無題(r010)
修学旅行の宿での夜、私は寝付けないでいた。
もう十二時を回っただろうか。
今夜は徹夜するぞ、なんて息巻いていた律の方が、それをゲンコツで制した私より先に寝てしまっている。
私は何度目かも分からない寝返りを打った。
時計の針の音と障子越しの月明かりがやけにうるさい。
元々、慣れない寝床で眠るのはあまり得意な方ではないけれど。
慣れない旅行に身体はくたくたに疲れているはずなのにこうもまぶたが下がってくれないのは、この学校行事に気持ちが昂っているからなのだろうか。
まるで子供だ。
私はそんな自分自身に少しばかり嫌気がさして、もうひとつ寝返りを打った。
これじゃあ、律や唯のことを言えないじゃないか。
「澪ちゃん…?」
不意に、隣から囁く程の小さな声で名前を呼ばれた。
声の主はとっくに寝てしまっていると思っていたから、私は少し驚いた。
「起きてる…?」
彼女らしからぬ遠慮がちな問いかけが、静かな部屋に響く。
「うん、起きてる。なんだか寝付けなくて」
私は倣って囁き声で返した。
「そっか。私も」
唯はそう短く答えた。
私は次に何を言えばいいか分からなくなって、無意識に息を殺した。
時計の針の音がカチコチとやかましく鳴っている。
「ねえ、そっちに行ってもいい?」
唯の甘えた声が気まずい静寂を破ったかと思うと、返事も聞かずに唯は私の布団にもぞもぞと潜り込んできた。
そうして私の横に顔を出すと、自分の枕を引き寄せて頭の下に敷いた。
どうやら私の布団で一緒に寝るつもりらしい。
「えへへ、澪ちゃんのお布団あったか~い」
「まったく。子供みたいだな」
そう言いながら私は端へ身体をずらし、唯の肩に布団をかけ直してやった。
「澪ちゃんって、枕が変わると眠れないタイプ?」
「そうでもないけど……まあ、少しだけ」
澪ちゃんって繊細そうだもんね、と唯がクスクス笑う。
私はなんだかからかわれたような気がして、拗ねてやりたいような気分になった。
「唯こそ、もうとっくに寝てると思ってたよ」
「私にだって、眠れない日もあるよ」
「そんなこと言って、どうせ新幹線で寝てたせいで眠れないだけだろ?」
「えへへ、そうかも」
そうしてひとしきり会話をすると、唯はまた口をつぐんで静かになった。
私はそれをもう眠ろうという合図だと受け取って、目を閉じた。
けれど目を閉じて数秒後、唯はまた私の名を呼んだ。
「ねえ、澪ちゃん。今、好きな人っている?」
「へっ?」
あまりに突然な質問に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「い、いきなり何言い出すんだよ…」
「だって、せっかくの修学旅行の夜だもん。恋バナしようよ」
私は戸惑った。
唯とは、というより軽音部の仲間とは、恋の話なんて今までろくにしたことがない。
「好きな人、いないの?」
唯は催促するようにもう一度言った。
「いないよ、そんなの」
私は観念して、そう正直に答えた。
「そっか、いないんだ…」
唯はそれだけ言うとまた黙ってしまった。
なんとなく、聞き返して欲しがっている気がした。
あるいは私自身の好奇心からだったのかもしれない。
「唯は、いるの? その……好きな人」
そう尋ねた瞬間、唯の周りの空気がにわかに色めいたのが分かった。
唯が次に言う言葉を、唯と同じ女の子の私は知っていた。
「……うん、いるよ」
恥ずかしそうにそう呟いた唯は、きっと私の見たことのない顔をしていたんだろう。
けれど、月の逆光が唯の表情を隠して、私にはそれがどんな顔だったのかわからなかった。
「誰って、訊いてもいい…?」
ほとんど社交辞令のようなその台詞を言うのに、私はひどく緊張していた。
それは単に、少し照れくさいこの話題に慣れていないからだったのだろうか。
時計の針が、やかましく鳴っていた。
時計の針が、やかましく鳴っていた。
「やっぱりこういう話ってちょっと恥ずかしいね、あはは…」
「な、なんだよ、唯から言い出したくせに…」
唯が笑っても、またすぐにおかしな空気に戻ってしまう。
またやり場のない沈黙がしばらく流れた。
唯に続きを話すように促したいわけではなかったけれど、私は何を言っていいか分からなかった。
またやり場のない沈黙がしばらく流れた。
唯に続きを話すように促したいわけではなかったけれど、私は何を言っていいか分からなかった。
その後ずいぶんと長い間があってから、唯が深く息を吐いた音がした。
つられて、私も息を呑んだ。
つられて、私も息を呑んだ。
「あのね、私ね…」
唯は覚悟を決めたようにそう言うと、しかし隠れるように布団の中に潜り込んで、呟いた。
やけにはっきりと聞き取れてしまったそのくぐもった声は、私以外の誰の耳にも届くことなく部屋の隅の薄闇に吸い込まれるように消えていった。
だから、きっと私の聞き間違いだと思った。
そんなはず。
でも。
だけど。
一瞬のうちにたくさんの言い訳が頭の中を通り過ぎていく。
けれど、同じ女の子の私は、知っている。
「わ、私、やっぱりあっちで寝るね。おやすみなさい」
私が確かめるよりも先に、唯は自分の布団へと逃げて行ってしまった。
その行動が、聞こえた名前が私の聞き間違いではなかったことを物語っていた。
残された私は、不自然に布団の端に寄ったまま、ますます眠れなくなってしまった。
速打つ時計の音を聞きながら、明日、どんな顔をしておはようを言おうか、そのことばかり考えていた。
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