卒業式。彼女は、思い切り泣いた。
泣きはらして、泣きはらして、笑顔になって。
別れを惜しみながら、それでも強く笑って。
そして、中野梓は、高校三年生になった。
「…やっぱり、似合ってないなぁ」
携帯を眺めながら、改めて梓は苦笑した。
先日執り行われた、先輩たちの入学式の画像が添付されていた。慣れないスーツ姿で、4人は思い思いに写っている。
澪は、緊張のあまり固すぎる顔。紬はさらりと着こなしている。律は……窮屈そうだ。 そしてもう一人は、致命的に似合ってない。ミスマッチにも程がある。
これが卒業アルバムの予行練習のような済ました顔だったら、まだ格好もついただろうに、いつもどおりの奔放な表情で写っていて、それがおかしくてたまらない。
「ぷっ、くく…」
抑えた笑いが、がらんとした部室に響く。
と、きぃ、という音がして、音楽室のドアが開かれた。
「…あの、中野先輩、どうかしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ。入って入って」
はぁ、と怪訝そうな声を漏らしつつ、彼女は後ろ手にドアを閉めた。今年から軽音部に入部した、正真正銘の後輩である。まだ整っている皺の少ないブレザーが初々しい。胸元にアクセントとして彩られたリボンの色は、青色だ。梓にとってそれは先輩の色だけれど、むしろ彼女たちからすれば、赤こそが先輩の色なんだろう。そんなところで、時がめぐったことを実感してしまう。
「すいません、HRが長引いちゃって」
「大丈夫。それじゃ、練習はじめよっか」
幸いにも、新歓ライブでの梓の演奏は新入生の心を捉え、4人の新入部員を迎えることで今年も軽音部は継続されている。放課後ティータイムではないけれど、学園祭でもまた演奏することになるだろう。順風満帆と言ってもよかった。今ではジャズ研を引っ張るメンバーである純に、「あー残念、あたしが入れば百人力だったろうに」だなんて茶化されたけど。
その後輩の一人は、梓と同じギターの担当だ。どこかの先輩とは違って、入学前から音楽に触れていたようで、教えるにしてもやりやすい。フェルマータやフォルテッシモといって、そうですね、と素直に相槌が返ってくるのはなかなか新鮮だった。
まぁ、流石に腕前はまだまだだけれど。きっと上手になるだろう。
しばらく練習をして、少しの間長椅子に座って休憩をする。言葉少なだ。
そりゃ、センパイたちとのようにとは言わないまでも、もう少し賑やかでもいいんじゃないかなとは思うのだけれど、2年の年齢差は高校生にとってそこそこ大きい。互いになかなか
きっかけがつかめないで休憩時間が終わってしまうのが常だ。それが梓の目下の悩みである。
けれど、今日は珍しく彼女のほうから話しかけてきた。
「あ、あの」
「……どうしたの?」
嬉しそうに返す梓に安心したのか、彼女は微笑んで言った。
「中野先輩って、ギター教えるの上手ですよね」
「そうかな。だったらいいんだけど」
「こう、すーって入ってくるんです。音と指とが離れてなくて」
「ありがと。…昔ね、」
手のかかる先輩がいたんだよ。先輩なのに、私に教えてって頼んできて、
――そう言おうとして、やめた。
いきなり黙りこくってしまった梓を彼女は不思議そうに伺っている。私もそこでよく躓いたから、と梓はごまかした。結局その後会話はあまり弾まなかったけれど、いつもより少しだけ和やかな雰囲気になった休憩の後、再びギターをかき鳴らして、その日の部活は終わった。
校門で、彼女に向かって手を振る。いずれの後輩とも梓は別方面だ。部活の後、たいてい彼女は一人で帰路につく。
先輩らしく振舞えているだろうか。もしやめるなんて言われたらどうしよう。不安は常に付きまとっている。特に、今日は来ていない3人の後輩たち。塾や都合などで、毎日部室に来るというわけにはいかないようなので、尚更がんばらないと。
後輩と別れた
帰り道、梓はいつもそう考える。
だけど今回ばかりは、少し余計なことまで浮かんでしまった。
意外なことに、卒業してから一番メールを送ってきたのは律だった。澪や紬との写真を
添えて、律らしい冗談と絵文字が踊る明るい文面に隠された後輩への気配りを、梓は十分
に感じ取っていた。次いで澪、紬である。どれもこれも、自分への思いやりがこもってい
て、それだけで梓は胸が一杯になる。
部室に寄っていいか、なんて提案も度々あったけれど、せっかくの練習を邪魔しないで
ください、なんて断ってしまった。律や澪や紬だって、新たな環境で忙しいはずだ。ただ
でさえこれだけ気にかけてもらっているのだから、これ以上煩わせてしまっては申し訳な
い。……あの人はまじめすぎると笑うだろうか。梓は苦笑する。
……あの人。
あの人からの、最初は頻繁だったメールが稀になったのはいつからだろう。唐突にかか
ってきた電話が来なくなったのはいつからだろう。寂しいと思う心とは別に、どこかで納
得している梓がいた。
新しい場で、これまでの親友と、
これからの親友と、精一杯楽しむことに忙しいのだろ
う。きっと、4人のうちで、一番。彼女はそういう人だから、と、すとんと飲み込めた。意
外なことに。
それは、梓が3年生になってから、理解したものだった。梓にとって、学校とは軽音部で
あり、放課後ティータイムのことだった。そのことでいっぱいいっぱいだった。
けれど、それだけではない。受験もある。毎日は、
放課後だけではないのだ。時間が、
生活が迫ってくる。それを身をもって実感したから、梓はあの人のことを責めようとは思
わなかった。むしろ感謝すら覚えた。こんな日々の中で、去年の先輩達は、あの人、あれ
だけ時間を割いてくれたのだと。
別に、二度と会えないわけじゃない。憂に訊けば、喜んで近況を話してくれるだろう。
だけど、いやだからこそ、梓はあえてその話をしないことに決めた。
もう、いっぱいもらったのだ。抱きしめてもらって、名前を呼んでもらって。卒業式で
は、泣きじゃくった自分を受け止めてもらって。
もう十分だ、と。そう思えてしまうことも含めて、満足していたから。
だから、今日の後輩からの話題は、不意打ちだった。
○
翌日。運悪く、後輩は全員来れないとのことだった。こういう日もある、どうしようか
と悩み始めたときには、すでに梓の足は鍵を借りに向かっていた。一度習慣になってしま
うとなかなか抜けないものだ。たとえ一人であっても。
きぃ。ドアを開けるときの音がいつもより遠くまで音が響いた気がした。閉めるときの
音も。がらんとした部室。ホワイトボードでは、…まだ隅っこのほうに残っている独創的
なセンスの落書きが消えかかっていた。本当にあのセンスはわからない。書きなおそうに
も再現しようがない。
一息ついて、長椅子に座る。いざ来てみたはいいものの、やはり一人だけとなると何を
する気も起きない。黒板に引かれた五線譜を眺めながら、ただ座っている。
――広い。この部屋は、こんなに広かっただろうか。
かつて感じたその感覚を、しばらくぶりに梓は味わっていた。このごろは後輩がいたお
かげで心の底に沈んでいたそれは、やっぱり痛切で、今すぐにでも誰かにすがりたくなる
ものだった。
頭を振る。自分で決めたことだ。頼ってばかりもいられない、もう最上級生で部長なの
だから。頼られる立場なのだから。繰り返し繰り返し唱えてきたその言葉を、寂寥感を押
し流すように梓は繰り返す。ブレザーの袖を握り締めながら。ごくり、と飲み込んで、梓
はようやく顔を上げた。
トンちゃんの水槽の掃除でもしようか。ようやく意識に上ってきたことに梓は申し訳な
くなった。「でも」ってなんだ、でもって。ごめんね、と小声でつぶやきながら、慣れた
手つきでバケツに水を注ぐ。洗面台。鏡。隅に貼ってある剥がれかけのハートのシール。
反射的に目を逸らした。遅かった。
『中野先輩って、ギター教えるの上手ですよね』
『
あずにゃん、ギター教えて!』
……ほら。
『かわいいでしょー、最近はまってるんだー』
『いっぱい食べて大きくおなり』
……ほら。
『あずにゃんは難しいことを考えるんだねー』
『だって、あずにゃんはあずにゃんだもん』
……ほら。
『私はいっつもあずにゃんのことばっかり考えてるよ』
……うそつき。
いつの間にかバケツから水が溢れていた。慌てて蛇口を閉める。水浸しだ。拭かないといけない。
○
どうしてここまで弱いんだろう。
どうしてここまで脆いんだろう。
部長なのに。三年生なのに。もう、後輩じゃないのに。
最近、「梓」と同じくらい、「中野先輩」と呼ばれるのに。
もう、「あずにゃん」なんて、呼ばれないのに。
○
家に帰ると、梓は自室に逃げ込んだ。
制服のまま天井を眺める。
どうして、と問いかけても、答えは一向に出てこない。どうすればいいのかわからない。
自分の中で、整理をつけたつもりだった。割り切って、しっかりと固めていたはずだった
のに。些細なきっかけで決壊してしまった、この気持ちはなんなのだろう。
一通り泣きはらして、表面上は落ち着いてはいる。しかし疲れ果てていた。
手元にある携帯電話を操作する。受信メール。先輩達の、似合わないスーツ姿。もう笑え
ない。呆けながら、ただその画像を見つめている。
……わがままな子、なんだろうな。
なにも、無視されたわけじゃない。忘れられたわけじゃない。ただ、近頃連絡が減ってき
ただけ、なのに。それだけで勝手に遠く感じて、自分で納得したふうを装って。挙句の果て
に、ちょっとしたきっかけですぐ決壊してしまった。
……そんなの、卒業式のときと、何も変わらないじゃない。
あの時の絶望とは、違うのだ。まるで広い世界に自分ひとりだけが取り残されてしまうよ
うな、切羽詰った状態ではない。繋がっている。だから、余計にわからない。
無機質な画面に映る、不恰好なあの人の姿を見て、こんなにも弱ってしまう。文字じゃな
くて、画像じゃなくて、声を聞いて、抱きしめて欲しくて。
……会いたくて。
会いたい。心の中で言葉にして、それは明確なものとなった。会いたい。会いたい。あの
人に会いたい。名前を呼んで欲しい。梓でもなくて、中野先輩でもなくて、あずにゃんと呼
んで欲しい。あの人がつけてくれた名前で、あの人の声で、……唯センパイの声で。 唯セ
ンパイ。
受信ボックスを遡る。まだログに残っているかどうか不安だったけれど、過去になるにつ
れ、名前欄は「唯センパイ」で埋まっていった。あの人らしい、どこからもってくるのかわ
からないのにしっかり刺さってくることば。並ぶ「あずにゃん」の文字。
……思えば、いつも、センパイとは、こうだった。
合宿のときも。学祭のときも。修学旅行のおみやげも。園芸大会のときも。
夏祭りのとき
も。シールのときも。最後のライブのときも。卒業式のときも。
こうやって、自分で考え込んで、袋小路に陥って、取り乱して。そんな時、いつも手を引
いてくれたのは、あの人だった。
手のひらの感触を思い出す。少し自分より大きくて、暖かくて、こっちのことなんかお構
いなしの、あの手。引いてもらってばっかり。
……思い出すにつれ段々癪になってきた。どうしてこうも毎回毎回振り回されてばかりなの
か。茫漠とした悲しみの水面に、会いたいという石が投げ込まれて、波紋を形作っていく。
置き捨てたスクールバッグに目をやる。まだしっかり繋がっている、「ぶ」のキーホルダー。
裏に張ってある、「なかのあずにゃん」のシール。
今回ばかりは。
梓は体を起こす。ふう、と一息。先ほどとは違った、意思の篭った一息。
もう三年生になったのだから、いつまでも手を引かれているわけにも、いかない。
だけどそれは、手をつないではいけないということではなくて。
手を引っ張っていってもいいんじゃないかと。
携帯電話のボタンを3回押した。
「……」
『あ、もしもし?あずにゃん?』
「――っ、私以外の、誰だと思ったんですか」
『あー、あずにゃんだぁ!』
「……そうです。あずにゃんです。唯センパイ、最近どうしてメールも電話もしてくれないんで
すか。私、寂しくて、」
『わたしもさみしかったよ!』
「じゃ、じゃあ、どうして、」
『あずにゃんがメールも電話もくれないんだもん』
「……それは唯センパイが、」
『だって、あずにゃんもう三年生だから、部長だから』
「……っ」
『迷惑になっちゃいけないかなって、それでね、我慢してみたら、』
「……」
『全然メールも電話も来ないんだもん……』
「そ、その……」
『だから!すっごくさみしかったよ、あずにゃん!』
「わ、私もすっごく寂しかったんですよっ、なのになんですか、そんな理由、」
『あずにゃんずーるーいー、お互い様だよーこれはー』
「うっ……それは」
『ごめんなさい』
「……ごめんなさい、です」
『じゃあ、いまからあずにゃんの家に行っていい?』
「……いいですよ」
『わーい!待ってて、すぐ行くから!』
「はいっ」
○
結局事が終わってみれば、互い違いのすれ違いで。
やっぱり、唯センパイは唯センパイだった。
○
「中野先輩、ギター教えるのやっぱり上手ですよ。秘訣とかあるんですか?」
「えへへ。昔ね、先輩のクセに私よりギターが…あ、電話」
『もしもしー、あずにゃん?』
「今、部活真っ最中なんですけど」
『えー、だって電話しないとあずにゃん怒るじゃーん』
「だからあれは唯センパイが、……っ」
なるほどね、という視線を感じて恥ずかしいけれど。
「……あと五分だけですよ」
このくらいは、いいじゃない?
- こういうのいいな、素晴らしい -- (名無しさん) 2010-08-31 05:47:33
- 唯先輩が変わってなくて本当によかったー -- (名無しさん) 2010-08-31 23:44:29
- 「互い違いのすれ違い」っていうタイトルにセンスを感じた。いい。 -- (名無しさん) 2010-09-03 21:37:33
- いいね -- (名無しさん) 2015-02-06 21:33:46
最終更新:2010年08月30日 20:05