- 吉宗の侍講、室鳩巣は、吉宗について「御文盲に御座なられ候」など、
その知識教養について『兼山秘策』で酷評している。
また六代将軍
徳川家宣の正室
天英院の父、
近衛基煕(このえもとひろ)も、
日記の中で吉宗を評して「和歌においては尤も無骨なり、笑ふべし」としている。
即ち、当時の教養である儒学や和歌は不得手であったらしい。
- 江戸城内の中奥の一角に、専用の書庫「御書物部屋」を設置した。
このような部屋を設けたのは徳川将軍の中で吉宗のみ。
- 稲生若水の本草学の大著『庶物類纂』三六二巻を、幕府官医の丹羽正伯(にわしょうはく)に
増補させ、地域ごとに呼び方が異なる産物の比定などが進められ、
最終的には全一五一四巻としてまとめられたという。
(zsphereコメント:Sugeeeeee!! 1514巻ってw 大蔵経以外でそんなボリューム聞いたことないよw)
これにより西洋の科学技術関連の情報が入りやすくなり、後の蘭学興隆のきっかけの一つになったと云々。
日光近くの今市にて試験栽培を行い、成功させたとか。
- さらに、サトウキビの国内栽培を最初に企てたのも吉宗であるという。
琉球より種子を求め、温暖な藩に配って栽培を奨励した。失敗が続いたが、
吉宗没後、長い試行錯誤の末紀州が成功、やがて薩摩、阿波、讃岐でも成功したとか。
- 隠居後、天文方の渋川則休、西川正休に改暦の命を下し、神田佐久間町に天文台を建設するなど
西洋
天文学に基づいた改暦に意欲を見せたが、京都の土御門家との交渉が難航し、
吉宗の死去と共に主導権は土御門泰邦へ移行、中国暦法を元にした宝暦改暦となった。
- 吉宗の子に、田安宗武がいる。(宗武は国学の発展に大きく関与した人物)
参考文献
『江戸の教養』大石学編
『天文方と
陰陽道』林淳
『江戸の文人サロン』揖斐高
『平賀源内を歩く』奥村正二
千夜千冊第992夜『本居宣長』
最終更新:2013年11月01日 01:58