中御門経継

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**&bold(){中御門経継} ---- -正嘉二(1258)~没年未詳  父は[[吉田経俊]]、母は正四位下宮内卿平業光の娘。若年の頃は大覚寺統の君主に仕えていたらしく、後宇多院政が開始されると、乾元元(一三〇二)年三月、五位蔵人・弁官を経ずに参議に抜擢された。嘉元三(一三〇五)年には権中納言となり、評定衆に加わった。延慶元(一三〇八)年、伏見院政が始まると権中納言を辞任。以後十年ほど散官にあったが、後宇多院政が再び始まると上皇の伝奏として活動し、元応元(一三一九)年にはついに権大納言となった。大覚寺統内が分裂し、後宇多上皇と後醍醐天皇が対立すると、子息経宣とともに上皇側に加担した。上皇が没すると春宮邦良親王のために働くが、親王は嘉暦元(一三二六)年に没。経継は失脚し、出家した。 (本郷和人)
**&bold(){中御門経継} ---- -正嘉二(1258)~没年未詳  父は[[吉田経俊]]、母は正四位下宮内卿平業光の娘。若年の頃は大覚寺統の君主に仕えていたらしく、後宇多院政が開始されると、乾元元(1302)年三月、五位蔵人・弁官を経ずに参議に抜擢された。嘉元三(1305)年には権中納言となり、評定衆に加わった。延慶元(1308)年、伏見院政が始まると権中納言を辞任。以後十年ほど散官にあったが、後宇多院政が再び始まると上皇の伝奏として活動し、元応元(1319)年にはついに権大納言となった。大覚寺統内が分裂し、後宇多上皇と後醍醐天皇が対立すると、子息経宣とともに上皇側に加担した。上皇が没すると春宮邦良親王のために働くが、親王は嘉暦元(1326)年に没。経継は失脚し、出家した。 (本郷和人)

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