アリアンロッド・トラスト第十三話「宿命を知る者の答え」

今回予告

 「神の武具」バウラス・ジーク・スヴァルエルトにその命を狙われ、絶体絶命となったシャルリシア寮生達。しかし、エンザがバウラスの元に残ったことにより、君達6人は生き延びることができた。
 自分たちの中に世界を乱す魔が存在するということを知ったこと、エンザを残してきたことは6人それぞれにとって大きな問題であったはずだが、今は足を止め、そのことをゆっくりと考えている暇もない。これから自分たちのすべきことを知るために、まずはエルクレスト・カレッジに帰らなければならないのだ。
 だが、そんなシャルリシア寮生達を追いかける者達がいる。それは世界の平穏を叫び、そのためにはあらゆる犠牲をいとわず、あらゆるものを捨てる。
 シャルリシア寮生は希望なのか、それとも、世界の敵なのか。
 想いと執念が、交錯する時が来る。
 アリアンロッド・トラスト第十三話「宿命を知る者の答え」
 今を生きる決意が、君を待つ。

登場人物



その他大勢


セッション内容

 一人のヒューリンの少年が、空を見上げていた。
 身なりはかなりくたびれており、まともな生活をしているようには見えない。しかし、少年はそんな自分を悲しむでもなく憂うでもなく、ただ虚ろに空を見上げていたのだ。
 だが、そんな少年の顔に不意に影が差した。彼の前で一人のヒューリンの男が立ち止まり、そして少年を見下ろしたのである。
 男はまるで、聖堂に祀られる像……即ち神の依代の如く厳かな神聖さを纏わせており、その視線に射抜かれて平静を保てる人間は少ないと言ってよかっただろう。しかし、その少年はもう恐れるものも敬うものも持っていないというばかりで、虚ろさをはそのままに、ただその視線を見つめ返していた。
 そして、自らと視線を合わせた少年に対して、男は言う。
「ここで何をしているのか」と。
 少年はそのままどこかに消えてしまいそうなか細く弱い声で、何もしていない、と答えた。ただ、あと何日で死ねるかを考えていた、と。
 少年の口から不意に飛び出て来た不穏な自殺願望であったが、男はそれに戸惑う様子は見せず、淡々と、なぜそう望むのかとさらに問いかけた。そして、それに答える少年の声に、少しだけ、熱さが宿る。
 俺は皆を殺したんだ。と少年は語った。
 少年が生まれたばかりの時、両親も村も災害で滅んだという。そこから「運よく」拾われて、幼少期を過ごした村は山賊に襲われてしまい全滅した。そしてその後、さらに別の村に逃れたが、そこは戦争に巻き込まれて、無残な結末を迎えた。
 自分が生まれてから、自分と共に過ごしてきた人、自分を育ててくれた人は、全て死んでしまった。だが、自分だけはなぜか死ななかった。
 少年はそのことをおかしい、と言った。みんなが死んでしまって、なぜ自分だけが生き残るのかと。
 自分だけがずっと生き残ってしまった悲しみを、少年は自らの罪と考えてしまったのだ。
 だから、少年はもはや生きることを望んでいないのだ。誰ももう、自分を救ってくれる必要などない。自分は罪深き存在、この世にいない方がいい人間なのだからと。
 先ほどの空虚な受け答えから一転、堰を切ったようにあふれ出て来た少年の悔いと怒りと絶望に染まった言葉を、男はただ聞いていた。しかし、少年の言葉が収まってから少しの沈黙を挟んだ後、男は再度口を開く。
 そんなことはない、お前は、ヒューリンなのだから、と。
 男が口にしたその意味を、少年が分かろうはずもなく、それがなんだというのだ、と少年は男へ聞き返す。そして、男は少年の瞳を見据えて、続けて語った。
 ヒューリンとは、「火の時代」といわれる今この時、幾度の粛清を受けたこの世界が創世されるにあたり、魔を払うことで、それ以前に既に存在していたドゥアン、フィルボル、ネヴァーフ、ヴァーナ等を含めた「人類」へ平穏をもたらすために生み出された種族……いわば、神の戦士であるのだと。
 火の時代が始まって長くの時がたっているが、その目的をもって生み出されたヒューリンという種族の身体と精神にはそのための力があり、ゆえに、少年もまた、その使命を帯びているのだと男は語る。
 だから、ヒューリンが。いや、少年が生きようとすることに意味はあるのだと。
 そのことに目覚め、立ち上がっていくのなら、人々を平穏へ導いていくという使命を果たしていくことができるから。
 ……少年は、男のその言葉を聞いて視線を下げ、少し考え込むようにする。そして、男にそれはつまり、神がそういう風に言ってくれているのだろうかと聞いた。
 少年がそう聞いた理由は、もはや自身という存在に絶望した少年にとって、自身が生きる意味を見出すことができるとするなら、それは自身ではない何か大きなものに、その理由を支えてもらいたかったからで。
 男は、静かに、その言葉に頷いた。
 そして、少年はその答えにさらに頷き返し、確かに、何かの役に立って死ねるならそれはいいことだろうと言った。……男の言った言葉の価値を信じたこの瞬間、少年は自らの命を神に……いや、目の前の男に預けることを決めたのだ。
 男の持つ神聖さ……いや、強さは、世界を広く知らない少年にとっても、唯一無二のものに思えたから。
 少年があなたについてけばいいのだろうか、と男に聞くと、男はそうするといい、と答え、今まで少年の方を向けていた表情をそらし、歩き始めた。少年はゆっくりと、しかし確かな足取りで、それを追っていく。
 一人の少年が、自分の命を、自分でないものに明け渡す決意をした瞬間だった。


 バウラス・ジーク・スヴァルエルト。その名前を少女の声で呼ばれ、バウラスは振り向いていた。
 バウラスのその視線の先にいたのは、まだ幼さを多分に残し、カンナギの衣裳を身に纏った少女である。
 振り返ったバウラスに対し、少女はバウラスのことを、この世で神の命を最も厳粛に受けたという存在、と称し、そして、そんなバウラスの生きる世界に、連れて行ってほしいと願った。バウラスにそれがなぜかと聞かれ、少女は語る。
 嫌なのだ。
 今の自分のいる場所が……いや、世界が。
 自分もまた、世界を平穏へ導くという、神の啓示を受けて生まれた。しかし、少女はそのためには……理想の世界のためには、人々が捨てなければいけないと考えるものがあったのだ。
 少女は、それを人の欲だと言った。何かを手に入れたい。そしてそれを保持したいと思い……個人の利益、こだわり、愛といったものを優先することだ。
 個人の欲望は、その個人以外に害をなすものとなりうる。少女はその可能性を排除するには、全ての人々が努力し、欲を切り捨て、自らを捨て、世界のために身を費やさなければならないはずだと思っていた。
 しかし、「世の中」はそこまで徹底した考えを、当然求めてはいない。他者を害する欲望だけではない。例えば、愛や友情と言った考えですら、少女は人類全体が排斥していくべきだと思っていたのだから。
 だが、世界の平穏のために、世界を構成する一分子に過ぎない「自身」というちっぽけな存在がするべきことは、そのために尽くすことであると疑わない少女にとって、人類全体はおろか、自らと同じく世界を平穏に導く使命を負ったはずのヒューリンや、それどころかその身を神や人類に捧げたと口にする人物までもが、少女の考える「欲」を捨てられない……いや、捨てようとしない。それが、この世界の「当たり前」なのだ。
 例え自分の考えがそんな「世界」からずれているということをどれほど知っても。その「当たり前」を自分にとってどれほど身近な人が認めたとしても。少女は、それに迎合したいとは思わなかった。だから、少女はその「世界」に、別れを告げようとしていた。
 今いる「世界」を見限って、自分と同じく、その身全てをより多くの人々の平穏のために捧げることに、真に殉じる「世界」へ向かう。
 それが、少女が「神の武具」といわれた男、バウラス・ジーク・スヴァルエルトに道を求めた理由だった。
 少女の短い懇願の中から、バウラスがそういった少女の事情を察することは、どれだけできることだったのだろう。
 しかし、バウラスは少女の願いを否定せず、自身のあとについてくる少女を拒むこともなかった。
 一人の少女が、己の生まれた場所を、切り捨てた瞬間だった。


 とある森の中、4人の少年少女が、何やら台座に掲げられた水晶のようなものを中心に立っている。
 その4人とは、ナタフシズナザムトリュミルの4人であり……シャルリシア寮生達を転送したリュミルに合流する形となった一同であった。(第十二話最終部分参照)
 今、一同は何かを待っているらしく、それぞれが無言で水晶を見つめていたが、突如水晶の中に靄のようなものがかかり、それが人の姿を成していくと、リュミルが待ちわびたとばかりに反応し、バウラスさん、と水晶に映る人物の名を呼ぶ。
 リュミルはまさに年頃の少女そのものの可憐な笑顔を浮かべていたが、その表情から真っ先に口に出したのは、もう「あいつら」は死んだのかということであった。
 リュミルはそう聞きつつも、内心では「あいつら」……シャルリシア寮生6人がバウラスの手によってすでに抹殺された後であると疑ってはいなかった。だから、あと一人が残っているとはいえ、バウラスが直接出向くならばもう自分たちの仕事はないと、笑いながら語っていたのだ。
 ……しかし、バウラスはそんなリュミルに対して答えなかった。バウラスが無口であることはここにいる4人誰もが知るところであったが、リュミルの問いかけに対しても全く語らないその様子は、その場に不穏な空気をもたらす。そして、リュミルが首をかしげつつもう一度質問をしようと口を開きかけた時、ナタフが横から割って入ったのだった。
 横から入ってくるな、とリュミルに怒鳴られることも意に介さず、ナタフはバウラスへ、本当にシャルリシア寮の6人を殺してしまったのかと聞いた。そして、バウラスはその問いに今度こそ答えた。殺していない、と。
 この言葉は、まるで時を止める呪文であったかのように、一同へ驚愕による静寂をもたらしていた。バウラスが「始末」を行ったと確信していたのをほぼ表明していたリュミルはもとより、感情らしい感情を表に出さずにいたシズナとザムト。そして改めて質問をしたはずのナタフ本人ですら、バウラスからその言葉が語られたことに驚きを隠せずにいる。そして、その静寂の中、バウラスは言葉を続けるのだった。
 自分はシャルリシア寮生達を生かしたこと。そして、シャルリシア寮生達にもう一度、「心の魔」として目覚める兆候があるまでは、もう一度滅ぼそうとするつもりもない。そのバウラスの宣言を、ザムトは思わずもう一度確かめるのだったが、バウラスの言葉に変更はないのだった。
 嘘だろう、とリュミルが愕然とした表情のままつぶやく。
 確かに、もう一度何かあった時に改めて出向くということ自体はそこまで難しいことではない。だが、「次」を待つ理由などあるのか。
 その時には、あの6人は「心の魔」として目覚めているかもしれない。そして、その覚醒を許せば、「心の魔」の復活周期はだんだんと短いものになる。
 だから今滅ぼすのだと、そうバウラスは言ったはずだった。
 世界に害をなす「可能性」があるなら、そんなやつは死ぬしかない。リュミルはそう信じていたし、また、バウラスが誰より……そう、自分よりもそうした「使命」に忠実で、そして強い存在であることも信じていた。
 リュミルは、そんな存在から、かつて口にしたことを反故にされたということに、激しく憤りを見せていた。そんなリュミルの怒りと、なぜ、という質問には答えないバウラスの態度に業を煮やし、ついに敬称すら取り去ってリュミルがバウラスの名を叫ぶ一方で、今度はシズナが静かに問いかけを始める。
 シズナが問いかけたのは、バウラスが自分達からの……いや、世界からの信用を失うような選択をしたと思っていいのかということだった。そして、また少しの沈黙の後、バウラスはその言葉に、頷いた。
 バウラスは自身に、今ここにいる4人の模範や象徴としている価値が失われ、もう会う必要すらないだろうということを認めた。……自分がそれだけの選択を……つまり、「何よりも世界全体の平穏を重んじる」という理念に反することを行ったと自身で考えているということだ。
 その言葉に、4人はもう一度無言となる。その胸の中にある感情は各々異なっていたようだが、そこで口を開いたのはナタフだった。
 バウラスさん、と敬称を付けたまま、ナタフはその名を呼ぶと、突如水晶の先のバウラスに向かって頭を下げ、今までありがとうございました、と語った。
 その行為の理由をバウラスは聞かなかったが、ナタフは自身の心を表明するかのように、続いて語りだす。「あなたは、俺に生きる場所をくれた人なのだ」と。
 例え、他人から見たらどれほどいびつに見えた道だったとしても。それが本当に進むべき道だったのかは定かではないとしても、あの時、道端で死を待っていた少年に対し、バウラスが道を示したからこそ、ナタフは今生きている。
 そして今、ナタフは自分が生きる意味を、ようやく自分自身の中に見つけ出していた。もう、生きる理由を何かに投げ出してはいない。
 だから、ナタフは言ったのだ。今までありがとうございました。と。
 育ての親へ、感謝するように。
 そんなナタフに対して、バウラスは無言だった。……何の言葉も、返そうとしなかった。
 しかし、それを聞いていた周囲の人物はそうはしなかった。シズナが、そのナタフの行動がどういつもりであったのかと問いかけると、ナタフは3人の視線に全くひるむ様子もなく、言葉の通りだ、と語り、その意図を口にする。
 「炎の使徒」を抜ける、と。
 そうナタフが宣言した瞬間、3人がナタフへ向ける視線は、さらに険しいものとなった。そのような視線の矢の中、ザムトからならばどこに行くというのか、と問われ、ナタフは、シャルリシア寮生のところへ行くと答える。……希望を、つなぐためにと。
 しかし、そのナタフの考えは、3人には理解されないようだった。リュミルは明らかに敵意を剥き始め、シズナは、ヒューリンとしての使命を全うするなら、生き残っているというシャルリシア寮生達がさらに「心の魔」に侵されない内に滅ぼさなければならないと提案する。ザムトは静かな様子のままだったが、その視線はナタフを貫かんとするばかりにまっすぐで、冷徹であった。
 だが、そんな3名に対してあくまでも説明をするかのように、ナタフは真っ向から向き合う。ナタフは、シャルリシア寮生達こそが、「心の魔」による悲しみの連鎖に変化をもたらす存在だと期待できること、そして、シャルリシア寮生達は自分の友人だからだと語り、さらに、シャルリシア寮生達を救うことは、より多くの人々の平穏を考えるというヒューリンの使命としても反しないことだということを主張したが、まず、リュミルがそれを割り入って否定した。
 シャルリシア寮生達が何かの希望だなどと言うことがあるはずはない。ついさっきまで何の危機感もなく、自分の存在がどれだけ世界にとって邪魔か考えることもなく、ただ学生として生きていた存在。そんな連中に、何かを変える力などない。
 世界に、人に害をなす者なら、例え親兄弟だろうと切り捨てて粛清を行う。それが「炎の使徒」ではなかったのかと感情を前面に押し出して叫ぶリュミル。ナタフはそれでも、人として自分は間違った選択をしていないと主張するが、シズナは、そんなナタフの言葉を失望したと切って捨ててしまう。情といった個人のこだわりを捨てて世界に身を費やすことを願うシズナにとって、ナタフのその主張は軽蔑するべきものである。あなたもまた、ミルカと同じように自分をいらだたせるのかと、シズナは静かな怒りを見せていた。
 そして、ザムトも静かに、しかしナタフへの刺すような視線は未だ緩めないまま、ナタフへ答える。ナタフの言い分は理解したつもりだが、それでも、単なる学生に過ぎないはずのシャルリシア寮生達に「希望」が存在するというのは荒唐無稽であり、確かに今処分することはない可能性もあるにせよ、総合的に考えるならそういうわけにもいかないだろう、と。ナタフの言葉に、3人は同調しなかった。
 そして、リュミルは声高に語った。例えバウラスが自分達をまとめていくことをやめたのだとしても、「炎の使徒」の信念が変わることはない。リュミルはそれを、世の中をかき乱す「ゴミ共」をかたっぱしから排除することだと言い、シズナもそれに同調していた。水晶の先で何も語らぬバウラスも、彼女ら3人の行動を推し進めようとはしていなかったものの、それを制止することもない。
 ナタフはそんなバウラスの方に少しだけ目を向けていたが、直後シズナから、シャルリシア寮生達を自分たちが殺すということ。そして、それを邪魔するというのなら、ナタフを手にかけることにも躊躇しないという宣言と、構えられた打撃具の矛先を向けられてしまう。そして、今度はリュミルがそれに同調し、ナタフを弱者よりも罪深い、信念を売ったクズとして容赦しないと、彼女の得物である魔導銃もナタフへと向けられた。ザムトはそこで特段戦闘態勢を取る様子はなかったが、かといってナタフを助けようとしているわけでもなく、ナタフが孤立無援であることに違いはないようだ。
 その直後、小さな森にざわめきが起こった。 

 一方。エンザによってバウラスの元から脱出したシャルリシア寮生達一同は、そのエンザの残した「エーエルに会え」という言葉に従うべく、まずはそのエーエルの所在を知るというエルヴィラに会うためにも、エルクレスト・カレッジに戻ろうとしていた。
 しかし、先の転送に巻き込まれて以来テレポートのマーキングも消されてしまっていたようで、土地勘も地図もない一同にとってはまずどちらへ向かうべきかというところからがスタートである。そこで、一同は手近な場所にあった森で高い木に登り、遠くまでを見渡して何か行動の指針になるものがないかを探すことにした。
 それにあたり、まず行動を起こそうとしたのはラピスである。《テレポート》は今は用をなさないものの、自らを瞬時に移動させる魔術である《ブリンク》が使用できるため、身体を使って登るよりもそれを応用したほうが楽に登れるのではと思ったからである。……が、何故か、木の上に移動したところですぐにバランスを崩して落ちてしまう。
 そんなラピスを受け止めたジャックは、ラピスだとやはり心配なので、自分を木の上へ転送してほしいとラピスへ頼む。ラピスはそれに頷くと、自身以外の対象をも転送する魔術、《キャストフォース》の発動を試みたが、なぜか魔術は発動を見せず、魔力はまるで霧散するように消え去ってしまう。
 魔術の扱いに関していえばミルカさえも上回るほどの腕を持つラピスが、魔術の詠唱に失敗するということはそうそうあることではない。ラピスは焦りの声と共に、今度こそと再度の詠唱を行ったが、結果は同じく、魔力は手の中で掻き消え、閃光を伴って消失してしまう。そして、最後には小規模な爆発さえも起こし、ラピスはその衝撃で気を失ってしまったのだった。
 ラピスの身を心配する一同であったが、ラピスのその様子は、先ほどのエンザとバウラスの件が彼女の心にダメージを負わせたからであることは想像に難くはなかった。それはラピスだけではなく、クレハ等もまたそうであり、まだまともな思考や行動すらおぼつかないのだから。
 結局、木にはジャックがそのまま登り、比較的近場に街があることを発見したため、ひとまずはそちらに向かおうと決断する。だが、そこでミトあそのジャックの言葉に待ったをかけた。彼女は、後からやってくる"はず"のエンザをもう少し待っているべきではないかと提案したのだ。
 ミトのエンザの生存と合流を信じる言葉に対し、一同の中ではっきりと答えられる者は少なく、わずかな静寂が森の中に流れた。しかし、返す口を開いたジャックは、今はエンザのことを考えるのではなく、自分達に与えられた「エーエルに会え」という目的をしっかりと果たすべく、追っ手などの様子のないうちに進むべきだということを主張した。
 それにもですが、とミトは反論しようとしたが、ジャックはあの場に残ったということはエンザにも覚悟と決意があったはずということ、そして、活路は自身で見出すであろうことを説明したこと、ドゥさんやハクバといった者(?)からも説得されたことで、ミトは悲しげな表情はそのままではあったが、ジャックの言葉に従うことにしたようだった。……そう。今何をすべきか、本当は全員がわかっていた。しかし、それを真っ向からすべて認めてしまうことは、彼女達にとっては辛いことなのだ。
 こうして街に向かうことを決めた一同であったが、ラピスが気絶したままであったため、クレハがそんな彼女を背負うこととなり、歩を進める。そんなクレハの横にレシィが寄り添い、しばらくの間、傍にいたいと言うのだった。
 レシィは一見平静を装っているように見えなくもないが、声はかすれており、目には明らかに泣きはらした跡がある。そして、それを聞くクレハ本人も、現実の残酷さと自身の無力に、あまりにも大きい悲しみを感じている。そんな二人が肩を並べていた。
 そして、クレハに揺られるうちに、ラピスも目を覚ました。背負われていることに気づき、ラピスはもう大丈夫だからかまわなくていい、と何度もクレハに語るのであったが、先の魔術失敗のことといい、今の様子といい明らかに大丈夫なようには見えず、クレハと、そして傍らにいたレシィは無理をするなと語り、引き続きラピスを背負いながら歩を進めていた。だが、もうこれ以上、自分のために他者が少しでも負担を負うことが耐えられない今のラピスは、せめて降ろして歩かせてくれと懇願する。
 ラピスの強い懇願に、ついにその通りにラピスをおろしたクレハではあったが、あまりにも卑屈に見えたその態度に、もっと自分に自信を持った方がいいという。ラピスはその言葉に、自分はちゃんと自信は持っている。例えばジェンガなら……と、なんとか冗談を交えて切り返そうとした……が。
 その瞬間、彼女らの脳裏には、かつてのシャルリシア寮での日々のことが思い起こされてしまう。

 あれは、いつも通りジェンガをしていた時の事。
 熟練のシーフということで器用さにも自信のあったエンザは、大人げもなくシャルリシア寮生を圧倒する腹積もりで意気揚々とゲームに参加してきた。
 だが、ゲームに参加して中盤以降、違和感をエンザが覚えた時にはもう遅い。生徒達は全員、ラピスによって身体強化魔術を受けていたのだ。
 いつしかそれに気づき、ハメられたことをエンザは悟るも、「先生の意地」と称して限界を戦い抜く。だが、その限界をとり越えるほどの魔術にはかなう術もなく、エンザの最後の一手により、木の塔は脆く崩れ去った。そんな思い出。
 ……そんな中でも、最後にはみんなが笑っていた。そんな思い出だ。

 ふと、ラピスの瞳から涙がこぼれた。
 大丈夫、と語っていた彼女だったが、一筋流れれば、もう涙を止めることができない。
 そんなラピスをそっとクレハは抱きしめた。ラピスが今感じている悲しみを、少しでも和らげることができるならと。
 ラピスはついに、クレハの胸の中、声をあげて泣くのであった。

 街に入る際、ジャックの提案により、一同は念のため、ラピスが所持していたドレスブック等も使用して、一目でエルクレスト・カレッジの学生だとは分からないように服装を変化させておいたが、幸いにも特に今一同を探している風の様子は街の中にも存在していなかった。
 ……しかし、なにやら異様な雰囲気はある。街に入ってすぐのところで、何かを取り囲むような人の集まりができていた。ひとまずは一同もそれに近づき、旅人を装って町民に事情を聞くと、何でもまだ少年というべき年若い男が全身傷だらけになっており、急にこの街にやってきたと思ったら倒れてしまったのだという。そして、その少年の姿を一同が見ると……そこにいたのは、町民の言う通り、傷だらけになったナタフであった。
 思わぬ人物の思わぬ姿に、レシィは反射的に飛び出し介護を行おうとしたようだが、それをジャックが押しとどめた。今までのことを……そして、あのバウラスのいた建物の中の石板に書かれていた名前を思い返せば、ナタフは確実に、自分達を殺そうとしたバウラスやリュミルにつながっているからだ。
 だが、ジャックはその上であえて、自分だけが前に出た。それは、危険をかぶるならまず自分からという気持ちと……そして、結果的にバウラスに会敵してしまったとはいえ、まるでこの危機に対応させようとしかのように、自分へあの鍵を授けたナタフを……友としての存在を、忘れようとしたわけではなかったからだろう。病院に運ぶのなら自分がやろうと説明し、ナタフを担ぎ上げた時、ジャックは、バウラス達の仲間であるはずのナタフを救おうとすることに疑念の言葉をラピスに向けられていたが、今はそのことを考えない、と答えていた。……それはきっと、ジャックの中に、ナタフのことを信じられるものがあったからだ。
 その時、ジャックに担がれて体が揺らされた衝撃で、ナタフは目を覚ましたようだった。ナタフはジャックの存在と、その他のシャルリシア寮生達の存在を確認し、シズナ立ち寄り先に合流出来て運がよかった、ともらす。しかし、その声は深手ゆえか消え入りそうなかすれ声であり、まずはナタフの身の保証を確保することが先決と、病院の一室へと運ばれていったのだった。

 ひとまずの応急処置を受け、ナタフの意識が安定すると、一室にはナタフとシャルリシア寮生6人のみが残された。ナタフが、シャルリシア寮生達に語りたいことがあるということで、それ以外は人払いをした形だ。
 ナタフが話すべきことは多くあるのだろう。そこで何から話すべきか、というナタフに対し、ジャックはお前の思う順番でいい、というのだったが、その一方で、自らの剣を抜き、ナタフへと突きつける。それは、もし内容に虚偽や企てがあるようなら、その時は容赦しないというジャックの考えの表れであり、ナタフも自身がシャルリシア寮生にとって裏切り者と思われても仕方ない位置にいることがあり、それを受け入れる。そして、ナタフは改めて口を開く。
 まず、ナタフはシャルリシア寮生達にどうしても確認しておきたいことがあるとして、シャルリシア寮生達が本当にバウラスに出会い、見逃されたのかということ、そして、なぜそれが可能だったのかということを聞いたが、これは一同にとってはいきなり危険な質問である。故に、ラピスは思わずエンザの犠牲によってということだけでなく、ナタフ達がエンザを殺したのだと口走り、ミトはエンザが死んだということを思わず感情的に否定するなど剣呑な雰囲気が流れてしまう。
 しかし、それでもなお、ナタフはその事実の確認をしたがっていた。何故なら、例えエンザが本当に犠牲になったのだとしても、それでバウラスが行動を止める理由はナタフには全く思いつかなかったからだ。……その理由が理解できなければ、これからバウラスが何をするのかも全く想定ができない。だから、ナタフはそれを知りたがった。
 そして、エンザがバウラスを「救う」といっていたという情報をドゥさんから聞き出すことで、ナタフは深く考えるような仕草を見せたあと、一応はそれで納得をしたようで、辛い質問をしてしまったことを謝罪した。……ひとまず、ナタフの中で、バウラスがこれからシャルリシア寮生達に手を出してくることは当面ないと確信できたようである。
 そして、ナタフは今度は自分達の「正体」についてを語るのだった。

 ……まず、すでにシャルリシア寮生達が察している通り、ナタフ達はバウラスの配下といってもいい存在であった。……正確には、ナタフ達がバウラスをよりどころにしていただけではあるのだが。
 故にナタフ達の組織にバウラスが名前を与えることはなく、ナタフ達は自らを「炎の使徒」と自称することにしていた。
 なぜそう呼んだのか?
 神話によれば……かつてまずエルダが生まれ、邪に落ちて神々により滅びた。
 次に世界を癒す民としてヴァーナが生まれ、魔の残党へ対抗するための勢力としてドゥアンが生まれたが、それらも邪に誘惑され、精霊王マリッドによる世界の浄化を招いた。
 続いて世を興す民としてフィルボルとネヴァーフが作られたが、ネヴァーフは妖魔バラールにより病を創造されたことで魔に屈し、フィルボルもその武器による力を前に屈し、最終的にバラールとその眷属は、精霊王ダオによる再三の浄化で放逐された。
 そして時代は火の時代と言われる時代……今の時代となり、その創世と共に生まれたのが、エルダナーンとヒューリンである。
 エルダナーンは魔との戦い方を知り、それを世へ伝える種族であった。
 そしてヒューリンとは、様々な魔術、技、武器、及び環境に適応する高い適用能力を持った種族……即ち、魔を討つための新たな兵士として生み出されたのがその始まりだったのだ。
 しかし、火の時代が始まり千年もの時がたつ。やがて来ると言われる強大な魔がいまだ世界に現れないでいるうちに、種族たちの生み出された『使命』はすでに薄れたといっていい。
 誰もが自身の心と目先のことに囚われるようになっていった。とりわけ、環境への適応力を生かし特に数を増やしたヒューリンは、元来の権力への求心もあり、そのような『種族の自覚』はほぼなくなったのだ。
 だがその一方。自分たちには『使命』があるということを忘れないでいるヒューリンも、確かに現在に存在している。その中の一人がバウラスであり、そしてその姿勢に共感したヒューリン達のこと……つまりは、ナタフ達の事なのだ。
 バウラスはかつて、幾人もの存在にヒューリンの持つ使命について語り、そのために生きることを正しいことだと思わせた。そのバウラスの求道者としてのあまりに崇高かつ厳粛な姿勢、そして、全ての邪や魔に屈せぬと思わせるほどの圧倒的な強さ。そんなバウラスに彼らは、ナタフ達は、理想を託し、その身を捧げた。
 それ故、火の時代における神の代行者という意味を持って……彼らは自身を『炎の使徒』と名付けたのだった。
 いかし、炎の使徒には、もう自身を入れたとしても4人しか残っていない、とナタフは言う。
 その理念故、炎の使徒の活動とは危険を極める。そもそも、バウラスの活動についていこうとするだけでも、とてもではないが並の人間は生き残れない。
 しかし、次々に団員を失っていったその最大の要因は、「炎の使徒」の団員は自身の命への執着がなさ過ぎたことである。
 理由はそれぞれにあれど、共通しているのは、世界の平穏のためなら、他者も自分自身も等しく犠牲にできる……いや、自分自身をこそ真っ先に犠牲にできるという心であり……故に、死が確定しているような状況や戦場に、彼らは進んで入って行ってしまうのだ。
 ……そんな「炎の使徒」としての理念を持った者、ナタフとシズナは、ミルカ達のやってくる一年前、エルクレスト・カレッジに入学することとなった。その目的は当然、学業などではない。
 エンザは当時、すでに学園にいたジャック先輩やラピス、そしてダバラン先輩と、これからやってくるミルカ達シャルリシア寮の新入生4名を集めて何かを。……おそらくは、「心の魔」に対抗する手段を講じていたとされている。それに気づいていたバウラスが、その「心の魔」に巣食われた7人の監視のため、送り込んだのがナタフとシズナだったというわけなのだ。
 しばらくは、ナタフはその任務の通り、学内でのシャルリシア寮生達のことなどを報告していたが、しばらくはバウラスは何も言い出すことはなく、ナタフもいつしか、シャルリシア寮生達のことを監視対象としてではなく、周囲へ希望や活力を与える特別な存在としてとらえるようになっていった。しかし、先日のダバランが絡んだ一件のことについて、おそらくはシズナから報告を受けた時、バウラスは、シャルリシア寮生の抹殺を宣言したのだという。……そして、このようなことになってしまった。
 ナタフはその時まだ、自身が炎の使徒であることを否定しようとは思っていなかった。しかし、その一方で、いざその時が来れば、シャルリシア寮生達を抹殺しなければいけないということに疑問を持っていたのだ。だから、もし、バウラスが直接手を下そうとしたときに備えて、ジャックに脱出用の鍵を渡していた。……もっとも、その意味はほとんどなかったが。
 だが、今シャルリシア寮生達が生きていることを知り、ナタフはついに炎の使徒を抜け、シャルリシア寮生達を直接手助けすることを決めた。
 それは、今まで自分のことを呪われた存在だと考え、生きている価値がないと思い。
 だから、そんな自分が何かの。強く正しい存在のままに生きられるなら、いつ死んでもいいと思えていた。そんな少年が。
 シャルリシア寮生達を見る中で、学生としての日々を過ごす中で。
 人と人が未来に目標を持ち関わっていくことで、大きな活力や希望を生むことを知り。
 それと共に歩むことが、何より安心して満足できることであると知ったからの変化だ。
 ナタフは今、死ぬのが惜しかった。
 誰かの言葉で信じたものではなく、自分の信じたものに自身の生死をゆだねられないのが怖かった。
 今は自分で信じた価値あるものがあり、そして目標がある。そのために生きていく価値を、ナタフは自分の中に見つけていた。
 だから、シャルリシア寮生達を死なせなれないと誓ったのだ。
 その誓いと同時に、ナタフはバウラスは今シャルリシア寮生達を狙うことはないにしても、炎の使徒の他の3名は未だシャルリシア寮生達を狙っていることを告げる。となれば、その追撃を振り切ってエルクレスト・カレッジに行くことは急務だ。
 この街からしばらくいったところに、ナタフと通じるものがおり、その者がエルクレスト・カレッジ行きの転送石を確保しているという。それを信じて同行させてほしいというナタフの言葉を、一同は信じることにした。
 ナタフの話が終わり、それぞれの思惑を胸にいったん部屋から退出するシャルリシア寮生達だったが、向けていた剣を収め、退出しようとしたジャックを、ナタフは呼び止めた。その意図をジャックが聞くと、ナタフは、おそらく一同の中で一番最初に、ジャックが自分のことを信用してくれたということへの感謝を言いたいと口にしたのだった。
 ジャックにとってはそのようなことをわざわざ言われるほどのこともなかったのであろうが、倒れる自分へ。他者を抑えてまで進んで手を差し伸べてくれたのがジャックだったことを、ナタフはうれしいと思っているようだった。……もっとも、ジャックがそうしたのは信頼関係云々だけでなく、他者を危険な目に合わせられないからというのもあったのだろうが、さすがにジャックも、そこでナタフの言葉を突っぱねるようなことはしなかったのだった。

 そしてジャックも去り、部屋にはナタフだけになった……のかと思いきや、レシィだけはナタフの容態を見続けるため、その場に残ると決断していた。
 しかし、そういうレシィの表情はなぜか、どこか悲しみを隠せないかのような……ナタフに対して、どう接するべきなのかをわかりかねているかのような不安定なものだ。それを見抜いたナタフはなぜ、そんな状態でも自分を気にかけ残ってくれるのかと聞き、レシィは言った。
 ナタフが自分たちに対する監視役……つまりはバウラスからスパイであったことを知らされ……何より、間接的にとはいえエンザがあのようになる原因にかかわっていたということには、怒りを感じていないわけでも、手放しに信頼できると思ったわけでもない。しかし、目の前でけがを負っている人を見過ごすことはできず、また、ナタフが自分達の学友だと思う気持ちも捨てたくない。
 レシィ自身、自分の今の気持ちがどこにあるのかを判別できているわけではない。しかしそれでも、レシィの中のナタフを心配する気持ちが、レシィをその場にとどまらせてくれたことに、ナタフはレシィを優しさを心の底に持つ人間だと評し、そしてそういった自分の奥底にあるものに従うことが、人としての生き方なのではないかという考えを口にする。それを聞いたレシィは、自分の中にあるものすら信じられずに生きていくのはつらいことだろうとその考えに想いを馳せ、少しだけ、表情を和らげたようだ。
 ……しかし、その夜、ナタフの寝台の傍で舟をこぐレシィは、エンザ先生、という言葉を何度も繰り返しつつ、涙を流していた。ナタフはそれを聞くも、そっとレシィの身から離れた毛布をかけなおすくらいのことしか、今はできなかった。

 ナタフのいる病室から出た直後、ジャックはミトに呼び止められていた。
 ミトがそうした目的は、今日、この街に入る前の事。エンザの生存を信じるミトに対し、はっきりとは口に出さないまでも、エンザという犠牲を受け止めて進もうという考えを表していたジャックに、はたしてエンザは、もう本当に自分たちの元へ姿を現すことはないのだろうかということを問いかけたのだ。
 ミトは不安を抱えていたのだろう。エンザはあの時、シャルリシア寮生のため、そしてバウラスのためといって、その場に残ることを決意していた。しかし、ミトもまた、全ての自身の隣人たちを守ることを王女として誓っていたはずなのだ。もしエンザが帰ってこれないのなら、自分の信念を汚してしまったということになる。
 それを感付いていたのだろうジャックはそれゆえに、エンザは恐らくは帰ってこないだろうという厳しい現実を伝えつつ、あまりにも人間離れした実力を持つバウラスを相手にして、エンザが手段を講じていなければ犠牲は一人では済まなかった可能性が高いということ、そして、だからこそ、その犠牲になったエンザの言葉を受け止め、歩みを止めてはいけないという、これからの考え方をもミトに示す。
 しかし、それでもなお、ミトは犠牲を認める考え方に頷けないようであった。だが、エンザの言葉を無駄にできないのもまた理解している。今だ揺れる自身の信念の問題は抱えたままではあるが、ミトはジャックにジャックなりの答えをもらったことに感謝しつつ、最後に、二人で話したことはメギアムには内緒にしていてほしい、という。それがミトなりの冗談であったのかは定かではないが、こんな時でも自身の大切な人のことを考えているその言葉に、ジャックは思わず小さな笑みを作ってしまったのだった。

 ナタフが一同に同行できるほどに回復するには一晩は必要そうであり、そうでなくても、様々な意味で一同は消耗している。ゆえに、一同はナタフの回復を待ちつつ、この街の宿で一晩を明かすことにしていた。
 それぞれに部屋が用意された中、クレハは明かりをつけ、手紙を書こうとしていた。あて先は彼の母、キキョウに対してのものではあったが、筆を手に持つものの、その文章を書く速度は決して速いとは言えない。……それはきっと、彼の心の中が、とても落ち着いて何かを考えていられるような状態ではなかったから。
 しかし、そんなクレハの部屋を訪れる者がいた。ラピスである。ラピスは街に入る前のことを改めて謝りたいと言う。
 それはおそらく、クレハの背を借りてしまったことについてであろうが、そのことを負担とすら思っていないクレハは、むしろ一体何のことだったかという反応をする。そんなある意味いつもどおりのクレハの様子を見つつ、ラピスはふと、クレハが何やら手紙を書こうとしていたらしいことに気づいた。
 ……そして、その文面に書かれた文字が、滲んでいたことも。
 ラピスはこの時悟った。クレハも今、苦しんでいるのだと。
 この時、ラピスがクレハの元へやってきた理由がどれだけのものであるのか、それを知っているのはラピスしかいない。だが、それに気づいたラピスは、あえてそれらの目的を果たすことなく、ここで身を引くことを告げた。
 今は、一人になった方がいいのではないかと告げられたクレハは、最初こそなぜ、という反応を見せたが、もう一度ラピスからその言葉を言われると、おそらく今この瞬間、意図的に顔に作り出していたのであろう笑顔がしぼみ、今度はただ、すまないと頷いていた。
 クレハとラピスの間は再度ドアで隔てられ、今度はもう、クレハの表情も手紙も見えない状態になったが、ラピスには聞こえていた。
 押し殺されてはいるものの確かに聞こえる、部屋の中で嗚咽交じりに泣く、クレハの声が。
 その声を背中にし、ドアに体を支えさせたラピスは、そうだよねと頷いた後、つぶやくように言った。
 みんな、辛いよね。と。

 そして翌朝。
 ナタフに声をかけられる形で、レシィは目を覚ました。
 看護をするはずがいつのまにか寝てしまっていたということにレシィは恥ずかしいやら情けないやらということを言うのであったが、ナタフはレシィ達の心身がどれほど消耗していたかを思い、それをフォローする。……そうしていると、二人のいる病室を訪れる人物がいた。ミルカだ。
 ミルカがナタフの容態について聞くと、もう歩くことはできる、とナタフは答えた。ならばすぐ出発になるかと思いきや、ミルカは一つ、ナタフに確かめておきたいことがあるのだという。
 それは、ナタフが自分たちのことを、これまでも敵視はしないようにしてくれていたということ。……むしろ、助けようとしてくれていたといっていいのかもしれない。
 つまり、ナタフは今だけでない。最初の時はともかく、シャルリシア寮生達のことを知ったナタフは、シャルリシア寮生達の味方であろうとしてきてくれたのではないか。ミルカの言葉にナタフは頷き、そして今、シャルリシア寮生達を全力で生かすために、自分も生きようとしていることをもう一度宣言する。
 そして、ミルカは言った。なら、信じられる。と。
 自分たちのことを信じてくれて来た人の言葉と行動なら、信じてあげなければいけない。シャルリシア寮のプリフェクトであるミルカがそう言い、そして傍らのレシィにも迎えられたことで、ナタフにとってはシャルリシア寮生達に、自身がこれから行動していくことを許されたかのような感覚をもたらしたようであった。そして、信頼されるということが本当にうれしいものだと、ナタフは語る。
 だが、ナタフはその喜びを知るべき人物はもう一人いる、といった。その人物が誰かをナタフはあえて明確には口にしなかったが、それはきっと、ミルカもレシィも想像はついていたのだろう。
 だから、ナタフがその人物へ、その喜びを伝えようとする時、それを支えてくれるだろうかと聞かれて、ミルカもレシィも頷くことができたのだ。
 シャルリシア寮生達に、そして「その人物」に希望をはせ、未来を描いたナタフは立ち上がった。
 彼の行こう、という言葉に二人も頷く。シャルリシア寮生達がもう一度、それぞれの傷を負ってなお、進む時がやってきたのだ。

 出発の準備を整え、ナタフのいう隣町までの移動を開始した一同。ナタフの身体にはまだ怪我の影響が残ってはいたが、彼はそれを意にも介さないといった様子で一同を先導していく。
 進路そのものに特に異常はなく、一同はどんどんと隣町へ近づいていったが、突如、道の上に立ち尽くす一人のヒューリンの少女がいた。……シズナである。彼女は、今までシャルリシア寮生にとっては見たこともないほどの殺意を纏わせており、風もないのにその衣服や髪ははためいている。
 目の前をふさぐシズナに、ナタフはその名を呼びつつ声をかけようとしたのだが、まるでそれを歩み寄りを拒否するかのように遮りつつ、シズナは言った。殺したくなかったとは言わない。と。
 シズナがシャルリシア寮生達を断じようとするのは、「心の魔」が原因ではある。しかし、シズナはシャルリシア寮生達の……ミルカ達の正しさが、戯言であるとも語った。
 真に人の世に尽くすのなら、あらゆるものを捨てなければいけない。それがシズナの考えだ。
 他者との関わり、自分の命の価値、それを信じることですら、それは人の身勝手なこだわりに過ぎない。その覚悟を持たない者に、何かを救うという思想はふさわしくないと。
 だが、そんなシズナの言葉をナタフは否定する。シズナの今の考えが、過去からずっと抱え続けて来た妄執であり、少なくともこの一年、エルクレスト・カレッジという場所はナタフとシズナにとって新たな世界を見せてくれた場所であったことを主張したが、シズナはそのナタフの言葉を、怒りで持って拒絶した。
 しかし、ナタフは信じていた。必ず、シズナに自身の言葉が届くはずと。
 ……いや、それを成すと、すでに決めていたのだ。
 リュミルとザムトの姿もない。今ここにやってきたのはシズナだけ。
 ナタフはミルカ達へ言った。少しの間だけ、シズナの攻撃を耐えしのいでほしい、と。
 圧倒的な力で一同の殲滅を計るシズナに対し、ナタフがその心を開かせるべく、叫び始めたのだった。

 ナタフはシズナへ、ここでシャルリシア寮生達を殺そうとすることが、本当に正義なのかと問いかけた。バウラスがシャルリシア寮生達を生かしたことも、それに起因するのではないかと。だが、シズナにとってはすでに……いや最初から、バウラスの判断は問題ではない。
 この世界で正しい存在であるためには、自身の決めたことを強く、確かに保持し続けなければいけない。シズナは、自分はナタフ、バウラス、シャルリシア寮生……いや、世界に存在する圧倒的多くの人間を堕落者と断じ、自身をそれと差別化している。
 だから今、シズナは断固としてシャルリシア寮生達を抹殺することを宣言する。
 人の世のために、自らも他者もすべてを捨て去る。それこそが世界を、正しく導くために必要な考えのはずだから。
 ナタフはそのシズナの考えは、シズナの中にある感情から目をそらしているもののはずと追及しようとしたが、シズナはあくまでその言葉を戯言と一蹴し、ついにその力を振るい始める。

 シズナのまるで舞踏にも似た足裁きと、そしてその身に纏われた力の強大さは、もはや地上に存在する戦士たちの域を超えたと言っていいほどのものである。ラピスをはじめとし、シズナの本当の実力が非常に強力なものであることに一同は気づいていたが、それでも立ち向かう意思はくじかれない。ナタフの言葉に従い、時間を稼ぐためにも、徹底的に抗戦することを決意し、ラピスの身体強化魔法で卓越した速度を得たあと、その行動を止めるべく向かっていく。
 シズナの身に纏った神の威光から繰り出される攻撃力と、その障壁魔術の強力さ絶大さ、そしてシャルリシア寮を倒さねばならないという憎悪……いや、自身の信じて来たものを正しいと思い続ける妄執からくる行動力は、一人でシャルリシア寮生達を全滅させようとしたことが決して言葉だけのものではないことをはっきりとしめしていた。しかし、その自身の攻撃が全員の意思を集めたラピスの魔術によって阻まれ、さらに続けて放った一撃もミトの堅牢な防御力と、ミトを守るために放たれたレシィやミルカの魔術をはじめとした一同の総力で耐えきられ、ダメージこそ大きくは受けなかったものの、クレハやミルカの決死の気持ちを表した全力の攻撃の中に、そんな状況でありながらもどこかシズナ自身のことを気遣っていることを感じ取ってしまったシズナは、その状況を認めようとしないものの、実は心を揺らがせていた。

 そんなシズナへ、ナタフは引き続き、シズナが自分の中の本当の気持ちから目を背けようとしているのだということを指摘する。シャルリシア寮生達を殺すことで多くの人が悲しむこと、そしてシズナを恨むことを知っているシズナは、本当はそのことを罪だと認識し、恐れているのだと。それを、エルクレスト・カレッジの中で、そしてシャルリシア寮生とふれあう中で知ったはずだと。
 そう、ナタフ自身と同じように。
 シズナはそれを、自分はナタフのように立場を忘れていないとなおも否定する。だが、ナタフはそんなわけはないと叫んだ。
 自分たちは人を救うための組織に属している。だから、任務の中とはいえ、学園にいる人々と様々な形で関わってきた。
 そこにあった笑顔、希望、それらの価値に、気づかずにいたはずはない。それが素晴らしいものであると知っている。
 だが、その価値を自らの妄執で塗りつぶそうとしてしまっている。今、シャルリシア寮生達がいたことで学園に存在していた価値を思い出すべきだと、ナタフは語ったのだ。
 それでもシズナは、黙れ、といった。
 「お前たち」……シズナにとって、世界とはみんな、そうなのだ。
 自分のこだわりを捨てらずに身勝手で。全てを捨てることを恐れるほど弱くて。理解し合えず孤独になることを怖がって。
 それらすべてをごまかして、通りのいい希望論を振りかざす。何も失わなくていいのだという。
 「理想の世界」のためには、人々のその意識に変革がなければいけない。
 「理想」のために失わなければいけない人物がいるのを理解し、そしてそれを受け入れていかなければいけない。
 何も失えない人間が集まってしまったら、何も守ることなどできないのが現実なのだから。
 ……シズナはそう叫んだ。だが、そう叫びながらもクレハを狙った攻撃は、2度も空を切ることになる。それはラピスによる支援を合わせもはや人知を超える域となった回避力を誇るクレハであったからこそできた芸当ではあったが、そこからくる一同の反撃もしのぎつつ、彼女はさらに声を荒げていた。
 そう。怒っていたのだ。

 シズナはなおも叫び続けている。
 世界に「そんな連中」しかいないから、自分のような存在は必要なのだ。
 自分の事しか考えない人間。非情になれないという人間。それらを甘えた独善として、シズナは怒る。
 そのために、それらの「甘えた考え」から自分を切り離すために、自分は違うというために、シズナは自分の中から愛も情も排除しようとしていた。
 そのためになら、世間一般で「人」として呼ばれるために必要なものを、捨てたいと願うことは必要なのだと思っているのだ。
 だが、ナタフはそれを必要な事とはしなかった。いや。
 シズナの本当の願いは、それを捨てようとはしていないと信じていたのだ。なぜなら。
 シズナは、ミルカに怒っていたから。
 本当に情も愛も捨てるべきだというのなら、それを成した人間が怒ったり嘆いたりはしないはずだ。
 それでもシズナがミルカに怒ったのは、直接反抗したわけでも、少なくともその当時、敵対したわけでもない相手をずっと憎み続けていたのは。「ミルカがシズナの考えを乱す存在だったから」に他ならない。
 ……それはつまり、シズナは、ミルカの存在の価値を、知っていたということなのだ。そしてそれだけでは、ない。
 かつて、セイがその力を暴走させてしまったことで、自身の存在への自信をまた失いかけていた時(第八話参照)。シズナは、セイの元へ向かおうとするも、同じくセイの元へ向かおうとしていたミルカへ道を譲った。
 ナタフは知っていた。あの時、シズナは最悪、セイを始末するつもりであったことを。
 だが、そんなシズナが、セイのためにと急ぐミルカに、道を譲ったのだ。このことは、ナタフにあることを確信させていた。
 シズナが、ミルカ達を少なくともあの瞬間、認めたのだと。
 ミルカ達の行動が、シズナ自身が行う非情で悲しい行動よりも、行われるべきものであるということを。
 だから、シズナは変わろうとしている。そのことをナタフは信じた。
 だから今、シズナは苦しみ怒るのだ。最後の最後、今まで培ってきた自分という存在を越えていくために。
 シズナの感情は爆発し、ミルカを世界のために殺すことを改めて叫んでいる。
 シズナにもう、余裕はなかった。

 戦闘に入ってから、シズナが大きく動いたのは3度目だった。
 シズナの力は、ついに最高潮に到達したと言っていい。それが、奇跡的なまでの鋭さと正確さで、再三ミルカを狙う。
 だが、その攻撃はミルカには届かない。1度目の時と同じく、ミトが割って入る。
 その攻撃力は一撃目よりもはるかに勝るものだった。だがしかし、ミトは仲間たちの全力の支援を受けつつ、なんとかそれに耐えきって見せた。そして、返す動作で放たれた連撃も、絶対にそれを通さないという決意に基づかれたラピスの魔術によって阻まれた。
 自身の全力の攻撃が、耐えきられた。もちろんシャルリシア寮生側とて相応の消耗はしているとはいえ、それはシズナに、自分の信念を明確に跳ね除けられたかのような感覚を与える。
 それぞれが明確な意思で立ち続ける6人に、ミルカに対して、シズナはなぜ倒れないのか、と愕然としつつ、ついには倒れろ、と叫び始めた。
 その様はもはや、揺るぎなき信念を持った神の使徒とは到底言えないものだ。だからミルカは言った。
 世界のためにと言いながら、誰よりも自分のこだわりに囚われているのは、シズナ自身なのではないかと。
 シズナは、それを否定する。そんなわけがないと。
 他の人間たちと違い、自分と、自分の周りにある者の犠牲を等しく認めたのが自分なのだ。
 そうあることを肯定するどころか、認めようともしない人々が世界にはびこるから。
 自分が嫌うそんな「甘い人間」と、自分は違う。シズナはあくまでも、それを信じようとしている。
 だが、そこで今度はレシィが叫んだ。ならばなぜ、保健委員で共に過ごしてくれたのだと。
 あらゆる情や愛を捨てようとする人間が、人を救うための委員会に属していたのはおかしなことだ。そして、レシィはシズナが、態度はともかく実際に人を助けようとしているところも傍で見て知っていたのだ。
 シズナは答える。人を救うのが使命である故に、愛は情とは関係なくすべきことをするところにいただけだ、と。しかしレシィは納得しない。
 さらにラピスにも、何かを望むことを否定するのが人の生き方ではないと糾弾され、シズナはもはや、ただ叫び続けるだけになりつつある。そこでナタフがさらに、言った。
 辛いということを、認めろと。
 シズナは、シャルリシア寮生達を討つことを、辛いと思っている、知っている。
 なぜなら、かつて自分で認めたほどに、シャルリシア寮生達は人を救い、人に笑顔をもたらしてきたところを見ていたのだから。
 だがそれを認めれば、今シズナがあくまでも縋りつく「自分のかつての考え」が、自分のすべてを否定するかもしれない恐ろしさに、シズナは怯えている。
 だがナタフは言う。人は過去に押しつぶされるということはないと。
 今この瞬間に、確かに自分の心にあるものに従って進んでいけるなら。それは未来を見つめるということだ。
 未来に進む人間に、過去が追いつくことはない。過去が押しつぶすのは、進むことを否定した人間だけ。だから、ナタフは炎の使徒を抜けられた。だから、シャルリシア寮生達に協力できた。それは、自分という一人の人生を預ける価値のあるものだから。
 自分自身のことを呪われたクズだと考えていたナタフが今、シャルリシア寮生達と出会い、その行動を眺めつづけて、そう思えた。
 だからシズナも、一緒に行くんだ。
 ナタフのその言葉の直後、シズナの周りを、先ほどまでよりもさらに強力な神力が吹き荒れた。
 もはや外聞も何もなく、怒りとも悲しみとも判別しづらい表情のまま、恐ろしい速度と力で周囲の人間を吹き飛ばしたシズナは、そのままミルカの首を絞めるように掴み、やっと言葉にしたかのようなかすれた声で、言った。

ミルカ、あなたが。
あなたが、私の前であんなことをいわなければ。

 二人が最初に出会った時(シズナの第一話時の説明参照)。ミルカはシズナの、「あなたは人の子のためにその身をささげることができるか」という問いに、そうしなければいけないとは思っていないと、答えた。
 その時はまだ、シズナにとってミルカは、彼女にとって大多数の他人の一人にすぎなかった。
 世界のために、真の意味で全てを犠牲に捧げなければいけないという崇高な思想を理解できない、圧倒的多数である、愚かな「一般人」の一人だった。
 しかし、監視という任務上、シズナはミルカのことを常に観察していた。……即ち、彼女がプリフェクトとして、シャルリシア寮を率いて活躍するところも。それは、あることに気づかずにはいられないことだったのだ。
 自分にとっては愚者の一人にすぎないはずのミルカは、常にまっすぐな瞳で、誰かの力になり、誰かを救うことを惜しんでいなかった。
 そして、実際にそんなミルカに、そしてシャルリシア寮に、多くの人々が救われ、感謝していた。
 そんな時、ミルカ達は、自分が救った人々と共に笑っていた。そうすることで、人々の笑顔はもっと大きなものになり、より多くの人々が希望と喜びに包まれていた。……シズナには、できなかったことなのだ。
 自分自身を犠牲にし、情を否定し、愛を捨てることでしか真に人々を、世界を救う方法はないと信じていたシズナにとって、それを次々と、たやすく行うシャルリシア寮生達は、ミルカは、まるで自身の考えを否定する存在に思えてならなかった。だから、シズナはミルカを嫌悪していた。
 だが、そもそもそういう風に彼女が感じていたことこそ、まさに証明なのだ。
 ミルカ達のしていることが、考えが、人々に希望と救いをもたらすために、間違っているものではないと。
 そしてそうだというなら……自分自身が孤独でい続けなければいけない理由も、本当は、希薄なのだと。
 ……だが、それでも。
 それでもなおシズナは今、ミルカを殺すつもりでいた。
 神の元に生まれたはずでありながら、その行為の邪魔となるあらゆる欲を捨てきれておらず、そしてそれを肯定する「世界」に絶望してから、ずっと堅持し続けて来た自身の理想を、それでも正しいと言い続けるため。
 それを乱すミルカを、絶対に許せないのだと言いつづけたかった。
 ……しかし。

誰かを、助けたいというのなら。
自分自身の本当の気持ちを、しっかりとぶつけていかなければいけない。

 ミルカが首を絞められつつも突如語ったその言葉に、思わず、シズナの手が止まる。

何故なら、そうしなければ、助けられた人は自分を助けていきたいとは思えないから。

 ミルカは、本当に人を救うという行為は、その輪をつないでいくことだと信じているのだろう。
 だから、誰かを助けるという行為や気持ちが、その相手から見ても誇らしく、希望を持てるものにしたいと願っている。そのために、そう思える自分に正直にいようと考える。
 それが、助けられた人が誰かを。そして、その誰かに救われた人がまた別の誰かを。
 救いあって、本当にあるべき世界の姿に、少しずつでも近づいていくはずだから。
 ミルカのその言葉を聞いて、シズナは、ミルカの瞳を覗き込んだ。
 こんな時でも、決して苦しみに折れない、強い瞳を。
 どうして、とシズナは思わず口にする。
 どうして、自分が殺されようとしているこんな時にすら、そんなことが言えるのかと。
 そんなシズナに、ミルカは言った。

だって、苦しんでいるから。

 あなたは。シズナは最後に、そういった……らしい。
 もう、言葉になっていない。シズナの瞳に涙の雫が浮かぶのが、ミルカにははっきり見えただろう。
 そんなシズナの背中に、ナタフが声をかける。
 もう、いいだろうと。
 シズナはすでに。
 ミルカに、シャルリシア寮生達が生きることに意味があるはずだと、知っているのだから。
 そして、シズナはミルカの首から手を放す。
 武器を取り落とし、神気を消失させ、ただ一人の少女として、その場に崩れ落ちる。
 そして、泣いた、自分の中に押しとどめていたものを、外に放すように。
 シズナは、泣き続けていた。


 先にナタフが言っていた通り、急がない旅ではない。それは全員が理解していた。
 しかし、今ここで泣き続けるシズナを置いていこうとは思えなかったのもあり、少しの間、一同は先ほどの戦闘の消耗回復もかねて、その場にとどまっていた。
 そして、頃合いを見計らったかのように、ナタフはシズナへ手を伸ばす。
 そして改めて、共にシャルリシア寮生達のための力になろうと言うのだった。
 しかしまだ無言を返すシズナに、ナタフはふいに、バウラスの話を始める。バウラスがシャルリシア寮生達への粛清を止めたのは、エンザによることであったと。それを聞いて、シズナは思わず、ナタフの方を見上げ驚いた。
 ナタフはシャルリシア寮生達から聞いたバウラスとエンザの会話についてをシズナにも伝え、その中でエンザがバウラスを「救う」といっていたこと、そして「自分の言葉を信じさせる」といったことについてを語る。
 その内容にどれだけの意味があったかは定かではなく、理解できるものは少なくともこの場にはいない。だが。
 その言葉を受けてバウラスが行動を停止したというのなら……それは、バウラスも「信じた」ということなのかもしれない。
 シャルリシア寮生達に希望があるという、エンザの言葉を。
 その考えを聞いたシズナは、また無言ではあった。しかし、やがてつぶやく。
 あの人は、バウラスは、何も言わなかったと。
 シズナにとって……いや、炎の使徒に属していた者達にとって、やはりバウラスは行動の模範であり、そして尊敬する象徴だったのだ。
 それに対して、ナタフはこう答える。
 バウラスはいつもそうなのだ。なぜなら、バウラスは生まれた時からずっと、自分のすべきことが自分以外の何かによってすでに決められていた存在だから。
 だからそれを外に出さない。誰かに共感してもらおうともしない。そういう人だった。
 しかし、そんなバウラスが初めて今、確かにその「考え」を変えた。
 そのことをどう判断するかは難しいが、その意味と価値を、考えるべきではないかと。
 だから、自分の変化を、認めていくこともできるはずだと……
 シズナはそれに答えない。それは聞いていないのではなく、自分の中でその言葉をかみしめているのだろう。
 しかし、そこへ新たに、やってくる二人がいた。リュミルと、ザムトである。

 その場に崩れ落ちるシズナと、まるでそれに気遣うかのようなナタフ達。その光景を見たリュミルは、我が目を疑った。
 シズナの力と信念は、リュミルも一目置く物だった。そんなシズナがシャルリシア寮生達を前に膝をついている。リュミルには、とても現実の事とは受け止められなかった。
 ヒューリンの使命に従って戦い、生き抜いてきた自分たちが、ただのうのうと生き続け、今自身の命を守り続けようとしているような相手に負けるはずはないと信じていたから。
 ついに再び現れたリュミルとザムトに、シャルリシア寮生達は当然警戒を固める。しかし、そんな中クレハだけが、自らリュミルに歩み寄っていた。クレハは、かつて自分に対して可憐で純真な表情で語りかけてくれたリュミルがあのようなことをしたことには、何かわけがあるはずだと信じたかったからだ。
 そして、クレハは手を差し伸べリュミルに触れようとしが、その瞬間、ラピスが一声高く声を発し、クレハを制止した。その声に気を取られ、クレハが足を止める。
 すると、そのクレハの脇を、銃弾がかすめていった。クレハがもう一度リュミルを見た時、リュミルはその手に魔導銃を構えており、それを間違いなく、クレハへと向けて発砲していたのである。 
 こうなればもう、クレハも今のリュミルから発される殺気から目をそらすことはできない。そして、リュミルはこれほどのことがありながらそれでもなお、リュミルのことを信じようとしたクレハを愚かと断じ、ここでシャルリシア寮生達を殺そうとしている自分こそ真の姿であるとして、クレハを愕然とさせる。
 しかしその間に、ナタフが割って入る。
 そこでナタフが口にしたのは、シャルリシア寮生達を狙うのをやめろという、リュミルやザムトにとって再度の言葉だった。
 シャルリシア寮生達を生かすということは、人々の平穏を守るという炎の使徒の使命にも反しないことだとナタフはなおも言う。だが、それを聞いたリュミルはもはや、会話をするつもりすら失っているというばかりの態度である。
 リュミルは声を荒げて言う。
 この世界はクズばかりだ。
 死んだところで世界の何が変わるでもない。ちっぽけで何の価値もない、そんな命を後生大事に抱えて、それが当然だという顔をする。
 死んだ方がいい理由があるならさっさと死ぬべきだということすら理解しようとしない。だから誰もかれもがクズなのだ。
 そう叫ぶリュミルに、ナタフは聞き返した。
 お前に、使命は無いのか、と。
 リュミルはすかさず答える。ある、と。それは、存在が世界をかき乱すようなクズを全て殺すことだ。
 しかし、ナタフはそれを使命とは認めなかった。ナタフは断じる。
 リュミルは、人を、命を憎んでいる。可能なら、そのほぼすべてを滅ぼしてしまいたいとすら思っている。
 今のリュミルはその感情を「世界」に対し正当化する理由を求めていた。そのために使命を利用しているに過ぎない。
 だが、そんなものが正しき「使命」であるはずはない。リュミルが自身の中に使命があるというならば、その事実と向き合い、改めてあらゆる人々に対して自分のすべき本当のことを見つけ出さなければいけないのだ、と。
 そう。ナタフは、そんな考えを持ったリュミルですら、しかるべき目的を探し、生きていくべきだとした。何故なら、ナタフ自身が、己の存在意義をずっと、自分で定めることができなかったから。
 かつては、自分自身ではなく、神やバウラスといった大きな存在を意思のよりどころにすることが、正しいと思っていた。いや、「炎の使徒」となった自分は、そうある以外にないと思っていた。
 だが今、ナタフはそれがそうではなかった……「炎の使徒」の生き方が、その意思を神やバウラスに固定しようとするものではなかったのだと確信することがあると発言する。そのナタフの意見を聞いたザムトが、この場に来て初めて反応し、口を開いた。ナタフのその発言に、興味を持ったらしい。そんなザムト、そしてリュミルに対して、ナタフは続ける。
 そもそもなぜ、バウラスは炎の使徒を集めたのか。
 バウラスに仲間は必要ないのだ。何故なら、力も心も、誰もバウラスに追いつける存在はいない。すなわち、並び立つことができないのだから。
 炎の使徒が炎の使徒として存続した理由……ヒューリンが魔を払う者として生まれたという神話に基づくその思想は、バウラス自身の考えであることは違いないだろう。だが、バウラスの目的は、それを元にした師団を作ることではなかった。何故なら、先の通りバウラスに仲間は必要なく、さらに、バウラスは一度も、ナタフ達に対し「そうあること」を強制することはなかったのだから。
 しかし、そんなバウラスが最初だけ、その思想をナタフ達に説いた。そして、他のどこにも行けない人々が、バウラスを元に集まって行った。
 その理由は何だったのか?
 その答えを、ナタフは思い描いている。だが、それを語る前に、リュミルはその言葉を遮った。
 黙れよ、とリュミルは繰り返す。すでに彼女はバウラスもナタフ裏切り者と蔑んでおり、あまつさえその裏切者に自身の執念(おもい)を否定されたことで、もはやリュミルは怒りのボルテージを最高潮に達させている。
 ナタフはそこで、すでに会話は不可能となったリュミルにではなく、ザムトにのみ視線を送り、まだシャルリシア寮生達を殺すつもりなのかと叫んだが、ザムトの返す視線は、冷ややかなものだ。
 今のザムトにとっては、ナタフの語る言葉から感じ取れる「希望」などあまりにも不確かなものであり、それに頼るよりも、シャルリシア寮生を含めた7人を全滅させてから次の「復活」までの十数年という期間を獲得した方するべきだという考えの方が堅実なものだった。
 だからザムトは、冷徹に言い放った。今この時が、世界に対する救いを、シャルリシア寮生達が果たさなければいけない時であり、それを自分が導く、と。
 ザムトからついに放たれ始めた明確な敵意に、ナタフは大きな脅威を感じていた。その反応を見て、シャルリシア寮生達もまた、ザムトの実力がはるかに強大なものであることを予感する。
 だが、そんなナタフとザムトの間に、立ちふさがるものがいた。シズナだ。
 そのシズナを行動を、ザムトもリュミルも、驚きを持って見つめている。シズナはその視線の中、静かに、しかし、厳格に口を開く。
 私は、ヒューリンの使命に従い、世界を、ヒトを守る。
 そして、シャルリシア寮生達がここで生き残れば、今ここにいない、世界の人々が悲しみを背負うことになるかもしれない。その程度がどれほどのものになるか、予測もできない。
 だが。
 もしシャルリシア寮生達が死んでしまえば、間違いなく、学園にいた人々は。そして、シャルリシア寮生達を知っていた者は皆、深く悲しむことになる。
 なぜなら、シャルリシア寮生達は、ミルカ達は、生き続けることで常に、触れ合う人々に笑顔や平穏をた希望を与え続けていたのだから。
 シャルリシア寮生達を知るものは、誰もがその価値を、決して小さなものではないと知っているのだ。
 そして、それはついに、あまりにもかたくなであった、シズナ自身にすら届いた。
 だから、シズナは今、シャルリシア寮生達を信じると決めた。
 シャルリシア寮生達が自分の心を動かしたことを認め、それを抱えて進んでいこうとしたのである。
 シズナは言う。ミルカ達はやらせない、と。
 立ち上がったシズナが、涙を目の端にとどめながら、しかし強く言い放ったその言葉に、ザムトはうなずいた。
 シズナを目の前の脅威と認め、打ち倒す覚悟を決めたのだろう。
 ザムトはリュミルに、シズナの相手を自分がするので、リュミルがシャルリシア寮生6人を相手することを要請すると、リュミルは6体1となることを全く意に介していないとばかりの態度で、むしろこっちに手は出すなとそれを了承する。そしてナタフはまともに動かない体に鞭をうちつつ、それでもシズナの方へと近づいた。
 こうして、ザムトVSシズナ&ナタフ、リュミルVSシャルリシア寮生達という構図になったのだ。
 もはや戦いは避けられないとその場にいた全員が理解し、リュミルとザムトがまず動こうとしている。そのさなか、ミルカやレシィがナタフの身を案じ声をかけ、シズナはレシィの「一緒に帰ってまた保健委員の仕事をしよう」、という言葉に、今自分には帰るべき場所を用意してくれている人たちがいることに想いを馳せ、ナタフは、ザムトをなんとかするという決意を口にし、ついに戦いが始まった。

 シズナとナタフの反応からしても、ザムトとリュミルが強敵であることは確かだ。戦いの始まるさなか、一同は油断なく各々の持てる全てを発揮するための準備を整えつつ、ラピスがザムトとリュミルの能力を見抜き、彼女は、リュミルには魔導銃を駆使した高度な技術があり、とりわけ、自らに近づく存在を撃ち落とす迎撃術と、スカウトならではの超行動力や数々の射撃術。そして、何よりそれらを「一般人」達への憎しみからくる妄執によって、さらにやっかいな技に昇華させていることを。そして、ザムトにはウィザードとしてだけでなく、魔法や知識の術をほぼすべて修めたのではないかと思えるほどの圧倒的実力に加え、魔術を瞬時に分裂させ襲わせる、魔術を応用し自身の行動を超越させる、あらゆる事象に知識で適応させるなどと言った驚異的な能力があることを仲間へと伝えた。
 状況的には自分たちの相手はリュミルであり、ザムトの相手はシズナ達に任せている、という状況ではあったが、シャルリシア寮生達はザムトへの警戒も怠らず、ラピスの魔術による強化の戦略に介入されないよう、ザムト、及びシズナとナタフからは距離を取り、また分散する相手をも一度に狙う技を持つリュミルから耐久力の弱い者達を守るため、クレハとジャックを前衛とし、ミトがそれ以外の3人を全員カバーできるよう固まるという布陣を敷く。
 その一方でザムトは、一時は数十名がいた「炎の使徒」に、たった4人残った最後の生き残りである自分達同志が戦わなければいけないということが悲しいと、シズナとナタフに語りかけていたが、その視線はあくまで冷酷だ。
 だが、ナタフはそんなザムトに訴えかけるかのように強く叫び返す。
 その通り、本当は戦う理由なんてない自分たちが戦わなければいけないのは、悲しいことだと。
 ザムトは、この期に及んでまだその主張をするか、というものの、ナタフは、ザムトならわかってくれるはずだと、言葉を続ける。
 確かに、シャルリシア寮生達のことをほぼ知らないザムト達からすれば、シャルリシア寮生達に生き残ってもらうということの価値は希薄に思えるのだろう。
 だが、シャルリシア寮生達のしてきたことを見て、彼女らの人となりを見てきた人々は、シャルリシア寮生達のことを信じることを決意できる。学園の人々も、自分とシズナも。
 そしてそれだけではない、バウラスですら、シャルリシア寮生達のことを信じたに違いないのだ。だから、その価値を考えてくれと、ナタフはザムトへ懇願する。
 それに対してザムトはしばし無言だった。バウラスがシャルリシア寮生達のことを信じた、という言葉に対してはわずかに表情を変え反応していたようだが、すぐに冷静かつ冷酷な元の表情に戻り、ザムトは言う。
 しかし、それを信用する理由はない、と。
 だから今、ザムトは自分の中の正義を元に、その行為を執行することを決めていた。ザムトはその宣言と共に動き出し、ついに、相対するシズナへと強力な魔術を繰り出す。
 しかし、シズナがそれによって傷を負うことはなかった。ナタフが、その身を挺し代わりに受けたからである。ただでさえ傷を負っている状態であったナタフが、その強烈な威力によって大きなダメージを受けたことを、かばわれたシズナはもちろん、それを離れてみていたシャルリシア寮生達も心配して声をあげたが、ナタフはそれでもまだ立ち上がり、今自分ができるのはこのくらいだと、引き続きザムトの攻撃を受け続けるつもりのようだった。
 しかし、そういうナタフの瞳は、しっかりと志を持ち、ザムトへと向けられている。そんな、自分に対してまだ何かを訴えようとしているナタフの瞳に、ザムトはなぜか、小さくうなずいていた。

 予見できたことではあったとはいえ、ザムトとリュミルの戦闘力はやはり高かった。
 ザムトは先ほどの戦闘で鬼神のごとき力をシャルリシア寮生達に見せていたはずのシズナを相手にとりつつも戦闘を優位に進めており、リュミルはその執念によってか、シャルリシア寮生達の防御の要の一つといえるレシィやミルカの防御魔術をすり抜けるかのような射撃が驚異的な鋭さを持つだけでなく、ラピスによって精度を強化されたはずのクレハの攻撃ですらその銃弾で防ぎきって、シャルリシア寮生達を押し込もうとする。
 だが、その勢いに気圧されるシャルリシア寮生ではなかった。レシィとミルカの魔術を封じられつつも、ミトが窮地に陥った仲間を次々とカバーし、その傷ついた体をレシィが癒す。そしてラピスもリュミルの狂った執念に負けぬとばかりに、リュミルの高度な射撃術に全員の結束の力を篭め対抗して見せる。そして、攻撃においても、クレハとミルカに続いて放たれた、レシィとラピスによって打撃力もまた強化されたジャックの攻撃が、ついにリュミルの迎撃を打ち破って叩き込まれ、そこからまるで火ぶたを切ったかのように、クレハとラピスの、そしてミルカの攻撃もリュミルの動きを越えて炸裂し始める。そのあまりの勢いに、リュミルは自身の死力を尽くしてジャックの攻撃に抵抗せざるを得なかったが、それでも身に受けた分のダメージは決して小さなものではない。
 リュミルは攻撃を受けた分のお返しとばかりに、もはや人体の限界を超えたのではないかと思われるほどの超行動で、予断を許さない連撃を仕掛けたものの、魔術などによる障壁は貫けても呪符の効力はその銃撃に対して有効であり、その力と結束による再起によって、一同はその攻撃をミトに大きな負担をかけることなく耐えきり、リュミルの対抗手段に対する手段を残すことに成功する。そしてリュミル自身もシャルリシア寮生達の攻撃をさばき切れてはおらず、次第に傷を深くしていくリュミルの表情から余裕はなくなっていった。
 ザムトとシズナも引き続き熾烈な攻防を重ねている。リュミルの隙をついて近づいたレシィとミルカが支援の防御魔法を飛ばしたこともあり、その威力は先ほどより大きく抑えられてはいたものの、ついにナタフがその膝をついてしまった。
 しかし、その戦いのさなか、ザムトはそんなナタフにある質問をする。それは、ナタフが戦闘前に口にしていた「なぜ、バウラスは『炎の使徒』を集めたのか」ということについてである。ザムトは、そのことについてナタフの意見を聞きたいと言ったのだ。
 思いがけずザムトからもたらされた突然の言葉にナタフは少しだけ戸惑ったが、やがて意を決したように、しっかりとザムトの顔を見て語り始める。
 繰り返すが、バウラスに仲間や同志は本来必要ではない。
 そのバウラスがなぜ、ナタフやシズナやリュミルといった、世界のどこにも居場所をなくした人々を集めたのか。その理由をナタフは、バウラスが自分達を、救おうとしていたからなのではないかと考えているという。そのナタフの考えに、ザムトは瞳を見開き、シズナは思いがけなかった、という風に反応する。
 ナタフは続ける。つまり、バウラスは自分にできる方法で、生きる居場所を見つけられずにいた人の、新たな居場所を作ろうとしていたのだ。
 ヒューリンが生きる使命についてを説いたのはそのためだった。その使命を、自分の意思で肯定し、そのために生きようとすることで、自分のことを呪いながら、世界の中で埋もれ沈んでいく人をそこから拾い上げるために、その言葉は必要だった。
 だが。ナタフはそう言う。しかし、その次の言葉を紡いだのはザムトであった。……まるで、同じことを考えていたかのように。
 だが、バウラスについていける人間は存在しなかったのだ。
 バウラスの持つ信念はあまりに絶対。そして、その力も人の領域を外れている。
 結果として、バウラスの語る信念に傾倒すればするほど、その近くにいようとすればするほど、人は死んでしまう。バウラスは、誰かと並びたてる場所にい続けることをしないから。
 しかし、そのことを悲しむ人間は「炎の使徒」にはいない。誰もが自身が少しでもバウラスの言葉に従えたこと、自身にとって絶対なる「神」の兵でいられたことを、感謝しながら逝ったのだ。
 死の瞬間、彼らは満たされていた。自身の意味を感じられなかった命が、それを得たまま終われることに感謝していた。ならば、それこそがバウラスにとって「救い」とみなすものだったのか。
 ザムトはそうナタフの考えに問いかける。しかし、ナタフは、そう思っていないと答えた。
 結果的に、そうなってしまった。多くの人が炎の使徒として死に、そして彼らは、彼ら自身の中で救いを感じていた。
 だが、それでもナタフは、それがバウラスの「望み」であったとは思えないのだ。

 もし、バウラスの望みが、先ほどザムトが語った通りのものであったとしたら。おかしいことがある。
 ……なぜ、それを自分たちに直接示さなのかったのだろうか、と。
 確かに、炎の使徒だった人々は、誰もが自分から命を捨てるも同然の戦いや任務に向かっていき、その結果死んだ。
 バウラスはそれを引きとめることはしなかった。しかし、あくまでバウラスが、死に向かうことについてを称賛することはなかった。結局、バウラスが自分たちに言ったのは、最初の言葉だけ。
 ヒューリンは、今代の魔を払う者として神に遣わされた、使命を帯びた種族なのだと。
 自分の居場所や価値を見失ったナタフ達は、多くがこの言葉を聞かされ、そしてバウラスの元に集まった。
 かつてのナタフを含めその人々は、結局のところ、その言葉を自分の命にも使い方があるということくらいにしか思えていなかった。だが、エルクレスト・カレッジでの生活を経て、ナタフが自分の生きる価値、生きたいという思いについて考えるようになった時……同時に、バウラスのその行動に、彼の「真意」があるのではないかと考え始めた。
 ……ひょっとしたら、バウラスがヒューリンの使命という言葉と共に人々を拾ったのは。
 神への使命に縛られたバウラスが、その中でもなお、生きる価値を見失った人々に対し、「生きていい権利」を授けるためではなかったのかと。
 ナタフがそう語った時、「生きていい」という言葉を、シズナもザムトも反芻していた。少しの間戦いの手すら止まった静寂が流れ……やがて、ザムトがさらに聞き返す。
 ナタフとシズナもすでに知っていることではあるが、二人がエルクレスト・カレッジにいた1年以上を含め、炎の使徒は増員されていない。その期間はその前から数えると実に3年以上続いており、すなわち、それだけの間、バウラスはそういった人々を「救う」ことはなかったのだ。
 生きる価値を見失い、居場所を見失い、この世に絶望した人間を拾い上げることがバウラスにとってそうした意味のある行為だったなら、なぜバウラスはそれをやめてしまったのか?
 ザムトは、その理由をナタフの考えから求めた。
 今までのこともそのことも。それを語るべき人がいるというなら、ナタフではなくバウラスのするべきことだ。
 だが、バウラスは何も語ることはない。バウラスにとって、誰かに理解してもらおうとすることすら弱さであるから。
 だから、ザムトはナタフに言葉を求めた。自分の考えと照らし合わせるために。
 しかし、ナタフは頷くも、自身の考えはすでに述べたという。つまり。
 自分達に「生きてもらう」ことが、きっとバウラスの望みだったのだ。
 ……だが、バウラスの信念と強さに身をささげた人々は、炎の使徒となった人々は、みんな自らが死を恐れず、死地に赴くことに戸惑わなくなってしまう。それが、何も説明せず、ただ世界の平穏のために身をささげることを神からの使命と信じ生きるバウラスの限界だった。……それをバウラスが自覚していたことが、ナタフはバウラスが、「炎の使徒」となる人物を集めることをやめてしまった理由だと。そう、少なくとも。
 自らで道を説き、集めた人々が、結果的にそれで死を迎えるということを、バウラスは内心、良く思ってはいなかったということなのではないか、と。
 ならば、とそこで言ったのはザムトだった。
 バウラスは自分たちの代表であることを辞退した。
 それはつまり、自分達はもうバウラスの言葉や行動に寄り添うのではなく、自分の意思で生きていくしかなくなったということだ。
 そんな自分達へ今、バウラスが臨んでいることがあるとするなら。
 そのザムトの言葉を、今度はナタフが受け取り、つなぐ。
 それは、自分の価値を、自分自身で見つけ出し、生きていくこと。
 そうすることを、他者や凝り固まった妄執に任せないこと。
 生きることだ、と。
 また、音が止まった。しかし、もう一度ザムトが動き、口を開いたとき、彼はもう、手にした杖をおろしていた。
 そうだろうな、とザムトは言う。
 そう思ってみればなんということはない。
 バウラスはただ、世界の中であまりにも絶望に沈んだ人々に対し、「父親」になろうとしただけなのだ。 
 だが、バウラスはその存在自体が世間一般を大きく超越してしまっている。だから、彼は父親になろうとしつつ、子に寄り添えなかった。
 それでも、バウラスが自分たちを救おうとしてくれたのだということを、きっとみんな、どこかでは感じていたのだ。
 だから皆、満足して逝った。ザムトは、そう思っていた。
 天に召された仲間たちのことを思うかのように、ザムトはそれを見上げる。先ほどまで漂っていた戦意が失われたその表情に、ナタフがわかってくれたのかと問いかけた時、ザムトは頷いた。
 ナタフの考えを聞いたことで……いや、ナタフの考えと自分の考えを照らし合わせることによって……ザムトは、バウラスがなぜシャルリシア寮生を見逃した理由を言わないのか、そして、なぜそうでありながら自分たちを引きとめようとしなかったのか、そのことに対してある答えを得ていた。少なくとも、今ここで、自分達がシャルリシア寮生を排除することをバウラスが望んでいるわけではないと。
 バウラスが望んでいるのは、常にザムト達が自身で考え、その行動を自身の意志で決め、生きる理由を自身で定めることなのだから。
 だから、ザムトは今この時、シャルリシア寮生達を排除する気は無かった。
 自身の尊敬する相手と、辛苦を共にした仲間が、それぞれ理由はともあれ、生きていくことを認めた相手なのだから、と。
 そう言いながら攻撃の気配を収める一方で、しかし、とザムトは語る。
 ここで生かすに足る価値を持つ心がシャルリシア寮生にあるとして、力なくして為せることもあまりに儚い。ザムトは、シャルリシア寮生達にどれだけの力があるのか、見極めたいとも考えていた。
 そこでザムトは、ここでシズナとナタフ、及びシャルリシア寮生を攻撃しないことを約束しつつ、シズナとナタフも、今行われているシャルリシア寮生とリュミルの戦いに加わらないことを提示する。
 6人の力を合わせても、この世の負の象徴とも言うべき、リュミルの持つ人々への恨みの妄執にかなわないというのなら、期待するべき希望というものももはやない。
 まだ余裕を残したザムトのその意見に、ナタフとシズナは頷き、シャルリシア寮生の勝利を信じるしかなかった。

 様々な手段を駆使し、レシィやラピス、そしてミルカがもはやいつ倒れてもおかしくないほどの傷を受け……いや、実際に一度意識を失うも、忍ばせていた呪符の効力で立ち上がって必死に戦い、ミトもまた、もはやその鉄壁の守りに限界が訪れつつある。狙いが後衛に集中したことにより、クレハとジャックはまだ無傷であったが、多彩な射撃術を持つリュミルの技は、レシィとミルカという障壁役がもし倒れればさらに苛烈になることは明らかだ。
 そんな状況の中、リュミルはまだ倒れない。彼女はまたシャルリシア寮生達をクズと蔑み、そんなシャルリシア寮生達に自分が負けるはずないと豪語し続ける。
 だが、それはもはや余裕の言葉ではない。むしろ、妄執によって立ち続ける自身を鼓舞するための言葉だ。
 リュミルの限界は近い。シャルリシア寮生達は、そのことを見抜いていた。
 ラピスとクレハのコンボ、ミルカの魔法、ジャックの剣撃によって受けたダメージは決して小さくない。そしてその連撃を凌ぐため、リュミルは切り札といえる数々の技能をすでに消費している。そして、神がかった狙いで放たれ、その冴えを強調するかのようなラピスの魔術によって増強されたジャックの一撃を、リュミルが死力を尽くして撃ち落とそうとしたとき、クレハが咄嗟に、手にしていた精霊のナイフではなく、さらに鋭い、あらゆる障壁を切り裂きそうなほどの冴えを持ったナイフをリュミルにと振るうことで注意を削ぎ、ジャックの攻撃を直撃させる。その直後、リュミルは今度は、もう一度クレハの技を復活させようとするレシィの歌を、お返しとばかりの鋭い銃撃で止めるも、ジャックの攻撃によるダメージは大きく、その体は大きく揺らいでいた。勝負を終わらせる時がやってきたことを、この時全員が確信する。
 そこで動いたのはラピスだ。ラピスの放った魔術はリュミルに傷すら与えないほどの威力。……だが、それが「二人」のコンビネーション攻撃であることを、その場にいる全員が知っている。
 ラピスの攻撃によって、リュミルの体に一瞬浮かんだ魔力の点、それに導かれたかのような黒い剣閃が二度、リュミルにと向けられる。リュミルはそれになお迎撃しようと魔導銃を構えるが、すでに腕力も大きく衰えていたことにより、今度はジャックの攻撃がリュミルの武器を弾き飛ばし、クレハの攻撃を通す。
 リュミルは自身に向けられた、自身の陥ったあらゆるものへ悪態を叫ぶも、クレハのナイフはリュミルの身体に決定的なダメージを与えた。そしてクレハは、ついに倒れ伏したリュミルの首をそのまま二振りのナイフで挟み込むようにして封鎖して動きを封じる。
 ナタフとシズナから安堵の声が漏れ、ザムトからはどこか感心したかのような頷きが送られる。勝負は、ついたのだ。

 すでに体がまともに動かないほどのダメージを負ったリュミルであったが、その意識はなおもシャルリシア寮生達への、いや、その憎しみを燃やすことによって途切れることを許していないようで、リュミルは自身の敗北を認めようとはせず、ならば自分を殺してみろと叫び続けている。
 だが、クレハはそういわれてまでも、自分達を殺そうとした相手に対し、そのナイフをリュミルの首筋につきこむことをしようとはしない。彼らは、それを正しいとは思えないと、はっきり言える少年たちだったからだ。
 しかし、そんなリュミルの命を奪うことなく、適度な攻撃で吹き飛ばし、気絶させたのはザムトであった。
 先ほどのナタフ達のやり取りで、ザムトがもはや戦う気は無いらしいということを理解していたシャルリシア寮生達は、あえてそのザムトの進路をふさごうとはせずリュミルの元へ向かうザムトを距離を取って見つめている。そして、ザムトはリュミルの傍に立つと、小柄な彼女の身体を肩に抱え上げつつ、シャルリシア寮生の方を振り向いた。
 お見事だった、とザムトは言う。6対1だったとはいえ、「炎の使徒」として想像を絶するほどの鍛錬と実戦を繰り返してきたリュミルを打ち倒したことは、相応の力を持つ存在であると認めるに足ることだと。
 それだけの力と、ナタフやシズナが認めた心を併せ持つシャルリシア寮の生徒達ならば、何かの希望となるという言葉も信じてもいいと思えると言ったザムトは、リュミルについても、殺させるわけにはいかないが、当面の間はシャルリシア寮生達に再び手を出すことの無いよう、ザムトが見張っておくという。
 しかし、「心の魔」が覚醒すれば世界に災いを呼ぶというシャルリシア寮生達を取り巻く状況が、これで解決したわけではないことも念を押し、もし、この先何も希望を見つけ出せないというのなら、あるは絶望に心を折るようなことがあるなら。その時こそ、シャルリシア寮生を殺すと、ザムトは宣言した。
 その後、ザムトの周りに魔力が展開される。どうやら転移魔法を使おうとしているようだが、その時、ナタフがザムトに声をかけた。
 ありがとう、と。
 その言葉に、自分は納得したからそう行動したまでといい、礼には及ばないとするザムトであったが、ナタフはそれでも、という。なぜなら、ナタフはザムトが、本当は自分の言葉に耳を貸すつもりがあったのではないかと思っていたから。
 炎の使徒を抜けてシャルリシア寮生の手助けに行くと伝えたせいで、シズナとリュミルから攻撃された時、ギリギリで逃れられたのは、ザムトが二人の隙をついてナタフに隠密魔法をかけてくれたからであったのだ。……つまり少なくとも、ザムトはそこで、ナタフが生き残り、その場を脱出することを認めていたということだ。
 ザムトは頷いたが、なんでもないことだといわんばかりに首を振った。あの時、ナタフはこれから自分のしようとすることを全て、自分達の前で語った。それははっきり言えば愚かな事であり、これから裏切りを行おうとする者の行動ではない。そして、ナタフももちろんそれがわかっていなかったわけではない。
 それでもそうしたのは、炎の使徒は確かにかつての自分の居場所であり、そこにいたザムト達もまた、確かに仲間だったからだろう。ナタフは、その仲間に誠実であろうとし、少しでも、ナタフがシャルリシア寮生達を救おうとしていることに共感してほしかったのだ。
 その結果、ナタフは大けがを負うことになってしまったが、少なくともザムトは、それによって思ったのだ。
 もう少しだけ、ナタフが何を考えているのか、何をしようとしているのか、見届けてもいいのではないか、と。
 ザムトがそう語った後、今度はシズナがザムトを呼び、ザムトはシズナの方に顔を向ける。
 呼んだのはシズナの方からではあったが、その後の口火を切ったのはザムトだ。ザムトは、シズナもまた、炎の使徒としている以外の生きる場所を見つけられたのだろうかと聞き、シズナは少し顔を伏せながら、そうなのだろうかと答える。
 シズナにはまだ、自分がどう変わったのか、自分の人生についてどう思うようになったのか、その変化はつかみ切れていない。だから、これから自分の行く場所が、自分にふさわしい場所かはわからない。
 だが、シャルリシア寮生達を、ミルカ達を死なせることはできない。それだけはシズナの中で、はっきりしている。
 だから、シズナはミルカ達と共に行くことを決めている。その行先を否定する気は、もうなかった。
 そんなシズナの言葉にもザムトはうなずき、こう語る。
 自分は、世界に居場所がなかったわけでも、自身の命の価値を感じられなかったわけでもない。
 ザムトが炎の使徒に所属したのは、ヒューリンが魔を払うために作られた種族であるという神からの使命を自身で理解し、それを高次の次元で果たせる組織を探した結果、導かれるようにバウラスの元にたどり着いたのだ。つまり、ザムトは他の居場所も選べる中で、あえて炎の使徒にいることを選んだ人間だった。
 しかし、ナタフとシズナ……そしてリュミルを含む、多くの「炎の使徒」の人間たちは、今いる世界に居場所や価値を見出せず、すがるようにバウラスと神の言葉に自身の意思の責任を預けた存在だった。
 しかし、今、ナタフとシズナは、新たな居場所に、自身で本当に選び出した世界に行こうとしている。それはきっと、バウラスの望みでもあったことを信じよう、とザムトは静かに、しかし優しく言うのだった。
 なら、あとはリュミルだけだな、とナタフは言う。リュミルもまた、過去により心をゆがませ、己の怒りを神の言葉という大義名分で執行できる場所として、バウラスの元を求めざるを得なかった存在なのだから。
 リュミルのこれからのことも頼めるだろうかといわれたザムトは瞳を伏せ、妖魔の城に突入しろといわれる方がまだたやすく思えると首を振る。
 ……だが。リュミルにも、これから先の人生を見つめなおして行ける可能性はあるのかもしれないとも、ザムトは言う。
 リュミルとて人。そして、人が一人で生きていくことはできない。
 だから、リュミルは炎の使徒を信じ、バウラスを信じたのだろうから……
 ザムトの周囲が光り輝き始める。いよいよ、転移魔術が発動するようだ。
 あとはそれを見送るだけかと思われた時、ナタフはもう一度、ザムトの名を呼んだ。そして振り向いたザムトに、一度、言ってみたかったことがあるとして、言った。

兄さん、ありがとう。達者で。

 ザムトはその言葉を聞き、驚いていたようだったが、すぐに笑顔を浮かべる。ナタフにとっても、しばらくぶりに見る表情だった。
 そして、こう答える。

ああ、弟よ、息災で。

 もしバウラスが父親になりたかったのだとするなら。
 炎の使徒とはまさに家族だったのだろう。
 だが、それはかなわなかった。バウラスに、家族を作るなどということはできないのだ。
 ……そして、そのことに思いをはせたこの二人だからこそ、この言葉で別れを交わした。
 もう誰も思う人のいないバウラスの行動の意味を、自分達が育ってきた分だけでも、肯定し感謝するために。

 そしてザムトの姿がリュミルとともに消え、その場にはシャルリシア寮の6人と、ナタフにシズナが残された。
 怪我に怪我を重ねたナタフはかなり無残な状態ではあったが、シズナとレシィが早めに応急処置にあたったとことにより、なんとか再び動けるようにはなった。そんなナタフに向かって、シズナはなぜ、自分をかばい続けるという無茶をしたのかと問うのであったが、それに対しナタフは、その時の自分にはそれしかできなかったからだということ、そして。
 自分は、シズナのことを必ず守ると誓っているからだと、言った。
 その一瞬、場の空気が固まったが、その発言をしたナタフ本人は、恥じらっている様子もない。ナタフはもう、自分の気持ちにはとっくに気づいていたから。
 ザムトのことは兄だと思える。しかし、シズナのことは、ナタフにとってはそうではない。
 いつからだったかはわからないが、ナタフは、シズナのことを守りたいと思っていた。
 そして今、その心が孤独なら、それを和らげる存在になりたいと思えている。
 これからしっかりと自分たちが生きていくことができれば、シズナには、ミルカ達以外にも、心を許せる相手が見つかっていくかもしれない。どんな相手に、出会っていくのかはわからない。だが、それでも。
 ナタフの、一生シズナの傍にいるという決意に、変わりはなかった。そう、それをシズナから否定されない限りは、である。
 気づけば、シャルリシア寮生の6人は空気を呼んで周囲からいなくなっている。赤くなった顔を周囲に話しかけることでごまかすこともできないシズナは、今この時にそんなことを言われた戸惑いを口にするも、ナタフのその想いを否定することはしていなかった。
 そして、ナタフは小さく笑い、答えは今でなくていい、といった。
 シズナの心の傍に、誰かが寄り添う余裕ができた時。
 その時にまた、答えを聞かせてくれればいいと言うナタフの言葉に、シズナは戸惑いつつも小さくうなずき、考えてみると言ったのだった。 

 その後、ナタフ、シズナと共に目的な街にたどり着いた一行は、問題なく転送石を手に入れて使用し、ようやくエルクレストへと帰ってくることができた。
 しかし一息つけたのもつかの間、まずはエンザの言葉通りエルヴィラに会い、そしてエーエルという人物にどうしたら会えるのかを聞かなければならない。
 そう思いつつエルクレスト・カレッジへと急いだ一同だったが、その校門までたどり着いたときには、すでにそのエルヴィラが表まで現れていた。どうやら、彼女たち学園側の人間も、常にシャルリシア寮生達を探していたということらしい。
 シャルリシア寮生達、そしてナタフとシズナを迎えたエルヴィラは、あの折に学内より消えた生徒全員が無事で戻ってきたことに安堵の声をあげる。
 しかし、エルヴィラが一体何があったのかという事情を聴こうとすると、一同は一瞬押し黙ってしまう。やがて、それを内に秘めることに耐え切れなくなったかのように、ラピスが自分たちのせいでエンザ先生が、とこぼし始めてしまう。それを抑えるように、ジャックは自分たちを襲ってきた「敵」を足止めするため、救援に駆けつけてくれたエンザがその場に残ってくれたのだ、と説明する。
 しかし、エンザがすぐに学園を出て行ってしまったため、多くは語られなかったとはいえ、エンザが一体何に立ち向かうためシャルリシア寮生の元へ急いだのか、それはすでにエルヴィラには想像はついている。
 バウラス・ジーク・スヴァルエルト。ジャックの言う「敵」とはその者ではないかとエルヴィラは問う。その名前を出されては、ジャックとてそれ以上ことをごまかそうとは思わない。そのことを認めつつ、そのバウラスの前に立ったエンザの残した言葉、「エーエルに会う方法を、エルヴィラに聞け」ということを伝える。
 今度はジャックの口からエーエルという名前が出たこと、そして、それをシャルリシア寮生達に伝えたのがエンザだったと聞いて、エルヴィラは深く考えつつも頷き、言う。
 すぐにでも、シャルリシア寮生達は自分たちが知ることを、知らなければいけなくなったようだ、と。

 ザムトの攻撃を受けたダメージの本格的な治療のため、シズナとナタフは医療室へと向かい、シャルリシア寮生達6人は、エルヴィラと共に学長室にと入る。そして、その中ではすでに、一人の初老に差し掛かったあたりという年代のヒューリンの男がいた。男はアルフレッド・ヨーク。このエルクレストの全権を任される代表議会の議長、すなわちこの街のトップともいえる男であり、そして、エンザがマブダチと呼んでいた男だった。
 アルフレッドはミルカ、ミト、クレハ、レシィの4名とは久々の再開になったことを懐かしむも、しかしすぐに、エルヴィラ同様シャルリシア寮生達に起こった出来事全体に対して質問を開始する。それに答えた先に、自分達が知るべき本当の情報があると知った一同は、個人個人では答えにくい部分もあったものの、なんとか全容を伝えきる。
 エンザがバウラスを前に言い放った言葉なども含め、シャルリシア寮生達が語れるだけの全てを聞かされたアルフレッドは、バウラスを救うと言ったエンザのことを思い、悔やむような表情を浮かべている。エルヴィラも悲しみをその表情に改めて浮かべていたものの、それを振り払うと、ついにシャルリシア寮生がエンザより受け取った問い、「エーエルという人物について」を語り始める。
 ……まず、エーエルという人物に直接であったことは、エルヴィラやアルフレッドをはじめとしたエルクレストの人間を含めないという。しかし、その名前自体は、魔術師、ひいてはエルダナーンの間では密かにささやかれる人物だという。
 エーエル・ラクチューン。火の時代の創世より生きると言われるエルダナーンの一人であり、世界の果てまでを知るほどの膨大な知を持ち、魔術の理をもつくりかえることすら可能とされるほどの非常に高度な魔法を操ると言われるほどの大魔導士。
 だが、創世期よりのエルダナーン、つまり、魔を知り、魔ににあらがう方法を人々に伝えたと言われる存在でありつつも、エーエルは己の持つ力や知識を、他者に与えようとはしなかったという。自身の生きた気の遠くなるほどの年月の間を、ただ己のための研究と研鑽に費やしている、と。
 そんなエーエルとエンザは、かつて仲間の一員として共に旅をしたことがあるという。そんな二人が今もどういった関係であるのかを詳しく知る者はいないが、いずれにせよ、エンザは、そしてそのエンザを通して、エルヴィラ達はシャルリシア寮生達の身に巣食う問題……『心の魔』の復活とその阻止についてを研究するにあたって、エーエルの力を借りていた。今代において、『心の魔』の依代として選ばれてしまった7人の少年少女……つまり、シャルリシア寮生達をそれぞれ探し出すことができたのも、エーエルの協力によるものなのだ。
 しかし、その「心の魔」が住みつく人間を見つけただけでは、何も根本的な解決にはならない。エーエルが見つけ出したかつての情報から考えれば、いずれその少年少女たちを心の魔が乗っ取り、邪悪な存在となってしまうことは確かなのだから。
 だから、エンザはそのエーエルが提唱した説を元に、ある対抗策をとることを提案したのだ。
 そして、それについてを今度は、アルフレッドが語り始める。 
 アルフレッドが口にしたのは。なぜシャルリシア寮にミルカ達が集められたのか、そしてなぜ、その寮生が他の学生たちの頼みごとを聞き、解決するよう仕向けたのかということである。その理由についてを当然知らない一同は、アルフレッドの言葉を引き続き聞く。
 ……それは、もしいずれ覚醒する『心の魔』に対する手段があるとすれば、それにはまず人々の心を、依代となってしまった君たち自身が集めることが不可欠だろうということを、エーエルの言葉からエンザが判断したからである。そして、心を集める……すなわち絆を育てる場所として、エンザが選んだのがエルクレスト・カレッジという学園だったのだ。
 そして、エンザのその、「依代」となってしまった少年少女たちを救いたいという理念に、アルフレッドやエルヴィラは賛同を示し、そうしてシャルリシア寮はこの学園に生まれたのだ。そこに在籍する子供たち自身と、彼らが紡ぐ絆をはぐくむために。この事実を知っていたのは、アルフレッド等エルクレストの一部の役員、そして、学園の一部の教師たちと、生徒で言えば、アルゼオだけであった。
 結果で言えば、その7人の少年少女のうち、ダバランだけは、すでにブルギニオン寮のプリフェクトであり、その責任を本人が重視したため移寮はかなわなかったのだが。ダバランはすでに多くの人々から信頼を得ていたし、シャルリシア寮生達もまた、エンザやアルフレッド達が期待した通り、多くの人々を救う中で自身と、その人々との絆をはぐくんでいた。狙いは順調に進展していたと言えたはずだったのだ。
 ……あの時、いつのまにか、ダバランがその心の闇を増幅され、「心の魔」にその力を求めてしまう事件があるまでは。
 そこで再度、エルヴィラが語り部に交代する。
 「心の魔」は本来、この世界のものではないとされる魔族という。故に、それが及ぼす影響がどのような形を取ってくるのか、この世界の者は多くを知らないと言わざるを得ない。
 だが、先日のダバランの事から考えても、そしてそれを察知したバウラスがシャルリシア寮生達を殺そうとしたことから考えても、自体はすでに危惧すべき方へ流れて行ってしまっているのは間違いない。その上で、自分達よりも幾分この問題について詳しいはずのエンザが残した、エーエルに会えという言葉。
 それは、今この状況の中でシャルリシア寮生が何をするべきなのかについて、エーエルが何かを知っている、あるいはその可能性がある。そう思っていいことなのかもしれない。
 だが、そのためには当然だが、エーエルに会う必要がある。そして、エーエルが今いるのは、なんと神にその力を見こまれ、新たな力を得た者達の住む場所、アヴァロンだというのだ。
 さらに、エーエルはそのアヴァロンに移り住む際、誰かが自分の元へ直接やってくることを禁じており、ここしばらくの間は連絡すら取れない状況だったという。だが、エーエルはこうも言っていた。
 もしどうしても自分に会う必要があるのなら、その「心の魔」に侵された生徒達だけで自分の元へたどり着けた時のみ、許可する、と。
 その理由をエーエルは、これ以上、自分が関わるべき問題があるとするなら、そもそもその生徒達自身がある一定以上に成長を遂げていなければ何の意味もないからであるとしていた。……そしてこの言葉から考えれば、おそらく、そこには何かしらの試練があり、エーエルに会うためには、シャルリシア寮生達が自分たちの力だけでそれを、乗り越えなければいけないということなのだろう。
 アヴァロンとは本来神喚者でもなければ到達ができかねるといわれるような場所。加えてそこにエーエルの仕掛ける「試練」があるとなれば、その困難はどれほどのものだろうか。しかし、とにもかくにも、シャルリシア寮生達の前に道は示されたのである。
 だが、エルヴィラとアルフレッドはあえてそこで、シャルリシア寮生達にすぐ答えを求めることはしなかった。様々なことをこの短期間に経験してしまい、心身ともにシャルリシア寮生達は大きく消耗した段階にあることもあって、まずは休んでから、しっかりと考えた上でどうするかを決めるべきだとしたのだ。
 その判断のためにも、答えられる質問には答えると言いつつも、アルヴィラは最後にこう語った。

今回の件に関する全ての判断は、シャルリシア寮生達自身にゆだねられたものである、と。


 その後、アルヴィラとアルフレッドにいくつかの質問を行い、心の魔の性質を再確認すると共に、それが完全にこの世にあらわれたというケースはまだないという情報などを得つつ、シャルリシア寮生達は学長室を後にし、まずは寮に戻る事を決める。
 だが、そんな一同の前に現れた、一人の猫族の少女がいた。ハナである。
 シャルリシア寮生が一晩以上行方不明になっていたことはすでに学内の人間には知られており、ハナもまた、まずはシャルリシア寮生に対しおかえりと、その帰還を受け入れる。
 だが、その様子はどこかおかしい。まるで何かに怯えているかのようで、言葉はどこか震えている。そんな不審な様子のハナをそれぞれが気遣った視線で眺める中、ハナはシャルリシア寮生達が、今まで一体どこにいたのかと問いかけて来た。
 ……しかし、エンザに恋していると自称しているこの少女が本当に知りたがっているのは、シャルリシア寮生達と時をほぼ同じくして学園から去ったエンザが今どうしているのかということは、一同の想像にも難くない。だが、こんな弱弱しい状態のハナに対し、事実をそのまま伝えるのはあまりに酷であった。……だから、そこでミトが語った、エンザは遅れてやってくるという希望を否定する者はいなかった。
 しかし、そこで弱さを見せてしまったのはラピスだ。ラピスは話がエンザのことになった途端、急にごめんなさい、ごめんなさい、とハナに対する懺悔のような言葉をつぶやき始めてしまう。なぜ今ラピスがそのように謝るのか、それはあまりにも怪しすぎる。
 ……だが、ハナは、そんなラピスを見て大きなショックを受けているようではなかった。むしろ、何かを確信したかのようで。
 そしてハナは声を震えさせたまま、聞いたのだ。
 シャルリシア寮生がこの学園に戻ってくる時に、おそろしく強い聖騎士の男と。
 バウラスと、出会ったのではないかと。
 何故かハナの口から放たれた、バウラスの名。
 そのことに驚きつつ、個人個人の思惑がそれぞれの脳裏をめぐるが、ハナはそんなシャルリシア寮生の反応から、彼らがバウラスと出会ったこと、そして、エンザもまたバウラスと出会ったことを確信したようだった。
 そして次の瞬間、ハナは突然、自分の表情を隠そうとするかのごとくクレハの胸にと飛び込んだ。クレハは咄嗟にそんなハナを受け止め、胸の中のハナが泣いていることに気づくと、優しく抱き留めた。
 しかし、そうしていたのも少しの間だった。クレハに抱き留められたはずのハナは、今度はすぐそれを振り切り、走り去って行ってしまう。
 しかし、一同はその時、気づくことがあった。
 逃げるように去っていくハナの表情に、泣き顔だけではない、わずかな笑みのような表情があったことだ。
 それが何の意味であるのかをその場で理解できたものはいない。しかし、いずれにせよこのままハナを放っておくことはできないし、さらに、バウラスの名前を知っていた謎もある。一同はハナを追いかけることにするのだった。

 追いかけると、ハナは空き教室にたたずんでいた。
 真っ先にたどり着いたのはやはりクレハだ。クレハはすすり泣くような声を上げ続けているハナの傍に立とうと歩を進めたが、そんなクレハを、ハナは制止した。今の顔を、見てほしくないのだという。
 だが、クレハは泣き続ける女の子を放っておくことなどできない。せめてその傍にいてあげようと近づくと、急にハナは、そむけていたはずの顔をクレハに向けた。
 クレハが見たハナの表情は、やはり泣き顔だった。
 しかし、なぜか口角は笑みを作っている。
 ……まるで、悲しいことと満ち足りたことが同時に起こっているかのような。
 その表情を浮かべるハナ自身でも、自分の心をうまく抑えられていない、そんな風に思える顔だった。
 その時、ラピスをはじめとした、シャルリシア寮生達も次々と到着し、ハナのその異様な表情を見ることとなる。
 シャルリシア寮生達が何を話すべきかわからずにいる中、ハナはついに笑い声のようなものをあげつつ、叫んだ。
 自分を自嘲するかのように、もう帰ってこない物へ糾弾するかのように。

 エンザが「死んだ」ことを自分の中で確信した時、ハナの中で、全てがわかった。
 本当は知っていたことがある。それは、いつかエンザが死んでしまうだろうということだ。
 いつか、バウラスにエンザは殺されると知っていた。だけど、ハナは一度も、エンザにそう心配してあげることはなかった。なぜなら。
 ハナは、エンザを恨んでいたから。
 なぜなら、エンザは、自分の兄たちを殺したのだから。
 かつて(第十一話冒頭参照)、自分は子供だった。自分の中に「邪神の祝福」があったことについても、そのせいで人々が自分達を嫌うのだという認識くらいしかなかった。だから、それを捨てることに迷いはなかったのだ。
 だが、ハナの兄達をはじめとした、ヴェンガルド峡谷の隠れ里に追いやられた「邪神の祝福」に侵されたヴァーナ達の多数は違う。十年以上、その苦しみを受け続けてきたのだ。その苦しみや憎しみを、急に捨てるのは無理な事だと思うものだろう。
 そんな人達を、容赦なくバウラスは殺した。
 そして、エンザは、そんなバウラスを肯定したのだ。
 あの時、エンザはハナに言った。バウラスがそうしてしまったのは、自分のせいなのだと。しかし、ハナにはそのことが、エンザがそういった感情が、全く理解できなかった。
 あんな非道な男の肩を持ってかばうようなことなど、だれも望んではいない。……それはきっと、当のバウラスですらが。
 それと同時に、ハナはバウラスという存在が引き起こす業を背負うようなことをする者は、きっといずれそのバウラスによって殺されるであろうことを確信してもいた。なぜなら、ハナにとってバウラスは、結局のところ己の傍の存在全てを滅ぼす者にしか思えなかったから。
 だがそう考えた時、エンザがそのような最期を迎えることが、ハナがその時感じた理不尽さや怒りの清算になるような気がして。
 だから、ハナはエンザにそのことを、一言も言わなかった。
 しかし、その一方で。
 エンザは、ハナを救ってくれた人であることにも違いはない。
 エンザがいなければ、エンザが邪神の祝福を取り去るという薬を開発し、持ってきてくれていなかったら、ハナ今みたいには生きてはいられなかっただろう。
 エンザへの怒りや恨みと、エンザへの感謝がハナの中に同居している。
 しかし、ハナが今一番悲しんでいるのは、相反する二つの感情を持ってしまったことではない。
 なぜなら、その対処法い、ハナは気づいていたから。
 「わかってしまった」のだ。今この時、あんまりにも、簡単に。
 戸惑い続けることはなかった。
 全てを、その場で納得する必要はなかった。
 ちゃんと、向き合っていけば、それをエンザに話していれば。
 エンザはきっと、ハナのどんな気持ちも受け入れて許してくれていたはず。ハナは、自分の心の落としどころを、少しずつでも探して行けたはずなのだ。
 だから。
 だから、ハナが一番、自分を嫌に思ってしまうのは。
 今までずっと、自分の中の恨みという、黒く濁った感情に気づかないふりをして、エンザを好きになることでごまかそうとしていたこと。
 この人は自分を救ってくれたのだから、好きになっていい、嫌いになる理由なんてないって、ずっと言い聞かせ続けていた。そうやって、純粋可憐な恋する乙女を演じようとしていた。
 しかし、そんな自分は見るものが見ればわかるほど、空っぽであった。だからかつてエンザはハナを見るたびに困惑するかのような表情を向け、愛をつかさどる妖精第三話参照)は、ハナは本当の恋心を持っていないと指摘していた。
 その時々は、本当はチャンスだったはずだった。自分の不和を、もっとよく考えておけば、今見つけ出せた結論は、もっと早く得られていたはずだった。
 しかし、ハナは自分で美化した自身が正しく思えてしまった。そこから、暗い感情に浸ることを怖がってしまった。
 だが、ハナがそんな自己肯定にこだわっている間に、エンザは死んでしまった。
 そして、恨みという気持ちが晴らされた今になって気づく。本当は、向かい合ってエンザと話し合うことができたことだったのだと。
 そんなことを今さら後悔している自分が、あんまりにもマヌケで、愚かでどうしようもない。
 きっと、そうあるべき関係を気付くのは難しいことではなかった。
 少なくとも今のように、もう二度と会えなくなってしまってから後悔してしまうようなことは、なかったはずだ。
 きっと、今この時もこんな自己嫌悪に陥るのではなく、真にエンザのことを思えて泣けていたはずだ。
 納得できないことがあるなら、それを認めて向き合えば。
 汚い気持ちがあるなら、いっそ一度吐き出してしまえば。
 それでよかった。そんなことが今だったら当たり前だってわかる。
 だけど、もう全て、そのようにはならないのだ。

 ハナは泣いた。ずっと泣き続けた。
 そんなハナへ声をかけられたのは、ラピスだ。
 ラピスは言う。自分のせいで、エンザは死んでしまった。
 そのせいで、自分のせいで、ハナの心に消えない悲しみを与えてしまった。
 そのことを、
 自分が生きてしまって、ごめんなさいと。
 しかし、泣きながらも、ハナはそんなラピスの言葉に首を振る。
 エンザは、自分の命の使い方を、いつだって自分で決めている人間だった。
 エンザがバウラスの前に立ったというのなら、少なくとも、自身の死はすでに考えの中にあったのだろう。
 それに、ラピスがそのように言うなら、ハナ自身もまた、エンザに死を望んでいたのだ。
 だから、自分達の中で責任の押し付け合いはできないと、ハナは思っていた。
 しかし、ラピスによる返答は、ハナを抱きしめることだった。
 そして、ハナの近くで、ラピスは言う。
 今の悲しみや暗い感情もまた、否定されるようなものではない。だから、エンザのことでハナが許せないことがあるなら、それもまた否定はされない。
 だが、他の寮生よりも短い付き合いではあるが、ラピスも信じた、エンザの持つ優しいまなざしと人物を、忘れないでほしい
 ハナは言う。そうしていこうと思うと、とても苦しいのだと。ラピスは、苦しみに泣き続けてもいい。その先に、行くべき道もあるはずだからと答える。
 ハナは言う。それは、忘れるために泣くのかと。ラピスは、そうではないと答えた。
 かつてラピスの師、ナイルは、ラピスに言った。例え自分のすべてに後悔し、何も見いだせずとも、それでも前を向いて進んでいくなら。誰かの力になり続けていくなら、きっといつか、己が許せる選択肢も見つかるはずだと。
 ハナが、ラピスも本当にそう思えているのかと聞くと、ラピスは正直まだ、その境地には至れていないと答えた。まだ、彼女の心の中には、自身の命への怯えのあまり他人を傷つけていた、かつての自分を許せるだけのものがないのだと。
 でも、そうできたらいいとは思っている。ラピスはそう答えた。
 そして、ハナの目から、さらに大粒の涙があふれる。
 ハナは言う。誰だって、自分自身に許せないことを抱えている。
 誰だって、間違ったことをしたことを悔やんでいる。
 でも誰だって、そう思った過去を少しでも取り返していこうと思っている。
 誰だって、そうやって生きていく。
 そうだよ。とそれに答えたラピスもまた、泣いていた。
 ついに言葉はなくなり、ラピスとハナは互いに身を寄せ泣き続ける。
 シャルリシア寮生達はそこで身を引いたが、クレハだけはその場に残っていた。
 少女たちの、今を生きる中での悲しみや苦しみを、見守るかのように。

 ハナ達のいた教室から離れた残りの4人のうち、ミトは自身の大切な相手に会うため別行動となり、シャルリシア寮にはミルカ、レシィ、ジャックの3人が先に戻ることとなった。
 しかし、その3人がいるシャルリシア寮を訪れる何者かがいた。かねての通りノックに合わせてレシィがドアをあけると、そこにはミルカも属する風紀員会の委員長、マルティンがいたのである。しかし、マルティンの声には覇気がなく、いかにも何かを抱え悩んでいる風だ。
 マルティンは、ちゃんとシャルリシア寮生達が戻ってきたことには喜びを表しつつも、どうしても聞いておかなければいけないことがあるのだという。
 それは、アルゼオとダバランのことについてだ。
 あのダバランの一件以来、アルゼオとダバランは一向に目を覚ます様子がない。二人の友人であり、公使ともに互いに交流し合った中であるマルティンにとっては、そのことが気がかりで仕方なかった。ひょっとしたら、一生目を覚まさないのではないかと。
 そのことを話すにつれ、だんだん冷静さをなくしていくマルティンに対し、レシィとジャックは、いつか助かることを信じ、まずは自分が落ち着いて、自分のすべきことをちゃんと行っていくべきだとたしなめたのだが、アルゼオやダバランのことだけでなく、それにまつわって存在したという謎の穴の件、そして、その直後のシャルリシア寮生の失踪と、不穏な事件が続けて起こっている現状の中で、マルティンはもはや何を信じ、何を希望として明日を信じて行けばいいのかわからない状態になっていた。それは、ジャックに胸ぐらをつかまれ、物理的に抑えられても変わることはない。
 だが、そんなマルティンに言葉を届かせたのはミルカである。ミルカは要所は伏せつつも、マルティンが不安に陥っている元凶であるその数々の「事件」についてを説明し、同時に、自分達シャルリシア寮生もまた、ダバランと同じ呪いのようなものを受けていることまでもを語る。それを聞いたマルティンは、ならばミルカ達もダバランと同じようなことになってしまうのかとさらに不安を募らせたが、ミルカはそれを、はっきりと否定する。
 なぜなら、ミルカ達シャルリシア寮生は、希望と呼ばれたのだからと。レシィもそれに頷き、ジャックも、アルヴィラやエンザが言うにはだが、とあえて前置きしつつ、同意する。
 シャルリシア寮生が希望。その言葉は、今のマルティンにとって、確かな意思で明日へ進むための言葉でもあった。
 自分の親友が目を覚まさず、ただ不安だけを蓄積した少年に、自身が信じている相手から希望という言葉が届けられたのだ。
 その意味をかみしめるかのように、マルティンはゆっくりとうなずき、言う。
 ミルカ達が希望になってくれるというのなら。
 この学園に起こった不穏を、元に戻してくれる可能性をもった人物であるというのなら。
 自分も、改めて明日を信じ、自身のするべきことをして、全てが元に戻る日を待っていけると。
 そう語るマルティンは、まだどこか震えている。しかし、先ほどのようにうろたえてはいない。それは、明日にはシャルリシア寮生達が、そのためにまた旅に向かわなければいけないということを聞いても、変わらなかった。
 ミルカの言葉に再起した後、マルティンはジャック達の言葉に理解を示そうとしなかったことを詫びつつ、3人それぞれへ期待と激励の言葉をかける。それを聞いたジャックは、自分を毛嫌いしているはずのマルティンには珍しいことだと返したのだが、マルティンはそれに起こる様子もなく、ただうなずいた。
 風紀的には気に入らぬ相手とはいえ、ジャックがいざという時頼りにできる人間だということは、よく見てきていて知っているから、と。
 この返しにジャックはふと苦笑したが、その瞳は決して茶化しているわけではないことを物語っている。
 こうして、マルティンはシャルリシア寮生達を希望と信じ、去って行った。

 一方、ミトはある人物を探していた。最も、その探し人もまたミトのことを探していたようで、ミトはすぐにメギアムと再会することができた。
 愛する者の胸に飛び込みつつ、二人は互いが無事に再会できたことを喜び合う。そしてまず、メギアムは以前(第十二話参照)ザムトを怪しんで尾行した際、返り討ちに会ってしまった失態を詫びたが、ミトはそれを責めるつもりはなかった。
 だが、返すミトの無事の確認の際、「私たちは無事だった」という発言をしたミトの様子には、メギアムは違和感を感じ取っていた。まさか誰かが犠牲になったのではと感付いてしまったメギアムに対し、ミトはしゃべりづらそうにしながらも答える。
 エンザ先生が、自分達を逃がすためバウラスの前に残ってしまったのだと。
 メギアムはバウラスの名を知っていた。そして、その圧倒的な強さについても聞き及んでいる。
 それは少なくとも、腕は立つとはいえ神喚者でもなく、一介の冒険者レベルに過ぎないエンザが一対一で立ち向かえるような相手でないことを気付かせてしまう。
 ミトはジャックと話した影響もあってか、時間がたつにつれ、エンザが本当に犠牲になってしまったのではないかという覚悟ができつつあり、ミトとメギアムは、思わずエンザがこの学園にいた時のことを。彼がその陽気さで、太陽のように周囲を活気づかせてくれていた時のことを思い出してしまう。
 続いてミトは、シャルリシア寮生達に何が起こったのかも全て語ったが、やがてミトは、メギアムの前で自分は不甲斐ないプリンセスだ、と自分を責め始めてしまう。
 ミトにとってプリンセスとは、自分が守ると決めた人……いや、人々みなを確かに守り通す決意があり、そしてそれを必ずやり通す存在でもある。
 だが、そう誓っていたはずながら、自身にとって大切な人の一人を、守ることができなかったのだ。
 メギアムは少しの間無言だった。まるでミトの無念を、悲しみを、少しでも共に受けようとするかのように。
 しかし、やがて口を開き、こう答える。
 自分もそうだった。
 メギアムがジャムルに暗殺されかかってから、もう一度エルーラン王国へと戻るまでの数年間。それはジャムルに対抗する力をつけるためとはいえ、ジャムルの策略に何も手を打てないでいる時間だった。
 その間にジャムルの策略によって謀殺されてしまったと思われる王族や関係者の数は、片手の指ではきかないほどだとされる。メギアムはそれを思うと、当時の自身にもう少し力があれば、犠牲は少なくなったのではないかと考えずにはいられないという。
 救えたかもしれなかった人々が、確かに自分たちの過去にはいる。だが、それでも自分たちは今、ここでこうして生きている。
 救えなかった人々を忘れてはいけない。自分にそのための力がなかったことを刻み付け、その人たちのためにも、もう二度と、そのような思いをしないために進んでいく。そのことが必要なのだろうと、メギアムは考えている。そしてそれだけではない。
 エンザもきっと、いや間違いなく、これから先もミトがもっと強く、もっと優しく進んでいくことを望んでくれているだろう。
 メギアムのその言葉に、ミトは感謝した。
 常に自分を励まし、心を共にしてくれるメギアムという人物に対して。
 そしてまた、メギアムもミトに感謝する。
 例え心の中に救う魔物であろうと、必ず乗り越えて見せるといい、自分を安心させてくれるミトに対して。
 試練がシャルリシア寮生達だけのものなら、今はメギアムとて力になることはできない。
 しかしきっと、自分達の絆の力が活かされる時が来ると二人は信じている。
 それこそが、「希望」なのかもしれなかった。


 また少し時は立ち、6人全員がシャルリシア寮へと戻っていた。
 だが、そんなシャルリシア寮のドアがまたノックされる。それにやはりレシィが応じ扉を開けるのだったが、そこにいたのはシャルリシア寮生達がこの学園で関わってきた、多くの生徒達であった。彼らもまた、行方不明状態から帰還したシャルリシア寮生達が心配でやってきたのだ。
 生徒たちは口々にシャルリシア寮生達の名を呼び、その無事を確認しつつも会話しようとするが、数十人という数の生徒達と語らいあうことは、シャルリシア寮の中でもそのドア越しでも無理があり、結局フィシルの提案もあって、シャルリシア寮生が外に出ることになるのだった。

 シャルリシア寮生6名も加わった生徒たちの集まりの中で、様々なことを語り合う一同。誰もが、シャルリシア寮生の無事の帰還を喜んでいる。
 だが、話題は華やかな事ばかりではなかった。生徒達は、シャルリシア寮生を迎えに行ったはずと伝わっているエンザが今どうしているのかについても気になるという。
 エンザのことについては、ミトが今は別行動を取っているということを説明すると、メギアムを除き生徒たちはひとまずそれで納得することにしたようであった。だが、今度はカミュラが、シャルリシア寮生達と同時期に姿を消し、そしてなぜか重傷で戻ってきているナタフとシズナのことについてを追求しようとする。カミュラは実は先にナタフとシズナの元に赴いており、そこで本人たちに、自分達の評価はシャルリシア寮生が下してくれる通りだと考えてほしいと言ったというのである。
 そのことを踏まえて、エルクレスト・カレッジに在籍する人間として、そしてシャルリシア寮生の仲間として、ナタフとシズナを信じてよいものかと、カミュラは他の生徒たちの意も代弁するかのようにシャルリシア寮生へと迫る。だが、それに対してミルカとミトは、悩むことなく信じていい、と答えた。
 あの二人が、今はもう、自分達のことを信頼し、守ろうとしてくれていることは、その行動がすでに示してくれている。それに、ミルカはすでにシズナのことも理解できており、だからこそ本当は、二人ともが自分達の事をずっと気にかけてくれていたことも信じられるのだ。
 そんなシャルリシア寮生の答えに、あまり間を置くこともなく、生徒たちは安心したと言わんばかりに笑い、そして口々にそれに同調し始める。
 ここにいる生徒たちは誰もが、シャルリシア寮生達を心から信じている。
 だから、そんなシャルリシア寮生達が信じた人物なら、戸惑わずに受け入れることができるのだ。
 ナタフとシズナについての嫌疑もまた、ひとまずこれで終息した。だが、疑惑と不安の種はまだあと一つある。そう、それはマルティンがミルカ達へ聞いたことと同じ、今この学園に、あるいはシャルリシア寮生達に何が起ころうとしているのかだ。
 その質問に対しては、寮生を代表し、マルティンにそうしたのと同じように、ミルカが今一度語って見せた。
 さすがにおおまかな事情に留まるとはいえ、それでもシャルリシア寮生とダバランの中に謎の存在が潜んでいるということ、それを放置すれば周囲にも悪い影響が出てしまうらしいこと、そしてそれに対抗するために、シャルリシア寮生達だけでまた旅に出なければいけないことなどの情報は、生徒たち全員に大きなショックをもたらす。
 話のスケールが大きくなりすぎてしまっていることに怯えるもの、力になると言ったはずでありながら、今何もできないことに歯噛みするものなど、反応は様々であった。しかしそんな中、かつてエルクレスト・カレッジを救った英雄の一人、ファムが口にした「大丈夫」という言葉に、生徒たちは振り向くことになる。

 ファムは語る。
 先ほどのミルカの話の中には、「シャルリシア寮生が希望となる」というエンザの言葉があった。
 シャルリシア寮生達は、その言葉を信じたからこそ、こうしてここに帰り、そしてさらなる旅立ちを決意したのだ。
 なら、自分達もそれを信じて、送り出してあげよう。
 そうしなければ、進んでいくことに迷ってしまうかもしれないから。
 そのファムの言葉に真っ先に同調したのは、ヴァリアスである。そして、彼はさらに言った。
 その希望のために、シャルリシア寮生達が多くの人から信頼を集める必要があり、そしてそれが自分たちの事だったというのなら、きっと、自分達にもできることが何か、この先あるはずだ。
 だから、今はここで待とう。
 その言葉を受けて、生徒たちの意思が、一つにまとまっていく。
 この場にいる誰もが、シャルリシア寮生にはただの学生の枠に収まらないほどの可能性があることを知っていたから。
 そんな彼らが信じた言葉を、そして、自分達も慕っていた男の言葉を信じることは、難しいことではない。
 それに、きっと自分たちのこの気持ちも、無駄ではないはず。
 シャルリシア寮生に受けた恩に報い……何より、シャルリシア寮生達を守りたいという思いは。
 だから、その「希望」が、大きな暗闇の中を進まなければいけないのだとしても。
 信じたいと、思える。
 ……そして、その決意を固めた少年少女たちは、それぞれが、自身の信頼する人、シャルリシア寮生へと声をかける。


「……ラピス。君のことがいつでも心配なんだ。本当は無理はしてほしくない、できるだけ危険なことも……だけど、君達がそんな勇気や決意を持っていた人だから僕は救われた……だから、今も……!」
「ミトさん。皆さん。私にできることがあるかは、何もわかりません。ですが、すぐにその時はやってくるのだと信じ……お待ちしています」
「僕は……僕たちはここにいる。例え何を求められるとしても、君達のためなら僕はもう逃げない。僕はここでようやく、自分達の居場所を守っていく大切さに気づけたから」
「ミト……きっと君は、私よりも遥かに過酷な運命をその身に背負って生まれて来た……ここで待っている。君の力になるために」
「……乗り越えるべき定めが……あなたたちにはある。そのために進んでください。そして、いずれ私も、微力ながら力となりましょう」
 ガイブが、ミリティスが、デュフェールが、メギアムが、サーニャが、言う。

「大丈夫。僕は人を見る目はあるんだ。君達6人が集まれば、きっと最後に道は開ける。そのために必要なことは……心を折らないことだ。いってらっしゃい」
「マブダチよぉ!……いや、マブダチ達よぉ!絶対、絶対俺はお前らの役に立って見せるからな!絶対!いつか!」
「ジャック先輩!みんな!僕はまだ何もあなたたちにできていないんだ!紹介していない発明だってたくさんあるんだ!僕はあなたたちとの人生を終わりになんてさせません!絶対に!だから!」
「オイラは神の戦士だギョ!必ず、必ず、オイラはラピス達に恩を返すギョ!絶対に帰ってこなきゃ駄目だギョ!」
「小僧……いや、シャルリシア寮生達。……ワシの料理を、もう一度振る舞いたいと思っている。いずれ……また……」
「まだそんな空気じゃないけど……全部終わったら、特集組ませなさいよね!お騒がせの、最強生徒達って!」
「レシィ。みんなを守ってね。どこでだって大丈夫。あなたたちはきっと、みんなを救うのよ」
 シリルが、アーゼスが、デアスが、ドゥーラが、ビアッジが、マナシエが、マリーが、言う。

「……ち、違いますわ!泣いてなんていません!た、ただ、私はあなたたちに、来年こそ素晴らしきシェフィ-ルド寮の歴史展示をお見せしなければいけないだけです!だ、だから、ちゃんとその時まで学園にいるんですのよ!?」
「……諸君ら全員の無事と、健闘を願う。……そしていずれその時が来た時……このサイオウ・アマガシ、例え骨を粉にしようとお前たち全員の力になることを誓う!」
「ミルカ……みんな……もはや、多くは語るまい。もう一度帰ってくる時を、私は待っている」
「……お話は決して、優しくないこともある……だけど、そんな中でもハッピーエンドをつかめるかどうかは……あなた達しだいね……」
「ラピス!例えついていけなくたって、ずっとボクはラピスの傍にいるんだからね!ボクの想いがきっとラピスを守るから!ちゃんと帰ってきてよね!」
 シャルロッテが、サイオウが、マゼットが、メディが、レイスが、言う。

「ラピスさん達シャルリシア寮生には、みんなの願いが集まっている……いつでもそうです。そのことは決して、お忘れなきよう」
「クレハ……私もここを、帰る場所と決めたのだ。だから戻ってこい。どんな時でも、今度こそ全員で」
 ネフィが、部長が、言う。

「今ここに私たちがいるのは、きっと、願いと想いの集まりの強さを、あなた方に届けるためですから……また、お会いしましょうね」
「戻ってこいなんてことは俺は言わねぇよ。戻ってくるんだ。当たり前だろ?なぁ」
「レシィ。こんな僕だけどね。君が……君たちがもしいなくなってしまったらと思うと、とても悲しくなっちゃうんだ。……もう、そんな思いは嫌だからね。戻ってくるって、約束しなきゃだめだよ」
「ちゃんと全部が元に戻ったら……学園をあげて、パーティーしましょう!私、なんでもしますから!だから!」
 フィシルが、グゼーが、ビークが、メンファが、言う。

「まーったく。この学園はどうしてこうも静かでいられないかねぇ。でも、お前たちがいてくれてよかったよ。信頼できる相手でさ」
「殿の身は私がお守りしますが……本当は、私も今、あなた方のためにできることがあればよかったのにと思っています……」
「……大丈夫です。待てます。私もう、子供じゃないですから。ちゃんと、待ってます」
「……知っています。ミルカさんは嘘をつきません。それに私も、もう絶対に逃げません。だから今ここにいます。いつか、あなたたちの力になるために」
「できることなら、そんな苦難は代わってやりたいものだ。だが……良くも悪くも、人には人に決められたやらなければいけないことがある。……頼んだ」
「例え何を相手にしなければいけないとしても、自分を信じれば何とかなります。先輩の経験則として、受け取っておいてください」
 アルヴィンが、ルシャが、ラリエットが、セイが、カッツが、カミュラが、言う。

「……ジャック。大丈夫。その子がいる限り、あなたは私との約束、忘れないわよね……?なら、大丈夫」
「レシィ。みんな。俺らみたいなゴーストがいるからって、生きることをあきらめたりだけはするんじゃねえぞ。そうしたら俺が許さねぇ、覚えておけ」
 「赤い服」のマリーウィルテールといったすでにその身を失った少年少女ですらもが、言う。

「信じるぜ!お前たちを、希望をな!」
「はい!みんなで信じます。そして待ってます!みんなの力が、シャルリシア寮のみんなに集まる時を!」
 そして、ヴァリアスとファムも、そう言った。

 誰もが、シャルリシア寮生の帰還と、そしていつか力を合わせることを望んでいた。
 この瞬間、この学園の、各寮の生徒達が、ここにいる誰もが、希望の存在を、追うことを決めていたのだ。

 それぞれがいまするべきことは確認できた。集まったシャルリシア寮生達以外の生徒はそれぞれの帰路につくが、その中で一同にはある違和感があった。
 チーフイッシーフェイエンエンジェの4人……特別教導部の者達が、姿を現していなかったことだ。
 もちろん、今日は突発的な集まりであり、そこに集合しなければいけない理由があったわけではない。だが、彼らは自分達から姿を表すことはなく、また、それに気づいた生徒が探したものの、学内のどこにも見当たらない。
 ……謎の不安が残る中一同は、それでも今は一夜を明かすほかはなかった。

 そして、翌日。
 医療室にいるナタフがベッドから起き上がり、自身の身体の様子を確認している。
 シズナはその様子を少し心配げに見ていたが、ナタフがもう大丈夫だというついでに、先に回復したシズナが自分の様態を見ていてくれたことに感謝すると、シズナはわずかに頬を赤らめながら顔をうつ向かせるのだった。
 だがその後、シズナはナタフに、シャルリシア寮生達が自分たちのことを他の生徒に話したらしいことを告げるが、ナタフは全く危機を感じていないようだった。彼は、ジャックをはじめとしたシャルリシア寮生達が自分のことを信じてくれると思っており、そして、あの優しい生徒達なら、シャルリシア寮生の伝えるその言葉を信じてくれるだろうと考えていたから。
 ナタフは、自分達が生徒にも仲間として信じてもらえているという現状に驚いているシズナにそのことを語りつつ、医療室の外を出ようとしている。どこに行くのかと聞くシズナに対して、ナタフは、「一度ちゃんと、お礼を言いたかった人のところに行ってくる」と答えたのだった。
 そして、シズナも、そう思える人物の元へ行っておいたらどうだと言い残し、ナタフは医療室を出発する。
 あとには、何かを考えるかのようなシズナが残された。

 ジャック先輩。そう呼ばれる声がして、ジャックは振り返る。すると、ジャックの目の前には、頭を下げるナタフがいた。
 そしてナタフは言う。あなたに、ちゃんと伝えたいことがある、と。
 それは、皆をだましていたことへの謝罪に始まったが、もう一つ、ナタフはジャックへ語りたいことがあった。
 ナタフが始めて、監視対象であったはずのシャルリシア寮生個人へ興味を持ったのは、ジャックがヒューリンであり、かつ、学生としてはとても非凡な力を持っていた戦士だったから……というのもあったが、結局のところ、ナタフがジャックのことを、自分に近いタイプの人間なのではないかと思えたからだった。
 その時のナタフはまだ、自分の存在価値がゴミ以下に思えていた。……だから、何か大きなものの役に立てるなら、それでいいと考えた。
 だから、普段は他者を気にしないようでいて、必要なら身をの危険すら恐れず立ち向かえるジャックに、自己のことを顧みる気はなく、誰かのために生きようとする姿勢を持つ自分と近いものがあるのではないかと考えたのだ。
 そう思い始めたからだろうか。ナタフは密かに、ジャックのことを調べ始めていた。だがそうしてジャックことを知っていくにつれ、そうではなかったと思うようになる。
 ジャックかつて、自分を縛る家に反発し、覚悟を持って家を出た。それは、自分がそのままそこで、家の・・・の傀儡となって生きるのをよしとしなかったからだ。
 もしジャックが、ナタフの思っていたように自己犠牲の精神で動く人間なら、そんなことはしなかったはずだ。そんな人間なら、他者に言われるがままに、自身の境遇を受け入れ続けていたはずだから。
 しかし、ジャックはそうしなかった。
 家という決められていた道を振り切って、自分の進むべき道を自分で選んだのだ。そこに伴うあらゆる苦痛すら、耐えきって。
 そのことに気づいてから、しばらくナタフは考え続けていた。
 そんな気概を持つ人物が、かつて誰かのためでなく自分の道を求めた人物が、なぜ自分の身を危険にさらしてまで誰かのために戦えるのだろう。
 そのためにジャックを突き動かしている者とは、いったいなんなのだろうか、と。
 だが、学園生活という今まで得たことない環境の中で考えるうち、ようやく、ナタフはあることに気づいたのだ。
 ジャックは、いや、ジャックだけではない。
 シャルリシア寮生は……彼らは、ナタフのように、こうしなければいけない、という強迫観念に縛られてなどいないのだ。
 むしろ、その心は常に、自分のすべきことを自分で決定し歩む選択の中にある。
 そうでありながら、多くの人々を救い、信頼を集める。そんな人々の存在に気づいたことは、同時に、ナタフにあることを気付かせることでもあった。
 自分のすることを決めるのに、自分のことを卑下する必要はなかったのだ、と。
 むしろ、それは本当にしなければいけないことの判断を狂わせる可能性がある。自分のできること、するべきことを、自分から狭めてしまっているのだから。
 人を救うのは、自分が何者だからということじゃない。
 互いに手を差し伸べあい、支えたいと思うのは、自分の意思で選択できることだ。
 そして、それを選択する心の強さを持っていくことが、良い人と人とのつながりを成り立たせることだと、今のナタフは思えている。
 ナタフはようやく、過去の自分でなく、未来の自分を考えて生きる視点を手に入れることができていた。
 だから今、ナタフはジャック達シャルリシア寮生を可能な限り守りたいと、そして、シズナとこの先ずっと共にいたいと。自分の望みを、はっきりと口に出し、そして行動できる。間違いなく、ナタフは変わることができた。
 そのことが、ナタフにとって何よりもうれしいことで。
 だから、ナタフはジャックに、礼を言わずにはいられなかったのだ。
 ジャックはナタフにとって、その生き方が、考え方を変えるきっかけとなってくれた人間だから。
 ジャックはそんなナタフの感謝に対しても、相変わらず多くを語ろうとはしなかった。
 だが、言葉少なく、ジャックはナタフが、新たな生き方に目覚めることができたこと、そして、その手本に自分を選んだということを祝福し、そして、自分自身も、己が進むべき道を、自身で見つけ出すことが重要だと思っているという価値観を共有する。そのわずかな言葉にナタフは、さらに礼を深くしていた。
 やがて、ナタフは頭をあげる。そして今度は、シャルリシア寮の旅立ちについてを聞いてきた。そうやら、そのことはすでに広まっているようだ。
 ジャックが今日出立であることを答えると、ナタフは頷き、今力添え叶わないということは聞いているも、自分の思いもまた、ジャックという人間に集められた力の一つではあるはずだと言った。
 しかし、それを聞いたジャックは、その意味をナタフにいわせることはない。ナタフの胸に向かって左手の義手を突き立て、言った。

俺達は、いつでも「ここ」でつながっている。

 ジャックからの最大級の信頼の言葉に、ナタフももうそれ以上の言葉はない。
 あとはただ、次にここで会った時には、全てを解決することを互いに誓うのみだった。
 皆の、力で。

 ……だが、ここで、ナタフには気にかかっていることもあった。ラピスについてだ。
 自身の命の価値を認めることのできないでいるラピスのことが、どこか自分に近いような気がして気にかかっていたのだろう。ナタフは最後に、もし伝えるべき時があるなら、ラピスが「今」を大事にするように言ってほしいとジャックに伝え、二人は去ったのだった。


 一方。ミルカの部屋の前で、シズナはうつむいていた。
 しならくそうしていたシズナだったが、やがてミルカが扉を開けたことで発見されてしまい、そうするとシズナは、目線をミルカの目に合わせることができず、また語りたいことも上手く語れないかのような様子を見せた。
 そんな中、シズナは思わず「なんでもない」などとも言ってしまうのだったが、ミルカはそれがシズナがここに来た真意であるはずがないことは当然見抜いている。
 だから、ミルカはシズナの言葉ひとつひとつへ受け答えをしながら、優しく待っていた。
 その胸の内を、自身へ打ち明けてくれる時を。
 そしてその時は、シズナが、シャルリシア寮生達が今日改めて旅に出ることを確認したあと、訪れる。
 やや長い無言の時間の後、シズナはこぼした。
 「わからなくて」……と。
 シズナにはもう、ミルカを、シャルリシア寮生達を滅ぼさなければいけないなんて気持ちはない……いや、本当はなくなったというわけではない。何故なら、自分の中にはまだ、かつて信じていたことが残っていることを、シズナは否定できないから。
 だが、シャルリシア寮生達を失ってはいけない、失いたくないという気持ちは、それ以上のものであることは確実だ。だから、シズナはエルクレスト・カレッジに戻ってきたこと、今ミルカ達の傍にいることに、後悔はしていない。
 だが、それでも、ふとした時、これからどうしていいのか、よくわからなくなる。
 シズナはずっと、世界のために自分を犠牲にできない人間が嫌いだった。
 そしてそんな人間が大多数を占める、この世界そのものも嫌いだった。
 だが、この学園にいた日々は、そんなシズナの価値観に、少しずつ変化を与えていた。
 本当は、少しずつ、気づいていた。例え世界全てのことを考えられるわけではないとしても、すぐそばの人のことを、自分にできることで誰かを救おうって思える人は、少なくなく。
 そして、そんな人々の気持ちのつながりの連鎖も、人の生きていく「世界」だということに。
 だが、ずっとそれに気づきつつありながらも、シズナはあくまでその価値を認めようとしていなかった。だから、シズナは世界のために、自分自身を含めた何かが犠牲になるのは当たり前のことであり、それができる存在こそが真に正しいとかたくなに思い続けた。
 そしてその時は、楽だった。何も迷うものはなかったのだから。
 だが、今はもうわからない。
 自分の中で正しかったものを、自分で否定してしまったから。
 このままこの矛盾を抱え続けてしまったら、自分はどうなってしまうのだろうか。
 シズナは、それが不安でたまらないのだ。
 揺るぎない信念を保ち続けていたはずの少女は、その信念を失ったことで、まるでそのかたくなさの業を受けるかのように、不安に脅かされていた。
 しかし、ミルカはそんなシズナにただ、優しく語り掛ける。
 それでいいのだ、と。
 今は不安に思うかもしれない。だが、悩むということは、自分にとってしっかりとした道を選ぶために必要なことでもある。
 だから、悩まなければいけ無いようなら、悩めばいい。
 そして、結論を出さなければいけないと焦ることもない。ゆっくり、少しずつ、新しい考えを馴染ませていけばいい。
 だから、怯えなくていい。
 今シズナが感じた新しい価値の先にあるのは、シズナを脅かす暗闇でなく、新しい光なのだから。
 そしていつでも、不安を訴える相手はここにいるから。
 ミルカの言葉を受けて、シズナの目から涙がこぼれた。
 しかし、それと同時に、ミルカの肩に手を回し、身体を預けたシズナに、悲壮感はない。
 シズナは言う。ありがとう、と。
 ミルカがいたから。
 ミルカが、こんな自分とちゃんと私と向き合ってくれたから。
 自分は今、温かい場所を感じていることができる。
 今までの自分が、感じたことの無かった場所に。
 自分が居場所にしたいと思える場所に、今確かに自分はたどり着いた。
 だから。
 ありがとう。
 シズナはただそう語り、ミルカはもう何も言わず、それを受け入れる。
 やがて涙が収まったころ、シズナは視線をあげ、今度ははっきりちとミルカの瞳を見た。
 ミルカの言葉の通り、シズナはまだ多くのことを悩み、迷うだろう。
 だが、今一度、確かにシズナは宣言したいことがあった。
 自分は、ミルカを、シャルリシア寮生達を、必ず守る。
 例え今はその時でなかったとしても、必ず。
 ミルカは、その言葉を信頼し、シズナの手を握った。



 君たちは、1つの脅威を乗り越えた。
 だが、まだ何も終わってはいない。連鎖する死という君達の終焉を拒絶するためには、行く先に光があるのかすら確かではない脆い道を、君達は行かなければならないのだから。
 しかし、この脅威を乗り越えられたのは、君達を信じる少年少女の心があってこそということは確かなことだった。
 君達の進む先に、人々の心が集まることが不可欠だと言われたこと。そしてその心が確かに一つの脅威を退けたのであり、それは、自身らに課せられた定めと戦う、君達の第一歩だったのかもしれない。
 なら、この道の名前はきっと希望というのだ。
 進んでいくことを、恐れないためにも・・・


 「希望」のため出発する決意はすでに決めてはいるものの、エルヴィラが指定した時間は今日の夕方であり、シャルリシア寮生達は今しばらく体を休めていた。
 しかし、そんな中、学内がどうにもさわがしいことにシャルリシア寮生達は気づき始める。そしてそれは、どうにも自分たちがこれから旅立つこととは、何か別の問題らしい。
 そんな中、シャルリシア寮にやってくる人物がいた、マナシエだ。
 マナシエは扉を開けられるなり、チーフ達特別教導部の4人が今どこにいるかを知らないかとシャルリシア寮生に尋ねるが、当然、一同の中に心当たりのある人物はいない。どうやらマナシエによると、その4人が昨日の夜から全く見当たらなくなってしまったようであった。
 特にどこかに出かけたという情報もなく、シャルリシア寮生達が同じように忽然と消え、窮地に陥ったすぐ後にこのようなことになっていることもあって、学内は大慌てであるようだ。
 とにかく、今は校内を全域にわかって探しているため、出発するまでの間、チーフ達の捜索を手伝ってくれないかと頼まれるシャルリシア一同。彼女らにとってその願いを断る理由はなく、すぐさま捜索に参加することになるのだった。

 ……結論から言えば、学内でのシャルリシア寮生達による探索は、すぐに終了することとなった。
 なぜなら、ある構内の廊下の端、そこを通るものならだれもが見たはずであろう変哲もない壁に。
 ぽっかりと、まるで空間を切り取ったかのような「穴」が開いていたのだから。
 シャルリシア寮生6人は、全員が間違いなくそれを知覚していた。しかし、他の誰も、この穴に気づく様子はない。
 その「穴」が、あの時ダバランと共に乗り込んだものと同種の物なのではないかと感じることは、シャルリシア寮生にとっては自然だった。
 ……だとしたら。
 あの時、なぜか自分達と同じく「穴」を知覚し、そして侵入できた特別教導実践部の4人が、今どこにいるというのか。
 それを感付くのも、自然であったと言っていい。
 その時、ふと一同の脳裏に、エンザの残していた言葉が思い起こされる。

「チーフ達のことも、頼む」

 その言葉は何だったのか。
 特別教導実践部の4人は、いったい何者なのか。
 その答えは、その「穴」の中に、あるのかもしれなかった。
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PC達がこのシナリオで出会ったキャラクターまとめ

ミルカレシィジャック


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最終更新:2015年10月18日 19:45