窓の外に見える空はからっと晴れていて、透き通るような青を見せていた。
こうも爽やかに快晴、という様子を見せてくれると、何だかこちらも嬉しくなってくる。
少し暑いのは問題だけど、夏を控えたこの季節だから仕方がない――というか雨ばかりでじめじめと蒸すよりはずっとましだし。
どうせなら、こう突き抜けるようなブルーを見上げられる方がずっといい。
体中からジワリとにじみ出てくる汗はそれはそれでやはり不快ではあったけど、それでも私は上機嫌と言うに相応しい心境だった。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、廊下を歩く。今は昼休み、教室でおしゃべりしていても良かったけど、なんだか散歩の気分。
特に目的は無いけど、ふらふらと歩く。そうだ、せっかくだから屋上を目指してみるのもいいかな。
そんな思い付きを採用して、くるりと足の向く先を変える。そしてふいっと廊下の角を曲がると、視線の先に見慣れたシルエットが現れた。
後姿だけど、すぐに誰だか分かる。ふわりとした髪の毛に、ふわりとした雰囲気をまとった後姿。いつもの黒いソックスに、私より頭半分くらい高い背の丈。
でもきっとそんな特徴を挙げなくても、私はすぐそれに気が付くことが出来たような、変な自信が沸いていた。
何でそんなものが沸いてきたのかはわからない。でもきっと、それは機嫌がいいせいなのだろうと、私は簡単に理由付けた。
折角だし、唯先輩とこの気持ちを分け合うのも悪くないかもしれない。一緒に屋上にって誘ったら、喜んでもらえるかな。
――唯先輩。
そう声をかけようとして、ふとその様子がいつもとは違うことに気が付いた。半ば右手を上げかけたところで、私はあれ、と小首を傾げる。
唯先輩はこちらに背を向けたまま、考え込むような仕草を見せたり、きょろきょろと辺りを見回したりしていた。
言ってみれば、挙動不審という言葉がぴったり当てはまる。ちらりと見える横顔も、いつものふわりとした笑顔じゃなくて、何処か真剣さが混じっている。
――どうしたんだろう。なにか、あったのかな。
浮かれていた気持ちがすうっと急速に落ち着いていく。
右手をパタリと下ろすと、私は先輩に歩み寄った。こんなの、いつもの先輩の姿じゃない。何か困ってるんだったら、力になってあげないと。
一歩一歩先輩の姿が大きくなっていく。だけど、先輩はこちらに気が付く様子がない。そのまま、歩を進める。
いつもの私の声量、それに先輩が気が付いてくれるいつもの距離。そこまであと一歩。
そのタイミングに合わせて、その名前を呼ぼうと、私は小さく口を開いた。
そこで初めて、私はそれに気が付いた。
斜め後45度から見える、思慮深げな光を湛えた眼差しの――普段に無い様子の先輩の胸に大事そうに抱えられた、小さくて可愛らしい封筒に。
ぴたりと私の足が止まる。何故だろう。あと一歩踏み出せば、いつもの私と先輩の距離。
尤も、唯先輩はいつもそこから距離をゼロにしてくるんだけど――それでも私たちの始めの距離。
その一歩で先輩は私に気づいてくれるはずなのに。そして振り返って、にこっと私に笑いかけてくれるはずなのに。
だけど、私の足は止まったままだった。原因はそれしかない。先輩が手にしたそれが、私の動きを止めてしまっている。
ピンクを基調としたその封筒は、丁寧にもハート型のシールで封をされていた。女の子らしい、本当に可愛らしい封筒。
まるで、好きな人に思いのたけを伝えるときに使う取って置きのレターセットに入ってそうな。
そうだ。それはどこからどう見てもラブレターにしか見えなかった。
それを、先輩は大事そうに胸に抱えている。
その光景が、自分でも驚くほど私を動揺させていた。
実際のところ、私は先輩が――おそらく唯先輩本人が自覚しているよりもずっと――人気があることを知っている。
ライブでの姿しか見たことない人は――そりゃ普段の唯先輩のだらけっぷりを知らなければ――あっさりと虜になってもおかしくないだろうと、私も思う。
ファンクラブのある澪先輩ほどわかりやすくはないけど、
放課後残って唯先輩について語ってるクラスメイトの集まりなんてよくある光景だし、紹介してくれないって仲介を頼まれたことだってある。
だから、そんな人たちの中からそういう直接的な行動に出る人がいても、ちっともおかしくない。それは、予想できる範囲内だったはずなのに。
何でこんなに、私は――なんで唯先輩は、そんな大事そうにそれを抱えてるんですか……?
キリキリと胸が痛む。
じり、と私の足が押されるように後退った。一瞬後、先輩に気付かれるんじゃないかと不安になる。今こちらを向かれたら、私はどんな顔をすればいいのかわからない。
だけど、じっと真剣な眼差しで前を見つめ続ける先輩には、こちらに気づく様子は欠片も無かった。
その眼差しは本当に真剣で、それも何か懸案材料を抱えた類のものではなく、例えば演奏時に見せるような前向きでまっすぐしたもの。
それはきっと、その差出主に向けられたものなのだと不思議と私は確信できていた。
先輩はいつも私のことを可愛いっていうけど、私は私より可愛い子が一杯いるってことを知ってる。
唯先輩は可愛いと言ってくれるけど、それはとても嬉しいことではあるけど、私はそこまで自信家にはなれない。
先輩は可愛い子が好きだから、だからきっと先輩にそれを渡した子は私よりずっと可愛い子なんだろう。
だって先輩のその眼差しは――僅かな迷いや悩みを交えてはいたけど、あまりに真っ直ぐで。そこからは肯定の意味しか読み取ることが出来なかったから。
だからきっと、その相手のことを受け入れるつもりなんだろう。私より可愛いだろうその子、先輩はその子の虜になって、そして私は――
――そこで、がつんと音を立てて私の思考は止まった。無理矢理落としたブレーカー。そのせいか、頭がくらくらと震える。
でもそれでいい。それ以上考えることなんて出来ない。だって、その先を見てしまえば私は。
ぐいっと、その先に私を導いてしまおうとする先輩の眼差しから、きゅっと目をそらした。そのまま、じりじりと更に後退る。
早く逃げてしまわないと。これ以上、ここにはいられない。先輩の傍には、いられない。どこかもう、何も考えなくていいようなところまで逃げなくちゃ。
だけど先輩に気付かれちゃいけない。本当に、もうどんな顔で向き合えばいいかわからないから。違う、きっと私が取れる表情は、ひとつだけになってしまうから。
そんなの、先輩だけには見せられない。だから、限りなく慎重に最大限の迅速さで、私はここから立ち去らないといけない。
少しずつ先輩の姿が遠のいていく。上手く行ってる。このままなら、先輩は私に気づかない。上手く行ってる。
ああ、でもちっとも嬉しくなんてない。だって、私がそういう思いを浮べられる場所から、私はどんどん離れているんだから。
浮かんでくるのはその正反対の想いだけ。だけど、それももう少し我慢しなきゃいけない。違う、それから逃げ出そうとしてるのに何で逆になってるの。
違うんだ、もうどこに言っても私にはきっとそれしかないってこと。だから、すぐにでもここを離れないといけない。
廊下の角、それに唯先輩の姿が完全に隠れたその瞬間、私は目一杯地面を蹴って、駆け出していた。
金属音と共に広がったのは、一瞬の純白。そしてところどころ白の混じった一面の青だった。
上を見上げていたから、コンクリート張りの床や壁やフェンスとかより、それが一番最初に目に入るのは、考えてみれば
当たり前のことだ。
そういえば、確かこれを見ようと私は廊下を歩いていたことを思い出す。
どこまでも突き抜けるような青空。窓ガラス越しではないそれは思ったよりもずっとにじんで不鮮明になっていて、そして痛いくらいに目に染みた。
目元から頬を伝っていく感触。何とかこぼさないようにしていたそれは、遂に堰を切ってしまったらしい。
上を見て少しでも流さないようにしようなんて、元々悪あがきだということはわかっていたし、ここまで来てしまえば別に問題はない。
無理矢理に固定していた膝からかくんと力が抜け、崩れ落ちるように私は腰をおろす。
何とか壁で体を支え、とりあえず座り込むという体裁を整え、そのまま後頭部を壁に当てて、再び空に目をやった。
視界一面を空で染め上げて、そのままぼうっと意識を薄めた。流れ出る涙は相変わらず私の頬を濡らし、ぼたぼたと制服にしみを作っていたけど、気にしない。気にならない。
――こんなもの、いくらでも流れてしまえばいいんだ。
どうせなら流れるだけ流れてしまって、全て押し流してしまえばいいのに。そうすればきっと、この胸の痛みも消えてくれるに違いない。
そんなはずはないのに。
涙はいつまでも止まらない。止まってくれるはずも無かった。その原因はずっと胸に残ったままなんだから。
さっき私の中に浮かんだ未来、それが未来だとするなら、もう私はそれに向かって歩いていくしかない。ここでいくら一人で泣いたって、それが変わるなんてとても思えない。
例えば以前見た映画のように、時間を巻き戻せることが出来る能力が私にあったとしたら、それを変えることが出来るかもしれないけど――そんな力は私にはないから。
――そうだ、つまりは結局私が悪いんだろう。
私はいつも受け入れるだけだった。だってそれはずっと当たり前にあるものだと思っていたから。
放課後部室に現れた先輩は、あずにゃーんって言いながらきゅーっと私を抱きしめて、頭を撫でてくれて。私は溜息をつきながら、それでもそれを幸せな日常と感じていた。
手を伸ばせばよかったんだ。もっと、素直になってれば良かったんだ。そうすればきっと、あんな未来じゃなくて、もっと違った未来が私の前に開けてたのかもしれないのに。
なんで、こんなになって初めて私は、それに気が付いてなんかいるんだろう。あるのはわかっていた。そこにそれがあるってことは。
先輩に話しかけるたびに、声をかけられるたびに少しずつ育ってきたもの――きっと、それは初めて先輩の演奏を耳にしたときに生まれたもの。
それをちゃんと形にしていればよかった。先輩にはいって渡せるものにして置けばよかった。
先輩の目が私に向いている間に――先輩の腕が私を抱きしめてくれている間に、この想いを伝えていればよかった。
――でも、もう遅いんですよね、先輩。
ぐぅっと嗚咽が喉の奥辺りから押しあがってくる。もう限界、どうやら私は本格的に泣いてしまいそう。
でも、いいか。ここには私しかいない。いくら泣き声を上げても、私一人にしか聞こえない。誰にも迷惑をかけることはない。
うん、泣いてしまおう。子供みたいに大声を上げて。そうすれば――そうなれるなんて欠片も思えなかったけど――少しはこの胸も楽になってくれるのかもしれない。
そう思ったのに。
その瞬間鼓膜をまるでノリにノリまくった律先輩のドラムのような勢いで揺らせたその声は、私の心臓を本当に口元から飛び出すんじゃないかと思えるくらいに跳ね上がらせた。
口元から溢れ出ようとしていた嗚咽は、その勢いで引っ込んでしまっていた。それは私の呼吸器系をその唐突さで軋ませたけど、だけどタイミングとしては都合がいい。少なくとも音声からそれと知られてしまう可能性はなくなるから。
急いで声の元へと視線を走らせた。ちょうど、勢い良く開け放たれたと思しき扉がガツンとコンクリートの壁を撃つ音が響く。
その向こうに、息せき切って、額から流れる汗を拭おうともせずに仁王立ちしているのは、やはりわたしの予想通り、さっき廊下で目にしたままの人だった。
ううん、確認するまでも無かった。聞き間違えたりなんてしない。そもそもその愛称を日常的に口にするのは一人しかいないし。だけど、なんで、なんでこう。
――なんでそんなタイミングで現れるんですか。唯先輩――!
私は慌てて、先輩に背中を向ける。その視線がこちらを向いていたらもうアウトだったけど、幸い先輩の視線は真っ直ぐ前に向けられていて、横側にいた私には気が付いていないようだった。
引っ込んだ嗚咽と同じく、涙も止まってくれている。だけど、きっと私の目じりは腫れていて、目も真っ赤になっていて、いかにも今まで泣いてましたって様子になってるに違いない。
――ああもう、誰にも見せないようにここまで来たのに。なんで、どうして、一番それを見せたくなかった先輩がここに来るんですか。
ゴシゴシと目元と頬をこする。制服の袖口が汚れてしまうけど、そんなの気にしている場合じゃない。
先輩は私の名前を呼びながらここに現れた。つまり、私を探してるってことだ。今はまだ気がついてないだろうけど、ちょっと視線を巡らせば私がここにいることはすぐに気付いてしまうだろう。
それまでに少しでも取り繕っておかないと。私は偶然気が向いて、屋上に来ていただけ、そんな風に思ってもらえるように。
――だけど、あれ。何で先輩は私を探していたんだろう。
「あずにゃん、発見!」
その声に、私の体がびくりと震える。ついに唯先輩が私を見つけてしまった。だけど、私のほうの準備はまだできていない。
慌てて、止まっていた手をゴシゴシと目元に走らせる。
「あずにゃ~ん、こんなとこにいたんだぁ。もう、探したんだよ」
先輩の声が近付いてくる。どうしよう、どう取り繕おう。いくら頭をひねっても、そんな起死回生の案なんて出てくるはずもない。
「あずにゃん?どうしたの?」
そして先輩の声は、背中ほんのすぐ後。いつもの
私たちの距離で、ぴたりと止まった。
先輩が不審に思ってる。だって、呼びかけられているのに、私は返事もせずに背中を向けたまま。普通じゃないと思わないほうがおかしい。
何か返さないと、でもどうしよう。きっと私の声は涙声だし、顔も泣き顔のまま。というより、今涙が止まってくれていること自体が奇跡に近かった。
だけど、驚愕で一度は収まってくれたそれは、先輩が近付くにつれまたぐんぐん私の喉元を押してきている。
だって、もう、今先輩は私の傍へと歩み寄ってきてくれているけど。
私が望む場所まで来てくれることはないんだから。
「……っ」
油断した。そんなことを考えてしまったから、それは危うく再び堰を切ってしまうところだった。慌てて背中を丸めて、ぎゅっと体を締めて塞き止める。
零してしまえば、もう誤魔化しようがない。それだけは、と何とか耐え切った。
だけど、その動作は先輩にとっては決定的な材料だったんだろう。
「あずにゃん……泣いてるの?」
唯先輩の声は私の背筋に電流じみた何かを走らせ、ピンと反り立たせた。自分の迂闊さに、違う意味で涙が出そうになる。
誤魔化して、取り繕わなきゃいけなかったのに、結局こちらから知らせてしまうなんて。
「ち、ちがいま……」
こうなったらと、涙声にもかまわず声を絞り上げ、泣き顔もきっと何とかなってると信じて振り返ろうとして――
今にもこちらに抱きつこうとしている唯先輩と出合った。
私を包み込もうとふんわりと腕を広げて、少し切なそうで悲しそうで、でも優しい笑顔を浮かべている唯先輩。
きゅうっと吸い込まれてしまいそうになる。でも――もうこれに甘えてはいられない。止めなきゃ、逃げてしまわなきゃ。
そこはきっとどうしようもないほどに甘くて優しくて柔らかくて、私をとろけさせてしまうのだろうけど――それはきっと後でまた私を苦しめるものになるから。
動かない腕に必死に力を込めて、先輩を押し返そうとした。
その瞬間、私の視線はそれを捉えた。
それはふわりと一度だけ小さく風に舞って、ぱさりとコンクリートの床の上に落ちる。
さっきまで、先輩の胸に大事そうに抱えられていた小さな封筒。
だけど、今はそれはそこにはなくて、代わりにあろうとするのは、先輩が抱え込もうとしているのは――
――私だった。
きゅうっと、先輩を止めようとしていた腕に熱のような何かが篭る。あれだけ動かなくて、必死に動かそうとしていたのが嘘のようにそれはスムーズに動きだして。
先輩が私を抱きしめる前に、先輩のことを抱きしめていた。
そのほんの僅か後、ふわりと先輩が私を包み込む。いつもの――ううん、きっといつもより暖かい先輩の感触。
もう二度と触れることのない、触れないようにしようと思っていたその感触。それが、いかに自分勝手なものだったかと思い知らされる。
「よしよし……」
よしよし、という言葉どおりに、先輩は私の頭を撫でる。いつもどおりの、変わらない先輩の癖。ほお擦りをしないのは、私がその胸にぎゅっとしがみついてるせいだろう。
そう、先輩は変わらない。変わってない。
私は先輩の一番にはなれなくても、それでも先輩は私を大事にしてくれている。
私は先輩の一番にはなれないけど、それでも唯先輩は大事な人で、内緒だけど尊敬している人。
だから、そう思うのなら私は、それをちゃんと受け止めて、そして応えていかないといけない、と思う。
そうしなきゃ、きっと私は自分で、自分を許せなくなってしまうから。
「あずにゃん」
先輩はぎゅっとわたしを胸に押し付ける。特に理由を聞いたりもせず、ここで泣いていいんだよって場所を作ってくれている。
それはきっと、今の私が許されるべき範囲を超えたものだけど――今だけは、それに甘えさせてください。
それにいいよって応えるように、先輩はまた私の頭を撫でて、そこで完全に私の頭は真っ白になった。
いつまでも止まらないと思っていたそれは、少しずつ収まって行き、やがてぴたりと止まってくれた。
その気になればもっとぐずついていることも出来たけど、さすがにこれ以上先輩に迷惑をかけるわけには行かない。
「大丈夫?」
「はい、もう平気です……」
少し鼻にかかった声で、私は答え、先輩の胸から顔を離した。当たり前だけど、私が顔をつけていた部分は私の涙やらなにやらで染みになっている。
さーっと顔から血の気が引いた。さすがにこれは迷惑どころの話じゃない。
慌てて謝ろうとした私の顔に、もふっと柔らかいものが当てられた。
「ふふ、あずにゃん、酷い顔~」
それは先輩のハンカチ。私の顔を優しく拭いてくれている。そんなことより、先輩のシャツの方を心配すべきなのに。
「はい、綺麗になったよ」
「すみません、シャツも、ハンカチまで汚してしまって」
先輩はいいよって、本当に軽く手を振って見せると、じっとこちらの顔を確認するかのように覗き込んできた。
「すっきりした?」
「……はい、いっぱい泣けましたから……先輩のおかげです」
それは本当に言葉通りだった。胸で疼くものはまだ存在するけど、それでも何とかそれを抱えられるところまで気持ちは落ち着いていた。
一杯流した涙が、一緒にいろんなものを押し流してくれたのかもしれない。
「よかったよ、あずにゃんが元気になって」
先輩はそういうと、まるで自分のことのように嬉しそうに笑う。それはとても眩しくて、魅力的で、とろんと思考がとろけそうになった。
いつもの笑顔のはずなのに。それは、きっと自分の想いを自覚してしまったせいなのか。多分きっと、自分が抱いている想いを素直に感じることができているということなのだろう。
くらりとする頭を、慌てて支える。今からこんなことじゃ、先が思いやられる。
思いはもう通じることはないのだから、いい後輩として接していかないといけないのに。
今までどおりのそれがあまりに難しい。だけど、それは先輩のためだから、つまりは自分のためだから、頑張らないと。
「あ!」
突然あげられる唯先輩の声。何事かと視線を追えば、その先にはさっきのラブレター。
唯先輩はさっと立ち上がると、私の元を離れ、それを拾い上げた。
その様子を、私は――平静さを保つテストだと自戒じみた心持で――ぼんやりと眺めていた。
先輩はまたそれを大事そうに胸に抱え込むと、またこちらへ帰ってくる。
私の元に戻ってきた先輩は一瞬だけ思案気な表情を浮かべ、ちらりと私とそれに交互に視線を向けた。
そして一瞬後、意を決したような仕草でそれを私へと差し出してきた。
「あずにゃん、受け取ってもらえるかな」
「あ、はい」
「ごめんね、ホントはもっと落ち着いたときに渡そうと思ったんだけど……」
「あ、いいえ、気にしないでください」
ぼんやりと先輩のその一連の行動を眺め続けていた私は、反射的に受け取る。差し出されたそれは、さっきまで先輩が抱えていたラブレター。
それは今私の手元にある。
「は?」
いや、待って。何で私の手元にあるの?
「な、何でこれを私に渡すんですか?」
「え?」
唯先輩はきょとんと首を傾げる。何でそんなこと聞くの、というような顔で。いや、そうしたいのは私のほうなんですが。
だってこれは唯先輩がもらった――やつじゃ。
じっと手元のラブレターをもう一度確認する。うん、どこからどう見てもラブレター。
こんな可愛らしい封筒でハートマークのシールで封がしてあって、これで普通の手紙だよなんていいわけは通用しない。
「……あれ?」
そこで何かが引っかかる。私は慌てて、その封部分を確認する。ハートマークのシール、そこには一度はがしてつけなおしたような様子は見て取れなかった。
つまり、これはまだ封をとかれていないということ。
手紙を受け取ったら、普通読むために封を開ける。透視能力でもあれば話は別だろうけど、唯先輩がそんな能力保持者だなんて話は聞いたことがない。
つまりは、これは唯先輩が受け取ったものではなく、そして私に差し出されたということは、唯先輩が差出人のラブレターということなんだろう。
今気が付いたけど、隅っこに「平沢唯」って小さく書いてあるし。
――ええと、ということは。
ぐるぐる頭が混乱し始める。つまりは、私が今まで散々悩んで苦しんで、屋上にまで来て、更に唯先輩の胸まで借りて泣いたりしてたのは……
その結論に、ぼっと私の顔が真っ赤になる。
なんだろう、この感情をどう表現すればいいんだろう。
「私の涙を返してください!」
「え、えええ!?」
しまった、口に出してた。
「い、いえ、なんでもありません」
「そ、そう?」
私の突然にびっくりした先輩に、慌ててなんでもないとパタパタと手を振ってみせる。
反射的にそんな抗議の声を上げたけど、私の内情はきっとそれとは反対。そうだ、ほっとしてる、に近いんだろう。
だって、結局私の流した涙は――胸が張り裂けそうなほどに悔やんだことは――まだ、そうする必要が無かったということだから。
そう、それに得たものも大きかった。本来ならばきっと、その瞬間になってはじめて私が気が付いただろうこと。
本当なら後悔の材料にしかならなかったことを、私は今ちゃんとした形としてこの胸に抱くことが出来たのだから。
だから、もう間に合わないなんてことはない。ううん、私はちゃんとそれを間に合わせる。
もう、あんな思いはしたくないから。
ほう、と大きく息をつく。勿論それは溜息なんてものじゃなく、そうじゃないならなんと言えばいいかはわからなかったけど、今日溜め込んだ想い全てを表したような、そんなもの。
かくりと手にした封筒に視線を落とす。初めて目にしたときから変わらない、ピンク色の小さな可愛い封筒。
色々翻弄されたけど、結論だけいえばこいつのおかげなんだよね。
感謝を込めて、ツーっと指先で撫でるように淵をなぞってみる。そんなことをしても、無機物である封筒が返事を返すなんてことは無かったけど。
私の指に押されて少しだけくいっと曲がって、ピンと形を戻したのがまるでそれのように見えて、私はくすりと小さく笑みをこぼした。
封筒の隅に書かれた先輩の名前。先輩の手紙。だから、まるでそれが先輩のように思えて、ちょっと可愛い。
先輩の名前が書かれた――つまりは、これは先輩が誰かに送るために作成したラブレターということで。
「あれ?」
「ぅん?」
私の疑問の声に、先輩が気の抜けた声を返す。手紙から目を離すと、じっとこちらを凝視している先輩と目が合った。
な、なんでそんなに見つめてきてるんですか、と一瞬動揺したものの、丁度いい。
「ええと、これなんでしたっけ?」
「あ、言ってなかったっけ。ラブレターだよぅ」
うん、やはり私の予想は正しかった。これはやはりラブレター、確認。
「先輩が書いたんですよね?」
「そうだよ?ほら、そこに名前も書いたし!」
うん、これも私の予想通り。これは先輩の書いたラブレター、確認。
つまり、唯先輩はこれを誰かに渡そうと思って、もってきたということになる。
いや、安心してる場合じゃないよ私。つまりは唯先輩にはこれを渡すべき誰かがいるってことだよ。
つまり唯先輩には好きな人がいる……ってことで。
あれ、でもそうするとなんで今私がそれを渡されたんだろう。
「……なんで私に渡したんですか?」
「私からあずにゃんへのラブレターだもん。他の人に渡したら変でしょ?」
「あ、それはそうですね」
そっか、これを今私が持ってるのは、これが唯先輩から私へのラブレターだから、で。
――ええと、つまりどういうこと?
単純に考えれば、この手紙は実は唯先輩が私への思いを書き連ねたものだってことになるんだけど。ラブレターというからには、つまりはそういう類の思いってことで。
――あはは、いやですよ先輩。そんな美味しい話あるわけないじゃないですか。
「私、一生懸命書いたんだよ」
そう続ける先輩の笑顔は、いつものようにふんわりと柔らかいもので。
それがあまりにいつも通りだから――これがそんな、今までの日常を一変させるような、私が
これから踏み出そうと思っていた道のりの、そのゴール付近まで一気に導いてくれるものなんてとても思えなかった。
だって、それはあまりに都合がよすぎる。ドラマや漫画じゃないんだから、そんな都合のいい解釈は自分の勘違いだろうと。
だけど、私は気が付いてしまう。いつものように笑顔を見せてくれる先輩の、こちらから隠すように地面に添えられた両手がきゅっと難く握られていることに。
それが、小さく震えていることに。
あわせた眼差し、いつも通りの笑みを浮かべるその瞳に、いつもよりもずっと真剣なものが篭められていることに。
それは、あのとき廊下で見た横顔と同じ眼差し。ああつまりはあのとき、先輩は私にこれを渡そうと探し回っていたんだ。
あのとき私が感じたことは、全て私に向けられていたもので。
――つまりはこれは本当に、そういうこと……なんですか?
ふいっと焦点が戻る。過去の映像から、今の映像に視界が切り替わる。
そこに映し出されたのは、ふんわりした笑顔じゃなくて、今まで見たこともないほど真剣な、唯先輩の顔だった。
「私はあずにゃんが大好きです」
瞬間、そんな言葉がトンと鼓膜を叩く。本当にトンと、この距離にいる私だから聞こえる程度の、小さな先輩の声。
「ちっちゃくって可愛くって猫耳がすっごく似合うとこも、ぎゅうっとすると柔らかくていい匂いがするとこも」
「真面目なとこも、実は負けず嫌いなところも、こっそり甘えんぼなところも」
小さいはずの声なのに、私の鼓膜から伝えられた振動は私の全身を一瞬にして駆け巡る。駆け巡って、ぎゅっと私に絡み付いて、離してくれない。
真っ直ぐにこちらを見詰めてくる先輩の眼差しから、目が離せない。
「全部全部まとめて、私平沢唯は、あずにゃんのことが――中野梓のことが大好きです」
そこでようやく先輩は、いつものふんわりとした笑顔に戻った。
「えへへ、全部読んじゃった。これじゃ渡した意味無いよね」
ふんわりとしたいつもの――だけど、告げられた言葉はいつものじゃなくて、そのいつもを一変させるもの。
私がはぐらかしてそう認識するのを躊躇っていたもの。
決意を固めたはずなのに、そこまで行こうって決めたはずだったのに。
実際こうしてはっきりと突きつけられるまで、私はまた結局前に進もうともせずにうだうだを繰り返しているだけだった。
突然すぎるとか、そんなの全部自分の中だけの話だったのに。
そう、考えてみれば、私は何一つ進めてはいなかった。
手遅れになる前に自分の思いに気がつけたのもの、その思いを伝える一歩手前まで導いてくれたのも、全て唯先輩のおかげ。
私はそれに甘えるように、手を引かれるままはいってこの場所まで連れてこられただけ。
おんぶにだっこ、普段あんなに先輩にちゃんとしてくださいって言ってるのに、本当に子供なのはきっと私のほう。
世話をしているつもりが、実は先輩に頼りきってるのはきっと私のほう。
でも、今はそんな自己嫌悪に浸ってる場合じゃない、と思う。
一歩前まで、連れてきてもらった。だったら、その一歩を踏み出すことで、先輩に応えたい。
そしてそれは、私の望みを全てかなえるものでもあるんだから。
気が付くと、私は先輩をぎゅっと抱きしめていた。
いつも先輩がしてくるように、でもそれとは全く逆の構図で。
「わわっ」
驚いたのか、先輩は少しよろける。だけど、大丈夫。私がぎゅっと支えるから。
更にぎゅっと強く、抱きしめる腕に力を込める。これが私の答えです、と先輩に伝えるように。
「……おぅ……あずにゃん、積極的……」
「……変ないい方しないで下さい」
「えへへ」
少しだけ硬くなっていた先輩の体、でもすぐにふにゃっと力が抜けていつものように私を包み込んでくれる。
「あずにゃん……そういうことでいいんだよね」
私の名を呼ぶ先輩の声には確かな安堵の色が混じっていた。やはり先輩も不安だったんだって、なんか嬉しさと安心と申し訳なさが混在したような気持ちが浮かんでくる。
「はい……唯先輩」
私も先輩の名前を呼び返し、胸に顔をこすり付けた。
先輩を抱きしめながら、それでも放さずに手にしたままのその手紙を、きゅっと、しわにならないように大切に握り締める。
「もう、返せって言われても返しませんから」
「うんうん……」
ぎゅうっと先輩は嬉しそうに呟きながら、いつもより強い力で私を抱きしめる。
大好きって気持ちがいっぱい篭ったハグ。いつもそうだけど、いつもよりずっと遠慮がなくて、まっすぐで、もっと暖かい。
でもきっとそれは、私も負けてない自信がある。
「先輩」
「んぅ?」
でも、それだけで答えにするのはきっとずるいと思うから。先輩がちゃんと口にしたように、私もその言葉を言わないと。
「私も大好きです」
――だから、ずっとずっと傍にいてくださいね
私たちを包みこむ青の下、そのどこまでも届くように、だけど先輩の耳だけに聞こえるように、私は小さく囁いた。
- 構成、文章、ラスト……よかった。本当によかった。 -- (名無しさん) 2010-09-20 00:53:20
- あずにゃんかわいい -- (名無しさん) 2010-11-02 17:31:27
- ほんわかだね -- (名無しさん) 2012-09-25 20:54:23
- こういうの好き -- (名無しさん) 2013-02-07 01:35:12
最終更新:2010年05月21日 03:42