最後の部活が終わった
帰り道、律先輩・澪先輩・ムギ先輩と別れた私と唯先輩は、
これも最後となる二人きりの帰り道を歩いていた。もう春とはいえ、空気はまだまだ冷たい。
それが夜ともなればなおさらのこと。遅くまで放課後ティータイム全曲の演奏を録音していたから
こんなに遅くなってしまったのだ。
二人きりになってもいつもと変わらず楽しそうに話しかけてくる唯先輩が少し恨めしい。
正直言って私は今、そんな会話を楽しめる気分ではなかった。
今日を過ぎればそう頻繁に唯先輩には会えなくなる。この事実が私にある種の焦燥感を駆り立てていた。
今日という日が過ぎて春休みが終わってしまえば私は受験生で、彼女は大学生だ。
予定も、場所も、生活リズムだって合いはしない。新たな出会いもきっとある。
私の知らない唯先輩になる。唯先輩は私の事なんて忘れてしまうかもしれない。
その前に、唯先輩と共に過ごした2年間で少しづつ積もっていったこの想いを伝えようと。
けれど私はそのタイミングを掴みあぐねていた。
この気持ちを言ってしまったら本当に何もかもが終わってしまう気がして…。
そんな恐怖に似た感情と先輩方との部活が終わってしまった喪失感とがゴチャ混ぜになって、私の心に暗い影を落とす。
暗い夜道と凍える寒さ、暗鬱とした気持ちが私を追い詰めていく。
「これで最後になっちゃうんですね」
そう。これで最後。先輩方との部活も。二人きりの下校時間も。
「でも最後に私たちの全曲分の演奏も録音できたし」
さっきまではとても楽しかった。でも何事にも終わりの時はいつかやってくる。
「もう思い残すことはありませんね」
嘘。私は未だに未練たらたらだ。いつまでも先輩方とバンドを続けていきたい、唯先輩と一緒にいたい、そう思っている。
それに、私にはまだ伝えていないことがある。
「唯先輩、今まで本当にありがとうございました」
唯先輩は何も答えない。なんとなくその理由を知ることが怖くて、私は顔を上げることが出来ないでいた。
会話の隙間を埋めるように、言葉を連ねていくことしか出来ない。
「唯先輩、私がいなくっても、ちゃんとギターの練習もしてくださいね?」
「やだ」
…?
「…唯先輩?」
突如響いた冷たい声に足を止めると、隣にいたはずの唯先輩の姿が無い。
ゆっくりと振り返ると数メートル前に立ち止まっていた唯先輩がいた。
「
あずにゃんがいなくなるなら、ギターなんてやめちゃうもん」
どうして、今、そんなことを言うのだろう。私の心に小さな苛立ちが波立つ。
「どうしてそんなこと言うの? おかしいよ、あずにゃん」
おかしいのは唯先輩ですよ、そう言おうとして、止める。唯先輩が心なしか震えているように見えたから。
けれどその理由が私には分からない。
「どうしてそんな…もう終わっちゃったみたいに…」
え…?
「
これからもずっと放課後ティータイム続けるんだよ!? 大学に行くとか関係ないよ!」
私の胸を春の突風が吹き抜けていくような気がした。
「もう部室では一緒に練習できなくなっちゃうけど…そんなのスタジオに入るとかすればいいじゃん!」
それは私がそうあって欲しいと強く強く思っていたことで。けどそんなことはありえない、
そう思っちゃいけないんだと封じ込めていた未来。
「春休みには毎日みんなで集まって、練習して、お茶して、お話して…そう思ってたのに」
唯先輩の大きな瞳の淵に水たまりが湧き出してくるのが見える。なのに私の胸の鼓動はトクトクと高鳴っていく。
「なんであずにゃんはそんな、寂しくなるようなことばっかり…」
唯先輩は、こぼれそうなそれを隠すように両手で顔を覆ってしまう。私はまだ動けない。
息苦しくなるほど胸を高鳴らせながら、この先になにか、私の本当に聞きたいことを言ってくれる、
そんなずるいことを考えてしまっている。
「あずにゃんは、私たちと一緒にいたくないの?」
「私……あずにゃんのいないバンドなんてやりたくないよ!」
目眩がした。
嬉しすぎて。
嬉しい、なんて言ってしまったら唯先輩を怒らせてしまうだろうか。
こんな風に怒気を含ませて声を張り上げる唯先輩を見たのは初めてのことだった。
唯先輩がこれからも放課後ティータイムを続けていくつもりだということが。
春休みにはいっぱいいっぱい練習するつもりでいてくれたことが。
その中には当然みたいに私のことが含まれていたことが。
唯先輩が私との時間をとても大切に思ってくれていたってことが伝わってきて。
そして『あずにゃん』って、私を名指しで…。
それが嬉しい。
唯先輩に駆け寄って、顔を覆った手の片方を取る。掴んだてのひらが涙で濡れているのが分かった。
案の定彼女の大きな瞳からは涙がボロボロとこぼれていて、申し訳ないって気持ちと一緒に愛しさが込み上げてくる。
唯先輩は隠れるように顔を背けるけれど、私はそれを静止するように、掴んだ手ごと彼女を抱きしめて、
その首筋に額をうずめた。これ以上彼女を悲しい気持ちにさせるわけにはいかない。
「ごめんなさい、唯先輩。私また一人で空回りしてたみたいです」
唯先輩は私から逃れようと身を捩る。私はそれを許さない。
「もう皆さん卒業だから、これまでみたいに先輩方に甘えてるわけにはいかないんだって思って、
勝手にみなさんと私一人を分けて考えちゃってました」
少しずつ唯先輩の震えが取れていくのが分かって、私はホッとする。私が抱きしめたから落ち着いてくれたのかな。
もしそうなら嬉しい。それは私が何度も何度も彼女から貰った優しさだから。
唯先輩の首筋から額を離して、まっすぐにその眼を見つめる。これだけはちゃんと伝えなきゃ。
掴んでいた彼女の手に指を絡ませてしっかりと握り締めると、唯先輩も私を見つめ返してくれた。
「でも本当は私も…まだまだ先輩方と、唯先輩と一緒にバンドしたいです!」
「怒らせちゃったかもですけど…これからも一緒にいてくれますか…?」
「あ……当たり前だよ! あずにゃん! もう!」
そう言って怒った風の唯先輩の目はまだ涙に濡れて赤くなっていたけど、その口元は微笑んでいて、
優しくて柔らかな笑顔だった。私の胸がドキリと跳ねる。
「もう…あんまり寂しいこと言っちゃ嫌だよ…?」
私はその言葉に返答する代わりに、もう一度強く強く彼女の華奢な体を抱きしめた。
いつの間にか夜も深まっていた帰り道、私たちは手をつないだまま。
すっかり元の、ふんわりとした笑顔に戻った唯先輩の横顔に、私はかけがえのないものを見る。
これが一緒に帰る最後の下校時間になるだろうけど、寂しい…はまだちょっとあるかな、
でも暗く重苦しく胸を押しつぶすような感情はとうに消え去っていた。
ほら、こんな会話だって楽しめるくらいに。
「でも唯先輩だって悪いです。今回のことは」
「えぇ~なんでさ!」
「だって唯先輩、他の先輩方もですけど、文化祭のライブが終わったら途端にもう部活のことは
けじめつけたんだーみたいな顔して、寂しがる素振りも見せないで」
「それなら私だってこれから一人で頑張っていかなきゃいけないんだって、
先輩のことは割り切っていかなきゃいけないんだって思うじゃないですか」
そう言うと、私の手を握る唯先輩の手に少しだけ力が篭められたのが分かった。
「ごめんね。あずにゃん。私たちが去年ちゃんと部員を勧誘できてたら、
部活のことあずにゃん一人に背負わせるようなことにならなかったのに」
ああもう、そんなつもりで言ったんじゃないのに。
「そんなんじゃないんですよ。唯先輩。私、この2年間先輩方と5人で部活ができて、本当に本当に楽しかったんです」
眼を閉じて、楽しかった記憶に思いを馳せる。日々の練習、お茶とお喋り、トンちゃんのこと、
文化祭と新勧ライブ、ライブハウスでも演奏した。海に行ったり夏フェスに行ったり、
演芸大会には唯先輩とふたりで出たっけ…。数えきれないくらいの
思い出がある。
「あんまり楽しかったから、少しづつ卒業の時が近づいてきて、みんながいなくなっちゃうって焦ってしまって、
無理矢理にでも納得しようとして」
繋いだ手を握り返す。
「自分の中で割り切れていたつもりだったんですけど…。ちょっと拗ねてたんだと思います」
目を開くと唯先輩が私の顔を見つめていて、目があってしまった。はにかんで笑う私。少し恥ずかしい。
「でもさっき唯先輩が怒ってくれて、私と一緒にいたいって、一緒じゃなきゃイヤだって言ってくれて本当に嬉しかった」
「あずにゃん…」
唯先輩と私の視線が絡み合う。私の頬に熱がこもってくるのが分かる。少し赤くなっちゃってるかも。
これはまずい。空気を、空気を変えなきゃ。
「でも!」
「わっ! ビックリした」
「放課後ティータイムも大事ですけど、軽音部だって廃部にするわけにはいきませんからね!」
ふんす! なんて言ってあまり無い胸を張ってみせる。唯先輩は穏やかに笑ってくれる。
「そうだねあずにゃん。私も軽音部がまだまだ続いていってくれたら嬉しいよ」
「新入部員もしっかり勧誘して、軽音部を存続させてみせますから!」
「おぉ~!
あずにゃん部長、カッコいいよぉ!」
「いざとなったら純と憂に土下座でもしてなんとかしますから!」
「…あずにゃん部長、カッコわるいよ…」
そんな風に顔を寄せ合って、笑い合って。いつもより少しだけゆっくりとした歩みで帰宅の途につく。
いつもの交差点でいつものように唯先輩と別れて(繋いだ手をほどくのがちょっと名残り惜しかったのは内緒だ)、
ここからは家まであと少しだけ私一人の道のり。
ふと空を見上げると満天の星空だった。
まるで暗闇を歩いているようと思っていたさっきまでの私は、きっと空を見上げる余裕もなかったのだろう。
苦笑いをひとつ浮かべて、唯先輩のことを思う。
胸にはまだあの人のくれた暖かいものが残っているのが分かる。
いつまでも消えることのない大切な…。
だからというわけじゃないけど、もうひとつの大切な想いを伝えることを忘れてしまっていた。
いや、本当は忘れるはずが無いけれど。
でも、それを伝えるまでの猶予をもらえたことが嬉しくて、もう少しだけこの想いは私の中にしまっておくことにした。
だってこれからもずっと私たちは一緒に、同じ道と時を歩んでいけるのだから。
いつだって伝えることが出来るのだから。
なんて贅沢なことだろう。
だからもう少し待っててくださいね、唯先輩。
- 泣きました・・・ -- (べ) 2010-12-26 13:20:49
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最終更新:2010年09月16日 14:05