ゆっくりがこの街にやってきたのは、確か僕が小学生の頃だったと思う。
 習い事の帰り道、日陰でバスを待っていると、後ろの茂みからがさごそと音がした。
 振り返ってみるとそこには奇妙な生き物がふんぞり返っていた。

「ここはれいむのゆっくりぷれいすだよ! ここでゆっくりしたいなら、れいむになにかちょうだいね!」

 それはまさに饅頭だった。しかし、饅頭というにはあまりにも大きすぎた。大きく、ぶ厚く、重く、そして大雑把
すぎた。
 おまけに顔がついているのである。
 今でこそ歩道をひょこひょこと跳ねる姿にも見慣れてしまったが、当時まだ国内でもUMA扱いされていた頃
のことだ、人間の生首をへちゃむくれにしたようなそのフォルムは小学生の僕にとてつもない恐怖を刻み込んだ。

「なに勝手にゆっくりしてるのぉぉぉ!? ばかなのぉぉぉ、しぬのぉぉぉ!? はやくなにかちょうだいねっていって
るでしょぉぉぉ!?」
「ひぃ!」

 もう、これ、トラウマといってもいいかもしれない。
 見たことも聞いたこともない異形の饅頭が、目の前で怒りもあらわにぽむぽむと跳ねまくってるのだ。
 僕はその場にへたり込んでしまっていた。下手をすれば座尿も禁じえない状況だった。
 そんな僕を助けてくれたのは、一緒に習い事をしていた友達であった。

「ここはれいむのゆっ――ゆぎゅうううううううう!」

 彼女は僕の前に立ちはだかると、その爪先で思いきり饅頭を蹴り上げた。
 饅頭は綺麗な放物線を描いて、再び茂みの向こうへと消えた。

「あ、あれ、なに? なんなの?」
「知らない。あんな気持ちわるいもの、見たことも聞いたこともないわよ」
「そうだよね……。ぼく、こわいよ……」
「あんた男でしょ? ちょっと様子見てきなさいよ」
「むりだよそんなの……! 見たことも聞いたこともないのに、できるわけないよっ」

 と、掛け合いをしているうちに、また向こうからぼよんぼよんと跳ねてきた。

「ゆゆ! いたいよ、なにするの?  れいむはなんにもわるいことしてないのに!」

 それはやはり、どこからどう見ても生きた饅頭だった。
 人の顔を模し、頭にリボンまでつけている。実におぞましい。
 とてもこの世のものとは思えなかったが、ぎゃんぎゃん騒ぎ立てる声で耳が痛いことから、どうやら夢をみて
いるわけではないようであった。

「あんた、なんなのよ。まんじゅうの化物?」

 友達はその奇怪な生き物と意思疎通をはかろうとしていた。
 あっけなく蹴り飛ばされたのを見て、危険はないものと判断したんだろう。しゃがみ込んで、目線をあわせる。

「れいむはれいむだよ! れいむをまんじゅうだなんて呼ばないでね!」
「〝れいむ〟……? それ、あんたの名前? そうじゃなくて、わたしはあんたがなんていう生き物なのか――」
「れいむはれいむだよ! れいむはれいむだよ!」
「わたしの話を聞け」

 無造作にその頭頂部を殴りつけた。
 饅頭は「ぐべえ」と口から何か黒いものを吐き出してもがいた。

「で、でいぶは……でいぶなんだよ……。この世でいちばんゆっくりしたいきものなんだよ……」
「ゆっくりした生き物って何よ」
「ゆっくりはゆっくりだよ……!」

 意味がわからない、と彼女は肩をすくめた。

「――ま、いいや。それで、どこからきたのよ。外宇宙とか?」
「でいぶはまだ山からおりてきたばかりだよ……。ゆっくりぷれいすをさがしにきたんだよ……」
「だから、ゆっくりぷれいすって何」
「とてもゆっくりできるところだよ!」

 急にぴょんと元気に飛びあがった饅頭に驚いて、友達は地に手をついてしまった。
 アスファルトの不快な感触に眉をしかめ、「やれやれ」と呟き、その態勢のままこちらを振り向いた。

「ねぇ、まだこれを怖いと思ってる?」
「……うん。まだ、ちょっと」
「怖いものは克服しなきゃいけないって思わない?」

 見れば今までのやりとりはどこへやら、饅頭は何だか誇らしげに眉をつり上げて、ぽむぽむと跳ねていた。「ゆ
っくりもわからないなんて、人間さんはおろかだね! ばかなの、ちるの?」とも言っている。
 なんだろう、この胸に沸き上がる感情は。
 ゆっくりの跳ねる勢いはさらに増していく。

「こいつらはきっと、虐げてもいい生き物よ」

 思えば、僕の心に黒いものが芽生えたのは、この時だったのかもしれない。
 少なくとも、彼女のこの言葉が踏ん切りとなったのは確かなことだ。

「やっぱり人間さんはゆっくりできないよ! れいむのゆっくりぷれいすからでていって――ゆぎゅうううううううう!」

 尻餅をついた友達に今にも襲いかからんとした饅頭を、僕は思いきり蹴った。
 後にゆっくりと呼ばれるその生き物は、美しい虹の曲線を描いて、ゆっくりとどこかへ飛んでいったのだった。


   ※


 こんな風にゆっくりは街にあらわれて、そのまま居着いてしまった。
 やつらはどこからともなく現われ、どこにでも侵入し、ゴミ箱から果ては台所までこれでもかというくらいに
荒らしまくる。人語を操るくせに人の話は聞かず、何度たしなめても反省の色すら見せない。
 これでは嫌われないはずがなかった。
 街の人間は初めこそ未知なる生物に驚き戸惑ったが、やがて醒めた表情でカラスやゴキブリと同様――いや、
それ以下のものとして扱い始めた。
 今やゆっくりが街中で見かけられようものなら、ただちに市役所へ通報され、専用の回収車がやってくる。

「ゆゆん? おろかな人間がなんのようなんだぜ?」

 と、饅頭どもはいつだって余裕綽々だ。
 職員に掴みあげられても「ゆーん、おそらをとんでるみたい!」と楽しむ素振りすらみせる。
 だが、その目の端に回収車の内部を捉えたところから、様子が変わってくる。

「ひっ」

 声色が変わるのは一瞬だ。
 あなたの街にも巡回しているだろうゴミ収集車を想像して欲しい。
 大きなゴミ袋がどのように圧縮されていくかを想像してみて欲しい。
 人間に頭を捕まれたゆっくりは身動きをとることができない。だから、必死に哀願する。

「やめてね! ゆっくりはなしてね!」
「おねがいだから、たすけてね!」

 態度をひるがえすその様子や、呆れを通り越して、面白さすら感じてしまうものだ。
 職員たちもきっとそうなのだろう。散々脅しすかした上で、無情を装って回収車に放り込んでいく。
 ドラムの回転に巻き込まれ、「ぎぇ!」とか「ぎゅぅぅ!」とか「どぼじでごんなごどずるのぉぉぉ!」とか叫びな
がら潰されていくゆっくりたち。
 僕はその様子を観察するのが好きだった。



 さて。
 ここまで読んでいただいたとおり、この話はストレートなゆっくり虐待とは言いがたい。
 これから先は、どちらかというと人間の方がよく喋るし、ジャンルは何かというとサスペンスだと思う。
 あなたがもし、そんなものは求めてないよと言うならば、以下に多少の空白行を設けておいたので、本題に入る
前にブラウザの戻るボタンを押して欲しい。
 しかし、もしもだ。もしもあなたに多少の興味があって、こんな喋りたがりを許してくれるなら、少し昔の話を
させて欲しいのだ。
 街中でゆっくりを見かけると、僕は今でも彼女のことを思い出してしまうから。










           『僕らの街のゆっくり殺し』










 高校に入って幾月か経った頃のこと。
 その日には理科の実験があった。

「はい、今日は実際にゆっくりを使って、適切な駆除の方法を学びたいと思います。皆さんは三、四人でグループ
をつくって、理科室に移動してください」

 高校生になってまで理科の実験かよ、と思わないでもなかったが、世界情勢の変化によりカリキュラムの変更
があったのだから仕方ない。
 昨年に行われた教育改革により、僕たちは大人になるまでにゆっくりについて正しい知識を身につけなければ
ならなくなった。そのため、学校が余分に用意していた英語や数学の時間を削って、このような授業が設けられ
ることとなったのである。
 頭の痛い構文や定理から小一時間でも逃れられるというのは非常な楽しみではあったが、さりとて手放しでは
喜べなかった。
 先生は〝三、四人でグループをつくって〟と言った。

「神様……。どうして神様はこんな試練を……」

 結局、女子と組むことになった。
 理由はお察しいただきたい。
 いや……できれば、察しないで欲しいな……。

「おい、乾。おまえ、女子と組むのかよ?」

 移動のため廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
 振り向けば、そこにはクラスで一番目つきの悪い、金髪の篠村くんがいた。
 胸板が厚く、上背もあって、彼においそれと声をかける者はいない。どう考えても僕とは別な畑に住んでいる人
だ。
 きっと因縁をつけにきたんだろう。そう思って小さくなっていると、案の定こんなことを言われた。

「今、おれの目つきが悪いと思っただろ」
「そんなことは……」

 僕は目を逸らした。
 図星だったことは向こうも察したらしい。質問が繰り返される。

「目つきが悪いと申したか」
「せ、拙者はさようなことは……」

 思わずネタにネタで返してしまった……!
 ていうか、いきなりなんだこいつ……! 僕を伊達にするつもりか……!
 そんな感じに汗を流していると、篠村くんはにやっと笑って、僕の肩に腕を回した。

「おまえ、見た目に寄らず話がわかるな。話がわかるやつはいいやつだ」
「なんだよ、からかいに来たんじゃないのかよ」
「友達がすくねーことに関しては、おれも人のことは言えねぇよ。だから、寂しい者同士、仲良しになりにきたん
だ」
「どういうこと?」

 彼は僕の耳に口を寄せ、秘密めかして囁いた。

「おれも実は、女子と仲良くなりたい」
「……ええ?」
「そっちはまだ三人だ。一人くらい増えたところで構いやしねーだろ?」

 篠村は肩から手をどけると、そのまま僕の尻をパァン!と叩いた。

「安心しろよ。おれが狙ってるのは相川の方じゃないから」

 じゃあ今日はよろしく、と彼は先に歩いていった。
 今までも何度か女子とグループを組んだことがあったが、からかいを受けてもそれは決まって別の女子のこと
だった。グループには大抵の場合、相川もいたが、彼女のことを話題にする男子は一人としていなかった。
 痛む尻をさすりながら、僕は思う。
 篠村の方こそ、見た目によらないんじゃないか?


   ※


 さっそくで悪いが、ゆっくりを導線で繋げてみた。
 小学生の頃にやった豆電球の実験を思い起こして欲しい。まさにそんな感じだ。教壇の上では、先生が電池を直
列につないだり並列につないだりして、ゆっくりの反応をみている。

「はい、皆さんどうですか。直列繋ぎの方がより効果がありましたね?」
「ゆっ……ゆびっ……!」
「このように、ゆっくりは電流に非常に弱い構造となっています。彼らの中身はみなさんご存じのとおり餡子です
が、その中心には人間では脳にあたる〝中枢餡〟と呼ばれる器官があります。ここに電流が流れると、体の動き
が制御できなくなり、このように言語機能にも影響がでます」
「ゆびっ。や、やべて……ゆびっ」
「なので、もしも街中で子どもを連れてゆーゆー歌う饅頭を見つけたら、そのままコンビニに寄って市販のゆっく
り用スタンガンを買いましょう。人間には無害な程度の電流で、安全に駆除できますので」
「ゆっ……ゆっ、ゆっ、ゆっ」

 僕らのグループでは、特に篠村が入れ込んでゆっくりに電流を流していた。
 実験用のゆっくりの赤子――通称、赤ゆはすでに三つほど黒こげになっていた。乾電池を十個も直列に繋いだ
所為だ。ぷすぷすと湯気をあげ、香ばしい匂いを漂わせている。昼前なので、なんだかお腹が減ってきてしまう。

 ――考えてみれば、ゆっくりとはなんとも不思議な生命体だ。
 ちと大きすぎるが、その正体は紛うことなき饅頭だ。目から口から髪から装飾品まで、食べようと思えばマジで
食べられる。
 これだけを考えれば、なんて地球に優しい生き物なんでしょう!という感じだ。
 事実、政情不安定な中東やアフリカの国々では、数え切れないほどの子どもたちがゆっくりによって救われて
いるらしい。食文化圏にも麺・パン・米に、最近ゆっくりが加えられたくらいだ。
 もしかして、ゆっくりとは神様が遣わした救世主なんじゃないかとすら思う。

「それはさておき、ゆっくりを虐めるのは楽しいよな」
「おお、楽しいとも。乾、おまえやっぱり話がわかるなぁ。今日、どっか遊びに行かないか」
「え、いや……まぁ、やぶさかではないけど。でも、なんでそんな藪から棒に」
「言いかえれば作戦会議だよ。ほら、向こうであくびをしてるお嬢さん方を見たまえ。おれたちには、ゆっくり以
上に興味がなさそうだ。事態は急を要するとは思わんかね」

 最後の方だけひそひそ声になって、篠村は言った。
 つられて向こうを見る。
 テーブルを挟み、そっぽを向いて座っているのが、グループに僕を誘ってくれた中原だ。
 周りの女子よりも頭一つ小さく、そのでっぱりの少ないシルエットは野ウサギに近い。成長期もそろそろ終わ
るのに大丈夫か……?と思うが、こちらが心配しなくても、どうやら本人が一番気にしているようだった。
 なんだか俯いてるな、そんなに眠たいのかな、と思ったらパンを囓っていやがった。
 そのパンの名は『毎日おいしくカルシウムブレッド』。

「食パンかよっ」
「うっせぇクズが! 先公にバレんだろーがよぉ」

 ……このとおり口が悪いのが玉にきずだ。
 見た目とのギャップが本当に残念でならない。

「なぁ……あんなのどこがいいのさ。篠村はもしかしてロリコンなの?」
「おれは、自分より口の悪い女子を生まれて初めて見たんだ」
「マジで? マジでそんな理由?」
「いや、嘘に決まってんだろ。中原がそういうんじゃねーってのは、おまえだってわかるだろ?」
「そりゃあ……」

 まぁ、僕の数少ない友人なので。
 不機嫌そうに食パンを貪る彼女が、見た目どおりの性格ではないことは知っている。

「それよか、おまえの方が物好きだと思うぜ。おれの観察眼を持ってしても、あれは根暗にしか見えない」

 言われて、視線を移した。
 四人組の最後の一人――相川は一人窓の外に顔を向けていた。
 友達であるはずの中原からも距離をとって、グラウンドを駆けるサッカー少年をぼぉと眺めている。その中に彼
女の思い人がいるというわけでもないだろう。
 その黒目がちな瞳は、先ほどから動く様子を見せていない。
 篠村は、僕を物好きだと言う。

「ま、人の趣味は色々だ。おまえがおれに協力してくれるってんなら、その逆もやぶさかでない」
「僕もその提案にはやぶさかでない」
「オーケイ、心得た。じゃあ、まずはコミュニケーションをとろう。乾は、あのたそがれ清兵衛と食パン娘、どっち
が話しかけやすい?」
「そりゃ決まってる」
「では、第一投はまかせたぞ」

 え、それずるくないか?とは思ったが、僕としてもこのまま男子だけで内緒話をしているのは気まずかった。
 なので、相変わらずもぐもぐと口を動かし、二枚目に差しかかっている食パン娘さんに話しかけてみることに
した。

「カルシウムばかり食べても背は伸びないよ」
「喧嘩売ってんのかてめぇ! ああん?」

 話しかけただけでキレられた!
 篠村くん! こいつを好きだなんて、あんたの方が物好きだよ!

「あーん? 乾てめぇ。自分から輪に入っていけない可哀想なてめぇを誘ってやったこの大天使様に、よくもそん
な口がきけるな。人の身体的欠陥をからかうやつはクズだって教えてもらえなかったのか?」
「い、いや……その、あれだ。からかうなんてとんでもない。カルシウムを吸収するためには、たんぱく質も必要な
んだよ。食パンには何かつけた方がいいって言いたかったんだ」
「え、そうなの?」

 きょとんとした顔をして、中原は食パンから顔をあげた。口元にくずがつきっぱなしだ。
 急にこういう素顔をのぞかせるから、女子ってわからない。

「カルシウムのためなら仕方ないな……。でも、参った。つけるものったって、あたし何ももってないよ」
「なに言ってんだ。目の前にあるじゃないか」

 僕はテーブルの上の赤ゆを指さした。
 元は七匹いたものが、すでに篠村の手によって半分まで減らされているものの、その大きさはゴルフボールほど。
パンにつけて食べるなら十分な数だろう。

「え……ゆっくりを、パンに挟むの?」

 信じられないという顔。どうやら中原はゆっくりが食用になることを知らないらしい。
 そこに良いタイミングで篠村が入ってきた。

「中身は餡子だって先生も言ってたろ? 植物性たんぱく質が多くて健康にもいいとか、最近テレビでやってるの
を見たぜ」
「でも、あたしゆっくりって……嫌いなのよね。触りたくもないくらいなんだけど」
「ゲテモノっていうのは大抵美味しいって聞くよ。事実、ゆっくりは世界を救うくらいに美味しい」

 と、これは僕。
 僕自身、ゆっくりを食べること――食ゆは経験済だった。
 八百屋で袋売りしているのを何度か買ってきて食べた。それは市販の饅頭と遜色なく、食べるうちに幾つか気
がついたことがあった。
 死んでいるものよりも、生きているものの方が美味しい。
 大きなものより小さなものが、年を取ったものより生まれたばかりのものが、そして苦しめば苦しむほど、その
甘味は増していく。
 しからば、今テーブルにある赤ゆこそ最高の食材になるはずだ。

「まぁ……そこまで言うなら。カルシウムのためだし」

 男子二人の熱意に負けて、中原はそろそろと赤ゆに手をのばした。
 やつらは仲間三匹が黒こげにされたにもかかわらず、ゆぅゆぅとのんきにうたた寝をしていた。
 それもそのはずか。やつらがいるのは赤ゆ専用の保温箱の上。ゆっくりは適度に温められると、どんな状況でも
睡魔に負けてしまうと聞く。

「うー……気持ち悪いなぁ」

 中原がつまみあげると、赤ゆは「ゆぅ?」と目を覚まし、条件反射的に「おしょらをとんでるみちゃい!」と叫ん
だ。
 見ようによっては可愛げがある。だが、彼女は本当にゆっくりが苦手であるらしく、汚いものに触れるかのよう
に、もう片方の手で赤ゆの頬っぺたを掴んだ。

「ゆ――いちゃい! いちゃいよ! おねいしゃん、なにしてるの!?」

 そのまま、徐々に横に引っ張っていく。

「ゆ! ゆぎっ! はなしてね! おねいしゃん、ゆっくりはなしてね! れいみゅはなんにもわりゅいことしてな
いのに、どうちてこんなことしゅるの!?」
「ゆっくりって喋るから嫌いなのよ……。特に赤ゆは耳がきんきんするし……」
「みゃああ! ゆっくちはなしてっていってるでしょぉぉぉ!? れいみゅはこんなにかわいいのに、いうこときか
にゃいなんて、ばかなのぉぉぉ!? しにゅのぉぉぉぉ!?」

 赤ゆの皮はとみに柔らかく、中原が引っ張ると面白いように伸びた。
 こうなってしまうと可愛いなどとは口が裂けても言えない。人間でいえば瞼にあたる部分が糸のように薄くな
り、中心の目玉がある部分だけぼこりと膨らんでいる。歯茎はむき出しになり、意外と鋭そうに見える歯がてら
てらと光った。
 その有様を長く見たくはないのだろう。中原はもう一度、赤ゆの顔の中心を掴みなおすと、ぐっと力を入れた。

「いちゃいぃぃぃぃぃぃ! いちゃいよぉぉぉぉぉぉぉ!!  これじゃゆっくちできにゃいよぉぉぉぉぉぉ!!」
「……」
「ゆがぁぁぁぁぁ! ちびにんげんのくせに、なまいきで――」
「今なんつったオラァ!」

 ぶちぃ、と無惨に赤ゆはちぎれ、テーブルに餡子の飛沫がまき散らされた。

「あら、あたしったらつい」

 もはや赤ゆは見る影もない。
 これからは中原の身長のことに触れるのは絶対によそうと思った。

「で、これを塗ると」

 平然と手元に残った残骸をパンにごしごしとやる彼女。
 一口、はむりと齧りつく。
 瞬間、その目が大きく見開かれる。

「こ、これは……!」
「ど、どうした中原。そんなに美味かったか?」
「美味いも何も……篠村、あんたも食べてみなさいよ、ほら」

 食べかけを差し出されて、篠村は目を白黒とさせた。
 わかる。わかるぞ、その気持ち。
 これって間接キス?とか思ってんだろ。

「どうしたのよ、篠村。あんた、人に散々勧めておいて、自分が食べるのは嫌って言うの?」
「そ、そうではなく」
「じゃあ、何よ」
「何って――いや、なんでもない! おれはゆっくりを食べるぞ! 中原ァーーーーッ!!」

 篠村は彼女からゆっくりを塗った食パンを受け取り、勢いよく貪った。
 その動きが、やがて硬直する。

「こ、これは……!」

 端整であったはずの篠村の顔が、みるみるうちに崩れていく。口元はだらしなく緩み、え、それは涎か?
 苦しんで死んだゆっくりは、これほどまでに美味なのだ。
 見れば、中原はすでに二枚目の食パンを追加し、新たな赤ゆをつまみ上げていた。

「美味しい! 美味しい! 美味しい! ――乾、あんたも食べなさいよ!」
「いや、僕は……」

 中原が二つ、乾が一つ食べたなら、あとは残り一つしかない。
 僕は相川を見た。
 彼女は相変わらず、窓の外に視線を投げている。こちらの騒乱には欠片も興味を示さず、吐息に退屈を混ぜて吐
き出している。
 意を決して、声をかけてみた。

「あ――相川もどうだい?」

 彼女が振り向いた。

「その、中原も美味いって言ってるし……」
「わたし、そういうのには興味がないから」

 一言だけ、小さな声でそう伝えると、彼女は再び僕たちから顔を背けた。
 ――その窓の向こうには、いったい何が映っているんだろう?
 ぽん、と横から肩を叩かれる。
 振り向けば、眉をハの字にした篠村がそこに。

「や、あはは。おれだけ仲良くなっちまって悪いなぁ」
「こいつむかつく……!」

 僕は最後の赤ゆをひっかみ、「いひゃい! いひゃい!」と叫ぶのも無視して引きちぎり、パンに塗って猛然と食
べ始めた。
 その後、先生に見つかり、何故か僕だけが怒られてしまったことについては、悲しいので割愛させてもらう。


   ※


 その日の放課後は、新しくできた友人に散々連れ回され、いささかくたびれた。
 中原と仲良くしたい、という狙いは概ね達成されたので、もはや僕に構う理由なんかないと思ったのだけど―
―彼は〝今度はおまえの番だ〟と言って譲らなかった。
 金髪で、目つきが鋭くて、他のどのクラスメイトよりも不良に見えた篠原玲央。
 ……ずっと見た目だけで判断してきた。ごめん。本当に。

 さて、日はすでに沈み、月も雲に隠れ、夜は分厚い闇に覆われている。
 篠村と別れた足で、僕は家の近くの公園にやってきていた。
 昼間、赤ゆを食べ尽くしてしまった所為でやりそびれてしまった、実験の続きを試しに来たのだった。
 先生はこう言っていた。

『ゆっくりの〝中枢餡〟が、人間でいうと脳の働きを務めているのは先に言ったとおりですが、この機能には致命
的な欠陥があることがわかっています。ゆっくりはお互いを顔だけを見て識別することができないのです』

 この公園は僕のお気に入りのスポットだ。
 近く一帯に自然が残されているためか、野生化したゆっくりが繁殖し、夜ならいつ訪れても必ず遭遇すること
ができる。
 おまけに餡子脳には学習機能もまた欠けているため、人間に対する警戒心が薄く、実験材料に事欠かないのだ。

『たとえば、我々人間は目の大きさ、眉のかたち、顔の輪郭などを記憶することで、他者を見分けることができま
す。出会って間もない相手や異国人に対しては、この働きは弱くなりがちですが、それでも体型や服装等々の情
報で補い、識別を可能としてしています。――しかし、ゆっくりの〝中枢餡〟は非常に容量が少なく、これだけの
情報を留めておくことができないのです。なので、代わりにある一点だけを見て、個の判別を行っています』

 丁度、目の前を二匹のゆっくりが通りかかった。
 赤いリボンを結わえた妙に誇らしげなやつと、黒帽子を被り陰湿そうな眉をしたやつだ。
 それぞれ〝れいむ種〟、〝まりさ種〟と呼ばれている。
 僕は二匹に声をかけた。

「やあ、ゆっくりしてるかい」
「ゆ? ゆっくりしていってね!」
「ゆっくりしていってねー!」

 二匹がぴょんと飛び跳ねた。
 れいむ種もまりさ種も共通して〝ゆっくり〟という単語を聞くと、どんな状況でも条件反射で挨拶を返す。
 〝ゆっくりしていってね〟――これはやつらにとって〝こんにちは〟や〝はじめまして〟以上に親しみがあり、
大切な言葉であるらしい。

「ここはれいむたちのゆっくりぷれいすだよ! 人間さんはゆっくりしてないで、はやくでていってね!」
「ゆっへっへ、痛いめにあいたくなければ、あまあまさんをおいていくんだぜ。まりさはとってもつよいのぜ」

 そして、お決まりの展開だった。
 踏まれれば潰れる饅頭でしかないくせに、やつらは往々にして自分は人間よりも強いのだと思いこんでいる。
 なので、にへらにへらと人間にすり寄り、コミュニケーションがとれたと思うと、このようにたちまち手のひら
を返すのだ。追い出すだけではなく甘味を要求するところなど、まるで夜盗のような生き方だ。
 普通の人間なら、この時点で立ち去るか、回収車の夜間サービスに電話をかけていることだろう。
 だけど、僕は二匹前にしゃがみ込む。

「キミたちはれいむとまりさっていうのかい?」
「そうだよ! れいむはれいむだよ!」
「まりさはまりさなんだぜ!」

 先生が言っていたことを思い出す。
 ゆっくりには個体名がない。つまり、人間で言えば〝中原〟や〝篠村〟といった一人一つの名前が、こいつらに
は存在しないのだ。
 代わりに、己のことは種族名で呼んでいる。〝れいむはれいむだよ〟というのが、まさにそうだ。なので、同種
のゆっくりが群れている中にこの質問を放り込むと、なんというか、すごくカオスなことになる。
 これも中枢餡の機能限界に因するものなのだろうか。
 ともあれ、僕は先を続けた。

「僕はキミたちにあまあまさんを持ってきたんだ。そんなに大きな声を出さなくても、ちゃんとあげるつもりだか
ら安心してくれよ」
「ほんとうに!?」

 もちろん嘘である。

「でも、うーん、困ったな。僕は綺麗な子が好きでね、このあまあまさんも、綺麗な子のために持ってきたんだけど
……キミたち、ずいぶんと汚らしいじゃないか」
「まりさのどこがきたないっていうんだぜ! うそをつくのはやめるんだぜ!」
「ええ? だけど、ほら。キミたち、お互いの飾りを見てごらんよ。リボンも帽子もくしゃくしゃで、土がついてる
じゃないか。とてもじゃないが、綺麗とはいえない」
「ゆゆ!?」

 二匹は顔を見合わせて、相手の頭上を注視した。
 長いこと野良をやってきたのだろう、僕の言葉のとおり、夜目にもわかるほど赤いリボンも黒帽子も汚れきっ
ていた。
 ゆっくりとは傲慢だが、面白いことに、反面素直な生き物でもある。
 〝汚いゆっくりは、あまあまさんをもらえない〟
 僕がてきとーにでっちあげたこの条件を、二匹はすっかり信じ込み、埃だらけの互いを見つめ合って悲しい表情
を浮かべていた。

「そんな顔するなよ。今、いいことを考えついたから」
「ゆぅ? いいこと?」
「キミたちの飾りを貸してごらん。僕が綺麗にしてあげよう」
「なにをいってるんだぜ! おかざりはたいせつなものなのぜ! 人間さんにわたせるわけがないんだぜ!」
「それは残念。じゃあ、汚らしいキミたちにはあまあまさんは渡せないな。僕は別の子を探しに行くから――」
「ちょっとまってね!」

 赤リボンのれいむの方が、一際大きな声を出した。
 ぼよん、とまりさに体を寄せ、何やらひそひそ話し始める。おそらくは〝あまあまさん〟をもらうためなら仕
方ないと説得しているのだろう。
 ゆっくりは自らが饅頭であるためか、甘味に対する欲が半端ない。
 装飾品がいかに大切なものであろうと、落ちるのは時間の問題と思われた。

「き、きれいにするだけだよ! ぜったいにかえしてね! ぜったいだよ!」

 予想どおり一分と経たないうちに、二匹はこちらへ頭を向けた。
 馬鹿なやつらだ。
 僕はにんまりと笑い、手を伸ばした。リボンの先を引っ張り、するすると解く。また黒帽子の方も取り上げる。
 二匹は不安げにこちらを見上げたが、僕が手で土埃を払い始めると、すぐにほっとした顔になった。
 これで甘味をもらえると安心したらしい。口元から垂れる砂糖水からも、それがわかる。おまけに飾りを綺麗に
してもらえるとは、なんてラッキーなのだろうとも思っているのかもしれない。
 おまえらが汚らしいのは、飾りだけじゃなく、存在そのものだっていうのに。

「よし、綺麗になった。今、返してあげるからね」
「ありがとーね! ありがとーね!」
「かえしたら、さっさとあまあまさんをわたすんだぜ!」
「まぁ、慌てるなよ。――ほらよ」

 僕は黒帽子をかぶっていたまりさに赤いリボンを結び、赤いリボンを結んでいたれいむに黒帽子を被せた。
 すると何が起こったか。
 ――先生の言葉の続きを思い出す。

『ゆっくりは頭につけた装飾品だけでお互いを見分けているのです。リボンや帽子などの種類、その大きさ、他に
は汚れ具合から個体を識別します。〝中枢餡〟の機能に限りがあることから、このような形になったものと考え
られていますが――さて、みなさん。手元にはれいむ種とまりさ種が残っていますね? では、その装飾品を取り
替えてみましょう』

 立ち上がってしばらく待っても、れいむとまりさに変化はなかった。
 愚鈍なためだろう、餡子脳では今起こっている事態に気づけないのだ。
 だから、僕の方から煽ってみた。

「おや、そういえばキミたちの名前はなんといったっけ」
「ゆぅ? おにいさんはばかなの? れいむはれいむだよ」
「まりさはまりさなんだぜ」
「じゃあ――おまえらの目の前にいるのは?」

 二匹はしばらくお互いを見つめ合い、やがて落ち着かないそぶりを見せ始めた。

「ゆ、まりさ……? れいむはどこいったんだぜ?」
「なにいってるの? れいむはれいむだよ」
「そっちこそなにいってるんだぜ。どうみてもまりさなんだぜ?」
「おかしなこといわないでね、れいむ! れいむはれいむだよ!」
「なんで、まりさをれいむって呼ぶんだぜぇぇ! まりさはまりさなのぜぇぇぇ!」

 やっぱり、こいつらは装飾品がすべてなのだ。
 赤いリボンをつけていれば〝れいむ〟。黒帽子を被っていれば、それがなんであれ〝まりさ〟と認識する。
 だから、このように取り替えてしまえば〝れいむ〟が〝まりさ〟に、〝まりさ〟が〝れいむ〟に見えてしまい、
混乱の海に沈むのだ。

「れいむのおりぼんかえしてね! ゆっくりかえしてね!」
「ゆ! まりさ、なにするんだぜ! 痛いんだぜ!」

 足元では、発狂寸前まで追い詰められた二匹が「れいむはれいむだよ!」「まりさこそまりさなんだぜ!」と、と
うとう噛みつき合いを始めていた。
 ゆっくり同士の喧嘩は、その外皮の柔らかさから例外なく死に直結する。
 僕は実験の結果に満足して、その場を立ち去った。



 ――いや、立ち去るはずだったが。
 蛾の飛び交う公園灯をくぐり、敷地内を横切って家路につこうとしたところ、他にも人がいることに気がつい
た。
 僕はつい植え込みの影に隠れてしまった。
 別にやましいことなどなかったのだけど、夜の公園で挨拶を交わすことほど気まずいことはない。また、この街
も最近は物騒になってきたから気をつけろと、今朝も姉に言われたばかりだった。
 遠回りになるが、このまま来た道を引き返すべきだろうか。
 さて、どうしたものかなと悩んでいたところ。
 向こうからこんな声が聞こえてきたものだから、僕は思わず覗き込んでしまった。

「ほら、慌てないで。あまあまさんはいっぱいあるんだから」

 聞いた瞬間、僕はその声の主が誰なのかわかってしまった。
 この暗闇である。多少の距離もあり、普通ならわかりようのない状況だったが――ああ、それは教室で時折聞く、
気だるげだが硝子のように透き通った声で。

「……相川?」

 言ってしまってから、慌てて口を手でおさえた。
 幸いにもこの呟きは届かなかったらしい。こちらに気づく様子もない。僕は口から手を離し、おそるおそる身を
乗り出した。
 やはり、そこにいたのは相川だった。
 もう見間違えようがない。公園灯に照らされたベンチに、彼女は制服姿のまま、背中を丸めて座っていた。

 だけど、相川がどうしてここに?
 確か彼女が住んでいるのは、同じ街でもずっと北の方だ。中学も違ったのだから記憶違いではないはず。なのに
どうして、僕の家から徒歩十五分圏内の公園なんかにいるんだ?
 しかも、よくよく見れば、そこにいたのは彼女だけではなかった。
 先ほど声をかけた相手、それは推して知るべしだった。
 彼女の周りにはバスケットボールくらいの大きさの物体がもぞもぞ動いている。それも一匹だけではない。ひぃ、
ふぅ、みぃ……うわ、五匹もいるのか。

「ゆ! ゆ! これはすごくゆっくりできるあまあまさんだね!」
「むーしゃ、むーしゃ、しあわせー!」

 それがゆっくりであることは遠目にもすぐわかった。
 地面に撒かれた甘味らしきものに群がりながら、ゆっくりたちは口々に相川に感謝の言葉を投げかけていた。
 いったい、何をやっているんだろう?
 確か彼女は、ゆっくりには興味がないと言っていなかったのに。

「ふふ、おかわりもあるんだよ。みんなゆっくり食べてね」

 もしかして僕は思い違いをしていた?
 正確には、彼女は〝そういうのには興味がないから〟と言っていたのだ。
 〝そういうの〟というのは、つまり、僕らがやっていた……ゆっくりの実験。駆除のためのゆっくり虐待。
 相川と仲良くなるためには、何か共通の趣味をつくればいいんじゃないか、と今日篠村は熱弁を振るってくれ
た。
 だが、それはどうやら難しいみたいだ。
 僕は次の台詞を聞いて、さらなる諦観に包まれる。

「ありがとう、〝どす〟!」
「〝どす〟のおかげで、きょうはとてもゆっくり寝られそうだよ!」

 初めは耳を疑ったが。
 それは明らかに、相川に向けての台詞だった。

「さすが〝どす〟だね! あしたもゆっくりあまあまさんをもってきてね!」

 ――ドス。
 それは人間に向けた呼び名ではなく。
 餡子のいたずらで巨大に成長したゆっくりのことを指すものではなかったか。

「そうだね、わたしも今日はとてもゆっくり寝られそうだよ」

 僕は遅ればせながら気づいた。
 相川。相川鈴華。教室では窓の外ばかり見つめている彼女。
 その頭には、薄明かりに映える赤い、赤いリボンが結ばれていたのだった。





『僕らの街のゆっくり殺し 01』 終

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2022年04月16日 22:34