にっ」と笑いました。

「――お茶の前に、一曲いっとこうか?」

唯先輩の言葉を聞いた梓先輩は、その顔をぱあっと明るく輝やかせて。

「――はいっ!」

力強く返事をしました。


「準備はいいかな?あずにゃん」
「OKです。いつでもいけますよ」

梓先輩と唯先輩、2人のギタリストだけのライブが始まろうとしています。
メンバーが揃っているのだから皆で全てのパートをやればいいのに、
と思われるかもしれませんが、今あの2人の間に割り込むのは野暮だろう、
というのがその場にいた全員の総意だったことは想像していただけると思います。
それに、私個人の希望としても、この時ばかりは純粋に聴き手に回りたいと思っていました。
お互いにお互いが大好きな2人のギタリストは、どんな音を奏でるのか。
それを、ただ純粋に聴いてみたかったのです。

「――それじゃ、行くよ!もっかい『ふわふわ時間』!」

ああ、これは――すごい。
唯先輩の掛け声と共に始まった演奏は、
さっきの唯先輩のソロよりも更に強烈な衝撃を伴って私に襲いかかってきて。
私の貧弱な語彙では、それはもう本当に「すごい」としか表しようがないものでした。

まず何より驚いたのは、今までに見たことも聴いたこともないような梓先輩の演奏。
これまで私は、梓先輩の演奏はカッチリとした精度と安定感こそが特徴だと思っていました。
そういった先入観をもって見ると、今の梓先輩の演奏はとても激しくて、ラフで、
正確さという点ではむしろ普段よりも欠けているようにも感じられます。
だけど、その音は今までに聴いた梓先輩のどんな演奏よりも情熱的で、魅力的で――すごい。
私の心に直接飛び込んでくるかのように鳴り響き、身体を過熱させていきます。
喜びに打ち震えるかのように甲高く鳴く梓先輩のムスタングの音色は、
その通り梓先輩の心境をそのまま映し出しているのでしょう。
それを何より証明しているのは、その姿。
満面の笑みで、小柄な身体とトレードマークのツインテールを揺らしながら、
愛用のムスタングを激しくかき鳴らす梓先輩。
こんなに楽しそうで嬉しそうにギターを弾く梓先輩を見るのは初めてでした。
私はもちろん、世界のどんなギタリストでも、きっと梓先輩をこんな風にはさせられない。
こんな梓先輩を引き出せるのは、ただひとり――。

そこで目をやった唯先輩の演奏も、さっきよりも更にすごいことになっていました。
あのエモーショナルさはそのままに、演奏のキレがさっきよりも断然増していて。
そしてこちらもやはり、「ギー太」に自らの喜びを代弁させつつ、
自らも全身でそれを表現していたのでした。

そして、2人の音は絶妙に絡み合っていきます。
唯先輩が少し突っ走り気味で危なっかしい感じになれば、梓先輩が窘めるように支えて。
サビで盛り上がるところでは、もっと強くいこう、と唯先輩が梓先輩を引っ張って。
それはまさしく、2人の関係そのものでした。
お互いの音が寄り添って、鳴るべき場所で鳴っていて。
お互いが寄り添って、いるべき場所にいるんだと。
誰もが絶対にそう感じるであろうほどに、
2つの音は、2人は、絶妙のハーモニーを奏でていて。
その音色は、その姿は、私が知るあらゆるものの中で最も美しいものに感じられました。

しかし、その演奏は間違いなく素晴らしいもので、私は間違いなくそれに感動しているのに。
一方で私は、何とも言えない微妙な、悔しさに似たものを感じてもいました。
それがどこから来るのか、すぐに気付きました。
今、最高のライブで魅せてくれている2人のギタリストは、
その実、私たちにその演奏を聴かせようとしてくれてはいないのです。
彼女たちが聴かせたい相手は、自分の隣でギターを弾く人、たったひとりだけ。
その人のためだけに奏でられた最高の音の、
言わばおこぼれを私たちはもらっているに過ぎないのです。
だからこの演奏の神髄は、演奏している当人たちにしか感じ取ることができなくて。
この2人のギタリストだけのライブは、本当に「2人のためだけ」のライブで。
「ふわふわ時間」の歌詞にあるように、まさしく「2人だけのDream Time」で。
そこに他の誰も入り込む余地はないのです。
これだけ感動させられているのに、それは自分たちに向けられたものではないという皮肉。
それが、ほんのちょっとだけ悔しかったのです。

けれど、全然悲しくはなくて。
2人が分けてくれる感動や心地よさの方が、そんなものよりもずっとずっと大きくて。
だから、気がつけば私は、気持ちのいい音の中で、気持ちのいい涙を流していました。


4人の盛大な拍手の中で梓先輩と唯先輩の演奏も無事終わり、その余韻も覚めやらぬまま、
待ちに待った…と言うと梓先輩に怒られそうですが、ティータイムになりました。

「あれ?あずにゃん、今は前に私の席だったところに座ってるんだね」

いつも通りの席についた梓先輩を見て、唯先輩が指摘しました。
なるほど、私が入部した時から梓先輩はそこに座っているので
てっきりそこが定位置だったのかと思っていましたが、元・唯先輩の席でしたか。

「え?あ!?しまっ…」
「…ほほう、梓がいつも座っている席にそんな秘密があったとは知らなかったなぁ」

また梓先輩をいじるネタになりそうな情報を手に入れた純先輩はとても嬉しそうです。

「違う!別に唯先輩の席だったからってワケじゃなくて!
 その…そう、ここの方が色々と都合がよかったの!」
「まあそりゃ、梓にとっては都合がいいよね。元・唯先輩の席なんだし?」
「だぁかぁらぁ~、そうじゃなくってぇ!」
「みんな、お茶が入ったよ~」

憂先輩がお茶を運んできて話が中断され、梓先輩は安堵の表情を浮かべました。
純先輩は少し物足りなさそうでしたが。

「あ、そうそう。みんなにお土産があるんだよ~」

唯先輩はおもむろに立ち上がると自分の荷物を漁り、箱をひとつ取り出しました。

「大学の近所にあるお菓子屋さんのシュークリームなんだ。おいしいんだよ~」
「おお、さすが唯先輩!」
「そんな。唯先輩、お土産なんていいのに…」
「いいのいいの。後輩は先輩の好意を素直に受けるものだよ、あずにゃん」
「はあ、それじゃお言葉に甘えて…」
「それじゃ開けるよ…あれ?」

箱を開けた憂先輩が頭に?マークを浮かべました。

「お姉ちゃん、なんで5個しかないの?」
「ふぇ?だって憂とあずにゃんと純ちゃんに、後輩ちゃんが2人で5人でしょ?」
「…自分の分は?」
「……あ」

どうやら唯先輩は、自分を勘定に入れ忘れるというベタな失敗をやらかしたようです。
梓先輩が言うほど天然ボケという感じではないと思っていましたが、ここに来て炸裂です。
唯先輩は涙目で、すっかり意気消沈といった様子。
さっきあんなカッコよくギターを弾いていたのと同じ人とは思えないしょぼくれっぷりです。

「お、お姉ちゃん、私はいいから食べなよ…」
「ううん、いいよ…これはみんなのために買って来たんだし…
 私はどうせあっちに帰ればすぐ買えるんだし…大丈夫…ハハ…ハハハ…」

あんまり大丈夫そうには見えないんですが…。
そこで梓先輩が見かねた様子で口を開きました。

「もう。唯先輩、私のを半分あげますからそんな顔しないでください」
「いいよ、あずにゃん…遠慮しないで…私は我慢できるから…大丈夫だから…」
「そんな思いっきり凹んだ様子を見せられて大丈夫とか言われても説得力ありません。
 ほら、どうぞ」

梓先輩はシュークリームを器用に半分にちぎって、
クリームが零れ落ちないよう気をつけながら、そのうちの片方を唯先輩に差し出しました。

「あ、あずにゃん…ごくり。うう、でも…」
「ああ、もう!私ダイエット中だから、むしろ半分でちょうどいいんです!」
「梓ちゃん、そうだったっけ?初耳だけど」
「っ、そうなの!今日から!」
「でも、昼は普通に食べてたじゃん?」
「きょっ、今日の午後からなの!うん!」
「ふぅん…私はてっきり唯先輩と半分こしたいだけかと思ったわ。
 ひとつのシュークリームを分け合って、愛情も分け合って…ってね」
「そっ、そんなんじゃないもん!」

またしてもからかってくる純先輩に顔を真っ赤にして反論する梓先輩。
まあ、私もなんとなくそんな感じじゃないかとは思ってましたけどね。
気がつけば唯先輩はそんな梓先輩を見て、笑顔を取り戻していました。

「そっか、あずにゃんダイエット中なんだね。それじゃ半分いただくよ」
「はい、どうぞ」
「それじゃ…あ~ん♪」

あんぐりと大きく口を開ける唯先輩。どうやら食べさせてほしいようです。
そんなことをしても、梓先輩は人前じゃ恥ずかしがってやってくれないと思いますが…。

「はい、唯先輩あ~ん♪」

えっ、やるんですか!?

「…って、何やらせるんですか!自分で食べてくださいよ!」
「え~、あずにゃんがしてくれたら私もあずにゃんにあ~んしてあげようと思ったのに…」
「……け、結構ですっ!」

今ちょっと考えましたよね、梓先輩。

「ちぇ~、あずにゃんのいけずぅ」

口を尖らせ文句を言いながら、梓先輩からシュークリームの片割れを受け取る唯先輩。
すぐにそれをおいしそうに平らげましたが、口元にクリームがついてしまっています。

「唯先輩、口元にクリームついてますよ」
「え?どこどこ?あずにゃん拭いて~」

甘えた声で言う唯先輩。さっき「あ~ん」を断られたのにまたそういうお願いをしますか。
懲りない人というかなんというか…。

「もう…しょうがないですね、唯先輩は」

しかし梓先輩は、今度は唯先輩のリクエストに応えました。
「あ~ん」を断って拭き拭きは応えるという基準がよく分かりませんが、
しょうがない、と言いつつ嬉しそうな梓先輩。
拭いてもらっている唯先輩も、少しくすぐったそうで、とても嬉しそう。
何でしょう、このバカップルっぽい雰囲気。
いや、もう「ぽい」んじゃなくてそのものという気がします。
先輩と大先輩に向かってバカはどうかと思いますが、どう見ても2人はバカップルです。
もっとも、見ている私たちまで頬が緩んでしまうような微笑ましさを感じさせるのは
普通のバカップルとちょっと違うところかもしれません。
憂先輩も、純先輩も、友人も、そして私も、みんな笑顔で2人を見守っていました。

そこではた、と思い当たったこと。
最初に梓先輩が唯先輩のことを語ってくれた時のこと。
あの時梓先輩は唯先輩の文句を言いながらも楽しそうに笑っていて、
それは唯先輩のそういう部分でさえも楽しい思い出だったからだと思っていましたが。
何のことはありません、もっと単純なことでした。
あれは愚痴に見せかけた「ノロケ」だったんですね。

「それにしても、後輩ちゃんたち2人ともかわいいよねぇ。
 あとでちょっとぎゅーってさせてもらおうかなぁ♪」

お菓子もほとんど食べ終えたころ、お茶をすすりながら唯先輩が言いました。

「ダメです!!」

冗談めかして言った唯先輩の言葉に、即座に強い口調で反応したのはやっぱり梓先輩。

「えー、なんでぇ?」
「なんでじゃありません!後輩たちに迷惑かけないでください!」

口ではそう言ってはいますが、本心は多分、いえ間違いなく…。

「梓、ヤキモチぃ?」
「違っ、私はただ後輩たちのことを思って…!」

必死で反論する梓先輩を見て、友人はいたずらっぽい笑みを浮かべました。
何かよからぬことを思いついたようです。

「梓先輩、大丈夫ですよ。私、ちょっと唯先輩にぎゅってされてみたいですし」
「だ、ダメ!甘やかすとロクなことにならないんだから!」

まったく先輩をからかうなんていけない子です。止めなかった私も私ですが。
梓先輩のリアクションが個人的にちょっと面白くて、
申し訳ないと思いつつ見たくなってしまうのです。

「あー、そういえば私も久しぶりに唯先輩に抱きつかれたいかなー?」
「ちょっ、純まで!ダメだってば!」

純先輩のあからさまな冗談にまで必死になって、なんだか可愛らしいです。
そんな梓先輩を見て、私もちょっと悪戯心。

私も唯先輩に抱き締めてもらいたいかもです。

…ああ、梓先輩。そんないっぱいに涙を溜めたジト目でこちらを睨まないでください。
なんだかキュンキュンしちゃいます。

「ちぇー、じゃああずにゃん抱きつかせてよー」
「!も、もう、しょうがないですね。後輩や親友に迷惑はかけられませんから。
 でも私だから許すんですよ。抱きつくのは私だけにしてくださいね?」

最後にサラッと本音が漏れてましたよ、梓先輩。
ちなみに、憂先輩は一連のやり取りをニコニコ笑いながら見ているだけでした。
さすがに実の妹が立候補したら、梓先輩もそれを止める術がないでしょうからね。


楽しい時間はあっという間に過ぎ、下校時刻。
唯先輩もそろそろ大学の寮に戻らなければならないということで、
夕日に照らされたオレンジ色の正門前でお別れの挨拶です。

「今日は楽しかったよ。みんなありがとね!」
「こちらこそ素晴らしい演奏を聴かせていただき、ありがとうございました!」
「また来てね、お姉ちゃん」
これからも憂と梓に会いに来てやってくださいね。――ほら、梓」
「…唯先輩、その…たまにはOGとして、活動の様子を見に来てくれてもいいですよ」
「ったく、あんたって子は…素直に『また私に会いに来てください』って言えないの?」
「別にそんなことっ…!」

またムキになりかけた梓先輩の頭に、唯先輩はポンと手を載せ、優しく撫でました。

「大丈夫だよ、あずにゃん。また遊びに来るから。今度はりっちゃんたちもね。
 だから、そんな寂しそうにしないで?」
「…寂しくなんかないです」

そう弱々しく否定する梓先輩の顔に、
「寂しい」と大きく書かれているのが見えるような気がしました。
いくら楽しい時間を過ごしても、いえ、楽しかったからこそ、
大好きな人とのお別れの時は切なくなるもので。
それを寂しがるなという方が無理というものでしょう。

けれど、最後にそれを打破する隠し玉を、どうやら唯先輩は取っておいたようです。

「――そうそう、あずにゃん。さっきりっちゃんからメールが来てたんだけどね。
 あずにゃんにも伝えてほしいって」
「はい?」
「再来週の土曜日は暇かな?」
「はい、特に用事はないですけど…」
「よかった。じゃあ決まりだね!」
「何がですか?」
「その日に久々にHTTのメンバーで集まって練習しよう、ってメールだったんだよ」
「ほ、ホントですか!?」

梓先輩の顔に再び光が差すのを見て、にっこり微笑む唯先輩。

「うん。それで、大学の近くのスタジオを予約したらしいんだけどね。
 あずにゃん、あっちの方の道とか途中の交通手段とか、よく分からないでしょ?」
「確かにそうですけど、それくらい調べれば…」
「まあまあ。それでさ、私、その前の日の夕方に一度こっちに帰ってくるつもりなんだ。
 だから――あずにゃんもその日の夜はウチにお泊まりして、
 次の日の朝、私と一緒にあっちに行くってのはどうかな?」

唯先輩のその提案を聞いた時に梓先輩が見せた表情の輝きぶりを、どう表現すればいいのか。
梓先輩の周りにだけ星屑が散らされたのかと錯覚するほどだった、とでも言っておきます。

「し、しょうがないですね。唯先輩の道案内というのが少し不安ですが、
 せっかくの提案ですし、唯先輩がどうしてもって言うなら…」
「あーずーさー、あんたいい加減にしなさいよ」
「うっ…その…是非、よろしく…お願いします…」
「お願いされました!」

相変わらず素直ではない梓先輩でしたが、純先輩にさすがに窘められてしまい、
ぎこちないながらも唯先輩の提案を受け入れました。
ともかく、これでお泊まりイベント決定。よかったですね梓先輩。
といっても憂先輩もいるので、滅多なことは起こらないと思いますが。
――いやいや滅多なことって、何を考えてるんでしょうね私は。

「それじゃ、2週間後にまた会いに来るからね!あずにゃん!」
「はい!待ってます!」

梓先輩とそう言葉を交わして、私たちにもひとことずつ挨拶をしてから、
何度か振り返っては手を振りながら、唯先輩は夕暮れの中を去っていきました。
やがてその姿が見えなくなっても、余韻に浸っているのか
唯先輩が歩いて行った方を見つめたまま立ち尽くしていた梓先輩に、
しばらくしてから私は声をかけました。

梓先輩、唯先輩って素敵な人ですね。

「へ?ああ、うん。まあ結構変わってる所はあるけど…でも、いい人でしょ?」

梓先輩が好きになった理由がよく分かりました。

「好っ…!?な、何を…」

大好きなんですよね?梓先輩は、唯先輩のことが、誰よりも。

「…っ」

夕日の中でもハッキリわかるくらいに真っ赤になった梓先輩は、
顔を強張らせると押し黙ってしまい、
恥ずかしさを誤魔化すようにぷいっと斜め下の方を向いてしまいました。
しかしすぐに表情を緩め、再びこちらの方を向くと。

「――うん!」

少しはにかんだような最高の笑顔で、力強く答えてくれたのでした。

END




  • 最高だったぜ… -- (柚愛) 2011-05-19 01:39:53
  • 俺のニヤニヤが限界突破した -- (名無しさん) 2011-06-01 02:26:38
  • 公式の要素が全て押さえられているのが素晴らしい。 -- (名無しさん) 2011-07-12 18:50:42
  • 公式でこんな後日談を用意してたなんて…

いや、そう思わせたとしても何の不思議もない程にすばらしい出来のSSでした!!


後輩キャラからの視点が,見事に本編の客観的な解説と雰囲気を伝えていてスゴいと言わざるを得ません!


とてもいいものを読ませてもらいました。
ありがとうございます! -- (名無しさん) 2011-08-17 00:04:36
  • キマシタワーw -- (名無しさん) 2012-09-16 21:02:58
  • 凄くイイ 至高のSSだ! -- (名無しちん) 2012-10-28 21:26:59
  • 何回も読んでしまいます!! -- (名無しさん) 2013-08-21 20:10:10
  • 最高です!! -- (名無しさん) 2014-04-17 22:20:08
  • 唯梓wikiで一番すごい -- (名無しさん) 2014-08-29 22:59:30
  • 二週間後の続きが読みたくやります! -- (唯ちゃんラブ) 2017-11-15 20:05:43
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最終更新:2011年05月10日 23:00