「2人と2匹の関係」(中編)



算数、社会と退屈な授業を経て、3時間目は体育。
雲ひとつ無い青空の下、クラスを2つのチームに分けてドッジボールをすることになっている。
目にも留まらぬ速さで体操着に着替え、ギャーギャー騒ぎながら教室から飛び出していく子供たち。

そんなクラスメート達とは対照的に、ユキオは静かに自分のロッカーへと近づく。
音をたてずに扉を開くと、中のれいむは『ゆ゛っ?』と声を漏らしながらユキオを見上げた。

「おにーさん?い、いたいことはやめてね?れいむがゆっくりできないよ?」

顔面の腫れはすっかりなくなっていて、明瞭かつか細い声でれいむは懇願する。
ユキオが無言でうんうんと頷くと、れいむの表情がぱぁっと明るくなった。

「ゆっ、ゆっくりさせてね!!れいむはゆっくりするよ!!」

狭いロッカーの中で、上下に跳ねながら喜びを表現するれいむ。
それにつられるようにユキオも笑みを浮かべ、れいむの頬を優しく撫でてやる。

「ゆゆん!ゆっくりできるよっ!!おにーさんありがとう!!」
「そうだね、思う存分ゆっくりするといいよ。………ただし、まりさを殺してからね」



「うん!ゆっくりするよ!!……ゆ?おにーさんいまなんていったの?」

れいむは跳ねるのを止め、恐る恐るユキオに問いかける。
一方ユキオは笑みを絶やさぬまま、れいむの頬を撫でる手に少し力を込めた。

「聞こえなかったかな。昨日のまりさを殺して、その後ゆっくりしていいよ、って言ったんだよ」
「ど、どうじでそんなごどいうのお゛お゛お゛お゛ぉお゛ぉお゛お゛お゛お゛ぉむごおぅっ!!??」
「バカ、声がでかいよ!」

慌ててれいむの口をふさぐユキオ。そのままの状態で、教室内を見回す。
あと1,2分もすれば3時間目が始まる。教室内に残っているのは、ユキオだけである。
周りに誰もいないと分かって、ユキオはほっと胸を撫で下ろし、れいむの口から手を放した。

「もごご……ゆぷはぁっ!!いやだよ!!ころしてなんていわないでね!!まりさはとてもゆっくりしてたもん!!!」
「でも、まりさを殺さなかったら、れいむを殺すよ?」

さも当然のように、ユキオは恐ろしいことを言い放つ。
その言葉に、れいむは顔を真っ青にして震え上がった。

「ゆゆ!?れいむはゆっくりしたいよっ!!!ゆっくりさせてね!!」
「じゃあまりさを殺さなきゃ。まりさを殺すか、れいむが死ぬか、どっちかを選ぶんだ」
「ゆうううぅうう!!そんなのえ゛ら゛べな゛い゛よ゛お゛お゛お゛お゛お゛ぉお゛お゛ぉぉお゛ぉ!!!」

れいむは、昨日のまりさのことを鮮明に覚えていた。
森でお兄さんに拾われてから、初めて遭遇した仲間だったから。
故郷で仲良くゆっくりした母や妹達の顔を思い出させてくれる、唯一の存在だったから。
だから、まりさはただの通りすがりのまりさではないのだ。

そんなまりさを殺すことなど、れいむに出来るはずがない。
だが、それをしなければ、今度は自分がゆっくりできなくなる。
れいむは、まりさの命を取るか自分の命を取るか、選べずにいた。

「言っておくが時間は無いぞ。体育の授業が終わるまであと45分。その間に決心して、まりさを殺してロッカーに戻れ」
「で、でも…!!」
「まりさを屋上に連れて行って、そこから突き落とせばいい。簡単なことだろう?
 どうせお前らゆっくりは、いざとなったら自分の命を取るんだろう。悩むだけ無駄だよ」

そう言い残して、ユキオは教室から出て行った。

「ゆぅ………」

ぽつんと取り残されたれいむは、開け放たれたロッカーの口から、無気力な目でぼーっと遠くを眺めている。
まるで、魂を吸い取られてしまったかのように。

(おにーさん…いままではゆっくりさせてくれたのに……)

れいむは、ユキオに拾われたあの日のことを思い出した。





母れいむや妹達と仲良くゆっくりして、とても平和な日々を過ごしていたれいむ。
れいむはある日、かくれんぼの鬼になって妹達を探していたのだが、そのうち自分の居場所すら分からなくなってしまった。
周囲は見覚えのない木々に囲まれ、帰り道も分からない。
食事や睡眠も取らずに、家族を探し回った5日間。
足が痛むのも我慢し、刺々しい草木が身体を傷つけるのも我慢し、ひたすらに森林を駆け回った。

「ゆひぃ……ゆひぃ……ゆぶっ……お゛げぇえ゛ぇ…」

―――みんなとゆっくりしたいよぅ……ひとりはいやだよぉ……みんなとおいしいごはんがたべたいよぅ……!!

日に日に失われていく体力。張りや艶を失う表皮。身体は弾力を失い、視界は霞んでいった。
周りには誰もいない。家族も、見知らぬゆっくりも、他の野生動物も。
れいむの肉体を疲労が蝕み、心を孤独が蝕んでいく。
そんなれいむが薄れゆく意識の中で見た白昼夢は、5日前まで当たり前のものだった、とてもゆっくりとした日々だった。

母の頭上から生れ落ちるときに目にした光景。
初めての『ゆっくりしていってね!!』を、お母さんれいむが褒めてくれたときの嬉しさ。
初めての狩りがうまくいかなくて悔し泣きした夜は、お母さんれいむが優しく慰めてくれたこと。
その後に生まれた妹達にもゆっくりして欲しくて、お母さんれいむと一緒にお世話を頑張ったこと。

全部が全部、れいむにとっての大切な思い出。
そんな思い出をこれからもつくっていきたかった。
しかし、その願いはもう……

―――もっと……もっとゆっくりしたかった…よ……

そして、れいむの目じりに浮かぶ最後の涙。
その涙を、ある少年の声が吹き飛ばした。

「お前、どうして泣いてるんだ?」

彼こそが、現在の飼い主であるユキオだった。
ユキオはしゃがみ込んでれいむの顔を覗きこみ、不思議そうな顔をしてれいむに問いかける。
5日ぶりに言葉を話す生き物を目の当たりにして、れいむは大声で泣き叫んだ。

「ゆ゛っ…ゆ゛ゆ゛う゛う゛う゛ぅぅう゛!!ぶわやあ゛あ゛ぁぁぁぁぁあ゛あ゛あ゛あぁぁ゛あ゛あ゛ぁぁぁん!!!」

それは恐怖ではなく、喜びの叫びだった。
5日間の孤独を打ち破った優しそうな人間の存在は、計り知れないぐらい大きかった。

「おいおい、そんなに泣くなって…」

突然泣き喚きだしたれいむに、ユキオは慌てふためく。

「ざびじがっだよお゛お゛お゛ぉお゛お゛お゛ぉ!!!ゆっぐじでぎながっだあ゛あ゛あ゛ぁあ゛あ゛ぁあぁ゛あ゛ぁあぁ!!!」
「ま、まぁとにかく、早く泣き止めよ」

れいむの頭を撫でて、何とか泣き止ませるユキオ。
その後、れいむから事情を聞き出すと…

「そうか、お前は迷子になって……だったら、俺のペットにならないか?」
「ゆ?ぺっと……ぺっとになたら、れいむはゆっくりできるの?」

ユキオの提案。れいむは“ペット”がどういうものなのか知らなかった。
やせ細った身体から細い声を出して、恐る恐るユキオに問いかけるれいむ。
彼の笑みと共に返ってきたのは、こんな答えだった。

「もちろん。たくさん遊んでやるし、餌もたっぷりあるぞ!」
「ゆ……ゆゆうううぅうううぅぅぅ!!!」

れいむは、これほど生きてて良かったと思ったことはなかった。
全身の疲労に苦しみ続け、孤独を味わい続けた5日間
このまま一生ゆっくり出来ないのではないかと、恐れながら生き抜いてきた5日間。
そんなゆっくり出来ない日々から、この人間は救い出してくれる。
れいむの答えに、迷いは無かった。

「ゆ……ゆゆゆん!!わかったよ!!れいむはおにーさんのぺっとになるよ!!ゆっくりしていってね!!!」

跳ねることもままならなかったはずのれいむの身体に、再び力が宿った。
最後の力を振り絞り、思い切りユキオの胸元に飛び掛る。
それを受け止めたユキオは、優しい手つきでれいむの身体を撫でてやった。

「ゆううううううぅぅうぅ!!れいむはゆっくりできるよおおおおおぉおぉぉおぉ!!」

この時れいむが流していたのは、言うまでもなく歓喜の涙だった。
そして、この時ほど命というものを実感したことは無かった。
一度は死の間際まで追い詰められたれいむは、誰よりもゆっくりすることの重さを知っている。
他のどのゆっくりよりも、ゆっくりと生きていくことの難しさを、その喜びを、頭でなく心で理解している。
だから、だかられいむは―――





ユキオの言ったとおり、自らの命を犠牲にする選択はできなかった。

「れいむはじにだぐないっ!!れいぶはじなないでゆ゛っぐじじだい゛ぃ!!ゆ゛っぐり゛じだい゛のお゛お゛お゛ぉお゛ぉお!!!」

れいむは一人きりで泣いていた。
誰もいない教室の、整然と並べられたロッカーの前で、人知れず泣いていた。

「れいむは……れいむは、ゆっくりしたいよぅ!!」

一度失いかけてユキオが再び与えてくれた“ゆっくり”を、二度と手放したくない。
ユキオの命令さえ聞けば、今までのようにゆっくりさせてもらえる。
ならば、れいむの心に迷いは無い。

……れいむは、まりさの命を犠牲にしてでも生きてゆっくりすると決めた。

「まりさ…れいむはゆっくりするよ……だから、ごめんね………」



れいむは重い足取りで、教室の端から端まで跳ね進む。
目指す先は、まりさの飼い主であるヒロブミのロッカーだ。
そこにまりさがいることは、以前から知っていた。

ヒロブミのロッカーは、教室後方窓際の最下段にある。
れいむは扉の取っ手をはむっと咥え、うまく体重移動して開いた。
中を覗いてみると、まりさはぐっすりと眠っていた。
教科書やノート、その他の教材に押しつぶされながらも、ゆぅゆぅと幸せそうな寝息をたてている。
この様子では、先ほどのユキオとれいむの会話も聞いていないだろう。

「ゆゆ……まりさ、ゆっくりしているね…」

悲しげな声で、独り言をこぼすれいむ。
無意識のうちにため息を漏らしながら、ロッカーの中のまりさへと這い寄る。
こんなまりさとゆっくりしたら、とてもゆっくり出来るだろうなぁ……
まりさと頬をすり寄せ合う自分を想像して、れいむは顔を真っ赤に染める。
だが、それが到底叶い得ない夢物語であることを思い出すと、もうひとつため息を漏らした。

れいむは気を取り直すと、すぅっと息を吸い込んで大きな声で叫んだ。
もちろん、ゆっくりとゆっくりの挨拶といえば、これである。

「まりさ!!!ゆっくりしていってね!!!」
「ゆ?ゆゆぅ?……ゆっくりしていってね!!」

突然の挨拶に戸惑いながらも、まりさは本能に従って挨拶を返す。
そして、れいむの姿が目に入ると……まりさは元気よく周囲の道具などを押しのけて、ロッカーの外へ出てきた。
太陽のような笑みを浮かべ、れいむの頬に自分の頬をすり合せて、れいむを歓迎する。

「ゆゆっ!!れいむ!!ゆっくりしていってね!!ゆっくりしようね!!」
「そ、そうだね!!いっしょにゆっくりしようね!!」

れいむの心が、ズキッと痛んだ。
こんなにもゆっくりしているまりさを、自分は騙している。欺いている。
本当はこんなことしたくない。まりさと思う存分一緒にゆっくりしたい。
でも、自分がゆっくりする為に、自分だけがゆっくりする為に、まりさをゆっくり出来なくさせなければならない。
考えれば考えるほど、れいむは心を締め付けられる痛みに苦しんでいく。

「ゆゆ?れいむ……げんきがないよ?どうしたの?」
「ゆ……な、なんでもないよ!!れいむはいつもげんきだよ!!ゆっくりしんぱいしないでね!!」
「それならあんしんだね!!まりさもゆっくりできるよ!!」

努めて元気があるように見せかけ、まりさを安堵させるれいむ。
こうやって嘘の上に嘘を重ねていき、れいむの心はその痛みを増していくことになるのだ。
そのことに、れいむ自身は気づいていない。

「れいむ!!どこでゆっくりする?」
「ゆゆ~ん……お…おくじょうがいいよ!!たいようさんがゆっくりしてるから、とてもゆっくりできるよ!!」
「ゆゆ!そうだね!!おくじょうでゆっくりしようね!!」

れいむの真意など知らないまりさは、リズミカルに跳ねながら教室から飛び出す。
まりさの後を追って、れいむは気を取り直して教室の外へと飛び出した。
目の前に広がっているのは、どこまでも続く長い廊下。
今は授業の時間だ。原則的に、先生も生徒も教室から出てくることはない。

「ゆゆぅ……ゆっくりしずかにいこうね」
「そうだね!……そろーり、そろーり」

2匹は、声をそろえて『そろーりそろーり』と囁きながら、廊下を這っていく。
れいむにとって、初めての友達との初めてのお散歩。
大きな声で喋り合ったり、歌ったりすることは出来ないけれど、こうやって歩いているだけでとても楽しいものだった。

そして、廊下には自分たち以外に誰もいない。
れいむとまりさの知る廊下というのは、いつも人間がたくさんいてゆっくりできない場所だったが……
今、この時だけは、2匹が独占できる。誰のものでもない、れいむとまりさのゆっくりプレイスだ。

静かに。
静かに。
そのゆっくりプレイスを、人間に壊されたくないから。
2匹はひたすら、音をたてないように気をつけて、這い進んでいく。

「なんだかすごくゆっくりできるきがするよ」
「そうだね……まりさも、すっごくゆっくりできるきぶんだよ」

とても静かな、ゆっくり出来る場所。
2匹は知らず知らずのうちに、互いの頬を寄せ合う。
ぴたっと頬と頬が触れ合った瞬間、2匹は驚いて身体を互いから離した。

「ゆゆっ!……び、びっくりさせてごめんね!」
「ま、まりさはだいじょうぶだよ!……れいむがとてもゆっくりしてたから!」

2匹とも顔をほんのりピンク色に染め、慌てて視線をそらす。
しばらくして再び顔を見合わせると、お互い微笑みあいながらもう一度頬をすり合わせた。

「すりすりしながら、ゆっくりすすもうね!」
「ゆっくりすりすりして、ゆっくりしようね!」

長い長い廊下。
階段にたどり着くまで、あとどれぐらいかかるだろうか。
きっと、れいむたちにとって気の遠くなるぐらい長い時間がかかるのだろう。

でも、れいむはそれでいいと思った。
階段にたどり着いたら、一段一段跳ねて移動する必要があるから、どうしてもまりさと離れなければならない。
しかし、廊下を移動している間はこうしてまりさとすりすりする事が出来る。

―――ずっとずっと、まりさとゆっくり、すりすりしたいよ!

この時間がずっと続けばいいのに。
まりさとずっとゆっくり出来たらいいのに。

そう願いながら、れいむは階段にたどり着くまでずっと、まりさとすりすりし続けた。



「「ゆーしょ!ゆーしょ!」」

2匹で協力して、ドアの隙間に身体を捻じ込んで押し開ける。
外のぽかぽかとした日差しが、その隙間から2匹の身体に降り注いでいる。

「ゆんしょっ!!」「ゆゆんっ!!」

重たいドアの隙間から、勢いよく外に飛び出す2匹。
遅れて、バタァンと重々しい音をたてて、ドアが閉まった。
ぽてんぽてん。れいむとまりさは軽やかに弾みながら、辺りを見回す。
そこには、2匹が思い描いていた以上のゆっくりプレイスがあった。

「ゆゆううぅぅ!!」
「ここならとてもゆっくりできるよぉ!!!」

とても暖かくて、とても広くて、とてもゆっくり出来る場所。
教室を出発してから数十分を経て、ようやくたどり着く事が出来た。
ここでは太陽さんも風さんも雲さんも、みんなゆっくりしている。
この屋上には誰もいない。れいむとまりさだけが、ここにいる。

だからここは、れいむとまりさだけのゆっくりプレイスだ。

「ゆゆっ!!ここをれいむたちのゆっくりプレイスにしようね!!」
「ゆゆーん!!きょうからここはまりさとれいむのゆっくりプレイスだよ!!」

そして、ぐぐっと力を込めて縮こまるれいむとまりさ。
次の瞬間、ぽんっと弾かれたように2匹同時に飛び上がり……

「「ゆっくりしていってね!!!」」

まるで兄弟のように、2匹は声をそろえて合唱した。
ゆっくり出来る喜びを、友と一緒にゆっくり出来る喜びを、全身で表現しているのだ。

「ゆっくりぃー!!」
「ゆっくりできるよぉー!!」
「ゆっくりしようねー!!」
「ゆっくりぃいいいぃぃ!!」

屋上を縦横無尽に跳ね回り、転がり回り、それでも喜びを抑えきれずに跳ね回る。
数分経って疲れたのか、2匹は息切れしながら屋上のど真ん中で落ち合った。

「ゆふぅーゆふぅー!ちょっとつかれたね!!」
「そうだね!!ちょっとゆっくりしすぎたね!!」

語り合いながら、頬を重ねる2匹。
ぷっくらとした頬が弾むように震えながら、お互いの感触を教えてくれる。
柔らかい日差しに包まれて、2匹は少しずつ夢の中へと誘われていく。

その時、宙を舞うある物をまりさが見つけた。
閉じかけていた瞼を一気に開き、強く地面を蹴って跳ねる。

「ゆゆっ!!ちょうちょさんだ!!」

ひらひらと羽を一生懸命動かして舞っていく蝶を見上げて、まりさは追いかけ始めた。
れいむは重たい瞼を何とか持ち上げながら、まりさの後を追う。
そして……

「まりさ!!ゆっくりまってね!!……ゆゆぅっ!?」

れいむは気づいてしまった。
蝶を凝視したまま、周囲がどんな状況か理解していないまりさが、向かっている先。
そこにはゆっくりがちょうどすり抜けられる柵があって、その奥には……床がない、ということに。
このまま放っておけば、まりさは柵の間を通り抜けて、数十メートル下の地面へ真っ逆さまに落ちてしまう。

「ゆ、ゆぐうううぅぅ……!!」

ここに来て、れいむは再び忘れかけていた難題に頭を悩ませ始めた。
このまま放っておけば、まりさは死ぬ。約束どおり、お兄さんはれいむをゆっくりさせてくれる。
まりさを助ければ、れいむがゆっくり出来なくなる。お兄さんが、れいむを殺すと言っていたから。

どうすればいい?
れいむは、どうすればいい?

ただただまりさの後を追うだけで、結論は出てこない。
こうして迷っている間に、まりさは柵に到達しつつある。

れいむは、ゆっくりしたい。
でも、まりさにもゆっくりして欲しい。
そして、れいむはまりさとゆっくりしたい。

だって、まりさはれいむの初めての友達だから。
お母さんとも、妹たちとも違う、初めての、“れいむの友達”だから。

「……………ゆゆぅっ!!!」

その時、れいむの心の中から迷いが消え失せた。
まりさが柵を飛び越え、着地する直前である。

「まりさぁ!!!!ゆっくりしていってねえぇえぇぇぇ!!!!」




「ゆっ?ゆっくりしていってね!!」

ぴたっと立ち止まり、振り返ったまりさ。
その頭上をひらひらと蝶が飛んでいき、やがて2匹の視界から消える。
ホッとしたのも束の間、第2の危機がまりさに襲い掛かった。


ゴオオォォォッ!!!


柵をギシギシと揺らす突風だ。


「ゆゆぅ?」


何事か、と首を傾げるまりさ。

その瞬間、まりさの体がふわぁっと浮き上がった。


「ゆゆっ?おそらをとんでるみたい!!」
「まりさあああぁああぁあぁぁぁあぁぁっ!!!!」

暢気な声を上げるまりさに向かって、れいむは全力で駆ける。
そのまま躊躇わず柵の隙間を通り抜け、まりさの下膨れにがしっと噛み付いた。

「ゆゆぅっ!!いたいよっ!!ゆっくりやめてね!!」

噛み付かれた痛みに、暴れながら叫ぶまりさだったが……
強風に煽られながら真下を見下ろして、その顔面は真っ青に染まった。

「ゆひぃっ!!ごわいぃっ!!ごごじゃゆっぐじでぎないいいぃいぃ!!!」
「ゆむむむむっ!!!ゆっむむみむめっめめっ!!!」

人間の子供が見たら泣いて逃げ出してしまうような表情で、まりさは硬直してしまう。
そんなまりさを、れいむは風に負けまいと必死に引っ張る。

「だずげでぇぇ!!!ゆっぐりだじゅげでねええぇえぇぇ!!!」
「もーむもみまもっ!!!ゆっむみぃぃ!!!」

決して、力を抜いてはいけない。
その瞬間、まりさは……れいむのたった一人の友達は、飛ばされていってしまう。
だから、力を抜いてはいけない。
まりさのために。れいむの友達のために。そして、れいむ自身のために。
れいむは、力を抜いてはいけない。

ずっと歯茎に走る痛みに耐え続ける。涙が滲んで前が見えなくなる。
でもこんな痛み、5日間ひとりぼっちだった頃の苦しさに比べたら、まだまだゆっくりできるものだ。
そう思い直して、れいむはぎりぎりと顎に力を込めて、風が弱まるのを待ち続け……




数秒経って、風が収まった。
れいむとまりさにとっては、それは30分にも1時間にも感じられた。

「ゆっ…ぷはぁっ!!!」

転がり込むようにまりさを引っ張り、柵の内側へと退避するれいむ。
先ほどまでの強風が嘘だったかのように、屋上をそよ風が撫でていく。
体力を殆ど使い果たしたれいむは、体勢を立て直すことも出来ずに仰向けに転がったままだ。

「ゆはぁ……ゆはぁ……ゆっくりたすけたよ……」

そこへ、命を救われたまりさが噴水のように涙を流しながら駆け寄ってくる。

「れいぶううぅううぅぅ!!!ごあがっだよぅ!!!だずげでぐれでありがどうぅっ!!!」
「ゆふふ……ゆっくりきをつけてね!」

感謝の気持ちを込めてぐいぐいと頬をこすりつけてくるまりさ。
れいむは、それに応えるようにして何とか身体を起こした。

「れいむはやさしいね!!すごくゆっくりしてるよ!!れいむはまりさのいちばんのともだちだよ!!」
「ゆゆぅ、ゆっくりてれるよ!!あまりほめないでね!!………ゆゆっ!?」

まりさの顔を見たれいむ。
その視線が、ある違和感に引き寄せられて、少し上へと吸い寄せられる。
そこにあるべきもの。まりさがまりさなら絶対になくてはならない、とても大切なもの。


……まりさの帽子が、なくなっていた。


「ま、まりさ!!おぼうしがなくなってるよ!!」
「ゆ?……ゆゆぅ!?まりさのおぼうしどごにいっだの゛お゛お゛お゛おぉお゛お゛ぉお゛ぉ!?!?!」

頭上にあるべきものがないことにようやく気づき、まりさは慌てて周囲を見回す。
目をがっと見開いて、米粒一つまで逃さないぐらいの注意深さで、見える範囲は全て探す。
だが、まりさの帽子はどこにも落ちていなかった。

「きっと、かぜさんにとばされちゃったんだね…」
「そ、そんなああぁああぁぁぁ!!ごれじゃゆっぐりでぎな゛い゛よ゛お゛お゛お゛お゛おお゛ぉぉお゛お゛ぉぉ!!!」

ゆっくりは、その髪飾りや帽子を失うとゆっくりできない、という認識を持っている。
実際、髪飾りなどをつけていない個体は、他の個体からゆっくりとして認められないことが多い。
時には異端者として暴行を受け、酷いときには殺されてしまうこともある。
それを知っているのかどうかはともかく、まりさにとって帽子とは命と同じぐらいの重みがあるものなのだ。

「う゛え゛え゛え゛え゛ぇえ゛え゛ぇぇぇえ゛ん!!!まりざはまだまだゆっぐりじだがっだのに゛い゛い゛い゛い゛いぃい゛い゛ぃぃ!!!」

まるでこの世の終わりが訪れたかのように、全身をぐねんぐねんさせて泣き喚く。
口を限界まで開き、騒音の域に達している大声が膜のように張った頬をぶるぶる震わす。

「ま゛り゛ざはゆっぐじじでだだげな゛の゛に゛ぃ!!!ばりざはなにもわどぅいごどじでだい゛の゛に゛い゛い゛い゛ぃぃ!!!」
「まりさ!!ぼうしがなくても、まりさはまりさだよ!!れいむがいっしょにゆっくりしてあげるよ!!!」

まりさの泣き声を遮るように発せられた、れいむの力強い呼びかけ。
それを聞いて、まりさはぴたりと泣き止んだ。
きょとんとした表情で目を潤ませたまま、じっとれいむの顔を見つめるまりさ。
やがて、弱々しい声で恐る恐るれいむに問いかけた。

「ゆ…ゆぅ……ほんとうに?まりさのぼうしがなくても、ゆっくりさせてくれる?」
「ほんとうだよ!!れいむがゆっくりさせてあげるよ!!」
「れ、れいむはまりさと……いっしょにゆっくりしてくれるの?」
「もちろんだよ!!れいむはまりさとゆっくりするよ!!」

れいむにとっては、当たり前のことだ。
母でもなく妹でもない、初めての友達を……帽子がなくなったぐらいでゆっくりさせないなんて、そんなことはありえない。
まりさはまりさ。れいむのまりさ。れいむの一番の友達なのだから。

「ゆっ……ゆ゛う゛う゛う゛ぅう゛う゛ぅぅれ゛い゛む゛う゛う゛う゛ぅぅぅぅっ!!!!」

その瞬間、まりさは堰を切ったように涙を流しながら、れいむに飛びつく。
すりすりすりすり。これでも足りないと言わんばかりに、頬をこすり付けて喜びを表現する。
れいむは戸惑いながらも、それを受け入れた。
一番の親友とのすりすりは、母よりも妹達よりも……ゆっくり出来る気がしたから。

そして、涙を振り払ったまりさと共に、れいむはゆっくりし始めた。

「ゆっくりぃ~」
「ふたりでず~っとゆっくりしようね……」

時間にすれば、ほんの数十分のこと。
廊下を歩いて、階段を上って、屋上にやってきた、ただそれだけのこと。
でも、れいむにとっては何物にも代えがたい大切な時間で、大切な思い出で……

それらを共に過ごしたまりさは、れいむにとって何よりも大切な友達。

もう、お兄さんの命令に従うのはやめよう。
こんなにかわいい2人がゆっくりしてるのを見れば、お兄さんだって考えを改めてくれるに違いない。
お兄さんもゆっくりさせてあげれば、“まりさを殺す”なんてことがどんなに馬鹿げてるか理解してくれるだろう。
れいむは、そう信じて疑わなかった。

「ゆぅ……ゆっくりぃ……」
「すやすや……ゆっくりぃ~…」

2匹はいつしか、互いに寄り添いあって眠りに落ちていた。
初秋の暖かな日差しに包まれて、穏やかな風に撫でられながら……



「ゆっ……ゆゆっ?」

うっすらと目を開いたのは、れいむが先だった。
ぱちぱちと瞬きをしながら辺りの様子を窺い、目の前の夕日に目を細める。

「ゆゆ!ゆっくりねむっちゃったんだね!!」

れいむには正確な時間は分からなかったが、かなり長い間眠っていたことだけは分かった。
そして、太陽が真っ赤になっているということから、そろそろおうちに帰る時間であるということも。

「まりさ!ゆっくりおきてね!!おうちにかえるじかんだよ!!」
「ゆっ……ゆゆぅ?もうあさなの?」

れいむに頬を撫でられながら、まりさは寝ぼけたことを言う。
意識が覚醒してくると、太陽さんがもうすぐゆっくりしちゃうよ、と驚き跳びはねた。

「ゆゆっ!!ゆっくりしていってね!!」
「ゆっくりしていってね!!でも、きょうはたいようさんがゆっくりしちゃうから、もうおうちにかえろうね!!」
「ゆゆ~ん!!あしたもいっしょにゆっくりしようね!!」

2匹仲良く並んで跳ねて、屋上の出口へと向かう。
風は冷たくなってきているが、お互いの暖かさが2匹を満たしている。
もっとまりさとゆっくりしたかったなぁ、と思いながら扉の隙間に身体を捻じ込もうとした……その時。


扉が勝手に、開いた。


「「ゆっ!?」」

2匹が協力してやっと開ける事のできる扉を、いとも容易く開けてのけた者の正体は…




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最終更新:2022年05月03日 16:20