アリアンロッド・トラスト第十五話「人生への願い」

今回予告

 特別教導実践部の4人に与えられた、異世界からの因縁に決着をつける手伝いを終え、いよいよシャルリシア寮生達はアヴァロンへ向かう。今度は自分達の身に秘められた因縁、「心の魔」についてを知り、そしてそれを乗り越えていくため、エーエル・ラクチューンの元へ向かうのだ。
 そこへ至るには試練がある、という。この世界の果てまでを知り、魔術の理すら作り替えることが可能とまで言われる魔術師が用意した試練とはいったいなんであるのか。とても想像のつかないことではあるが、それでも君たちは行かなければならない。君たち自身が、そして仲間というべき多くの者が信じた、希望のために。
 ……しかし、試練は試練だ。それは、エーエルがシャルリシア寮生が自身に近づく際に、その力量でふるいにかけるために……あるいは、その他のなんらかの意図をもって用意した障害に過ぎない。
 試練に挑むのはあくまで君達が「知る」ためであり、そして求められるのは「知った」ことに対してどうしていくか、何を選択できるかなのだ。
 ……例え何があっても、人を、自分を信じ、互いが救いあうことのできる仲間だと信頼すること。それが希望を得るための力になる。
 最初に君達へそう語った男のことを、どうか忘れないでほしい。
 例え、もはや道すら残されていないように思えたのだとしても。
アリアンロッド・トラスト第十五話「人生への願い」
 一人の男の誓いが、君を待つ。

登場人物




セッション内容


 時をさかのぼり、特別教導実践部が失踪した事件の前、ミトメギアムと語り合っていた時のこと。その様子を陰からそっと見守るサーニャに、一人の男が話しかけてきた。ジャックである。そしてジャックは、サーニャ「達」に、頼みたいことがあるというのであった。
 頼み事はよいとして、「達」とはどういうことか。そのサーニャの疑問に対するジャックの答えは、ミトとサーニャ、戦闘におけるカバーの技術を高いレベルで身に着けた二人に、カバーの指導を受けたいというものであった。曰く、これまで自分達は、ミトの人並み外れた耐久力に甘え、彼女に負担をかけすぎていた。そこで、ジャックは自身の強靭な体力を、自身もまたカバーを修めることによって戦術に役立て、ミトの代わりに、あるいはミトの負担を減らすことができれば、シャルリシア寮生の布陣はさらに盤石となることを考えたのである。
 そのジャックの考えに、サーニャは頷き、納得する。そして、ならばと頃合いを見計らい、ミトに声をかけようとしたのであるが……なんと驚くことに、その瞬間ミトはすでにジャック達の傍にやってきており、話はすべて聞かせてもらったと委細を承知していたのだった。どうやら、感知能力に優れたメギアムが、ジャックの存在と、その内容を聞きつけていたらしい。
 ミトと共にやってきたメギアムに、ジャックは恭しく一礼をし、あの時(第十話B)のように、メギアムを自身の上に立つ者と認めた態度をとる。しかし、もうすでにエルーランの王子であるという身分は捨てたと考えているメギアムは、例えあの事件にかかわった者しかいない場であっても、そうかしこまるようなことはしなくていいとジャックに願い、ジャックはそれを聞き届ける。
 そんなやりとりのあと、改めてミトから語られたのは、ジャックがカバーを覚えるという事についての意見である。ミトからすれば、ジャックにはエンザの犠牲を認めずに目をそらそうとしていたあの時の自分に対して、真実を覚悟させようとしてくれた恩義もあり、その望みを喜んで受け入れたいところであるが、それがまるでミト自身の負担をジャックへ押し付けてしまうように思えてしまうことが気がかりになっている。……そして、ジャックはプリンセスではないのでカバーの技術を自分ほどに使いこなすわけにはいかないであろうし、とも。
 思わず固まってしまったジャック、ミトの言葉の意味を理解しているとばかりに深くうなずくメギアムであったが、やがてそのミトの最後の発言をサーニャが軽く受け流しつつ、ジャック自身が語ったように、ジャックが誰かをカバーできることには大きな意義がある事が説明され、また、メギアムからも、ジャックがカバーを取得するというのは、ミトの負担を押し付けるのではなく、互いがシャルリシア寮生のために努力するからこその方法であるという考え方を聞いて、ミトもそういった迷いは吹っ切り、ジャックへカバーを伝授することを決意したのであった。
 そうなれば、必要なものは訓練法だ。しかも、短時間で、確かな成果を出すことのできる。
 そう考えたミトは、サーニャとメギアムに対し、真剣にある頼み事をした。……それはなんと、サーニャが全力でメギアムを攻撃するというものであり、つまりジャックはその間に入ることで、カバーの痛みを耐える覚悟と技術を身に付けようというのである。
 あんまりといえばあんまりな訓練法ではあったが、ミトもジャックも共に深く信頼しているメギアムは全く恐怖を感じておらず、ジャックもまた、カバーを習得すると決めた時から荒療治は覚悟していた。そしてこの場における最後の良心かと思われたサーニャは……「全力ならば、馬がいる」といって場所を屋外に変えることを提案しており、つまるところ、この場にツッコミは不在であった。
 かくして、4人は外に移り、サーニャが駆り出した錬金馬が、土煙を上げながら体を慣らすかのように周回軌道をつづけるなか、ジャックはカバーリングにおける基礎的な理論などを伝えられてはいたものの、結局はろくな実習もないままに、いよいよ「本番」は開始されようとしている。
 時間は朝の事であったので、その様を見た何人かの生徒達が物珍しさに集まってくるも、サーニャの馬が動きを止め、まるでこれからメギアムにむかって飛び込もうとせんばかりに後ろ足を繰り返して蹴る動作に入った瞬間、生徒達の顔は一斉に青ざめることになった。まさか本当に、あんな華奢な少年に向かって、そんな攻撃を繰り出すというのか。その前に立ちはだかるようにジャックが構えてはいるものの、さすがに不安をぬぐうほどのことにはならない。
 この時、ミトはサーニャよりに立っていたため、近頃急激に仲がいいと言われていたメギアム(ハルー)とミトの間に何かあったのかといった疑惑も生まれていたが、それよりも今はこの予想される惨劇を止められる人物を呼ばないとならないと思いつつも、悲しいかなこれからの一瞬という短い時間の間では、彼らはただその瞬間を見つめることしかできない。
 そしてついに、サーニャの馬がまさに弾けるような爆発的スタートを切って、サーニャはその騎上にて、長剣を構え、その重さを利用して一気に振り抜く。彼女の得意とする、必殺の一撃だ。
 それが、あと1秒に満たない刹那においてハルーに叩き込まれ、その体を粉砕するのではないかと誰もが確信したその時、二筋の剣閃がひらめき、それを正面から受け止めた。そう、ジャックである。
 さすがに、その威力を殺し切ることはできない。しかし、ジャックは確かに、その修練と機械によって作り上げられた屈強なる肉体を活かしきることに成功しており、わずかに体は後方に退かせられたものの、それでもメギアムにはまったくの接触を許さない。この結果に、「メギアムにかすり傷一つでも負わせたら許すことはできない」と事前に宣言していたミトも、満足の表情を浮かべる。
 そう、その訓練にかかわった3人のうち誰もが、ジャックがやり遂げてくれることを確信していた。だから誰も、驚きや、恐怖などと言った表情は浮かべない。彼女たちの中にあったのは、自分の信頼できる精神と力を持つ男が、今また、自分の期待に確かに答えてくれたという充足感と、その男に対する称賛の気持ちだけなのである。
 そしてそれを受けているジャックもまた、自身の体に蓄積された痛みをものともしないかのように振る舞い、剣をしまって見せる。見事自身のやり方にてカバーを身につけて見せた。そんなジャックに、メギアムはミトの仲間にジャックのような豪傑がいてくれてよかったと、心から感謝を述べたのであった。

 それよりも後。特別教導実践部の一件が終わり、今度こそアヴァロンへ向かおうとするシャルリシア寮生一同。
 しかし、その出発の直前、レシィミルカの元を訪れていた。レシィの目的は、ミルカの持つ杖だ。
 これまでレシィは杖を使用して魔術を使用することはしてこなかった。しかし、ミルカもそうしているように、本来魔法はしかるべき杖を媒介にすることでその効力を大きく増すのだ。そこで、レシィは試しにミルカの杖を少し使わせて欲しいと頼み、ミルカも当然断ることはない。……しかし、ここである問題が発覚してしまう。
 持てなかった。
 レシィの筋力では、ミルカが持てていたはずの杖は持つことができなかったのだ。
 杖を抱えて動くことすらままならないレシィの様子に、ミルカは思わず「えぇ・・・」と失望と落胆がほどよく表された言葉を思わず口にしてしまい、その威力にレシィは突き刺されるのであった。
 そして、最終的に体のバランスを崩し倒れそうになってしまうのであったが、そこを助ける者がいた。ジャックである。何をしているんだ、というジャックに対し、レシィが自分も杖を使えたらもっと役に立てるのではないかと考えたという事を伝えると、ジャックはそれにすぐ同意した。ジャックがカバーを覚えたように、今は少しでも新たな力が、シャルリシア寮生には必要であるからだ。
 しかし、そのためにはレシィの筋力が足りていないと言う状況であったが、ジャックはそこで、自身が剣を振り回す経験などから得られたのであろう、長物の重心を捌くコツをレシィに伝授し、その通りにレシィが杖を扱ったところ、しばらくの修練の後に、なんとか持って動くくらいはできるようになったのである。
 ……しかし、その杖自体はあくまでミルカのものだ。杖は新しく一本都合せねばいけないわけだが、その杖は本来学生では手が出ないようなレアな代物であり、すぐには手に入らない。
 と、そんな風に悩んでいるレシィのところへ、誰かが訪ねてやってきた。フェイエンである。また会えてうれしいでしょ、などと笑顔で手を振るフェイエンをレシィは迎え、その用件を聞いたのであったが、そこでフェイエンは、実は、前の戦いで気になったことがあってやってきたのだという。それはまさに、今レシィが解消しようとしていた、「レシィは杖を使っていない」ということについてであった。彼女も型破りながら魔導士であるが故、杖の重要さを理解しているのである。
 そのことを指摘されると、レシィは、ちょうど今使えるように持ち方を覚えたところだ、と言う話をするのであったが、男子ながら、まだミルカやフェイエン以上に杖の重量に振り回されそうな持ち方をするレシィにフェイエンは容赦ない爆笑を浴びせ、レシィの自尊心にまたダメージを与えるのであった。
 しかし、彼女がここに来たのはそのようにレシィを笑うためではない。もしやレシィは杖を持っていないのではと考え、ある程度実力のあるアコライトならば御用達と言われる一本を調達し、レシィに私に来たというのがその目的であったのだ。屈託のない笑顔で送られたその一本を、タイミングのよさに少し戸惑いながらもレシィはありがたく受け取り、フェイエンは満足そうに去っていく。
 こうして、レシィは新たに、杖を使用して魔法を増幅することを可能としたのであった。



「よく、神喚者でもないのにここまでこれたね」

 一人の妖精が、目前のヒューリン青年にそう声をかけた。それに対し青年は丁寧な口調で、必死だっただけだ、と答える。それが、今の自分にできるせめてものことだと思えるからと。
 それを聞いて、妖精は少しいぶかしむようにして若者に伝える。ここに来ることが至難だからといって、ここにくればそれだけで強くなれるようなことはない。この場所で力を得た者達は、神々の試練、オーディールを受けたものであるのだからと。…そして、青年の実力は、試練を受けるその域に達してはいないということを。
 だが、青年は落胆したり、それに驚くようなことはない。その目的は神喚者としての圧倒的な力を得るためではなく、この場にいるある者から、守りたいもののため、今の自分がすべきことの知恵を得るためであったからだ。その堂々とした態度に妖精は興味を持ち、青年にとってのその対象が何であるのかと問いけかた。
 家族や恋人、そのような間柄の存在を青年が心に浮かべているのではないかと考えていた妖精であったが、青年が答えたのは、「後輩」であった。
 妖精は意外そうにそれを聞き返したが、答える青年はやはり堂々としており、その「後輩」達は、青年が…自分自身がその場所を去った後も、そこをさらに素晴らしい場所へと変えてくれる。そして、そこを訪れた新たな子供たちに、希望を与えてくれるという事を信じられる存在であり、だからこそそのために自分は来たのだと語った。そして、青年は続ける。
 すばらしい仲間に恵まれ、その仲間と様々な経験をし、共に成長していくことは、人の人生を輝かせていくための要素だと、青年は信じている。だから、一人でも多くの人に、そうした人生を与えられることを夢見ずにはいられない。
 自分にそのことを教えてくれた「その場所」が、他の多くの人にとってもそう足り得るなら。そして、「後輩」達が自分のそんな思いに賛同し、そこを引き継いでくれるのではないかと期待できるなら。自分はその後輩たちのために、自分にできる全てのことを成したい。心の底から、そう思うことができる。
 青年のその主張を聞いて、妖精は頷いた。確かにその信念は、ここにたどり着けるほど確かなものではあるらしいと。
 だから改めて妖精は聞く。そのために、青年が誰に会いに来たのかを。
 …青年が、会いに来たのは…


 時は移り今。エルヴィラから託された転送石によって転移したシャルリシア寮生一同は、謎の場所に降りたっていた。
 桟橋や船など、その場にある物だけを見れば、そこは港に思える。しかし、桟橋の下にあるはずの水はなく、かわりに濃霧が、まるで海や空の代わりといわんばかりに敷き詰められており、そして船もその上に浮いているのだ。
 そしてその「港」の反対側を見やれば、どこか古めかしく、荘厳な雰囲気を醸し出す町並みが見える。かつて各地を旅していたはずのミルカですら見たことがない(ちなみに、ミトは故郷で見た気がすると言っていたがスルーされた)その幻想的な光景に、一同は確かに、自分達がアヴァロンについたのではないかという思いを深めたのだった。
 一同がそのような事を考えている中、突如何者かが一同へと近づいてきた。……まだ少年少女相応といっていい体格の者も多々いるシャルリシア寮生達にとっても、さらに小さなその女性は、背中に羽を携え宙に浮かんでいた。どうやら妖精らしい。
 妖精は、ある程度まで近づいたところで制止すると、指をびっと突き出し、一同に対して何者であるかを問いかけてきた。突然浴びせられた質問ではあったが、その体格ゆえか威厳があると言うよりむしろかわいらしくさえ見えることもあってか、一同は特に物怖じすることはなく、ラピスはまず、自分達は学生であると答えた。しかし、それで妖精が要領を得たわけではさすがにないようで、妖精はいぶかしみながら、何をしに来たのかと問いかける。
 これに答えたのはミルカであった。「自分達はエーエルという者に会わなければならず、そのために来た」そうミルカに答えられた妖精は、驚きをその表情に浮かべる。どうにも、そのエーエルについて知っており、その上で、エーエルに会いに来るものがいたということに驚いているような様子だ。思わず、一同が本当にその目的で来たのかどうかを疑いつつも、一同の持つ転送石は確かにエーエルの魔力によるものなのではないかと一人で推察を始めてしまった妖精。そしてその妖精へ、ミルカがエーエルについて何か知っているのかと問いかけ情報を得ようとすると、妖精はさらに驚いたようだった。曰く、エーエルのことについて知らないでいるのに、あんな女に会いに来たのか、と。
 その物々しい評し方に、一同がエーエルについての謎を深めたその時、先ほど妖精がやってきた街の方角から、さらに妖精が一匹こちらにとやってくるのが見えた。どちらかといえば堅物で、真面目な印象をうける先の妖精に対し、新しく来た妖精はどこか気楽そうで、無邪気な印象を与えつつ、何故か隙のない漢字も漂わせる妖精であり、その妖精は先の妖精を「モロちゃん」と呼んで近づいてきていた。先の妖精……もとい「モロちゃん」は、その名で呼ばれるといかにも恥ずかしそうにしつつ、後から来た妖精を「モルガン姉さん」と呼び、その呼び方をやめてくれというのであったが、モルガンはそんな訴えを軽く流しつつ、神喚者でもない人間がやってきたうえに、その人間たちの方から強い魔力を感じたから来てみたのだといい、モロちゃんに状況の説明を願うのだった。
 モロちゃんはその呼び方を何とか訂正しようとしてはいたが、普段からこうなのか、一度諦めるようにため息をついた後、一同が迷い人としてではなく、明確な目的を持ってやってきた者達であるらしいことを語った。その目的というのが、オーディールだというのなら一同にはまだ時期尚早だ、と不遜に言い放つモルガンであったが、モロちゃんよりはまだ話が通じそうだと判断したらしいジャックに、エーエルに会いに来たという目的を再度伝えられると、モルガンはモロちゃん同様、そんなことをしに来る奴がいたなんて、といわんばかりの反応をするのだったが、先にその目的をミルカから告げられていたモロちゃんは、エーエルがわざわざ他人へ、自分に会いに来る者達のための道具も用意していたなんて、やはりちょっと信じられない、という決断を下したようであった。
 そんな彼女に、そこまで不審に思われるとは、エーエルとは何者なのだという疑問を軽い調子で、先ほど得た「モロちゃん」という名前を意図的に呼びまくってラピスが聞くのであったが、モロちゃんは顔を真っ赤にしつつ、自身の本名が「モロノエ・ル・フェイ」であることを主張し、そして、一同を一度留置所に連れ、警戒した上で話を聞こうという提案をモルガンへとする。しかし、それに対して少しの間考えるかのような仕草をとったあと、モルガンの出した答えは
「この6人を自分に任せてくれないか」というものであった。
 その提案にモロノエは驚いたようであったが、そんなモロノエを見るモルガンの態度に曇りはなく、何度かモルガンと一同の間で視線を揺らした後、やがてしぶしぶ認めたかのようにモルガンへとその場を譲った。なんだかんだで、モルガンのことを信頼はしているようだ。そしてどうやら引き続きこの場所の見回りに戻るらしいモロノエを送る、皆の「モロちゃん」という呼び声に最期まで反応しつつ、モロノエは去っていくのだった。
 モロノエが去ると、モルガンは改めて一同の方へと向き直り、モルガン・ル・フェイという自身の名、そして「モルちゃん」というお気に入りらしい自分の名を名乗った後、一同にも自己紹介を求めてきた。……その中で、ラピスから「プリンセス」と呼んであげてほしいと紹介されたミトが、見た目プリンセスにあまり見えないと言われた後、その偉業を聞かされてからは「もはやプリンセスというか兵器っぽい」と評されてしまったり、エルクレストカレッジの心の狩人ことクレハが、幻想的な雰囲気の中でデートを楽しもうと持ち掛けるも、「そこの霧に飛び込めば楽しいことがある」と誘導されたことにより数分ほど消え去り、戻ってきたときには首が変な方向に曲がっていたり(本人曰く謎の空間で規格外のポメロにやられたらしい。なお傷自体は通りすがりのビショップににより完治した。この時の怪我具合、そして治り具合は、ラピス曰く「プラモデルみたい」とのことであった)、モルガンによるアヴァロンの名所案内と、ラピスへの御土産屋教授などがあったのだが、とにもかくにも、そうして一同は妖精達の名と、ここがアヴァロンで間違いないことを知ったのだった。
 そして一同の名を知ったモルガンからは、一同について気になっていることがあるといわれ質問をされた。「君達は、エルクレスト・カレッジの学生であるのか」と。
 学生である、ということはモロノエにラピスが答えていたし、身に着けているローブも、学園からそのまま転移したため、学生風といっていいものだ。しかし、エルクレスト・カレッジという校名については語っていないし、ここが下界と隔絶された場所だというのなら、このローブを見てエルクレスト・カレッジのものと当然のように察するというのはおかしい話に思える。そう感じた一同であったが、そんな反応から自分の予想が当たりであると判断したらしいモルガンが発した次の言葉には、さらに驚かされることになる。
「数か月ほど前、君達と同じくエルクレスト・カレッジからやってきた、アルゼオという子に会ったことがある」
 アルゼオが、自分達より前にアヴァロンへやってきていた。その事実は衝撃だったと言っていいだろう。さらにモルガンは、アルゼオがたった一人で、様々な苦難を乗り越えてまでここにやってきていたのだといい、そして、その目的はただ、エーエルに話を聞きに来るというだけだったのだと言った。……「後輩」を、守るためにである。
 しかし、アルゼオは結局、エーエルに会うことはできなかった。ただ、最終的にエーエルから贈られたらしい、「何か」を持ってこのアヴァロンを去って行った。モルガンが知っているのはそこまでであり、そこからアルゼオがどうなったのか。……そして、アルゼオが守ろうとしたものがどうなったのかを、モルガンは気にかけていたようだ。
 そんなモルガンの、改めて、詳しく話を聞かせてもらいたいという願いに、一同は迷わず頷いたのだった。

 かいつまんでながらも、この数日の間にシャルリシア寮生達に発覚した「心の魔」についての事件を聞かされたモルガンは、異世界から魔族がやってきているというのはすでにアヴァロンでは広く知られた事柄ではあるとはいえ、確かに通常の魔族とは異質な部分が多いと考えていたようだったが、とにかく、アルゼオはおそらく、自身が守ると誓ったその「後輩」の一人、ダバランの暴走を抑えるために何らかの手段を用い、そしていまだに目覚めないでいるという現状を聞き、モルガン個人としても、なるべく早急に対応しなければならないと感じてくれたようだった。
 そんなことをいいつつ、あの生『ダメージは0じゃ☆』が聞ける試練場など、他に行きたいところがなければすぐにエーエルの元に……正確には、エーエルの居場所を知る者のところに案内するというモルガンの申し出を受け、一同はすぐさま移動を始めたのだった。

 モルガンに案内されて、一同はアエマとブリンガンディアの巨大な女神像の元へとやってきた。レシィやジャックなど、神学に関わる人間は思わず目を奪われるほどの荘厳な造形物であったが、どうやら目的地はその足元にある神殿のようである。そこでクレハが女神像に対してあれは誰だ?と疑問符をつけてしまうちょっとした事件はあったものの、一同はモルガンについていくままに神殿に入っていく。
 神殿の中は様々な装備や格好をしている人々で賑わっており、その中の何人かはモルガンと、彼女の連れたシャルリシア寮生達を見て声をかけてくるという気さくな態度をとったものもいたほどであったが、学生とはいえ、様々な戦いを経験してきた一同にはわかることがある。そこにいる誰もが、ただ者ではない。おそらくは神喚者と呼ばれる、神に認められるほどの偉業を成し遂げ、その力を受けた戦士たちなのだ。
 その事実に圧倒されつつも、一同はモルガンのあとについて、更にその奥へと進んでいく。そして、モルガンは最終的に1つの部屋の扉を開けた。……その中にいたのは、またも妖精。しかし、メガネをかけていることもあってか、やけに知的、理性的に見える妖精である。
 その妖精を、モルガンは「グリちゃん」と呼び、一同にも中に入るよう指示した。そして、そんな風に自分の部屋へと入ってきたモルガンを見てため息のようなものをついていた妖精……グリテン・ル・フェイは、何の用事であるのかと自身の姉……モルガンに問いただそうとしたのだが、モルガンが連れてきたシャルリシア寮生達を見ると、表情が変わった。
 グリテンは、モルガンが連れてきた者達が神喚者でないことをすぐに察していた。……そして、そのような者達がモルガンに連れられ、自分のところへやってきたことの意味も。
 そして直後モルガンが答えた、「この者達はどうしても会わなければいけない人物がおり、その接触方法をしるグリテンの元にまずやってきた」という言葉によって、その推察は確信となったようであった。……誰に会いに来たのか。もはや目の前の若者たちから返される名前がエーエルのことであると知っていながらも、グリテンはそれを聞き、そして突如、深く、哀しみを表すかのような息をついていうのだった。「アルゼオは、どうなったのだろうか」と。
 モルガンだけでなく、この新たに現れた妖精からもアルゼオの名が出たことに驚いてる一同を横に、アルゼオは守りたかった者の一人の「暴走」を抑えるために、何らかの道具を使用して目を覚まさないでいるらしいということをモルガンが伝えると、今度はグリテンは、本当にあれを使ってしまったのならば、事態はかなり緊迫した状態にあるらしいということを言い……そして改めて一同へとその顔を向け、自分がアヴァロンに存在する強い力を持った人々を把握する役目を追う者であり、ゆえに確かに自分はエーエルの居場所と、そして一同がエーエルに会うための方法も知るものであるということを伝えたのだった。
 だが、それを教える前に、一つシャルリシア寮生達から確認しておきたいことがある、とグリテンはいい、そもそも、シャルリシア寮生達は誰からエーエルに会うよう言われてきたのか、ということを聞いてくる。そこで、ジャックはエンザという男を知っているのか、と逆に聞き返したが、グリテンは、エンザを知っているわけではないが、その名前は、自分が今求めていた答えだった、と返した。……そのジャックの反応を、エーエルに会えと言う言葉がエンザからのものであるというように判断したようだ。それを知り、グリテンはもう一同に確認することはなくなったらしいのであったが、その一方で哀愁を感じていたようだった。
 かつてここにやってきていたというアルゼオに出会い、話を聞いていたというグリテンは、モルガン同様、シャルリシア寮生達が何者で、どのような状況にあってここに来なければいけなかったのかについて想像はついているという。……少なくとも、アルゼオが危惧していた存在、「心の魔」によって、シャルリシア寮生達が持つべき平穏が乱されているのだとうということ。アルゼオや、エンザはおそらく、シャルリシア寮生達がまだ、いましばらくの間は、そのような理不尽に飲み込まれることなく、知らずにそれぞれの人生を歩んでいけたらと願っていたのであろうが、その願いはかなわなかったのだろうということを。
 ……アルゼオが後輩達……シャルリシア寮生達のために、何度跳ね除けられても、粘り強くエーエルの知恵と知識に希望を見出そうとし続け、最終的には、エーエルから一つの魔法具を送られたという事の顛末を見ていたのであろうグリテンは、アルゼオがそうやって手に入れた道具を使い、自身の命をはったにもかかわらず、結局今、シャルリシア寮生達がここに来なければいけなくなってしまった。結局のところ、誰が犠牲になればどうにかなる、という問題ではなかったのであり、それはアルゼオ自身が深く承知していたはず。……それでも、アルゼオはあの時(第十二話参照)はそうすることを心に決めたのだ。自分が抱いている、全ての者が救われるという「希望」を、シャルリシア寮生達が受け継いでくれるはずだということを信じながら。
 ……しかし、グリテンは言う。エーエルから受け取ったというその道具を使用したというのなら、アルゼオも、そしてともにその道具の対象となったダバランも、命を失ったわけではないはずだ、と。だが、いずれ彼らが復活できるかどうかについては、それもまた、シャルリシア寮生達が「心の魔」にどう対処できるのかにかかっている。そうしたグリテンやモルガンからの「希望」もまた、シャルリシア寮生達は受け告げるだろうかとグリテンは一同へ確認したが、プリフェクトのミルカをはじめ、それに対する一同の答えは決まっている。自分たちは、この理不尽な状況によって失われる恐れのあるという、全てを守り切るために、ここへやってきたのだということだ。
 それを聞いて、グリテンは安心したようにうなずき、モルガンも満足そうにしている。そして、グリテンは席を立った。いよいよ、一同をエーエルの元へ案内するためにだ。そんなグリテンへ、モルガンはちゃんとエーエルに会えるように、というのであったが、グリテンはその言葉には、「あの女次第」と答え、表情をゆがめている。……一同にとっては、いったいここまで妖精たちに邪険にされているエーエルという人物が一体どんな存在なのか、不安に思うところではあった。

 今度はグリテンにつれられ、アヴァロンの大地の上を進む一同。だが、しばらくの間進んでいた内に、突如行き止まり……正確に言えば、大地が途切れ、その先はただ霧に覆われるばかりとなっている崖の前にたどり着いてしまった。だが、グリテンによれば、目的地はここで間違いはないらしい。エーエルは魔法で周囲の時空を操作し、自身の住処にほぼ誰をも寄せ付けないようにしているゆえ、この場所はこのようになっており、特殊な方法を使わなければただの崖であるのだと。……だから、アルゼオもこのアヴァロンに住む強大な力の持ち主たちへの連絡役を任されているグリテンを通して、ようやく手紙のやり取りをするのがやっとだったのだ。
 しかし、エーエルは確かに、エンザの言葉に従って、自分達へと会いに来たエルクレスト・カレッジの学生達には、その「特殊な方法」を使用する許可を与えるよう、あらかじめグリテンにつたえてもいた。グリテンがそういいながら不思議な呪文を唱えると、突如崖の先端の空間に穴のようなものがあき、それが瞬く間に広がって、人が通れるほどの大きさになった。どうやらこれがそうであり、この中には……シャルリシア寮生達もかねてより警戒していた「試練」が待ち受けるのだ。
 その前に立つ一同。そして、グリテンはそんな一同へと、最後にこう語った。
 何度か言っているように、エーエルは誰とも出会おうとせず、それを拒絶している人間として有名である。だが、そんなエーエルが、試練の上でとはいえ、シャルリシア寮生達には、出会うための方法と可能性をあえて残していた。
 それが、エーエルが望んでそうしたことであるのかはわからない。だが、エーエルがそうしなければいけなかったのは、相応の理由がある……あるいは。
 シャルリシア寮生達が今進んでいく道に、大きな意味がありうるからではないか。……そう信じて、進んでほしい。
 そのグリテンの言葉を受け、一同は感謝をのべつつその空間の中へと入っていくのだった。

 一同が足を踏み入れたそこは、殺風景な広間のような場所であった。その場には、今現れたシャルリシア寮生6人以外は誰もいない。……そう思えたのもつかの間、突然、一同からしばし距離を置いたところに魔力の塊のようなものが現れると、それは形を成していった。……その光景に、一同は既視感がある。そう、それはかつて一同が訪れた(第八話参照)「魔の錬成所」において、魔力によって形作られた、いわば敵の模造品が現れる時の光景と同じであったからだ。……だが、その塊たちから感じる力は、かつてのものの比ではない。おそらくは、あの場所が提供しうるどんな敵よりも、強力な敵を模しているのだろう。
 一同がその予感に身構えたころ、魔力の塊たちも、武器を満載した巨大な城、巨大な面をつけた陸上を走る船、毒の気配を漂わせた骨の竜といった形でそれぞれ固まり、一同へと襲い掛かってこようとしている。……何の説明もないままではあるが、おそらくこれが試練……あるいはその一部である。そう結論付けた一同は、その敵たちを迎え撃つのであった。

 確かに、その「試練」となるべく用意された敵は、強大な力を持っていた。齢20どころか、15歳にも満たない者もいるほどの少年少女達の相手を想定して用意されたのだというのならば、酷といえる存在であっただろう。
 だが、シャルリシア寮生はもう、ただの子供たちではない。数多の経験を経て、幾多の敵と戦い、そして確かな覚悟を持ってここにやってきている。心技体全てが研ぎ澄まされた状態である今の彼らの力を結集すれば、目の前の敵を真っ向より打ち破れる。そのことを、そこにいる6人は確かに信じていた。
 敵の能力は、その力を見切る能力にたけたラピスですら知りえないほどの底知れ無さはあった。だが、それでも一同は臆することなく、全力でそれぞれにできることを実行していく。
 クレハの人体の限界を越えんばかりの高速の刃と、ミルカの大地ごと灰燼に帰さんばかり魔力の連撃が戦場を薙ぎ払い、それによって崩れた敵をジャックの怒りの剣閃が恐るべき威力を持って打ち払う。そしてそれをラピスの機を逃さぬ的確かつ迅速な魔術、そしてレシィの新たな力と祈りを宿した魔術とがサポートし、ミトの決死の覚悟を備えた鉄壁の守りは、全員を敵の砲火より守って見せた。一同の一糸乱れぬ連携により、機械の城は真っ先にその機能を停止し、必殺の砲撃を放たんと構えた巨大船もクレハの介入により中断して最後の手段を失う。そして残された毒の竜も、もはや単体では一同に太刀打ちはできないといった状態で、打ち倒されたのだ。

 試練と思わしき敵をすべて打ち倒したシャルリシア寮生達の前に次に現れたのは、入ってきたときと同じような穴であった。警戒はしつつも一同がその中へと入ると、新たに眼前に現れたのは、一件の家である。まるで霧の中に、その土地ごと切り取られたかのようにその家はあった。
 レシィをはじめ、周囲を調べようとしたシャルリシア寮生達にとっても、確かな強い魔力を感じることができた。おそらく、それはエーエルによるものであり、ならばここは、エーエルの住処であると思われた。
 しかし、だからといって「試練」が全て終了したという確証はまだない。礼を失さぬよう、ノックをして反応を待つことにした一同であったが、中に誰かいる気配はあれど、全く反応はない。
 勝手に上がり込むことに関しては一同の中で意見のまとまらないところもあったようだが、そのままそこにいても仕方ないこともあり、ラピスが私物を家の中に転がしてしまった(本人談)のをきっかけに、一同は中にと入りこんでいく。
 すると、そこまで長くないながら通路と、部屋がいくつかあり、一同はこれまた慎重に、その部屋のどこかにエーエルらしき人物はいないかと探していくのであったが、先ほどの魔物の模造を作り出したのではないかと思われる装置や、様々なポーションなどといった実験に用いるもの、あるいはその成果らしきものはいくつか見つけられるものの、それらの部屋に人の気配は感じられず、またなぜか本も一冊たりとも発見できなかった。そうしていくうちに覗いていない部屋もなくなり、気づけば、通路の一番奥の部屋まで一同はたどり着いている。そしてその部屋の中には……ついに、人影がある。
 扉を開け、その姿を見れば、紫色の幻想的な髪を携えていることもあり、まさにこの世のものとは思えぬほどの美人であることがわかったが、それまでと同じくノックをし、その上で扉を開けたにもかかわらず、その女性は一同に興味がないといわんばかりに、その方向を振り向こうとしなかった。
 余りの反応のなさに不審がる一同であったが、仕方がないので自分達から女性の前へ回ると、そこで初めて、女性の視線が一同を捕えたようだった。そして、ただ一言、「来たわね」と声を出した。
 ……だが、それ以上はまた、何も反応しようとしない。どのようにしたものか困惑せざるを得ない一同であったが、やがてラピスが意を決し、「エンザより、『心の魔』に対抗する術をエーエルから聞くためにやってきた」ということを告げると……またしばらくの間をあけ、ラピスが言葉をちゃんと聞いてもらえているのかすら心配になったころ、女性は……エーエル・ラクチューンはようやく、再度口を開く。
 エーエルはまず、ラピスの言葉を反芻した。しかし、それによってようやく、質問に答えをもらえるのかと思った一同に対し、突如逆に、こう聞き返してきたのだ。
「エンザ・ノヅキはもう、死んだのでしょう」
 と。そう語る言葉に熱は無い。まるで、そうなって当然のことがようやく起きたことを、ただ確認するだけ、そのように思えるほど関心が薄そうであった。
 自身の恩師、恩人に対するその唐突かつ、無礼な言葉に、クレハは自分の中の怒りが急遽沸騰するのを抑えることはできなかったようだった。それをジャックが、エーエルから必要な情報を得るためにもと取り押さえるのであったが、それでもなお怒りをあらわにし、今にもエーエルへくってかかろうとするクレハを見る、エーエルの視線と言葉はどこまでも冷めており、ただ淡々と、その死因がバウラスにあったのだろうという自身の予測を並べ、そしてその冷たい態度のまま、一同へ改めて言葉を投げかけた。
 エーエルは言う。「自分の幻想に囚われつづけて、結局何もできなかった奴の言葉を信じてここにくるなんて、ご苦労様」と。そしてさらに、自分の望みは、こうしてシャルリシア寮生達がエーエルの元へとやってくる前に、シャルリシア寮生達が希望などないことを理解し、全員がなるべく早くその命をあきらめ、捨てることであったのだとまで、エーエルは言った。
 そのあまりに一方的な物言いに対し、一同は当然反感を感じたと言っていいだろう。そしてエーエルはそれを、シャルリシア寮生達は現状を理解せず、あがこうとしているといった認識で受け取ったようであった。そして今度は、シャルリシア寮生と同じように可能性を求めて信じ、「あがき」つづけた男……アルゼオがどのような結末を迎えたのかということについて触れ、シャルリシア寮生達を諭そうとして来る。……エーエルによれば、アルゼオに送られた「道具」とは、暴走や堕落した他者の心に対し、自分自身の心を媒介に封印する効果があるものであったらしく、それを使用することでアルゼオはダバランの暴走を止めることには成功したが、あくまで一時的な処置にしかすぎず、それどころか、暴走し汚染された存在の心に関与するということは、アルゼオ自身の心にも影響を及ぼす可能性があり、エーエルの見解では、アルゼオはむしろ被害を広げたのだとすらされていた。……それを使えば、そのような結果になるということがエーエルにはわかっており、だからかつてアルゼオが自分に対処法を求めてきたときも、頑なに追い返そうとしていたのだ。だが、アルゼオが一向に引き下がらなかったため送ったそれを、アルゼオは同じようにわかっていながら使用した。エーエルにとって、それは愚かしいことだという。
 ……そのように、絶望に思える道の中であがくということが、むしろより深い絶望を招くという結果についてをエーエルは語るが、シャルリシア寮生達はそれを聞いて、エーエルの言葉に頷くようなことはしなかった。しかし、ここでエーエルをただ拒絶しても、「心の魔」について得られる情報はなく、ここでこれからの「術」を求めろと言い遺したエンザの言葉にも沿うことはできない。……だから、エーエルへの憤りに震える一同の中で、ジャックは努めて冷静に言葉を返した。そのように一方的に持論を投げかけられても、自分達はそれについて判断するための「心の魔」についての知識は持っておらず、それを得るためにここに来たのだ、と。
 ジャックの言う通り、それまであまりにも一方的に言葉を投げつけてきていたエーエルではあったが、そのジャックの言葉には応じる姿勢を見せたようだった。エーエルが宙に何かを描くかのように指を振ると、突然、一同を魔方陣が包み込む。
 そしてエーエルは言う。これから行く場所で、シャルリシア寮生達がどれだけ希望のない場所へ追い込まれてしまったのかということを知るといい、と。
 その言葉を最後に、一同の意識はその場ではない、どこかへと吸い込まれていったのだった。

 気づけば、一同は謎の場所にいた。
 そこはかつて、一同がアルゼオ救出のため、ダバランと戦うことになった空間(第十二話参照)に似ている。しかし、あの時と違うのは、今回一同の前に現れたのは迷路ではなく、まるで対話でもするためかのようなテーブルと椅子であったことだ。予想外の光景に一同は少し戸惑うのだったが、ここが、エーエルによる「説明」のための場なのだとしたら、それを聞くために用意されたものであるのだろうかと考え、それぞれが席につく選択をした。……すると、とつぜん、どこからか声が聞こえた。その言葉の方向へ一同が顔を向けると、いつの間に現れたのか……まるで最初からそこにいたと言わんばかりの様子で、一人の男がそこにはいた。……見た目はヒューリンに見えるが、その現れ方といい、少なくともただの人間には感じられない、底知れない男だ。
 男はまず、ようこそ、と一同を歓迎するかのような言葉を告げ、さらに、自分が直接人に出会うのは初めての経験だといいつつ、一同に改めて席に着くよう勧めてくる。当然怪しむ一同ではあったが、何かしらの情報を得る機会を無駄にしないためにも、その言葉には素直に従うことにしたようだった。
 6人がそれぞれ席に着いたのを確認した男であったが、しかし、そうすると何から話したものか、ということを今度は言い出した。人を長い時間眺めては来たが、直接相対して会話する機会にかけていたと語る男に対し、ラピスがそこでまず、男の自己紹介を求める。
 男はラピスのその要求に、まず失礼、と謝ってみせ、そして名乗る。自分はティオルジュ、この世界ではない言葉で、「人生への呪い」を意味する名を持つ者であり……そして「心の魔」とこの世界で呼ばれる存在と同一である、と。
 それを伝えた男……ティオルジュの思惑では、どうやら一同からは自身に対する怒りが向けられるものだと考えていたようだった。しかし、目の前にいる存在が「心の魔」であることを聞いても、一同はそうした感情に支配されることはなく、むしろ冷静に、ティオルジュという存在が一体何であるのか、それについてを聞こうと考えたのだった。
 一同から向けられる感情が強力な敵意ではなく、あくまでこれから自分達が行くべき道を模索する覚悟であったことを理解したティオルジュはやがて頷き、そして語り始めた。
 自身の初めて出会えた「人間」に対し、自身から語れるだけのことを。

 まず、心の魔……ティオルジュとはどういった存在なのか。それについてティオルジュは、自分は別の世界よりこのエリンへ渡来した存在であることを語る。
 ……かつてティオルジュがいた世界は、エリンと同じように、神と人間が共存し、神が恩恵を与えていた場所だった。だが、その世界ではやがで、人の持つ英知や技術が際限なく発達し続けた結果、神の領域すらも侵しかねないほどとなったことで、やがて人は神を軽んじ、そしてその存在を疎むようになったという。
 そんな関係の中、ある時、人は神への感謝を新たに歓待するという名目の宴に神を招待し、神もそれに応じるということがあった。……だが、それはその知恵と技術をもってしても、神のみが存在する場所へは侵入できなかった、人間による罠であり、そこで神は猛毒を盛られてしまった。
 神を死の運命へとおいやったことで、その世界の頂点種は真に自分達になったと人間たちは沸き返るのであったが、その一方で、神は人間に良心を信じてしまったことを呪い、そしてその傲慢かつ暴力的な性質を憎んでいた。その結果、神はあることを決意したのだ。
 自身はこのまま死を迎えるとしても、自身のこの呪いを受け継いだ道具を残し、それがいつか、人を滅ぼすという使命を果たすことを。……それが、「ティオルジュ」、人生への呪いだと。
 そして、ティオルジュはそれを成し遂げた。自身のいたかつての世界を滅ぼし、人の息吹が失われた世界へと変えた。……だが、ティオルジュに課せられた「使命」は、それで終わることはなかったのだ。神が遺した恨みと呪いはあまりにも強力であり、それは自身の世界の人間を滅ぼしても止まることはない。ただひたすらに「人」という存在を殲滅し続けるため、ティオルジュはこうして、別の世界までも侵攻したのである。
 ……では、どのようにして人を滅ぼすというのか?
 それについても、ティオルジュはこう語る。
 ティオルジュは、前の世界での「神」が与えた能力により、独自の空間にその身を置くことで、他の存在による干渉を遮断することができる。だが、それはその場にいては、ティオルジュからも他の存在に大きな干渉はできないことを意味する。
 よって、ティオルジュが他の存在……その空間の外にある命に対して行う干渉とは、ほんのわずかであり、そして一瞬である。生まれて間もない、あるいは生まれてくる瞬間の命に対して、その心にのみ、ティオルジュとつながるための「穴」を用意するのである。「穴」をあけられた命は、生まれて間もないころからその境遇にいることもあり、そのことによる不具合や違和感を直接感じることはないが、その穴を通して、ティオルジュはひそかにそれらの人の心を侵食し続けている。そして最終的には……ティオルジュの持つ使命、人を滅ぼすという目的に従って破壊を繰り返す存在に変えてしまうことができるのだ。しかも、そのように変質した命は、ティオルジュにとって自らと同一ともいえる存在になったわけであり、よってその存在の得た力とは、ティオルジュ自身の力へ還元できる。そのいわば「力の余裕」を活用することで、ティオルジュは例え自らが侵食した命が滅んだとしても、その次はより多くの命に対して干渉していくことができるのだ。……ティオルジュは実際、今より45年ほど前に一人、20年ほど前に3人の人間を侵食しているといい、そして今は7人、シャルリシア寮生達と、ダバランを侵食していることを告げた。……かつてティオルジュのいた世界は、その繰り返しで……長い長い時間をかけ、最後には浸食された人間がそれ以外のすべてを滅ぼした上で、自ら命を絶ったことで、滅んだのだとも。そしてそれを、このエリンでももう一度行おうとしている。
 浸食が完了するまでのスピードは、ティオルジュが最小限の干渉にとどめているためか遅く、一人の人間につき30年ほどの時間がかかるらしい。だが、このエリンには今、ティオルジュのみでなく、その目的の完行を補佐し早めるための存在も送られてきているようで、そういった者の暗躍によって、浸食された対象が大きな力を求めて、憎しみに駆られて、などで自ら心を明け渡すということもあり、そうすればその者への浸食は格段に早くなる。……だが、そうしたいわば心の魔の配下達の目的はそれだけというわけではない。なぜなら、そうした工作により侵食を早められた存在がいて、さらに同時期に今侵食されつつある存在もいる場合、すでに浸食を早められた者が直接、その者以外の侵食対象者に干渉したり、あるいは死などの事象によってその侵食された命を全員が「穴」を通して接点を持つティオルジュを通じて拡散させることによって、最終的にはどうなろうと、結果的に侵食対象者全員の浸食を早めることができる。つまり、一人に対する浸食を早めるための工作は、全体へと影響を及ぼすということなのであり、だからダバランもそのコンプレックスを見抜かれたうえで、個別に狙われたのだ。
 そのダバランが自ら堕落を選択したことによりほぼ侵食され、そしてシャルリシア寮生達を自らの領域に招いて干渉したことで、今はその自覚はなくとも、シャルリシア寮生達への浸食は通常よりも早いペースで進み始めている。……それを感知したからこそ、バウラスもついにシャルリシア寮生達を滅ぼさなければならないと判断したのだろう。ダバランは現在アルゼオによって封印されたため、その命の消滅による更なる干渉を受けずに済み、バウラスによる直接的な排除からもエンザによって逃れることができたシャルリシア寮生達ではあるが、事態はまだ何も終息していない。むしろ、この瞬間も暗黒の未来へと進みつつある。そう、ティオルジュはシャルリシア寮生達へ語ったのだ。

 ……ティオルジュは、そうした、人を滅ぼすという行為を、そしてそれを実行する自身を、好ましいと思っているわけではない。
 それを早める使命を持つ、ティオルジュの配下は、人が滅ぶことを喜びにすら感じているように思える。だが、ティオルジュ本体はなぜかそうではなかった。……そうではなかったのに、ティオルジュはまるで流れる水の如く、人を滅ぼすという目的に向かい続けるしかない存在として生み出されていた。存在が終わることまで、その所業もおわることはない。
 それが開始されてから、実際に人が滅ぶほどの打撃をあたえるまでがはるかに長いこの現象。しかし、それはその代わりに、ティオルジュが滅ぼす対象の世界にはほぼ接することがない……つまり、絶対的な安全をもたらすものである。だから、ティオルジュはいつでも、ただ自身のいるべき空間に座り、干渉し続けるだけであり、それ以外の行動は行えない。
 だが、今こうしてここ、ティオルジュの傍までシャルリシア寮生はやってきたのだ。それは、ティオルジュにとっては敵となる存在に迫られたということではないのか……そんな考えに対するティオルジュの答えは否であり、ティオルジュにとって、「穴」による接点を通じて、自分が侵食している対象がティオルジュ自身に何らかの干渉を行うケースは想定済みであり、そして脅威とはならないというのだ。……それどころか、こうして机につくティオルジュを動かすことですら、シャルリシア寮生達にはできないのだという。
 その言葉を聞いたシャルリシア寮生一同は、一同に不可解な表情をしていた。そしてやがてそれを代表するかのようにラピスが席を立ち、ティオルジュの元へ向かう。そして律義にも声をかけたあと、ティオルジュに触れた。そこには確かに、ティオルジュ自身に触っている感触も実感もあった。
 その事実に、触れるのであれば、こちらから干渉できないということはないとラピスは考え、そうティオルジュに告げるのだったが、それに対するティオルジュの返答は、ラピスが今、ティオルジュを何らかの形で害そうという、いわば敵意を持っていない行動をしたからできたことである、というものであった。……それ以上のことを知りたいのであれば、「敵意」を向けた行動を起こしてみるしかない。その意味を含んだ発言に、次はジャックが席を立った。
 その得体のしれなさに、ラピスはジャックへ警告をしたのであったが、ジャックは例え危険を侵すとしても、ティオルジュについての確かな情報を得なければいけないと考えており、その剛腕による斬撃をティオルジュに向けようと考えた。各員がかたずをのんで見守る中、ティオルジュはただじっとジャックを見つめ返しており、そこに込めた思いのほどを読むことはできなかったであろうが、ジャックはついに、剣を振り落とす。
 しかし、その瞬間、全く理解しがたいことが起こる。
 その場にいたシャルリシア寮生の6人は、全員が全員、ジャックがティオルジュに対して近づき、そして攻撃を行うのを見ていた。そのはずだった。
 しかし実際には違う。ジャックは、ミトに近づき、そしてミトを攻撃していたのだ。剣が振るわれる直前の瞬間、6人は全員がその事実に気が付いた。そして咄嗟に剣をそらしたジャックと、避けようとしたミトのおかげで、シャルリシア寮生の誰かが傷つくような事態にはならなかったが、今その場で起こったことに対し、さすがにシャルリシア寮生達は驚愕せざるを得ない。
 ……ティオルジュは、自らが侵食した対象の意識や認識を、捻じ曲げるごとができる。
 もちろん、ティオルジュはまだ、シャルリシア寮生達の人格を乗っ取るほどの浸食を完了させているわけではなく、その行動自体の抑制や変更はできない。だが、それでも自分がすでに浸食中である、しかも自分の領域といっていいこの空間に存在する相手であるなら、そこで認識しているものをティオルジュの思い通りに操ることは難しくはないのだ。そしてティオルジュは、浸食の対象者の心の動向を読むこともできる。
 だから、この場所でシャルリシア寮生達がティオルジュに攻撃しようと考えるなら、その対象や位置をティオルジュ以外の別の何かに。味方を援護しようと考えるなら、その対象を味方ではなくティオルジュ自身にへと、結果的に変えてしまう事がティオルジュにはできる。それが、ティオルジュが今この場にいるシャルリシア寮生達を脅威としてみなさない理由だった。
 ティオルジュはその一連の中で、シャルリシア寮生達に対し、ティオルジュへ抗いようがないことを示したというつもりでいた。……だが、この事実を認識してなお、シャルリシア寮生達は心を絶望に沈ませていないことに気づく。そして、そんなティオルジュの驚きに答えるように、ラピスはいった。例え自分のルールの中で絶対者になったつもりであっても、この問題はシャルリシア寮生達の認識か、ティオルジュに向ける敵意や攻撃の感情、このどちらかを対処することで打破できる問題のはずだと。
 ティオルジュの語ったことから、希望の道筋を見出そうとする意志を持つシャルリシア寮生達。それに対しティオルジュは、自分は人間を滅ぼす目的を遂行するための存在であり、ゆえに、こうして様々なことに答えているように見えても、その目的を途絶えさせる……すなわち、ティオルジュ自身を滅ぼすことにつながりうることに関しては答えられない。……つまりは、今答えていることは全て、ティオルジュを滅ぼすことはできないという前提があってのことなのだと続けて告げる。
 その言葉の後、ラピスがティオルジュに、質問があると語りかけた。そしてそれを促したティオルジュに対して投げかけられた質問は……どうすれば、ティオルジュを倒すことができるかというものであった。
 すでに先ほど、ティオルジュを倒すことはできないという前提があるということを聞いたうえでなお、戸惑いをおこしたわけでもなく、あえてそのように聞いてくるラピスに、ティオルジュは不思議な感覚を覚える。……だが、だからといってティオルジュの答える言葉が変わるわけではない。あくまでその方法は存在しないとティオルジュは答えるが、するとラピスは次に、ティオルジュは人を憎んでいるのかどうかと問いかけた。……ティオルジュが自分から人へ恨みを抱いていないというのなら、ティオルジュに抱かれた「使命」を変えることができるのではないかと考えて。……だが、ティオルジュに課せられた使命を遺した存在はすでに元の世界で消滅した存在であることもあり、その使命に従って生きるほかないとティオルジュは言う。……たとえ、自分が人を憎んでいるわけではなく、むしろ自分のしたことにより人を滅ぼそうとしていることに、虚しさのような感覚を感じていたのだとしても。
 ……話は終了した。
 ティオルジュは決して滅ぼせない。そしてティオルジュ自身の意志とはかかわりなく、シャルリシア寮生達を足掛かりとし、やがて人類を侵食し続けるのだ。……これ以上、お互いの間にかわす言葉はない。……そう、ティオルジュは考えていた。
 だが、そんなティオルジュへ、ラピスがもう一度口を開いた。そして問いかけたのだ。
 友達を、探しませんかと。
 その言葉による動揺を狙ったわけでも、奇抜さによる奇襲を狙ったわけでもない。ただ純粋にそう投げかけられた言葉に、ティオルジュはまたも驚かされる。
 ……そして、自分が友達といえるような存在を探すことができるはずはないと答えると、ラピスはそれでも、そういった存在を求めることは無意味ではないと問いかけた。そしてそれに、とつないで、自分から、自分を倒す方法は語れないというのであれば、その方法は、あるといっているようなものではないか、というのだった。
 ここで、それまでシャルリシア寮生の質問に対しすぐに答えを返してきていたティオルジュは、少し長い沈黙に入った。そして、やがてラピスを……いや、シャルリシア寮生全員を眺めながら、ゆっくりと、しかし重く聞き返す。……その方法をさがすことが、君達6人にできるのか、と。
 それに対し、ラピスは頷く。自分一人ではできないかもしれない。だから人の力を借りるかもしれなくても、と。そして、ラピスの次にティオルジュに言葉を投げかけたのは、クレハだ。
 自分で空しいことをしているとわかってすらいるというのなら、そのことを悲しいと思えているんじゃないのか。しかし、ティオルジュはクレハのその言葉にも首を横に振る。それを悲しいと思ったり、怒りを感じたりはしない……する意味がないから。しかし、クレハはそう答えるティオルジュの姿が、まるで本当は解決策のある問題を、あくまで自分だけで抱えてしまおうとしているようにも感じられたようで、クレハは最後にただ一言、俺は、お前のことも救って見せる、と宣言する。
 また少しの沈黙があった。そして再度口を開いたティオルジュは、わからない、と言葉にする。
 シャルリシア寮生達の心の動向や感情を読み取ることのできる自分には、先ほどの発言が、それぞれの心から純粋に導かれたものであることが理解できている。……しかし、だからこそティオルジュは混乱する。これからティオルジュが人類を、そしてその途中段階としてシャルリシア寮生達自身を滅ぼそうとしており、それが決定されていることは伝わっているはずだ。だがそれでも、クレハはティオルジュのことを、救いたいと言ったのだから。
 ……やがて、ティオルジュは最後にもう一つ伝えておこうと、あることについて語り始めた。
 先ほどやって見せたように、シャルリシア寮生達がティオルジュを攻撃することは不可能である。……だが、こうして相対した状況であれば、ティオルジュがシャルリシア寮生を攻撃することはできる。だが、ティオルジュにはあえてそうしない理由があるのだ。
 ティオルジュは先に言った通り、侵食が完了した存在が現れれば、あとはその存在が生き続けようと息絶えようと、その力を自身へと還元し、次の浸食の穴をさらに数多く作ることができる。だが、侵食が完了していない者がそのまま死に絶えた場合、ティオルジュは自らの力を増幅することは難しいのだ。
 よって、ティオルジュには……というより、あくまで「いつか」人を滅ぼすことを目的に存在し続けるティオルジュよりも、その目的の成就を早めることを願う、ティオルジュの「配下」とされる魔族たちにとっては、今シャルリシア寮生達が浸食のすまないままに命を落とされるのは望みではない。それよりも、できる限りシャルリシア寮生達があがいて生き延び、やがて浸食が完了する可能性を高めた方が都合はいいという事である。
 今、シャルリシア寮生達は直接浸食の根源、ティオルジュと相対しているものの、エーエルの魔力によって、いわばこのティオルジュの次元の入り口といった場所から先に進まない限り保護された状態にあるため、ティオルジュがこの場で、シャルリシア寮生達の浸食を急速に進めるといったこともできない。だから、ティオルジュはこの場でシャルリシア寮生達に直接的な干渉をしようとする理由がなく、意志がないのだ。
 なぜシャルリシア寮生達は死ななければならないとする人々がいるのか。その理由を見た一同。そして、ティオルジュはそんな6人がどのように残りの人生を考えるかは、戻って決めるといいと別れを告げる。
 しかしそこで、ラピスは今度は、ティオルジュに数々の情報の提供を感謝して見せた。そんなラピスへ思わず、ティオルジュはこれまで人の人生を長く見つづけてきたつもりでいても、人の心の動きがわからないことがあるものだと口にするのであったが、ラピスはそこで、だというのなら、それはきっと、ティオルジュはまだ何も、人のことを見つめられてはいなかったのではないかと指摘する。……その指摘に、ティオルジュは頷いた。自分にとって、人の人生を見つめるのは必要性や重要性のあったことではなく、あくまで自身の性質上、行い続けてこなければいけなかったことだ。……観察するということに意味を求めず、本当にただ眺めつづけるだけであった自分が、人の情動を理解しきれないことも無理はないのかもしれないと、ティオルジュは語る。
 そんなティオルジュに、ラピスは意味のあることばかりを求めることが、生きる上で大切な事とは限らないと答え、全てが終わった後、ゆっくりとたわいない話でもしてみようと持ちかける。……それはおそらく、「友達」になるために。そしてそんなラピスの提案にレシィもまた、少し困ったような顔はしつつも頷いていた。自分たちは本当は、敵同士として向かい合わなくてもよかったのかもしれないから、と。
 ……ティオルジュは、シャルリシア寮生達がこうして自分と相対した時に、恨みや憎しみをぶつけてくるのではないかと考えていた。
 なんの理由も禍根もなく、ただ生まれた瞬間、ティオルジュに選ばれたからというだけで、今こうして隣人を失い、そして自らの命までも奪われかねない状況に追い込まれている。そのような理不尽さに対する様々な負の感情が、その元凶である自分に出会えば爆発するのではないかと。
 だが、そうではない。6人はそれぞれが、今自分達が何をすれば、本当に得たいと思っている未来を得ることができるのかということに必死であり、ティオルジュ自身への恨みは、あるとしてもその次にある。……それどころか、ティオルジュという存在は邪悪なるものと定められていたとしても、その思想までが邪悪に染まっているわけではないことを理解することができた時、今度はそれすらも救いたいと思っている者達までいるのだ。
 そんなシャルリシア寮生達に対し……ティオルジュはもはや、どのような言葉を返せばいいのかすら知ることができなかった。だから、最後に語ったのは、決別だ。
 もし、次にシャルリシア寮生達がティオルジュに対処するため、この空間のさらに奥にまで踏み込んでくることがあるとするなら。その時は今度こそそのすべてを屠り、そして浸食を完成させ世界へと放つ。
 だが、そう宣言されてもなお、シャルリシア寮生達の瞳は敵意に満ちてはいない。……むしろ、そんなティオルジュを憐れむようですら、あったかもしれない。
 そしてその後、一同の意識は、入ってきたときと同様暗転していった……

 ……気づけば、一同はエーエルの家の中に戻ってきていた。
 エーエルは一同が意識を取り戻したのを確認するなり、有無を言わさず魔術を使用してミルカの記憶を読み取ったようであり、一瞬で一同がティオルジュについて見聞したことを共有したようである。……そして、「心の魔」……改めティオルジュの性質が、ほぼエーエルの予想していたものと一致していたことも。それはつまり、エーエルの主張がより強固になったという事だ。
 エーエルは、全ての説明が終わった今、もうシャルリシア寮生達が取るべき道についてわかったであろう、といった。すなわち、浸食がすすまないうちに、ダバランを含めて死を選ぶことだ。……そうすれば、ティオルジュの力の増幅は最小限に抑えられ、次の犠牲者を減らすことができる。
 侵食された本人たちへの対策は、すでにティオルジュにあり、そして他者はティオルジュの元へたどり着くことができない。ティオルジュという呪いそのものを打ち消す手段が今この世界にない以上、犠牲を最小限にとどめ、人類側からの対策を練っていく。それに努めるのが、今を生きる人々にとっても、未来を生きる人々にとっても確かな道。そして、シャルリシア寮生達がそんな世界の一員であり、それを守っていこうとする意識を掲げるのであれば、それに殉ずるべきなのではないかと、エーエルは言うのだ。
 だが、ラピスは……いや、シャルリシア寮生はその言葉に対し、すぐに言葉を返して見せる。今自分達がすることは、心の魔を祓うことだと。
 エーエルは、ここまで再三抵抗手段がないことを語られただけではなく、実際にティオルジュへ攻撃ができないことを体感させられてすら、なおそのように答えるラピス達に対し、明らかに憤りを募らせつつある態度で、それを再度理解させようとしたのだが、エーエルが例え膨大なる知識を持つ者だっとしても、本当にこの世のすべてと、その結果を知っているわけではないなら、自分達の選ぶべき答え、そして解決策は、そのエーエルの考えの外にあるはずなのだということを主張してみせる。
 その答えを掲げたラピスへ、エーエルは今度は見下すような視線を向けつつ、そんなにも命が惜しいのか、と問いかける。だが、それに対するラピスの答えは、自分自身の命なら、いつでも投げ出すことはできるというものであった。エーエルはその答えを矛盾ととらえるのであったが、ラピスの考えは違う。ラピスはあくまで、今ここにある命、そしてその尊さに妥協をしないことの大切さを理解しているだけであり、バウラスやエーエルの領域とはそこで違えているのだと、ラピスは自分自身で考えていた。
 命の尊さ。エーエルはそれを、人の思い込みであり、愚かさを表すことの一例だととらえているようだ。そのエーエルを、ラピスはそう断じる者が、自分より優れていて、確かな解決策を用意できるということは疑問だと感じている。
 そして、そこで今度はミルカが自身の思いを言葉にする。
 ミルカは言った。例え自分勝手な結論と思われたとしても、だから間違っているということはない。と。人はいつだって、自分に与えられた境遇の中から、自分自身が何をするべきなのかを必死に考え、そして行動することで未来を作ってきたのだから。
 エーエルの指摘する通り、それは悪い未来を呼んでしまうこともあるだろう。自分の考えがいい結果につながっていると考えられるのは、確かに都合のいい考え方かもしれない。
 しかし、それは自分達がより良い未来を作っていけると信じることを、すべて否定していく材料ではない。そう信じ、考え、行動していけることが、ミルカには意味のあることなのだ。
 そのミルカの言葉に、それが、人という者のはずだとクレハが賛同し、続けてそれに今回の場合、道をあきらめることで待っているのは、結局のところ人を犠牲にし続ける妥協策でしかないのだからとレシィも頷いた。人個人の行動と考えがもたらす、未来に対する考え方を異にしているエーエルはその答えになお納得はしていなかったが、ミルカはそこで、それに心の魔に対する対抗策に関しても、少し気になることがあると言う。
 ……なぜここまで、間接的で、そして時間のかかる手法を、心の魔は、ティオルジュは取らなければいけなかったのか?
 そしてなぜ、ティオルジュはあのように、邪悪な意思に染まってはおらず、むしろ自身の存在を無為に思うような存在だったのか?
 そう口にした時、エーエルはそこで少し、今まで反論を唱え続けていた口を閉じていた。そしてややあった後、それがわかる者はもうどこにもいないが、あくまで人をすぐに滅ぼすことではなく、保身を図った結果ではないかと言うのではあったが、ティオルジュの手法についてはともかく、ティオルジュ本体がなぜあのような性格であったのかは、エーエルにとっても謎だったのだろう。
 ……しかし、それでもなお、エーエルは一同の考えには否定的な態度を崩さず、一同のしていることは未来を歩もうとするあまり、現実を見据えられていないことだと断じている。だがそこで、今度はジャックが口を開き、そこまで頑なに否定し続けるのは、エーエルにとっても、自分達シャルリシア寮生達が自害してしまうことが都合がいいことだからではないのかと問いかける。しかしエーエルはその言葉も否定した。エーエル自身にとっては、例え世界が滅びるほどのことが起きようと自分だけは生き残る術があるからと。そしてエーエルは、自分がこうしてシャルリシア寮生の考えを否定する理由が、浅はかな考えに対し、当然だという顔で、さも正しいかのように自分達を肯定する生物の浅ましさが、エーエルをいらだたせるからだと答えた。
 そしてその時、ジャックは頷いた。エンザがなぜかつてエーエルとたもとを別ったのか、それを理解出来たと感じたからだ。そのような視点でエーエルの言う「浅はかな考え」を否定し続けるから、エンザはエーエルを仲間としてはみなせなくなったのではないか。と。そして、そのエンザと同じように、エーエルの正しいとすることの外に、自分達の選ぶべき真の解答を求めるジャック達が、今のエーエルの言葉を受け入れることもない。
 そこで、そんな一同へそれでも言葉を投げかけるべくエーエルは再度口を開いた……がその瞬間。一同の所有する荷物の中で、小さなメダル(「第八話EX」参照)がわずかに光を発していた……いや、光を発していたのは、メダルだけではない。エーエルの後方に置いてあった、オーブのようなものも同時にである。
 それに気づいたとき、エーエルは明らかな驚きを顔に浮かべていた。その理由を知るべく、一同はそれぞれが持っていたメダルを手元に掲げるのであったが、その時には、エーエルは再度表情に憤りを浮かべつつ、手元にオーブを引き寄せて、言い放っていた。
 そこまで、エンザが遺した考えに可能性を求めるというのなら。
 そのエンザがどれだけ愚かな人物であったか。どれだけ根拠のない理想に生きた人物であったのか。
 それを知るといい。そう叫んだ直後、一同の意識は、またも暗転する。
 まるで、そのオーブの中に記された記憶に吸い込まれていくかのように。



 ……エンザ・ノヅキはある場所に向かっていた。そして、向かった先にあった一軒の家の中へ入ると、エンザはエーエルの名前を呼ぶ。
 そしてエンザは、エーエルに問いかけた。ついに、『心の魔』に侵された人の居場所が分かったのか、と。
 それに頷き、「以前」のケースよりも信ぴょう性が高いと言い、人数は7人とほぼ確定したと伝えるエーエル。そう聞いて、エンザは「また」自分が迎えに行くため、その場所を教えてほしいと頼むのであったが、エーエルはそこで、少し押し黙った。
 エンザが不審に思う中、エーエルもう一度口を開くと、それを教えることはいいが、その前にエンザに言っておくことがあるのだと言う。
 それは、エーエルがこれから、アヴァロンに移り住むということ、そして、そうなればもう、エーエルはエンザと会う気がない、ということだった。
 唐突な宣言に驚きの表情を浮かべるエンザへ、エーエルは淡々と、邪神の祝福に対する対応についてはもう自分が手伝う気のあることはないし、心の魔の問題についても、もはや新たに伝えるべきことはないだろうと述べた。……それはどうやら、心の魔についての研究をやめるという意味ではなく、エーエルがエンザに伝えていた見解に誤りがあれば、それを放置するというわけではないようであったが、逆に言えば、そうでもないかぎり、エーエルはエンザとの接点を断とうとしているということであった。
 少し沈黙が流れた。エンザが、エーエルの言葉と、その中の感情を考える時間として。その末に、やがてエンザはうなずいた。
 エーエルは今、エンザがやろうとしていること……心の魔に侵食される人々を救う道を探すことに、共感はしていない。だから、その思想の仲間のように思われるのが嫌で、決別を計ろうとしているのだろう。それまでのエーエルから伝えられた研究予測は、エンザにとっても信じられるものではあるし、エーエルはそのような思想の食い違いを孕んだ中、色々なことをしてくれた。エンザはそれを認めるべきだと考えたのだ。
 しかし、ここでエーエルがエンザと決別するというのならば、頼まれてほしいことがあるとエンザは言う。
 それは、もしこの先、その必要があったら。これからエンザが集めるのであろう7人の学生達だけは、エーエルの元にやってくることを許可してほしいということだった。
 エーエルは、これ以上エンザの理想に付き合うつもりはないのだという理由で、そのエンザの頼みを否定しようとした。だがそれでも、その7人が生きていく道を……過酷ながらも、全てを救うかもしれない道を行く可能性を信じた時、その手段を持つのはエーエルしかいない。エンザがそれを再度確認すると、やや間をあけたあと、エーエルはしぶしぶといったようにうなずいた。そしてエーエルは追加で、ただ来ることを許すのではなく、自分の元に来る力量はあるのかどうか、試練程度は用意する上に、もしたどり着けたとしても、親切丁寧に対応をするつもりなどないことを告げたが、エンザはそれについてはエーエルのやり方に任せることを選んだ。……エーエルはあくまで、エーエルの意志による協力者である。それに、そのような事があってもなお生きていきたいと……進むべき道を見失わずにいられる人々を育てなければ、いずれにせよ未来はないであろうからだ。
 態度はどうあれ、これから集められる若者たちが、いつかエーエルの助けを必要としたときの道筋は用意できた。そんなエンザは、最後にもう1つの相談事があると続ける。
 ……エンザは、そしてエンザに力を貸してくれる人々は、これから集められる若者たちに対し、「心の魔」のことについてはすぐには伝えないつもりでいた。そのことが個人個人に置いてどれだけのショックになるかは計れないし、自分自身の成長だけでなんとかできる問題ではない以上、知っていたからよりうまく対処できるとも限らない。……そして何より、エンザはあくまで、可能な限りそれらの人々にも、普通の人間と同じ、当たり前の人生を歩んでほしいと願っていたからだ。
 しかし、そうなると、自分の命が持つかはわからない。まるで唐突にも聞こえるその発言を、エーエルは涼しい表情で聞き受け、エンザに死ぬ覚悟があるということを理解した。……二人がそうした理由は、今現在、エンザはバウラスと、心の魔に侵されている者達の扱いについて意見と対象を対抗させてしまっているからだ。
 しかしそもそもその前に、バウラスのことなのだから、侵食の対象者が誰かわかった時点でそれを殺しに行っているのではないかと考えるエーエルであったが、エンザはそれはないはずだ、と否定する。なぜなら、浸食の対象者を、その覚醒前に滅ぼせば心の魔の増幅は抑えられるのだろうとはいえ……その覚醒にはまだまだ時間がかかるはずであり、いたずらに早く滅ぼしても、それはむしろ心の魔の現れるサイクルを早めることになるだろうからだ。……それに加え、侵食の対象者を可及的速やかに滅ぼすべきという考えからは、真逆を行く計画を進めているエンザ自身や、それにかかわるものがいまだに無事であることも、エンザはバウラスが、現時点で強硬手段に出るつもりはないことの証明であると考えていた。
 だから、しばらくは大丈夫であろう。……しかし、本当に侵食が進み、完成しようとする時があれば。
 その時はきっと、それが可能性という段階であったとしても、バウラスは動くだろう。そうなれば。
 エンザは、何が何でもバウラスを止めなければいけない。そう決めている。自分が望む、まだ名も知らぬ若者たちの可能性を信じさせるために。そして、バウラス自信に、そんな選択と行使ををさせないためにだ。今のエンザは、バウラスに対してそう向き合うべきだと、確かに思えていた。そう、その命を懸けてでもと、思えるほどに。
 ……だから、エンザは若者たちが心の魔の脅威を乗り越える最後の時まで生きていられるかどうか。それについては不明瞭な未来を描かずにはいられなかった。
 もちろん、エルクレストの何人かをはじめとした人びとには、大方の事情を伝えてはある。だがやはり、「あの時」どんなことがあったのか、そしてエンザ達がどうして、心の魔の侵食者たちをエルクレスト・カレッジへ導くことにしたのか。そのことを本当に知っているのは、それについて体験し、研究したおエンザやエーエル達だけなのではないかと、エンザは考るのである。
 だからもし、若者たちがそれらについて知りたがったとするなら、それを語ってはくれないだろうか。……そのようなことを言おうとしたエンザの先手を打つかのように、エーエルは露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。伝える前からいきなり難色を示されたことにエンザは慌てて、エーエルから伝えてもらうのではなくても、何かいい方法はないか、と方向転換する。
 すると、ため息をつきつつ、エーエルは一つのオーブを手に取り、エンザの前に差し出した。
 それはエーエルの作った道具の1つであり、記憶のオーブ。というものらしい。
 その中には人の記憶を入れておくことができ、エーエルの意志によって、その記憶を他者へ共有させることもできるものだと。
 エーエルはあくまで、エンザの二つ目の頼みを聞き入れる気はなかったようだが、エンザがもしすべてを伝えることができなくなったとしても、それを残していく手段は提供したのである。
 そんなエーエルへ、望まれていないとはわかりつつもエンザは礼をいい、早速そのオーブを使用しようとしたのだが、そこである違和感を感じた。……残そうとした、直近のことに関する記憶よりも、前からの記憶までが残されてしまうようなのである。
 エーエルによれば、どうやらエンザがそもそもなぜその記憶を残そうと思える、どんな経験をしたのかというような、エンザ自身にとって印象が深い経験や過去のようなことまでオーブは吸い出してしまっているらしい。エンザは、そのような自分の人生の要因となる記憶まで残して語ることに対し、あくまでこれからの若者たちにはかかわりのないことのはずのことだとためらい、エーエルもそれに同調していた。
 ……しかし。
 例えばもし、こんな自分に残された生徒達が。
 自分のことを……エンザ・ノヅキのことを、その生き方についてを知りたいと考えてくれたとしたら。
 その時は間違いなく。それに答える義務が自分にはある。
 ……だから、それは、若者たちにはただの迷惑かもしれなくとも。
 今ここで残される記憶に対し、エンザは逆らわないことを決め、そしてオーブへもう一度額を寄せたのだった。


 もう、どれほど前だっただろうか。
 のどかな村に、狼族の少年が、兄を呼ぶ声がこだまする。
 そして、少年のその言葉に、少年とよく似た容姿の青年が振り返った……少年はエンザ・ノヅキといい、青年はキア・ノヅキという。二人は兄弟であった。
 先述の通り、一目で兄弟と分かるような二人であったが、キアには、特異なところが一点だけある。……その眼が、まるで瞳自身が光を放つかのごとき、鮮やかすぎる金色であったことだ。
 しかし、エンザの慌てた様子を窘めつつ微笑むキアは、まさに好青年といった風情である。そんな兄の元へ向ける信頼を表すかのように、エンザも勢いよく走り寄っていた。
 どうやら、エンザはキアが狩りの途中で自分を置いて村に戻ったものだと思っていたようだが、実際はキアは畑仕事の手伝いの約束のため、先に戻るとあらかじめて伝えておいての事だったらしい。その事実を指摘されると、エンザは笑ってごまかしつつ、女に振られての傷心状態を、2週間も引きずり続ける友人の手伝いをするなどお人よしにすぎる、などと評するのであったが、小さな微笑みを浮かべたまま、それで友の気がまぎれるならと答えるキアは、誰が見てもよくできた青年であったと言えるだろう。
 ……だが、そこでエンザは、ある違和感を感じた。そしてエンザが視線を向けた先には、何人かの男たちがいる。
 その男たちが何者であるのかは、エンザは知っている。老齢のため死去した前村長をついで、新しい村長となった者の身内……あるいは取り巻きのような者達だ。まるでキアを監視するかのような行動をとっているその男たちに対し、エンザは不満そうに、最近、新しい村長の意向のせいか、これまでの村長の時のように、邪神の祝福を受けているキアを他の村人と同じように受け入れるのではなく、まるでそれを排除するかのような動きに変わってきていることをつぶやいた。
 いずれにせよ、関わっていいことはないと感じたエンザは、キアを連れて別の場所に移ろうとする。そしてそれにキアも頷いたが……キアは長い間、その男たちを真剣に見ていた。
 まるで、自分の課題に対し、向き合うことを決めたかのように。

 ……そのできごとから、何か月ほどあとだっただろうか。
 エンザはその時も、兄を呼んでいた。しかし、今回は状況が違う。
 その声はもはや擦り切れんばかりの必死さであり、兄の元へ向かう足も、こんなスピードは出したことがないと自身で思えるほどの速さで動かされている。そしてそのままエンザは、とある廃屋の中へ駈け込む、その中には、キアがいる。
 あいつらはすぐ近くまで来ている。早く逃げてくれ。
 エンザは必死な形相のままそう叫んだ。だが、その声を間近で聞いたのになお、キアは錆びれた部屋の中で静かに座っている。……それだけでなく目すらも閉じており、まるで決意を固め心の濁りを捨てようとする僧のようにすら見え、今のエンザとは対極の状態にあると言ってもよかった。
 だが、エンザにそんなキアの異常を追及している暇はない。キアは新村長の手の者におわれており、捕まれば処刑されるかもしれない状況に今あるのだ。そんなキアを匿うため、このさびれた廃屋を用意したはずのエンザ達だったがこの場所もなぜか、新村長派にばれてしまっていた。それに気づいたエンザが、キアに逃げるよう伝えに来たのだ。
 しかし、その状況を知っているはずのキアはなぜかまだ、全く慌てる様子もなく、立ち上がる様子すら見せない。そんな中、やがて目を開けて、その金光の瞳を覗かせながらキアは静かに言った。

 彼らはここに、自分を襲いに来るのではない。
 迎えに来るのだ。

 時が止まった。少なくともそれを聞いたエンザには、そんな錯覚を起こされるほどの驚きがあった。
 やがてエンザは我に返ると、キアが何を言ってるのか、と問いただす。
 新村長派の追っ手はキアを。邪神の祝福を持ってるやつを、生かしてはおけないとまで公言した。それがついにキアに対し強硬手段にでようとしたから、こうしてその魔の手からキアを守るため、自分達は行動していたはずだった。だが、そんなエンザに対し、キアはあくまでゆっくりと、静かに伝える。
 エンザ達、キアが生き延びるべきと考えてくれた人々が用意してくれたこの場所を、新村長派にあらかじめ伝えたのは、何を隠そうキアであること。
 だから、あとはエンザが、新村長派の人々がこちらに向かってることに気づかなければ、何の問題もなく、そのままキアは捕まるはずだったことを。
 ……また、時が止まる。いや、その時エンザは何かを叫ぼうとして……余りの驚き、絶望、ショックに、叫ぶことすらできなかった。
 そしてわずかに、絞り出すかのように、意味が分からない、と兄に対して訴える。
 そして続けて訴え続ける。新村長はもう、話し合いの通じる相手ではない。彼らは本気で、邪神の祝福を受けた存在は、邪神の手先だと考えており、キアを殺す気でいる。
 だが、新村長派から逃げおおせるは難しいことではない。キアに生きていてほしいと願っている人物はエンザだけではなく、仲間だっているのだ。
 だから、あきらめることなんてない。必ず生きられる。
 エンザはそのことを主張する……だが。
 感情をあらぶらせるエンザに対し、キアはあくまで平静のまま、エンザ、と名前を呼び語り始めた。
 確かに力を合わせれば、新村長派から逃げることはできるだろう。自分はエンザたちのような、優しく強い人々に恵まれているのだから。
 だが、そんなエンザたちにもできないことはあるのだ。キアが邪神の祝福をその身に受けているのは紛れもない事実であり、それだけは、逃げようがない。
 初めて確認された、邪神の祝福の被害者となった少女は、わずか一晩のうちに凶暴化し、自身の村のもの全てを虐殺したという。……なら、キアはひょっとしたら、明日にも自分の近しいものを手にかかけてしまうのかもしれない。
 邪神の祝福を受けたものは、生まれた時から恐れられ続け、まともに親とすら触れ合えたことすらない人間もいる。そんなことすらしょうがないことだと、世界ではみなされた。
 だが、キアにはエンザたちのような、それでもキアのことを考えてくれた優しい人たちが周りにいてくれた。だからこの年まで、幸せを感じながら生きてくることができた。邪神の祝福を受けたものとしては、遥かに恵まれていたのだ。
 そしてそんな人生を歩んだキアが何より怖いのは、自分が実感できたように、誰かが生きていく中で得られる当たり前の幸せを、自分がその手で壊してしまう事。
 誰の力を借りても。もしここから逃げても、村を離れても。その恐怖だけはなくなることはない。
 自分はきっといずれ、人を害してしまう。そのことをキアは理解してしまった。だから、もういい、と彼は言う。

 自分は恵まれていた。
 生まれてきたことが間違っていた……生まれてくることが、世界に害をなす誤りの存在だったのにも関わらず。
 そんな自分が、自分の人生を幸せだと思って、今まで生きることができ、そして誰かの幸せをこの手で奪うこともなく人生を閉じることができる。
 自分のような存在に、これ以上のことはない。
 だから、このまま、いかせてくれ。

 エンザは、その言葉に首を横に振った。
 涙を流しながら、言葉にならない声を出しながら、ひたすらにそうし続けた。
 そしてようやく、ちゃんと形になった言葉を発しようとした直後、突如背後から人の声と足音がした。どうやら、新村長派の追っ手が近づいているようだ。
 その瞬間、エンザは全身に怒りをたぎらせ、武器を持って振り返る。……それはまるで、今の戸惑いもやるせなさも絶望も、全てを怒りとして新村長派にむけることで一時的に忘れようとしたかの如く。そして、叫んだ。
 わからない。
 そんなの、なにもかもわかるわけがない。
 認めるわけないのだ、と。
 ……その時、キアがもう一度、エンザの名前を呼んでいた。
 それに応じてエンザがもう一度キアの方を見る。……その瞬間、腹部にあまりにも重い一撃を、エンザは受けていた。……それを放ったのは、キアだ。
 エンザの意識が、一瞬で闇に飲み込まれていく。
 そんな自分をどうしようもできないまま、エンザは聞いた。
 兄が自分の名前を呼び
 ありがとう、達者でな。
 そう言って笑っていたことを。
 その微笑みはきっと、納得させるためのものだった。
 自分と、自分に関わっていた全ての人を。
 呪われていた自分の人生がこうして終わることは、間違いではなく、幸せですらあるのだと。

 その少しあと、エンザが意識を取り戻したとき、その体は縄で縛られていた。
 意識を失う前に何があったのか思い起こし、エンザは身動きすらままならない状態のまま、ほとんど這うようにして村への道を進む。そんな彼を村の外れで発見した人がその縄を解いてくれたものの、時間はすでにどれほどたっているのか知れなかった。
 そして縄を解いてもらうや否や、エンザはその礼を言う余裕もほぼないまま最高速で駆けだしていく。向かうは当然、新村長の家、そのつもりだった。
 ……しかし。
 そこに向かう途中で見つけてしまったあるものが、エンザの足を止めさせた。
 エンザがその足を止めてしまったその場所。簡易な仕切りによってくぎられたその先には、二つのものがあった。看板と、台だ。
 看板にはこう書かれている。「かのもの、邪神に魅入られ私定めにより、粛清されし」と。
 そして、台には、兄の首が。
 それを認めたその瞬間、エンザは崩れ落ちた。
 立ち上がることはできなかったが、地面に拳を突き立てて、声にならない声をあげて、泣いた。
 その手の皮膚が破け、流れ出る血が地面に赤い染みを作っても、エンザはその場を動かなかった……


「キアのことは、本当に残念だった」
 そう誰かが言った。
「だけど、キアは立派だ。自分自身の事よりも、何より俺達の未来のことを考えてくれた。誰よりも優しく強い奴だったんだ」
「だから、俺は誇りに思うよ。あいつが俺達と一緒に居てくれたこと。そして、あいつが思いやってくれた自分自身も、それに恥じない人間になれたらって思う。・・・尊い犠牲を、受け入れていこう」

 キアを失った悲しみを克服するため、これから生きていくために人々はそう言った。
 それはひょっとしたら、単なる自己の正当化でもあったかもしれない。いくらキアという人間自体に罪はなく、素晴らしい人間だという事は信頼していても、それと邪神の祝福は別問題であり、やはり、恐怖がなかったとは言えないのだから。
 だが、エンザはそのことは間違っているなどと思ったわけではない。むしろ、自分の死を、人びとがそのように乗り越えて過去とし、未来に生きる中で少しでも糧にしてくれるというなら、兄はそれを快く受け入れたのだろうから。
 だが。
 エンザはそれでも、叫ぶ。

「嫌だ!俺は認めない!」

 今、兄が……キアが死んでしまったことは確かなことだ。しかしそれでもエンザは、キアがどうしても、死ななきゃいけなかったことを認めることだけはできないのだ。
 キアは言った。生まれて来ただけで世界に害をなすことが決まっていた、自分は生まれてきたことが間違っていた。と。
 エンザはそれを決して肯定しない。
 生まれて来ただけで、未来を得ることが世界から許されていないから死ななきゃならない。たとえどんな命だろうと、そんな命が存在するだなんて、そんなことがあっていいはずがない。
 でも、キアはその命をあきらめ、その上で自分の人生を肯定してしまった。そうやってあきらめざるを得なかったのだ。
 生きていく可能性に努力することすら認められない人生があるということを、エンザは絶対に許せない。
 そんな悲しくて空しいこと、あってはならない。
「……だけど、エンザ」
 続けて、誰かが言う。
「……そのことについて一番苦悩したのはキアのはずだし、お前の思ってることは、みんなにとってもそうだ。だけど、例えこの村が・・・いや、この国の人々がそう思い続けたところで、キアを邪神の祝福から救うことはできなかったんだよ」
「世の中にはとても理不尽で、どうしようもないことがある。そんなことに、せめてもの自分の意思で、死の恐怖と戦った人のことを尊重して、彼らが守ろうとした自分の未来のことを考えるべきなんじゃあないのか」
 エンザはその言葉に顔をゆがめ、哀しみと苦悩にさいなまれながらも、もう一度答えた。
 それでも、俺にはできない。
 確かにキアを含め、自らの死にすら向き合い、自分よりも自分の周りの人達の人生を考えられた人たちは立派な人だろう。
 でも、その選択をしたのは、しなきゃいけなかったのは、あくまで自分の周りの人のため、そうせざるを得ない状況に、初めからキア達が陥ってしまっていたからなのだ。
 だから、例え誰にどうしようもないことだって言われても。この世に理不尽があるのは当たり前だと言われたとしても。
 エンザには人が、自分自身の人生にそんな選択をしなきゃいけないことは、何より悲しいことにしか思えない。
 だからエンザは決めていた。
 自分が、この村を出て、旅に出ることを。
 そして、また誰かが言う。
「……まさかエンザ……邪神の祝福の治療法を探しに行くのか?」
「無理だ。無謀すぎる。お前が一人で行って何になる。キアはお前に、健やかに生きてほしいと……」
 その言葉に対して、エンザは正面から向き合い、答える。
 確かに今のこの段階じゃ、それは無理だし無謀なことなのだ。だからキアは、自分の命を捨ててしまった。
 しかしそんなままで、いいはずがないのだ。ずっとそう言い続けていたら、キアのような人は増えていくだけ。誰かが何かをしなきゃ、可能性の一歩すら見つけられないまま、この問題を眺めていることしかできない。
 もう、エンザは、それを決して認めない。
 だから自分が行くと、エンザは決めた。
 自身の人生を、そのためにかけていくことを自分で選ぶと。
 エンザの人生は、エンザが感じた世の不条理と戦い続けるためにあるものでありたいと、彼はそう思えたから。


 そうして、エンザは旅に出た。
 方々をめぐり、邪神の祝福に関する情報を集めるエンザであったが、旅を進めるたびに目にするのは、ある者は神殿でほぼ罪人のように監視され、またある者は人里から離れた場所での生活を余儀なくされているなどの、邪神の祝福を受けたものの境遇の悲惨さばかりであった。
 キアの語った、自身はよき人に恵まれたという言葉の意味を理解せざるをえない光景ではあったが、エンザはその度に、自身が旅を続ける意味があるはずだという決意を強めてもいた。
 しかし、冒険者として並程度の実力しかない自身一人では、邪神の祝福の解決法はおろか、方々で発生した災厄やモンスターに対する依頼すらろくに達成することはできない。
 だから、エンザはやがて、仲間を探すようになった。
 そしてある時(第十二話バウラスの回想参照)、強大な力を持つ聖戦士、バウラス・ジーク・スヴァルエルトと出会い……彼を仲間にすることに成功した。
 それからは、バウラスと共に様々な活動をしつつ……時のその力に助けられ、時にその思想に苦悩しながらも、二人の旅は続いていた。
 そして、この世のとある場所にいるという、膨大な知識を蓄えて生き続けるという魔女ならば、エンザの目的である、邪神の祝福に対抗する方法についての知識もあるのではないかという情報を得たところで……「それ」は起こった。

 ……バウラスが突然言い出したことを、エンザは聞き返す。そんなエンザへ、バウラスはもう一度発言を繰り返した。
 自分には行くべきところがあり、そこへ行かせてもらう。と。
 それはどうやら、その「行くべきところ」がその魔女のところとは遠く離れているため、エンザとはここで別れるという意味合いらしい。次の目的地が決まったと思われた矢先、突然のバウラスの脱退宣言に、エンザもさすがに戸惑うのであった。
 そんなエンザに構わずそのまま去って行こうとするバウラス。だが、バウラスが動き出して数歩のところで、エンザはそれを呼び止め、自分もそれについていくことを宣言した。
 そのエンザの言葉は、今度はバウラスにとって予想外であったらしい。バウラスは足をとめて振り返り、このまま自分についてくるというのなら、魔女に出会い邪神の祝福について情報を得るというエンザの目的は遅れることになるだろうことを確認する。……それは、エンザの旅の目的からすれば、寄り道となるはずだ。
 エンザはそのバウラスの懸念を認め、自分が旅に出たのは、邪神の祝福などの理不尽な理由で、ねじ曲がった人生を送らなければいけない人を少しでも早く、多く救う可能性を探るためであったことを確認した。
 ……しかし、バウラスがエンザと一緒に来てくれることに頷いたその時から、少なくとも今の間まで、バウラスはエンザの仲間なのだ。だから、エンザはバウラスに対し、責任があると考えていた。
 それは、バウラスのしようとしていることが良いことなら、それを助けること、悪いことなら、それを止める……あるいは、少しでも被害を抑えること。
 何が良いことなのか、何が悪いことなのか。それについてをバウラスと議論する余地がないことは、エンザももう理解はしている。
 だが、それでもバウラスはエンザにとって仲間でエンザの力になってくれた人なのだ。だから、バウラスのすることに対しても、エンザは行動で示すことを決めた。
 ……それが仲間だと思うから。
 そして、そう自分で信じたことを疑いたくないから。
 ……バウラスは、そんなエンザの主張に答えなかった。そして、やがてエンザに背を向け、去って行ってしまう。
 しかし、その速度は決して早くはなく、エンザにとってもすぐ追いつけるほどだ。……エンザはそれを、バウラスがついてくることを許したのだと判断した。
 そして、エンザはバウラスの目指す場所へと、進んでいく。

 そして、バウラスの転送魔法などを使いつつ数日をかけて、二人はある場所に到着した。……しかし、そこは、何の変哲もない野原である。バウラスの脅威とする相手どころか、ポメロ一匹すらも見あたらないほど、平穏な空間だ。
 ここが本当にバウラスの目的としていた場所なのか。エンザは思わずそうバウラスへ問いかけたのだが、バウラスはそれに重く頷き……敵はすでに、近くに来ているということを答えた。
 その答えに、さらなる疑問を浮かべるエンザをよそに、バウラスは何やら呪文のようなものとなえ始めた。
 ……その瞬間、突然、エンザは全身の毛が逆立つかのような悪寒に襲われ、驚きの声を上げてもう一度バウラスを見たのだが、その時にはバウラスはすでに武器を手に取り、臨戦態勢であった。
 そして、その体勢のまま、ただ前を見つめるバウラスの視線に導かれたようにエンザが視線を移すと……そこにはまるで、空間自体に走る亀裂のようなものが見えた。
 一瞬でこの空間の均衡を打ち壊した、禍々しいその光景に、エンザは更なる驚愕を表し、その正体が何であるかを傍らのバウラスにまた問いかける。……バウラスはその時、エンザの方を気にかけるようなそぶりは見せていなかったものの、そのエンザの言葉に対し、次元回廊、という単語だけを返し、そして、次の瞬間にはその空間へ飛び込んでいっていた。
 次元回廊。この現象にそう名前がついたところで、エンザにとっての疑問や戸惑いが払拭されたはずもない。
 だが、自分の仲間が……バウラスが、その得体のしれない現象に向かって行ってしまった。そうである以上、エンザはそのまま立ち止まっていることはできないのだ。
 そして、エンザはバウラスの背を追いかけるようにして、「次元回廊」と呼ばれたその亀裂の中へと飛び込んでいった。

 ……二人が飛び込んでいって、しばらくの時間がたった。空間の亀裂は、未だそこにある。今この世界にいる誰もがまだ、それが開かれていることに気づいてない。
 ……そして、あらん限りの息を吐き出しながら、突然エンザが飛び出してきた。それに少し遅れてバウラスも出てくると、亀裂は中から闇を噴出した後、霧散した。
 次元回廊が消失し、あたりは平和そのものといった様子に戻ったのであったが、その地面に身を崩れさせつつ、エンザは震えていた。
 ナイフを握るその手も震えており、息を吐き出すだけの音すら震えている。……エンザは、次元回廊の中で今まで出会ったのことの無いような魔族と会敵して命の危機を迎え……そして、もはや悪魔的なまでの本気のバウラスの力をまざまざと見せられていた。
 そんなエンザに対し、バウラスは気遣うわけでもないまま、何も言わないままだったが、そこから急にいなくなることはしなかった。そして、エンザはなんとか息が落ち着いてくると、今のは何だったのだ、と、ようやくそんなバウラスに語りかける余裕を得たのだった。
 エンザの問いかけに、バウラスはもう一度、次元回廊という言葉を答えた。それは、異世界に住まう魔族が、エリンへ侵攻するための突入口であると。
 異世界の魔族、そう聞いてエンザは、魔族が異世界にもいて、さらにこのエリンへとやってきているというのかと驚きを浮かべたが、バウラスに言わせれば、魔族はむしろ、他の世界からやってくる存在がほとんどであるという。
 ……ならば、自分達が気づかないだけで、この「次元回廊」が世界にいくつもあって、そこから魔族が、エリンを侵攻しに来ているというのか。
 そのエンザの予測に対し、バウラスの答えはYESである。
 基本的に、次元回廊はその世界の境界が不安定な場所でなければ安定した形を取りづらく、よってこの物質界ではなく幽界に主に現れ……すなわち魔族は、それを主だった来訪手段とする。よって、幽界ではアヴァロンをはじめとしたエリンの防衛機構と、それを任されるにふさわしい人材が集められており……幽界では日夜、人と魔族……いや、人と邪なる存在との戦いが繰り広げられている。
 だが、空間の条件などが偶発的に一致することにより、物質界に次元回廊を開くことが可能な時があり……そのような時、魔族たちは積極的に、幽界に比べエリン側の防護が薄い物質界へと、次元回廊構築を狙うというのだ。
 なぜ幽界にエリンきっての実力者達が集められ、地上にほとんど戻ってこないのか。その理由を理解したエンザ。
 そして、今自分達が……あるいはバウラスがしたこととは、その物質界に開こうとしていた次元回廊を、それが開き切る前にこじ開け、乗り込んで潰したということであるともエンザは理解する。……そのことは、幽界物質界問わず、エリンの人類にとって大きな意味のあることであったはずだ。
 ならば、それを自ら行い、成し遂げたバウラスは、アヴァロンに導かれた実力者、神喚者の中でも、特別な使命をもってこの地上に残ったものなのだろうか、とエンザは思い、バウラスにそれを聞いたのであったが、バウラスからの答えは、意外なものであった。
 自分は、神喚者としてはみとめられていない。
 そのバウラスの言葉を、エンザはすぐには受け止め切れない。何故なら、バウラスはパワーと呼ばれる、物質界に存在する人々の会得し得る技の一段上を言った能力を操っているのだとエンザは考えており……そして、そのパワーは神喚者でなければ得ることができないはずだからだ。……そのエンザの疑問にも、バウラスは答える。
 バウラスは、かつて神喚者として選ばれるべきものかの審査を、アエマ神及びブリンガディア神のアバターを通じて神々による協議を経て行われてたことがあった。しかし、その結果バウラスの持つ力は7大神の恩寵によるものではないどころか、その正体が不明であり、大きな不安の残るものとして判断される。
 よって、神聖かつ人類の魔族の砦たる幽界へ足を踏み入れることを禁じられた。……つまり、バウラスの持つパワーは7大神やそれに連なるものによる恩寵ではなく、ゆえに、アヴァロンはバウラスを認めなかったのだと。
 ……それを聞いて、エンザは思わず口を開く。
 ……確かに、バウラスのやってることは、全てが誰からも称賛されるようなことではない。だからエンザは、最バウラスが今日、どこかの村を滅ぼすつもりでいるんじゃないかという可能性すら考え、そう覚悟してもいた。
 だが、それでも今日、バウラスのやったこととは間違いなくエリンの、そして人のためになることであったはずだし、そうしたのは、バウラスが世界のためにその力を尽くそうとしたからなのだ。……例え、それがバウラスにしかわからない、使命による命令であったとしても。
 そんな風に、ただひたすらに世界のためにと戦うバウラスという存在を、7大神達は、そしてアヴァロンの者達は得体が知れないという理由で切り捨て、それで終わりだというのか?
 幽界からも物質界からも、こうしてほとんど誰にも助けをよこしてもらえず、むしろ触れないよう、干渉されないようにしようとするばかりなのか?
 ……そんなことを、ここでエンザが語ったところで、どうしようもない。
 エンザはその神ではない。神は、このエリンのため、その防衛線たるアヴァロンを何が何でも守り切る判断をしなければいけないのだ。
 それは、エンザ自身も分かっている。でもそれでも、エンザはそう語らずにはいられなかった。
 ……まるで、この世界の者が全て、バウラスをただ否定することを肯定されたように思えて。
 エンザは、バウラスの仲間として、それに頷きたくはなかったから。
 ……そして聞く。世界からそのような仕打ちを受けてま、バウラスが信じる神とは、一体誰の事なのだ、と。
 だが、バウラスはそれに対して明確な答えを返さない……いや、あるいは本当に、その答えを持っていないのかもしれない。
 自身の神は、自分へと世界への使命を下した者のことであり。それが7大神及び、このエリンに存在する神ではなかったとしても、自分の行動に変わりはないと、バウラスは揺るぎなく答えて見せたから。……そして。
 私の望んでいないことだ。バウラスは続けて、そういった。それは、エンザがそのように、バウラスの境遇を気にかけることについてだ。
 バウラスは語る。エンザがそのように自分のことを気にかけようとしまいと、そのことはバウラスの行動に何の影響も与えない。
 次元回廊の件がひとまず片付いた今、バウラスは前と同じようにエンザの旅を助けるし、それに一切の対価を求めてもいない。だから、エンザの今の心情を、バウラスへ向けなければいけない理由は無いのだと。
 しかし、エンザはそのバウラスの言葉に、首を横に振った。そういうことでは、ないのだ。
 バウラスは、エンザにとって、仲間だ。
 例えエンザ自身の力は役に立たないとしても、仲間が今日みたいなことに挑み、身の危険をさらすというのなら、その傍で自身のするべきことを探す。それは、仲間に対しそれを恩に感じてほしいからとか、そういうことではない。
 ただ、エンザは仲間に対し、気遣ったり、共にいてやったりするべきだと、何より自身がそう思うからだ。
 バウラス自身が、それを否定し、煩わしく思うのであれば、引き下がりもする。しかし、バウラスの言葉は、バウラス自身の感情ではなく、あくまで指名に基づく行動理念による答えでしかないと、エンザには思えてならない。
 だからそこで、エンザは聞いた。バウラスは、本当に、バウラス自身の意思で、自分の今の状況を認めているのか?と。
 しかし、それに対しても、バウラスは使命、という言葉を口にする。曰く、自身にとっては、使命と意思は同意義。自身は使命によってのみ生きる存在であり、そうである以上、使命は常に自身の今を肯定する。と。
 それに対しエンザはその時、何も言えなかった。
 バウラス自身の「心」に対してでなければ、何を語り掛け、ぶつけても無意味になってしまうと思えたから。

 ……その後。すでに住居を移していたらしい魔女の行方を追いつつ、エンザとバウラスは旅を続けていた。時々、以前のようにバウラスが次元回廊の出現を感じ、その対処に向かうことがまたあったが、エンザはそれに同行することを決めており、バウラスはそれを拒まなかった。
 しかし、そうして次元回廊に出向いたある時、二人はハルファスという、恐ろしい力を持ったエクスマキナに遭遇する。ハルファスはただひたすらに戦いを求め次元回廊に現れたようであり、バウラスの強さを知るとそれにも興味を示したものの、最終的にはバウラスが次元回廊を察知する能力を持っていることを知ったことと、エンザ達に同行すれば、おのずと次元回廊に向かうことになるという説得を受けたことで、本人は不本意そうにしながらも、二人へ同行することを決めた。
 こうして、奇妙な二人組の旅は、奇妙な3人組となったのだ。
 ……ハルファスはそこまで協力的ではなかったとはいえ、敵と戦う時には積極的にその力をふるっていたこともあり、二人に助けられつつエンザは旅を進める。そして。

 ……まず人が踏み入れるような場所とは思えないほど、鬱蒼と茂った森の奥。そこには、一件の家が存在していた。
 無数の枯葉や生き物の死骸に覆われ、立ち入りを拒むかの如くぬかるみを持った地面が続く中、その家の周囲だけはまるで、優雅な避暑地でもあるかのような安らかさを見せている。
 そして、それを発見したエンザは、それが自分が捜し続けていた「魔女」のいる家ではないかという予感を強く高め、そしてハルファスもまた、その中には強大な力を持つ者がいると感じていた。
 家についたらいきなり「魔女」に戦いを挑みかねない。そんなハルファスをとどめようとするエンザの言葉を、ハルファスはまともに聞こうとはしないのであったが、そこに珍しく、バウラスが介入する。
 エンザの目的……邪神の祝福を人類から退ける方法をその魔女が知っているとするのであれば、それはバウラスとしても世界の安寧につながることである。故に、バウラスもまた、魔女の持つ知識を得、そして魔女の素性や思想についてを知るまでは、魔女に危害が及ぶような事態を見過ごすつもりはないのだと。
 そんなバウラスへ、なら代わりにお前が相手でもいいのだと言わんばかりの視線を向けるハルファスであったが、それを受けても武器を構えるでもなく、退くでもないバウラスの態度に興がそがれたのか、最終的にはまず、魔女に話を聞いてからという形で同意をしたのであった。
 少し張り詰めた空気を感じつつも、エンザは気を取り直し、二人に理解を感謝した後、家の扉をたたいた。……しかし、返事はなかったため、やがてその扉を開き、様々なものに警戒しながら中へと入っていく。……そして特に何が起こるわけでもなく……エンザ達は奥の部屋へと到達し、そしてそこに、一人の女性がいるのを発見した。
 そこにいた、紫色で、淡い光沢を放つ髪を持った美女の姿は、エンザが思わず見惚れてしまったほどのものであったが、美女はそんな空間の中でもただ無言のままである。
 やがて、我に返ったエンザが、女性がエーエル・ラクチューンその人であるかの確認をするため、その名を聞いたのだが……それに対する女性の返答は、言葉ではなく、突如その指を宙空へ閃かせることであった。そしてその瞬間、エンザの頭部から淡い光の粒子のようなものが浮かび上がった後、エーエルの手のひらの上で玉のような形状となり……その現象にエンザが追いつくことを待つことはないまま、美女はそれを額にと当てた。
 わずかな間の後、光は霧散して消え、そして美女は、何かを嘲笑するような表情を浮かべ、ようやく言葉を発した。--そんなことで自分のところまで来るとは。どうして、俗人というのはこうも根拠のない希望のため、苦労をしょい込むのであろうか--と。
 どうやら、美女が自身の探していた魔女、エーエル・ラクチューンであり、彼女は何らかの魔法で、自分の記憶か意志を読み取ったということを理解したエンザであったが、そんなエンザへ、エーエルはきっぱりと宣言をする。……エンザの求めている、邪神の祝福を人から消し去る方法は存在していない。それを研究する者達の努力も空しく、進行を遅らせることすらできていないのだと。
 そしてそれに関していえば、エーエル自身もまた、俗世の存在より知識はあるにせよ、それを消し去る術など持ち合わせてはいない。そう言って、エーエルはエンザを跳ね除けようとしたが……エンザは、それに食い下がった。
 今はその手段はない。しかし、それを研究している人もいるし、エーエルもそれにかかわる知識があるというのなら。
 自分達はその研究者たちについて知りたいし、そして、エーエルの知識も、そういった人たちに与えてあげて欲しい。……エンザはその場で、エーエルにそう願った。
 ……だが、エーエルは決して、そんなエンザの願いを価値あるものと思おうとはしていなかった。
 エーエルは、人から邪神の祝福を消し去ることはできないと考えている。
 例え今、人が進めるその研究が少し進歩するとしても、それはきっと邪神の祝福の淘汰には至らないだろう。それに、何より
 邪神の祝福に侵される存在は、世界の中でせいぜい数十名程度といったところであり、種族はヴァーナに限定されていて、身体的特徴により特定も容易だ。
 ならば、最初から隔離し管理した方が話が早い。そんな少ない相手を救うために、一体どれだけの人間が動けるというのか?
 そんな世界の中では、「彼ら」は治りようもない。そう断言するエーエルに、バウラスは否定の様子もなく眺めつづけ、ハルファスはまだ口出しできないからか、暇そうに周囲を眺めている。
 だが、そんな中で、エンザは確かに、その言葉に対して頷けないという意思を確かにしていたのだ。
 ……エーエルの語ることには、確かに真実の面もある。
 エンザは、今までの旅の中で、邪神の祝福を受けた人々が、どんな扱いを受けているのかを見て、知ることになった。……かつて兄が、自分は邪神の祝福を受けた存在の中で恵まれていたと語った意味を。
 今この世界の中で、邪神の祝福を受けた人々は、その多くが隔離され、あるいは捕えられて生きている。……ようするに、いざ彼らの中に眠る破壊衝動が覚醒した時、すぐに「討伐」できる態勢を、世界は取り続けているのだ。
 それはつまり、最悪の場合でも、最終的には邪神の祝福にかかった人々が死亡してしまえば済むことなのだということを、集合意識が認めてしまっているということなのだといえる。それが、この世界だ。
 だけど。それでも。
 そんなことは、おかしいはずだと感じている、人たちもいる。
 例え世界の中でちっぽけで、無力であったとしても。それでも、そのことを訴えたいと思い続けている人たちが。
 エンザもその中の一人だ。だから、エンザの気持ちは、今も村を出た時から変わっていない。
 邪神の祝福を受けて生まれることも、その周囲の人間にならざるを得ないことも、それらが全て不幸なことなのだと最初から決められていて、それで人の生死が決まってしまうようなことは、あってはならないのだと。
 それに、とエンザは続ける。自分は、一人でもない。
 世界の意志との不和にさらされ、救いたいはずの邪神の祝福を持つ本人にすらその手を拒まれるようなことを経験しつつも、その自分の意志を違えたくない人々は、確かに自分の他にもいたのだ。そういった人々が、エンザの目的が間違いでないといい、この手を握ってくれたことは、エンザにとっては間違いなく救いであり、活力だった。
 そして、さきほどエーエルの語った、邪神の祝福の研究者というのも、おそらくそうした心を持っているのだろう。
 確かに、自分達の目的に対し、多くの人がその身を顧みず支援などはしてくれない。世界の中で数十名の命に対し、人の社会全体が可能性の対価を払おうとすることもありえないのだろう。
 だけどそれでも、エンザやその人々は信じている。誰かの人生の中で、生きたいと努力することすら否定されることはあってはならないのだと。
 だからエンザ達は信じ続ける。他の誰かにとって、信じられないその可能性を。それを信じる人の数にいとわず。
 そのためなら自分は、何だってできる。
 そう叫びながら、エンザは深く、エーエルへ頭を下げた。
 ……しかし、そんなエンザを見るエーエルの視線は、あまりにも冷たい。
 エーエルは煩わしいものを見てしまったという不快感を隠そうともしないまま、そう語っていたエンザの主張には具体的な根拠もなければ、あまりにも主観的であり、またエーエル自身にも得がないことを指摘する。……エーエルは、エンザの心の主張を聞くつもりなど、全くないのだ。
 二度とここへは来るな。そうまで言い放ち、エンザから視線を戻したエーエルへ、エンザはそれでもすがるかのように、言葉を追わせようとする。
 だが、その時、エーエルを呼び止めたのはエンザではなく……バウラスであった。
 そのことに、呼び止められたエーエル以上に驚きを感じていたエンザをよそに、バウラスは、エーエルが話に聞くように、この世のあらゆる事象を研究し、知識を蓄えながら生き続けている魔女であるというのであれば、今無価値と感じられる研究に手を貸すことも意味はあるのではないかと問いかけた。しかし、エーエルの返答は、情熱だけは一人前である人間がどれほど愚かを知り、また、仮に手を貸したとしても、それが成功しようと失敗しようと、その結果の予測ができている以上は興味を惹かれることはない、ということである。
 しかし、そこでバウラスが、エーエルが今この事象や、エンザ個人に見切りをつけたつもりでいても、そこに関わる一人となる、バウラス自身のことはエーエルにとって未知なのではないかということを付け加えると、そこでエーエルはバウラスの方を確かに振り向き、沈黙していた。
 バウラスは、自身の使命により優先される事柄が他にない限りは、エンザの目的……邪神の祝福の消滅に力を貸すことを決定していることを宣言し、その力もあれば、エーエルの今の想定以上のことができる可能性はあるとしたのだ。
 エーエルは、それに反論しなかった。……しかし、顔をしかめつつ、バウラスがそこでエンザをかばうのは仲間であるからなのか、ということを確認しようとする。……エーエルは先ほどエンザの記憶に触れた際、エンザの心の中にはバウラスへの仲間意識だけではなく恐怖意識もあることを見抜いており、そんな相手が確かに仲間と言えるのかどうか、を指摘しようとしたのだ。
 だが、バウラスはそれに揺るぐようなことはない。そもそも、バウラスにとっては、エンザを仲間だと思っているから協力するというようなことではなく、ただあくまで、エンザの思想が世界にとってよきものであるかどうかを判断しているだけであるからだ。……そんなバウラスに、エンザは少し寂しそうな視線を向けたが、その場では、そのことに取り合う者は誰もいなかった。
 その答えを受けて、エーエルは今度は、その場にいるもう一人の同行者……ハルファスに対して、その同行の目的を確認しようとする。ハルファスもまた、あまりにも強大な力を持つものであることをエーエルは感じており、それがなぜエンザと共にいるのか、わからなかったからである。
 そんなエーエルへハルファスが、自分はエンザのことに全く興味はないが、バウラスに次元回廊を察知する能力があり、次元回廊に存在する異世界の存在と戦うために自分はバウラス達と同行しているという理由を語ると、エーエルの驚きはなお一層大きくなった。……神の写し身……アバターでもなく、この地上にある存在が、次元回廊が開かれることを察知できるなど、考えられないはずの事だから。
 そういった驚きは、どうやら最終的に、バウラスが語った通りの心境変化を、エーエルに引き起こした。すなわち、バウラスとハルファスが、結果的にエンザの旅の目的に応じてついていくという事なのであれば、自身もまたそれに同行する価値はあり、その中で、エンザの目的に手を貸すことも同意したのである。
 エーエルはそれでもあくまで、自分は問題を改善するための知恵を貸すだけであり、エンザの目的はあくまでエンザのものであることを強調はしたが、エンザにとっては、それでも十分な進歩だ。
 エンザは多少戸惑ってはいたものの、最後には、その場にいる者達に感謝の意を示した。
 ……こうして、エンザのパーティーは4人組となったのである。

 この後、エーエルとハルファスがしょっちゅう衝突を起こすなどのいざこざはあったが、エーエルの導きによりエンザ達はカナンでク・ヴァルカンという魔導士に出会った。ク・ヴァルカンは主に邪悪化抑制の研究を行っている者ではあったが、それが邪神の祝福の克服にもつながるのではないかということもまた、ク・ヴァルカン達自身が研究していたからだ。
 エンザ達と出会った当初はかなり非協力的だったといえるエーエルも、やるからには手を抜くつもりはないようで、彼女の見識と助言により研究は新たな進展を見せることに成功するのであったが、そのために必要な材料や実験を行う実行部隊となったエンザの負担もまた、当然大きなものになっていた。
 しかし、バウラスと……たまにではあるが、エーエルやハルファスの協力が得られたこと、そして、本来邪悪化の抑制や邪神の祝福にはかかわりのないはずの、バウラスによる次元回廊殲滅が行われる中で、まだこの世界では知られていなかった材質を発見、入手できたことなどで、仲間にも助けられ……エンザの目的は時を経るごとに、確かに少しずつ、更に新たな局面へと進んでいくことができていた。
 ……そして。

 エンザのパーティーが4人組となってからしばらくの時間がたったある時、バウラスは、カナンの街の外れに立っていた。……どうやら、見張りのようなことをしているようだ。
 そしてそんなバウラスに声をかける男が現れた。エンザである。
 バウラスがエンザの方を振り返ると、エンザはなにやら手にしていた袋から酒瓶を取り出し、別に持参していたらしいコップにそれを注ぐと、バウラスに差し出す。これは、バウラスに贈る分であると。
 それを怪訝そうに見返すバウラスに、エンザは説明れは、邪神の祝福を明確に抑える効果を持つ薬が、ついにできあがったことの祝いの席に、バウラスがこなかったため持ってきたのだと。
 その祝いの席では、ハルファスがエンザに対し「お前に奢られるようなものがあるのか?」などと言っていたくせに、いざメニューを開けば料理を端から端まで注文されたことや、エーエルもこの程度のことで浮かれるなとエンザにくぎを刺してきたくせに、席に座って3秒で一番高いワインを注文していたなどといったことがあったせいで、今の手持ちがささやかになってしまったことをエンザは詫びるのであったが、当然、バウラスにとってはそのような事など問題ではなかった。……バウラスは、そのような歓待など、必要とする理由も、期待もないの思えだ。
 ……もちろん、エンザもバウラスがそのように思っているだろうということは知っている。しかし、それでも、エンザは自分にできる形で、自分の仲間たちへ感謝を示したかったのだ。……例え他の人々からは遠巻きにされるような存在であったとしても、その仲間である自分には、そのように感謝を向ける権利があるとたから。
 そう聞きつつ、エーエルが繰り返し飲みうつ、「まずくはない」と「太鼓判」をおしたという手元の酒を勧められて、少しの間の後、バウラスはそれを飲み干した。続けて、同じくハルファスが何皿も注文していたというつまみをエンザから差し出されると、バウラスはそれもまた、口に含む。
 バウラスはそのどちらでも、決して喜びを顔に浮かべるようなことはしなかった。しかし、自分の勧めをこうして受け入れてくれたことが、エンザにとっては自身の感謝の気持ちにわずかな理解を示してもらえたことになる気がして、少し上機嫌になることができた。
 その気持ちのまま、エンザも手元の酒を喉に流し込む。バウラスとは対照的に、その美味と喜びを顔に隠すことなく表しつつ、エンザはもう一つ、別のことをバウラスに感謝しているのだ、と語りだした。
 それは、エーエルと初めて出会った時のこと。エンザがエーエルに拒絶された時、バウラスがエンザのかわりに、エーエルを説得してくれた時のことだ。
 ……エンザは、自身が感情的であり、ゆえにその考えが幼稚だと言われることも多いという事に関しては理解していたし、それを非難される覚悟もしてはいるつもりだった。だがそれでも、あの時ばかりは、大いに焦ったのだ。自分の考えがまずかったせいで、わずかに見えた希望を取り逃すことになってしまったのでは、と。
 あの時バウラスがフォローしてくれなければ、こうして、少なくともより確かな希望を探し当てることのできた、今日という時にはたどり着けなかったかもしれないのだ。
 そのエンザの感謝に対し、バウラスは、邪神の祝福を受けた者達は、そのほぼすべてが、邪神の祝福が覚醒したさいすぐに「対処」ができるように監視されている以上、その覚醒前にそれらを救おうとするエンザの行動が、バウラスに与えられた理念にそうものであるからだとし、決してエンザの理念のためにやった行動ではないと改めて宣言する。……しかし、エンザはそれには、うなずかなかった。
 本当にそうなのか。エンザはぽつりとそうもらした。
 バウラスが自身の使命や理念だけにいきているというのなら、あそこでああして助けるようなことをしたのだろうか。それにそもそも、このたびに同行することすら……
 ……その疑惑が頭に浮かび上がったエンザではあったが、それ以上上手く言葉に表すことはできず、首を振りながら発言を取りやめる。……バウラスも、そんなエンザの挙動を気にすることはなかった。
 沈黙が流れたあと、エンザはそういえば、と別の話題を始めた。エンザ達が以前世話になっていた宿屋の娘について、何か気になることがあるのだ、と。
 ファシー・ミルドン。その娘がそういう名前のヒューリンの少女であり、朝になるとよくパンを配りにやってきていた娘であることを、バウラスはしっかりと覚えていた。他人と会話すらろくに行わないくせに、実は他人のことをよく覚えているバウラスのことを少しエンザは不思議に思いつつも、エンザは、そのファシーがこの2週間ほど、気分が悪いと部屋にこもりっきりになっているらしいこと、初めのうちは家族の看病をしっかりとうけていたはずなのに、最近になるとそれすら拒み、自分の周りに人がやってくることを拒否しているらしいことを語った。
 どうにも不審ではある。そこで、バウラスが一度見てあげてもらえないだろうかとエンザは相談するのであったが、バウラスはそこで、それはおそらく、病気ではないのかもしれない、と答えた。……そして、自分が行ったところで、できることがあるかもわからない、とも。
 その口ぶりに、何かに気づいているのかと思わされたエンザは、その内容を追求しようとしたのだが……それにバウラスがこたえるよりも早く、街の方角から轟音と、人びとの悲鳴が突如鳴り響いたのだ。
 突然、商店街前の宿屋からモンスターが現れた。
 それを聞き、エンザは驚愕する。それはまさに、今話していたファシーのいる宿屋のはずだ。
 すぐに状態を確認するべく、エンザは人々の流れに逆行して向かうことを判断したのであったが……そう伝えようとした相手、バウラスの行動は、そんなエンザよりもなお早い。走るというより消えると形容すべきスピードで、その宿屋へと向かうバウラスを追いかけるように、エンザもまた、その中を走り抜けていくのであった。

 ……エンザが目的の宿屋にたどり着いたときには、そこはすでに、まるで部屋の中から台風が発生したのかと思うようなありさまとなっていた。
 そしてその場に、エンザが先ほど話題にあげた人物、ファシーはいない。その場にいたのは、何か恐ろしい目に遭ったとばかりに震えている、彼女の父親だけだ。
 エンザはまず、ファシーの父親の安否を確認しつつ、ファシーはどこにいったのかと確認をした。父親はそれに対し、はっきりと何があったのかを確認できたわけではないが、突然、ファシーの部屋から爆発したかのごとき衝撃が起こり、この宿屋全体を巻き込んだのだという。
 その衝撃は、身体の自由すら奪うほどの苛烈さであったようだが、それが収まった今確認してみると、この宿屋からファシーの姿は消え失せていた。
 エンザの直前にバウラスもここにやってきていたが、その事情だけ聞くと、すぐにまた何かを探すかのように去って行ったらしい。
 ……そこまで聞いて、突如エンザの中に、ある確信めいた予感が生まれた。
 バウラスは、この件が起こる前から、何かをファシーに感じていたようだった。
 そして今、そのバウラスが探しに行ったもファシーだとするなら。
 その目的は、救うためであるだろうか?と……
 次の瞬間、エンザは自身もファシーを探しに行くことを父親に告げ、弾けるようにその場からかけた。脳裏に描かれる、最悪の光景を振り払うかのように。
 ……だが……

 ファシーの名を叫びつつ、エンザは人々が避難した後の、ほぼ無人に近い街中を走り回っていた。
 そしてそうしてしばらくし……エンザはついに、目的の人物に近い人影を発見する。街の裏通りから大通りに抜けていくルートをたどるその人影のもとにエンザがかけつけると、そこにいたのはやはりファシーであり、エンザは彼女を発見できたことに安堵したが、近づくにつれ、ファシーは自身の頭を抑え、苦悶の表情をしていることに気づき、エンザはそんなファシーへ、一体今何がファシーに起こっているのかを確認しようとした。
 ファシーはエンザの姿に気づいたらしく、その名を呼んだ。……しかし、その直後に口から出た言葉は、ごめんなさい、という謝罪だ。なぜそんなことを言いだしたのかをつかめずにいるエンザをよそに、ファシーは語り始める。

 聞くべきではなかった。
 ずっと知らないふりをして、閉じこもっていられれば良かった。
 でも、それはあまりにもうるさくて
 何度も何度も自分に叫びかけ、自分の心をぐちゃぐちゃにしてしまう
 そしてなくなってしまう。自分の好きだったもの、自分が覚えていること。自分が生きてきた証、そういったことすべてが憎しみになっていく。
 嫌だ。
 私は、こんなことのために生まれたのではない。
 私は。
 私が、生まれたのは。

 エンザはその謎の謝罪と苦痛の言葉を、訳も分からず聞き続けるしかなかった。そして、頭を抑えていたがゆえ、伏せられていたファシーの瞳が、そこで初めてエンザに向けられた。
 --その瞬間、エンザはその背筋が凍りつくかのような戦慄と危機を、確かに感じたのだ。

 私達を……傲慢で愚かな種族を、滅ぼすためにいるのだ!

 その言葉と共にファシーの拳がエンザに向けて放たれたが、その一瞬前に危機を感じていたエンザは、なんとかそれに反応して身をかわす。その拳が狙っていた器官は、心臓に違いない。そして、その拳が命中すれば、おそらく肉や骨ごと、エンザの心臓を砕いていただろうと確信できるほどに、その攻撃は鋭かった。
 突然に起こった命の危機に、エンザもナイフを取り出して応戦姿勢はとったものの、突如豹変したファシーにどう対処するべきなのか、それがわからない以上、下手な攻撃をしかけることはできない。……いや、それ以前に、たとえ自由な攻撃ができたとしても、うかつに今のファシーの間合いに踏み入ることは、自身の死につながりかねないほど危険な行為であるということを、エンザはこれまでの経験からくる勘で感じ取っていた。
 その感覚は恐らく誤りではなかった。攻めに回れないエンザを、ファシーは引き続き、人類への呪詛を口にしながら素手で追い詰めていく。あどけない笑顔でパンを手渡してくれた少女の姿を掻き消し、もはや殺戮の悪魔と見間違うほどの殺気をもって襲い来るファシーの気迫とこの場の不明さに、エンザはのまれつつある。
 そして、ついにファシーの攻撃が、エンザの身を護るナイフを弾き飛ばしてしまった。
 ガードが消え失せた心臓を一直線に狙うファシーのさらなる攻撃は、それまで以上のスピードである。1秒もしない次の瞬間に、エンザの命が終わる。そう思われたその時、エンザは、自身のすぐ間近にあったファシーの顔が、誰かによって掴まれるのを見た。
 ぐしゃり、と音がする。それは、エンザの心臓がつぶれた音では、なかった。なぜなら、エンザはその音と共に、自分の目の前が赤いしぶきで一気に染められるのを、確かに確認していたから。
 顔にも体にも付着した赤色をぬぐうこともしないまま、エンザが背後を振り向くと、そこにはバウラスがいた。……そして、その手は自分の目の前よりもさらに赤く染まり、地面へとおびただしい量のそれを流している。
 余りのショックに呆然となりつつも、エンザはそんなバウラスに声をかけようとしたが、そこでその場に、新たにやってくるものがいた。ハルファスとエーエルだ。
 血しぶきの飛び散る裏通りの光景に、ハルファスは笑みを浮かべて楽しそうなことがあったようだ、と評し、そんなハルファスへエンザは激しく激昂したが、エーエルはそんなエンザの感情を爆発させることすら拒否しつつ、エンザが今抱きかかえている、ファシー「だった」ものにむけて、何かの呪文をかけていた。
 すると、その中から、何やら得体のしれない暗い塊のようなものが浮かび上がり、どこかへ飛んでいってしまった。どうやら、エーエルはその塊に、現在位置を特定できるようにする魔法をかけたらしく、バウラスに対してその追跡を指示する。
 それに頷いたバウラスは、転送魔法の詠唱をはじめ、ハルファスもまた、それを追う方がこの場にいるよりも面白そうである、とエーエルと共にバウラスの傍へと移動した。
 いったい何が起こったのか、どうしてこうなってしまったのか、それをすべて理解しきれていていないエンザの横で、事態はさらに動こうとしている。
 ほとんど頭の中は空白になりつつも、エンザはその時、その場から消えようとしていたバウラスの服をつかんでいた。
 ……そうすることで何かにつながるのか、わかっていたわけでもない。だがその行動が、エンザに更なる悲劇を目の当たりにさせることとなるのだ。

 気づけば、亡骸を抱いたままのエンザを含めた4人は、森の中にいた。
 森というよりは、どうやら山の中のようであったが、そこがカナンよりどれほど遠くなのか、そして、一瞬にも感じた先ほどの時間で、実際にはどれほどの時がたっていたのかもわからない。
 だが、そんな状況を理解する間もなく、周囲に轟音がなり響いた。木がいくつもなぎ倒されているかのようにも聞こえる。
 エーエルはそんな音を気にするよりも、先ほど魔法をかけた存在の反応がほぼ消えてしまっていることを不審がっていたが、一方ハルファスは、一跳びで木の上にと登り、その音が何によるものであるのかを確認しているようだった。そして、「普通じゃない」状態の人間が、木を切り倒しながらこちらに近づいてきている、というのであったが、その口調は間延びしており、全く危機感に迫られてはいないようだ。……その人物の後ろに、いかにも今滅ぼされたと言わんばかりの惨状となった集落が見えていたとしても。
 歩みはゆっくりながらも、目に見えた全てを破壊すると言わんばかりのその人物の様子を見れば、その集落の滅亡に関わっていることは容易に想像できるといっていい。だが、その朴訥そうな顔つきをしたネヴァーフの青年は、手に持った斧にせよ服装にせよ、まさに村の中の木こりといわんばかりの平凡さであり、木々をなぎ倒す破壊力が一体どこから来ているのかは疑問であったといっていい。
 そんな存在が向かい来るということを聞き、いかな手段か、手についていた血を一瞬で消し去って、武器に手をかけるバウラスであったが、それをハルファスが押しとどめる。……次は俺の番だ、と。
 バウラスの代わりに武器を構え、ハルファスが木の上から着地した時、一同の目の前が一気に切り開かれた。そこにいたのはもちろん、ハルファスの語ったネヴァーフの青年である。
 本来なら愛嬌があるといえただろうその顔立ちが、今は謎の怒りと憎しみに満ち溢れ、まるで悪魔のような形相となっている。……そして、青年もまた、人類への呪詛を叫んでいた。何の変哲もない斧の一振りで、数本の木々をまとめてなぎ倒すその力を含め、もはや、全く持って平常ではない。
 この青年も、ファシーと同じ。
 おそらくは、正気を失い、人を殺すための存在へとなってしまっている。
 そんな彼に、ハルファスは剣を向け、大歓迎だと笑う。
 自身と、本気でやり合う気のある者ならば。
 この状況の中、エンザは思わず制止の言葉を叫んでいた。
 しかし、その瞬間には、青年はハルファスに向かい、その斧をふるっている。
 エンザの言葉は、届かない。
 青年にも、ハルファスにも。
 この場に存在する、あらゆるものに対しても。

 ハルファスが武器をもう一度鞘に納めた時、青年はすでにそこにはいない。彼は、おびただしい血と肉片に姿を変えられていた。
 そしてその直後、先のファシーの時と同じように、謎の塊が青年だったものから噴き出される。……心なしか、先の時よりも巨大かつ、更に禍々しさを増しているように見える。しかしその次の瞬間には、まるでその場にもともと存在していなかったかの如く、消え失せていた。
 だが、エーエルは今度は、その出現と消失を予測していた。先ほどより精密な特定魔法を使用したらしく、エーエルはそれを分析する。
 その力は、見た目だけではなく、確かに増幅されていた。そして、それが強化されたのは、先ほどの青年が命を失った瞬間であり、その直後にこの世界から姿を消した。
 だがそれがわかったとしても、一体それが何故、誰の差し金でそのような性質を持っているのかは、さしものエーエルにも予測し得ない。
 しかし、エンザにはそれよりも、言葉に出して語るべきことはあった。
 今何が起こったのか、わかっているのか。エンザが震える声のままそう言うと、それに反応したのはハルファスである。
 興ざめたような表情を浮かべながら、ハルファスは、今のことなど、自分には暇つぶし程度の意味しかなかった、と答え、それは当然、エンザの琴線に触れた。
 ファシーは、本当は優しい娘であったはずなのに、苦しんだあげくに豹変していた。なら、先の青年もそうだったのかもしれない。そう叫ぶエンザに、今度はエーエルが答えた。だったのかもしれない、ではなく、ほぼ確実にそうだったのだろう、と。
 エンザが今度はエーエルの方を振り向くと、エーエルは瞳を閉じ、使い魔を通じて、青年がやって来た方角にあった、滅びた集落の様子を探っているところだった。そして、エーエルは、1つの家を中心に破壊が広がっていること、またその中に、青年と家族の写真があったことを見つけていたのだ。
 そんな、村の中に住む一介の住人に過ぎなかった彼の心理面についてはともかく、すくなくとも、その力は常軌を逸していた。ということは、何かしらの関与により豹変したと思うのは的外れな予測ではないだろう。
 そう分析するエーエルの言葉を聞き、エンザは絶望を感じずにはいられない。
 それまで普通に過ごしていた人が、急に暴れ出し、他者を殺傷してしまう。
 それはまさに、邪神の祝福だと、いっていいだろうから。
 しかし、そんなエンザに、エーエルは配慮をしようとすることはなく、続けて悲劇的な推測……おそらくは、事実を述べていく。
 邪神の祝福はヴァーナにのみ与えられる、そして光る瞳という、身体的特徴がある。これにより、世界は邪神の祝福を受けた者の特定を行ってきている。
 だが、このケース……少なくともファシーと青年、両者が同一の原因により凶暴化したとするなら、少なくともヒューリンとネヴァーフの種族を隔てることはなく、現状で察することのできるような共通の特徴もない。
 さらに、後に死亡した青年の力と、その後に出てきた塊が、ファシーの時以上に強力であったことを考えれば、それに侵された、あるいは選ばれたものの死亡が、「次」の力を増幅させる要因となっていることすら想像できるのだ。ゆえに、これは邪神の祝福では、ない。
 場所も、種族も、身体的特徴も関係なく。そして、一部が滅ぼされれば一部の暴走をさらに促す。
 もし今日のこの現象が、本当にそういうものだとするなら。それは、邪神の復活のため、人類の中にその要素を持つ呪いを残した妖魔による、邪神の祝福とは、目的も異なり。
 その増殖自体が、いずれ人類の致命傷となることすら可能になるように作られている、いわば人類への毒であると。エーエルは、そう予測したのだ。
 そう、エーエルはそう予測している。すなわち、あの塊が消えたことが、この現象の終わりではないと考えていたのだ。
 なぜなら、その塊は、行き場をなくして霧散したのではなく、まるで蓄えた力を逃さず取り込まれたかのように、突如消え失せたのだから。……それが次回の「発症」につながるのかどうかはともかく、何かの姦計ために蓄えられたのであろうことは、想像に難くはない。
 そこまで聞いて、エンザは絶望と怒りを振り払いきれぬままに、地面に拳を突き立てた。
 邪神の祝福は、ようやく解決の光が見えたというのに。
 なぜ今この時、そのような懸念が、新たに生まれたのだ。
 ……それはエンザにとって、強い、あまりにも強い憤りであり、悲しみである。
 だが、それに理解を示し、彼を支えようとするものはこの場にはおらず……あろうことかハルファスはそこで、先ほどのような相手がまた現れるかもしれないなら、今度はもっと強力になっていてくれれば潰しがいがあると、この現象が再発することを望むかのようなことを口走った。
 そんなハルファスに、エンザは今度こそ激昂した。……だが、ハルファスは全く動じず、悪びれない。
 ハルファスは言う。自身にとっては、邪神の祝福がどうこうというエンザの目的など、手を貸す義理もないことであった。しかし、それでもあえて、そのことを表に出し、決別することは避けてきてやったのであり、気遣いであったといっていいと。
 そしてそのかいあって、エンザは邪神の祝福を救うための大きな希望は、すでに手にしている。……ならば、そのことだけを考えていればいいのだ。
 自分の家族と人生に大きな悲しみを遺した邪神の祝福と戦うために人生を使った男が、こんな、自身にかかわりもなかった、全く正体も謎のことに怒り、気にかけてどうするというのだ。ましてや、そのための力もないというのに。
 ハルファスはそうやって、エンザの非力さ、そして非力さ相応の生き方についてを投げかける。
 しかし、エンザはそのハルファスの言葉を、確かに否定する。
 そう。確かに、エンザがしてきたのは邪神の祝福を受けた人を救うための旅であったし、その原動力となったのは、兄の事ではあった。
 だが、その中でエンザ自身が得た意思とは、「生きるための努力が許されない人がいる」ということを、許せないと思えるという事だった。
 確かに、この現象の正体は分からない。どんな力を持っているのか、そしてどう相対するべきなのかも、なにも。
 しかし、その存在が、人の人生を。
 当たり前にその人の中にあったはずであるものを奪い、踏みにじり、ましてやそれ以外の人々にも悲しみと破壊を与えるというのなら。
 それを受け止め、看過することなどできようはずがない。……邪神の祝福と、同じように。
 エンザは強く、ハルファスに対して正面から、そう宣言したのだ。
 ……そしてそれを受けたハルファスは……憤りではなく、冷めた表情をエンザへ向けていた。そして、エンザへ背を向けて、言う。そろそろ、潮時だろうと思ってはいたのだと。
 それがハルファスからの別れの態度であることを、エンザは感付いていた。そしてエンザから向けられる視線が、怒りや憤りだけでなく、むしろエンザの主張により互いの関係が崩れたことの謝罪であるかのように感じられたハルファスは、そんなエンザの心を切り捨てるように、自分は元々、バウラスやエーエルに興味はあっても、エンザに対しては何も共感したり、気にかけるようなことはなかったのだと言い放つ。
 ……飯を選ぶセンスはまあ悪くはなかった。それだけの関係だったが、あとは雑魚らしく、手に負えないことに翻弄されてのたれ死ぬといい。
 ハルファスはエンザへ最後にそう言い残し、身をひるがえして山の中へと消えていく。……それを、バウラスもエーエルも、追うことはしなかった。
 完全に視界から消えたハルファスの影より視線を戻すと、バウラスはエーエルに、先ほど青年から出てきた塊を記録したという事を確認すると、同時に、その調査を依頼した。この現象が何によって引き起こされたことなのか、それを知るために。
 そしてそれに、エーエルは頷いた。この現象が人にどのような影響を与えようと、それ自体はエーエルが関与するつもりはない。だが、全くの未知を追及していくことは、エーエルの個人的な欲求と合致している。
 そしてその研究の手助けをするというのならば、そこから得られた情報はバウラスに伝えてもいい。それがエーエルの考えであった。
 しかし、二人のその話に、エンザもまた名乗りをあげる。……そんなエンザを、エーエルは冷たい視線で見返した。ハルファスの言っていたことは、自分からエンザに対しても、同じであると。
 エンザが何故今怒り、立ち向かおうとするのか。その理由が察せないわけではないが、やはりエンザは弱い。そして、邪神の祝福のこととて、今までより確かな指針は見つかったとはいえ、まだ解決を見たというのには程遠い。まだ、やるべきことはいくらでもあるのだ。
 身の程を知るならば、エンザの取るべき道は、今日このことを忘れ、再び邪神の祝福の対策に自身のすべてをかけることしかない、エーエルはそう確信している。
 だが、エンザはそれでも、それに頷くことはできない。
 エンザは、自分自身がバウラス、ハルファス、エーエルには及びもつかない、弱い存在であることを認めたとしても。
 自分で願った、「人が生きようとする努力が、許されないということはあってはいけない」ということに背くことは、決してできない。それが、自身の人生そのものだからだ。
 だから、エンザは必ず、この件の調査に協力すること……そしてそれを、邪神の祝福対策と共に進めることを、誓った。
 自身の生きる道のため、自身がそうであるため。あまりにも理不尽な犠牲となった体を腕に抱きつつ、頭を下げるエンザ。そしてエーエルは……少しの沈黙の後、ため息を一つついて、言った。
 ……例え、それがバウラスやハルファス、あるいは自分による協力や幸運があったがゆえのことだとしても……エンザは、かつてエーエルが無謀としていたことに、一定の結果はだした。
 自身の認識を改めさせたという事を評価することとし、その願いを認める。エーエルはそういった。エンザが、この件にかかわり、共に調査研究をすることを許したのだ。
 そんなエーエルへ、エンザは感謝の言葉を伝えたが、エーエルはなぜか不機嫌そうにしつつ、大変なのは、結局エンザ自身に他ならないのだからと言う。そしてバウラスは、そんなエンザとエーエルのやり取りに一切口を挟むことなく、ただそれを眺めていた。
 こうして、この三人は、「人類への毒」に対しての研究を始めることとなったのだ。


 ……それからさらに、10年ほどの時がたつ。邪神の祝福については、エンザは対抗策を見つけ出し……それゆえにというべきなのか、あのヴェンガルド峡谷での事件(第十一話冒頭部分参照)も引き起こされてしまったあとのことだった。
 あれから、エーエルは心の魔についての研究を進め、多くのことが分かり始めていた。
 ……「心の魔」。そう、それがあの現象……あるいはその存在に対して、エーエル達がつけた名前である。
 エーエルはその存在を研究し続けてはいたが、それを世界に対して公にするようなことはしていなかった。……もっとも、何もかもが不明瞭な存在である上、それを追い求められるのもエーエルのみという現状、悪戯にことを大きくし、人の世界へパニックを煽るのはエンザ、バウラス共に望まなかったからでもあるが。
 ……そして、だからエンザは定期的にエーエルの元を訪れていた。……それはバウラスも同様のはずだったが……バウラスはあのヴェンガルド峡谷の一件以降行方をくらましており、少なくともエンザがあれから、バウラスとであったことはない。
 だからその日、エーエルが自身の研究成果を伝達するのはエンザ一人であった。

 ……エーエルが「当時」の事件にかかわるものの記憶を抜き出しつつ、「心の魔」についての情報を探し回り続けた結果……最初の「心の魔」の浸食は今より40年ほど前。たった一人の人間に対して行われており、その人間はあの時の者達同様、急に正気を失ったうえで破壊を行い、最終的に当時の冒険者たちに退治されていた。そしてその時にも、エンザ達が見たのと同様、何らかの力が空間に溶けるかのように消えていくのは確認されていたものの、それが何であるかを確かめようもなく、その後その者達が現役の内にそれへ関わるような出来事も全く起こらなかったため、完全に歴史より忘却された事件となっていた。
 だが、おそらくはその時「心の魔」が蓄えたのであろう力で、次なる「侵食者」を3人にと増やしており、そのうちの二人が、エンザ達が出会った二人であったということのようである。……そう、あの時代に心の魔に侵されていた人間は、実はもう一人いたのだ。そして重要なのは、その者は、正体不明の魔族にかどわかされ、心を闇に落とした結果、神殿によって討伐され死を迎えていたということである。
 たった一人の、社会的地位が高いわけでも特別な力を持つわけでもない人間を堕落させ、しかもそれを利用しようとするでもなく、堕落後はただ放置した。
 いかに魔族が人間の堕落を望むとはいえ、この行動は理に適っているとは言えない。……だが、その魔族に目的があったとするのなら、それは「心の魔」による人類への浸食をアシストすることであったとも推測できる。
 すなわち、侵食対象者の心の中に巣食うが、その侵食を完了するまで直接的な影響を与えることのできない心の魔の代わりに、その侵食の侵攻を早めようとする存在が、この世にいる可能性がある。
 ……つまり、「奴ら」の計画は、確かに始まっているのだ。
 心の魔が人間に浸食し、それを補助する何者かもいる。そして浸食に成功すれば、今度は以前より多くの人数を侵食する。しかも、侵食者が複数いるのであれば、浸食が完了したそのうち1人が命を落とした場合、他のまだ侵食が完全ではない者達の浸食を早めてしまうのだ。
 当然ながら、おそらく「今」心の魔が侵食の対象として潜んでいる人数は、前の3人よりも増えていることだろう。……その増加のサイクルを、これからもずっと続けていく。そして当然ながら……その侵食される人数が多くなればなるほど……人間に打つ手はなくなっていくのである。
 ……そんなエーエルの見解を聞き、エンザは今日もまた、苦しみと怒りをその顔に浮かべざるをえなかった。
 しかし悩みつつも、そこでエンザは、エーエルに一つ、聞きたいことがあるのだと切り出す。……それは、バウラスの動向だ。
 このところ出会うことはできていないとはいえ、バウラスとて、心の魔の問題は看過できないことであり、そしてそれについてを知るためにはエーエルを訪れるしかない。ゆえに、エンザはバウラスについてをエーエルに聞いたのだったが……エーエルから帰ってきた答えは、「心の魔について、バウラスはエンザと考えを決別させた」というものだった。
 それを聞いて、エンザはそんな馬鹿な、と考えた。
 確かに、バウラスの考え方と信念はエンザにとってもあまりに触れがたいものであり、その結果が先のヴェンガルド峡谷の惨劇につながっているともいえる。
 だが、それでも……いやむしろ、そうだからこそ、心の魔をなんとかして対策せねばならないと考えている自分の意志と、バウラスの意志が違っているなどとは、エンザには信じられなかったのだ。……バウラスは絶対に、世界の脅威となる要素を看過しないはずだから。
 だが、それに答えたエーエルの言葉には、さらに驚かされることになる。……心の魔に対して、ある解決策が見つかった、というのだ。
 解決策。今の今まで、まさにそれを求めて奔走し、苦悩していた。
 それをまるで、意図的に話さずにいたといわんばかりのエーエルの態度にエンザは困惑するも、すぐにその説明を求める。……対するエーエルは、これは、エンザが聞きたがるとは思えない内容だと前置きをしながら、面倒そうに、語り始めた。

 ……心の魔は、世代を経るごとに、その侵食者を増やすことで、やがて人類を滅ぼそうとしている。
 しかし、侵食者を増やすことも、無条件ではないはずだ。そうでなければ、最初にわざわざ一人だけを狙ったりはしない。……つまり、心の魔が侵食者を増やすことにも、なんらかの力が必要となるはずであり……それを得ていたのが、エンザ達も見た「力」がその場から消え去るような現象であった可能性が高い。
 だが、それだけの「力」は、侵食者にもともと与えられているというよりは……心の魔による浸食の完了をキーにして、初めて強大な力となって覚醒し、初めて成立するという性質を持っている可能性が高い。なぜなら、あのファシーにしても、バウラスやエーエルという存在ですら、そのうちに眠る心の魔の力を、感じ取ることすらできなかったから。
 ……ということは、ある疑問がある。

「もし、侵食者が心の魔による『力の覚醒』を迎えぬままに命を落としたら、どうなるのか?」
 それに対するエーエルの推論は、こうだ。
「おそらくはその場合、心の魔はそれ以上の力を取り込むことに失敗する。そして、あの時の現象を見る限り、一方の侵食者の死亡による、他の侵食者の覚醒を引き起こすということも、覚醒した力を利用した現象であるはずだ」
 と。
 もし、その世代で侵食しようとしていた相手が全て死亡した場合は、それでも心の魔はまた次の浸食相手を見つけるだろう。だが、そもそもその浸食の完了には、すくなくとも今までのケースでは、すべて20年以上というほどの長い時間が必要となっている。ならば。
「約20年に一度ほど、心の魔の侵食先として選ばれて生まれるであろう数人を、その浸食の完了前に全て滅ぼし続けることができれば。その間は心の魔の脅威を抑えることができる」
 その可能性はある。……あまつさえ、それを完璧になすなら、いずれは心の魔の力が失われるかもしれない、ということすら。

 ……この手法には、一つの問題がある。それは、浸食が完了する前に、心の魔によって浸食されている人物を探し出す手段がない、ということだ。
 だが、この10年の研究機関で、エーエルはこの世界でただ一人、心の魔の残滓を追うことができうる存在となっている。ならば、あとは時間の問題。自身がいずれ、心の魔に侵された人間を特定できるようになるということをエーエルは確信していた。
 そして、その侵食者たちを見つけることができたら。
 ……そこで、エンザは気が付いた。エーエルが発した、「バウラスはエンザと決別した考えをもった」ということの意味を。
 ……そう、もしそれができたら。
 その時は、滅ぼすのだ。バウラスが、その人間たちを。
 そう気づいて愕然とした表情を浮かべるエンザへ、エーエルは冷たく無感情な瞳を向けつつ、語る。
 別にバウラスのその意志に、自分が賛同したわけではない。だが、世界にとって最も効率的なことを探せと言うのならその方法であると、エーエルも考えている。
 20年ほどの年月の間で、たったの数人、あるいは多いとしても数十人。それが命を落とせば、少なくともその間はそれで済む。
 もちろん、あくまで相手の存在は未知の領域である以上、この推論が100%確かだとは言えない。しかし、この世界でただ一人、心の魔についてを研究しているエーエルにとって、これは自信のある理論であったし、そもそも間違っていたとしても、それはそれで、今以上の時間と「材料」が必要になるということだ。
 すくなくとも現時点において、犠牲者が犠牲者としての運命を逃れられないことがわかっているのならば、その命を無駄に永らえさせる意味はない。それが何度も続くとしても……当然ながら、それによって死亡する人数は、世界に日々増える人数よりも遥かに少ない。そしてその死が材料となり猶予となり、さらなる心の魔への対策を生むためのものになるのなら……その考えに、バウラスは同意したのだ。
 そして当然……エンザは、その考えを肯定しない。それが、エーエルの語った、二人の意見が決別されたという意味だ。
 エンザは叫ぶ。他に方法はあるはずだ、と。例えば、この現象に「心の魔」といういわば本体が存在するというのなら、それを打ち倒せばいいのではないか。
 だが、そういった手段についても、エーエルはすでに研究しており……不可能だとしていた。なぜなら、「心の魔」はこの世界とのつながりを持たず存在しているからだ。人間がこの世に生まれるという、曖昧な世界の隙間をついて浸食を開始し、それ以降はそれら侵食者の心以外とのつながりはすべて遮断する。ゆえに、心の魔の本体にたどり着くための経路が存在しないのだ。それは、エーエルやバウラスさえもである。
 ……そう。侵食者の心以外に、心の魔とつながっているものは存在しない。
 だが、エンザはそこで考えた。ならば、侵食者自身は、心の魔へとつながる道に踏み込むことができるのだろうか、と。
 そしてそれに答えるエーエルの答えは……なんと、イエスである。その可能性は高い、と答えたのだ。
 その存在を外部者が滅ぼすことができないのは、心の魔もまた、侵食者以外への直接的な力の行使や介入を断念し、互いに遮断された空間に存在しているからこそ。常に心の魔がその力で影響を及ぼそうとしている、侵食者自身にはその理屈は当てはまらない。
 他人の心の中に入っていくことはできない。しかし、自分自身の心の中になら、存在を精神体へと変換することを条件にして入っていくこともできるはずだ、とエーエルは考えていた。そこに、エンザは希望を見出そうとする。
 ……すなわち、心の魔に侵食されている当の本人たちが、心の魔を討ち果たす、という可能性である。
 しかし、それに対してのエーエルの答えは、少しの間を空けたあと、ノーに切り替わった。
 ここまで周到に防衛策を講じている存在が、そうした侵食者からの逆襲を想定していないものだろうか?
 まず前提として、心の魔はその者が生まれたその瞬間から、ずっとその心の中に潜んでいるはずなのだ。すなわち、心の魔は、侵食する対象のことを、全て知り尽くしているのである。それにより、何らかの対策をすでに講じている可能性は高く……何より。
 浸食者達が心の魔と実際に対峙することができたとして……そこは、心の魔が本来持つ力を存分に発揮できる空間のはずであり、もしその中で侵食者たちが敗北を喫せば、その瞬間、それらすべての浸食が完了するのではないのか。
 それが、エーエルに首を横に振らせた理由だった。挑むことはできたとしても、それに打ち勝てる見込みは、限りなく低いと。
 そしてそう聞いたエンザの顔にも、悲痛さが浮かべられる。だが、それでもエンザは、そこでエーエルの示した道に頷くことはできない。
 必死に考える。「心の魔」に、打ち勝つ方法を。
 確かに、心の魔は、侵食者たちのことを全て知り尽くしているはずだ。
 ならば、ことはその侵食者たちに力があればいい、と言うような単純なことではない。それを、どう助けるか。
 ……そう思いを巡らせたとき、エンザの頭の中に、ひとつの考えが浮かぶ。そして、エンザは再度、エーエルに自身の考えを投げかけた。
 心の魔は、外部の人間にはそれと接触する術を持たないことで安全を計り、侵食者たちには、そのすべてを知り、取り込むことで防御している。
 ……だとするなら、それは当然、「外部の人間に逆襲されてはいけない」からこそ、そういった手段を選択しているはずだ。
 それについては、エーエルも同意する。そして、エンザは続けて語る。
 先ほど、エーエルは、他人の心の中に入ることはできない、と語った。しかし、本当にそうだろうか?と。
 エーエルは少し顔をしかめたが、それに対しては、厳密には、できないわけではない、と答える。
 あくまで他者であるが故、侵食された当人たちのように直接穴を通過し、たどり着くことはできないだろうが……精神体であれば、その当人たちに取り込まれる形で、同行することは可能かもしれない。
 それを聞いて、エンザは自身の答えに確信を深めた。
 すなわち、侵食された者達以外の、他者がそれらの人々に、精神体となって力を貸すことができたら。心の魔を打ち破りうるのではないか、と。
 だが、それを聞いたエーエルの顔はさらに歪む。そして、彼女は不可能だ、という見解を返した。
 確かに、精神体は実態を持たない故、他の精神体の一部、あるいはすべてを取り込むことで、さらなる力をつけるという事例はあるが、それは全てがそうと言うわけではない。
 そして、その目論見は上手くいったとしても……互いに他者同志である心と心が、一方にその全てを預け、均衡を保つというのは簡単なことではない。自身の心を預けることに、わずかにでも疑いを持てば……それはたちまち霧散するだろう。もし敗北すれば……いや、最悪戦っている最中にでも、そのまま邪悪に飲み込まれるかもしれないような心に、他者がそこまで、心の底から託すことができるものだろうか?
 エーエルは、それほどのことは、親兄弟ですらできないのではないか、と考えている。しかし、エンザにとっては、違う。

 できるかも、しれない。
 もし、次に心の魔が選んだ人々が……強く、揺るぎない心を持つ人に育ってくれて。
 自分の行動と、信念で誰かを救うことができ……その結果、誰かからの信頼を得ることのできる、そういう人たちだったら。
 そして、その人々の傍にいる、周りの人々が……信頼している人が奪われることを、人の生死が、そのような理不尽で決定されてしまうことを、許せないと考えてくれる人達であったなら。
 できる。それは、可能性かもしれないが。
 人は人を、信頼できる。
 その希望は、あるはずだ。そして、その実現のため、エンザにできることも、また。

 そう宣言したエンザへ、エーエルは懐疑のまなざしをむけつつ、そのための環境や、そういった心を、エンザが作ろうとするということなのかと聞き、エンザはそれに、はっきりと頷いた。そしてその瞬間、エーエルの雰囲気が、厳しいものに変わり、その能天気に、ほとほとあきれ果てると吐き捨てた。怒っているのだ。エンザの、その意見に。
 希望。そういえば聞こえはいい。だが、この「希望」は、エンザが邪神の祝福解決のために見つめていたものとは性質が異なると、エーエルは語った。
 邪神の祝福の時は単に、エンザのしたことが、何の意味もなさないかもしれない可能性が高い、というだけだった。その希望にすがることで、損失を与えられる存在はほぼいなかったことだ。しかし、この心の魔については違う。その希望を選択すれば、エンザ自身だけでなく、他のものまでが大きな損失をこうむりかねないのだ。なぜなら、その希望は、失敗すれば更なる悲劇を生むものだから。
 エーエルにとっては、それで何万人が死を迎えようとも、例えこの世界が終ろうとも知ったことではない。だが、エンザがさも、それが全てのためであり、本当に選ぶべき道なのだというような態度で、そのような「希望」に進む愚かさは、エーエルにとって罵倒しなければ気が済まないものなのだ。……何も理解していないくせに、自分の私情が当然という顔をするから。
 そのエーエルの怒りを、エンザは否定できなかった。しかし、それは自分の言葉と心を、曲げることは意味しない。
 例え誰に何を言われても……エンザは決して、人生を生きる努力が認められない、そんな人々が存在しなければいけないなどということに、納得しない。
 だから、自分がするべきことは、そのような人々へ、「道」を用意してあげることだ。
 その人たち自身が、生きていこうとする努力を、するための道筋を。
 それはとてもか細いものかもしれない。
 それはとても頼りないものかもしれない。
 ……だとしても、それを自分が、自分の全力で用意する意味はあるはず。なぜなら。
 それが存在することで、自身に用意された全てが絶望なんかではないと、思ってもらえるかもしれないからだ。
 だから、エンザはそうすることを、確かに決めた。
 それは、エンザが自身の心から導き出した、確かな答えだ。
 しかし……その答えの中には、もう一つ、エンザにとって気にかかる要素も含まれていた。……それは、バウラスについてのことだ。
 その中に、なぜエンザがバウラスを案じることがあるのか、エーエルはそれを不可解に感じ、エンザはその理由を答えていく。

 確かに、その状況下において、バウラスはその侵食を受けた人びとを救おうとすることより、その被害が広まる前に命を奪い、被害を抑えることを選択するのだろう。
 だが、それはバウラスにとって、自身の使命がそう結論付けるから、そうした決断をせざるを得ないことなのだ。本当は、そんなことをしたくないと、バウラスは考えているはずなのに。
 エンザはそう語る。だが、エーエルにとってはそれは大きな疑問符が付く見解だ。
 バウラスが、心の魔に侵された人々を、滅ぼしたくないと考えているなど、そんなことがあるだろうか?
 いつだって、世界に害をなすと判断したものを、眉一つ動かさずに抹殺するあの男が。
 実際、バウラスは侵食者たちを一旦すべて滅ぼすというエーエルの導き出した手段を聞いても、まるで動じることはなかったし、そんなやつだからこそ、エンザもまさに目の当たりにした、ヴェンガルド峡谷での虐殺も引き起こしたのではないか。……エーエルにはそう思えてならなかったが、エンザはそれでも、バウラスという男が決してそれだけの存在ではなかったと主張する。
 ……エンザが……いや、誰かがバウラスに対して、なぜそのような生き方をするのか、と聞いたとき。
 バウラスはきまって、それが自身の使命によるものだから、と答える。
 使命があるからこそ、自身は生きている。考えることも戦うことも、全てはその使命によるもの。だから、使命が滅ぼすべきだと命ずるのなら、それをためらう理由などあり得ない。
 それがバウラスの言葉だ……しかし、今やエンザは、その言葉に疑問を感じている。
 ……その人生、全てが使命だというのであれば。
 なぜ、バウラスはその人生の中で、エンザのような人間に、手を貸してきてくれたのか。
 エンザがかつてバウラスに助力を願った時、バウラスはそれを受けてくれた。だが、それが本当に、バウラスの使命にとってすべきことだったのだろうか?
 エンザがやろうとしていた、邪神の祝福に対抗する手段を探すことは、成功する可能性は低く、また成功しても最大で百名にも満たないかもしれない人数を救う程度の事……そうみられてもおかしくないことだったはず。
 いや、そもそも。いくらそのほぼすべてが監視下にあり、暴走の危険があればすぐに対応できるという前提があったからとはいえ、バウラスが本当に、世界のためには個人の死が重なろうとかまわないと考えていたとするなら、それこそ、生まれた先から、邪神の祝福を受けた全ての者を滅ぼそうとすることすら考えられた。
 だが、現実として、バウラスはそうしなかった。次元回廊の事のように、時折他に優先するべき事項を見定めることはあったものの、エンザの思想を軽んじて扱うようなこともなく、ただその力を貸してくれた。そして、もう一点。
 バウラスは、親に否定されて生まれた家を去り、人に否定されて騎士団を去り、神に否定されてアヴァロンを去ったという。
 だが、なぜそもそもそうしなければいけなかったのか?使命に沿って生きているから、他の誰に何を思われても意に介さないというのならば、そうした意見すら力でねじ伏せ、留まることだってできたはずだ。
 そして、その果てに、今は道を違えてしまったとしても、バウラスはエンザの傍に長くいてくれた。それはなぜだったのだ?そう、それは。
 ……まるでバウラスが、自分が近くにいることをよく思わない存在へ配慮して、自ら去ることを選択していたかのようではないだろうか。
 バウラスは実は、他者のことをよく見ている。その者に対して何が必要なのかも考えているし、どういう状況にあるのかも思いやっている。
 しかし、それを口に出すことはしない。なぜなら、バウラスは、「使命」によって決断された相手なら、どのように思っている相手であったとしても、滅ぼす必要がある生き方をしているから。その前提がある限り、バウラスの思いやりとは、常にそれを自分から裏切る危険性があるものなのだ。
 ……そこまでをエンザから聞き、エーエルはつまり、と口を挟む。
 エンザは、バウラスが語り、殉ずるとしている「使命」は、その実、バウラス本人の意志とは一致していない可能性を考えている。
 意志も願いも、全て使命の中に存在するというバウラスの言葉と裏腹に……確かに、バウラス自身の意志というものがありながらも、使命がそれを、全て封殺してしまうのだと。
 そのエーエルの見解に、エンザは強くうなずく。この十数年。バウラスと仲間であり続けた日々が、ようやくエンザにその考えを持たせてくれた。そして、だとするのなら。
 ……バウラスもまた、自分の意思で生きていくということを、否定されながら生き続けることを強いられている。
 本当は、優しくなりたいのかもしれない。
 本当は、人からの愛を欲しているのかもしれない。
 本当は、その力を自分の意思で用いたいのかもしれない。
 だけど、それはバウラスにはできないことなのだ。絶対的な力と引き換えに、バウラスは、その人生を「使命」に奪われてしまった。おそらくは、そのことに、自身が気づくという事すらも。
 だから、バウラスは決して、助けや救いを求めることができない。例え本当は行いたくはないようなことでも、慈悲の要素なく実行せざるを得ない。それはつまり、誰もバウラスを救うことができないことを意味しているのだ。
 ただひたすらに他者へ対して威圧を与え、時には力をふるい……ましてや、その苦悩や悲しみを表すことすらしない。そんな存在は、その力を持って王にでもならない限り、この世界でつまはじきにされて当然であるといえる。
 しかし、エンザにとってはそうではない。エンザは、バウラスに救われているのだから。そして、今のエンザにとって、バウラスもまた、自身の意思を持って生きるという事を否定されている存在に思えているから。
 だから、エンザは、バウラスもいずれ、救わなければならないのだと、決意をしていた。しかし、その決意に対して向けられたのは、虚勢を張るのはやめろ。というエーエルの言葉だ。
 エンザにとってそれが、できるはずのないことであることを、エンザ自身が理解しているはずであろうと、エーエルは断じた。そしてエンザは……そこで、言葉を継げなかった。それは、エーエルの指摘が真実であったことの証左となる。
 ……もし、エンザの語った先の見解が真実で、本当は使命によって決められた行動を行いたくないと、バウラスが考えていたのだとしても。
 結局、実際の行動が使命によって引き起こされるのであれば、どんな存在であれ、その使命の妨げになると判断されたが最後、次の瞬間には滅ぼされるであろう。それが、バウラスという存在に他の何者かが寄り添い続けることのできない最大の理由なのだ。バウラスは人を守ることは保証しないが、誰かを滅ぼすと決めたのなら、それだけは必ず行うのだから。
 そんなバウラスの傍にいながらも、エンザはなんとか今こうして生き残りはした。だが、それ以上バウラスの内面に踏み込み、干渉するというのであれば、今度こそ、自身の使命を阻むものとしてみなされる可能性はあるだろう。それに、今エンザは、心の魔の対処について、バウラスと意見を違えているのだ。その意見をエンザが変えない限り、少なくとも、これから共に歩み続けることはできないという意味である。
 そう、エンザはそこで、バウラスのためにその意志を違えることはできない。むしろ、心の魔の問題において、エンザは証明しなければいけないとすら考えている。
 あの、ヴェンガルド峡谷でのようなことは、この世界になくてもいいはずのことだと。
 良い可能性と悪い可能性。その二つが存在するのなら、良い可能性を信じ、そのために行動し、結果実らせることができる。そうしたことが、人にはできるはずだと。
 ……だが、それを聞くエーエルの表情は、変わらず冷たいままだ。そして、エーエルは冷酷に告げる。

 ならば、エンザ・ノヅキはいずれ、その命を奪われるだろう。
 エンザが救いたいと願っていた当の本人、バウラス・ジーク・スヴァルエルトの手によって……

 その宣告に対し……エンザは頷いた。認めたのだ。
 エンザは理解していた。神の武具とまで評された、圧倒的な力を持つ存在の内面にまで踏み込もうというのだ。その矛先がもし自身に向けられれば……なすすべもなく、自分は滅びるだろう。
 そのことが怖くないとはいえない。エンザ自身の願いが、全て露と消えて滅ぼされるかもしれないのだから。だけど……それでもエンザは、バウラスが救いを受ける余地のある存在であることの可能性から、目をそらしたくない。
 だから……エンザはこれから自分の行う行動を、バウラスに対する指標にしようとも考えたのだと、エーエルに言った。
 ……これからエンザは、心の魔に侵食される人々が、自身の人生を進んでいくことのできる可能性を用意するための活動をする。そしてそのことは……バウラスもおそらく知るだろう。
 エンザの目指すものとは、つまり、心の魔による侵食者たちが、自身の未来を信じ、そのために戦うことを選択する道のことだ。……しかし、そうした意思や希望を侵食者たちが持つことは、それをやがて滅ぼすことをすでに選択したバウラスにとっては、邪魔になることだと判断をするかもしれない。……だとすれば、バウラスはエンザを殺しに来るだろう。
 だが……もし、バウラスがそうしないなら。
 エンザの行動が、バウラスの選んだ道よりも、全てに良い結果をもたらすことができるかもしれないものであることを……少しでも認めてくれているというのなら。エンザにとって、それはバウラス自身の「心」が、そうさせたのだと信じられることなのだ。
 世界という大局で見れば、あまりにちっぽけであるはずのエンザのことを、バウラスの「使命」がそのように認めたからではなく。
 エンザという人間の願いの価値を少なからず知る、バウラスの「心」が、使命にとってわずかに不利益となるかもしれないことを、押し切ってくれたのだと。そう、邪神の祝福に対して、エンザが助力を求めた時のように、だ。
 ……それは、ともすればエンザの願いについてでの配慮ではなく、あくまで浸食の完了前に息の根をとめればいいのだから、それまでに何をしようと関係ないと、バウラスが判断してしまう可能性も、エンザは考えてはいる。
 だが、その疑問をぶつけても答えない相手のことを思いやっている以上、エンザは、ただ信じるのみだ。エンザが、バウラスに対して感じていることを。
 それが、心の魔についての事だけでなく、バウラスの中の何かを動かす可能性となるのならば、そのために命をかける覚悟だってできる。
 それが、自分の救いたいと思った、全てを救うための道であり、自分の人生の中で、常に掲げる願いであるから。
 それを自分で、確かに迷いなく決断できるからだ。
 ……エンザの決意をすべて聞き遂げたエーエルは、不機嫌さを隠そうとしていない。
 エーエルはそんなエンザを最後まで愚かと断じたが、死の覚悟をしているというのであれば、もはや語ることすらないと視線を逸らす。
 ……しかし、それでもエンザはその願いを、意志を曲げない。
 例え、かつての仲間から見放されたとしてもであった。


 ……エンザは思う。
 こうして、記憶を改めて思い返していくと。自身の考えは、よく否定されてきたものだった。
 そして、そうやって否定する人々へ、その考えを改めてもらえるような、説得力のある答えを示せてきたわけでもなかった。だから、ハルファスも、エーエルも、……バウラスも、全員自分の元から離れてしまったのだろう。
 結局、自分がしてきたことと言うのは、自分自身で正しいと思えたことを、ただ偽らずにいる、それだけだった。
 ……だけど、今。
 同じく思い返せる、ことがある。

 ……カナンの街で、邪悪化を研究する魔術師、ク・ヴァルカンは言った。
 邪神の祝福に限らず、邪悪化というのは、人に課せられた試練というにはあまりに酷なものだ。
 誰もがそれを恐れ、怒り、対抗しようと試みるも……異世界からくる魔族のあまりに膨大な策略に対し、自分達が進めることができる成果は、あまりにも少ない。
 その無力に絶望し、逆に自ら魔族へと身を落としてしまった研究者ですら、少なくは、ない。
 だが、それでも自分達は、研究を続ける。
 この研究が、一人でも多くの人を救うことを願い……たとえどれほど巨大な相手にだろうと、人の未来を願う努力が尊く、無駄なものではないことを信じていたいから。
 あなたは、そう決めていた自分達の心の熱を、取り戻してくれる存在であった。
 そう、彼は感謝してくれた。

 ……エルクレストで、その代表を務めている、アルフレッド・ヨークは言った。

 話は分かった。これからこの世に、悲痛な宿命を背負って生まれてきてしまう若者たちが現れるということなのだろう、と。
 ……自身がこの街を……この街にあるエルクレスト・カレッジを誇ることができるのは、そこが若者へ向けられた、成長と交流の場としてふさわしく、優れた場所であることを、教員と生徒がそれを意識して作っていくことに成功していると思っているからである。
 若者は様々なことを学ぶ権利がある。そしてそれは、いつか自身の人生に選択を行う時、己が真に選ぶべきだった道を誤らずにすむことを努力するための権利なのだ。
 ……それを許されない人生が強いられるなど、あってはならないはずだと、考えている。
 だから、この話を、よく自分のところへ持ってきてくれた。
 あなたさえよければ、自分はあなたと志を同じくする友となり、エルクレスト・カレッジがその若者たちの成長の交流の場として最もふさわしき場所になるよう、できる限りの便宜を尽くす。
 そういって、彼は手を握ってくれた。

 ……かくしてやってきたエルクレスト・カレッジで出会ったプリフェクトの若者、アルゼオ・ヴェルダースは、ダバランをシャルリシア寮のプリフェクトとして迎える計画が、アルゼオから受け継いだブルギニオン寮のプリフェクトという責任を今鞍替えするわけにはいかないという、ダバラン自身の意志で潰えた時に、言った。

 ダバランの件は申し訳ない。しかし、自分は正直、嬉しくもある。
 ここに入学して以来、自身の望む自分と、現実の自分のギャップに苦しみ続けていたダバランが、今は、自身の能力を用いてこなす、プリフェクトという責務を、自ら続けていこうと思ってくれている。
 ダバランを後継者に選んだ自身にとって……ダバランが誰にそう思われるでもなく、自分からそう言ってくれたことは、自身の中にあった最後のわずらいを、吹き飛ばしてくれたかのような事であった。
 しかし、ラピスは留学が終わり次第としても、ダバランがいない以上、ジャックだけを先に移寮させるのは考えものかもしれない。彼はリーダーになれないというわけではないだろうが、表立って人望を集めていくようなタイプでもないないだろうから。となれば、いっそ先に入学試験を行う方がいいのではないか。
 ……そう、あとは、入学試験で現れるというその新たな4人が、人の信頼を得るにふさわしい者であることを、あるいはそう育っていけることを、願うだけ。
 もし、自分達のこの心配が、杞憂に終わるほどの人材がこの学園に揃うのだとしたら。
 あなたが選択し、彼らに託すという未来は、ほかのどんな可能性より素晴らしいものになるはず。
 自分はすでに、それを信じている。
 あなたはそうあるべきことを、そのようにするための努力をしているのだから。
 そういって、彼は信頼を寄せてくれた。


 ……そう、そんな自分を、認めてくれた人たちがいたことだ。
 そのために力を、声を、心を、預けてくれた人たちがいた。それは……バウラス達も含めてだ。
 言葉や現実が自分を否定し、悩ませるたびに、自分は決意に、そうしたかけがえのないものを加えて、立ち上がってくることができた。
 自分はいつだって、立ち止まることはできた。あまつさえ、その道を捨てて、苦難や死を遠ざける道をいく事すらも。
 だけど、それでもなお、自分の行くべきだと思った道が何であるかを忘れないことができたし、その選択をし続けられた。そうやって生きてこれたことが、何よりも幸せなことだったと思えてならない。
 ……例えそのため自身の命が死を迎えるのだとしても……自分の人生は、自分のものだった。そうならければいけなかった理不尽な理由は感じていない。確かなことだ。
 だから、これを見てくれるのかもしれない、「お前たち」にも。
 お前たちが生きていく。その当たり前なことを否定してくる理不尽なものに、負けないでほしいと願う。
 負けそうになった時も、お前たちを支えてくれる人のことを思い出せば、きっとそれは力になる。そしてそのためのものを残すため、俺はお前たちを、エルクレスト・カレッジへ呼ぶ。
 どうか、信じて欲しい。
 お前たちが進んでいくことは、許されている。
 お前たちの人生は、お前たちが選んでくためにある。
 そしてその選択を望んでくれる人達が、そのそばにいることを。
 …
 ……
 ………………

 もう、声は聞こえない。何も、映らない。
 シャルリシア寮生達は、確かに、エンザが遺した全ての言葉を、聞き終えたのだ。



 シャルリシア寮生一同は、かくして記憶の世界より、エーエルのいるこの空間へと再度帰還した。
 それを確認したエーエルが、わかったのだろう、と言葉を投げかける。……シャルリシア寮生達に希望をつなぐと口にしたエンザ・ノヅキという男が、結局のところ、何の力もない愚か者であったことを。
 自分を殺すであろう存在すら救って見せると大きなことをのたまったあげく、それを果たせぬばかりか、シャルリシア寮生達に確かな道を残すこともできはしなかった。少なくとも心の魔……ティオルジュの問題において、エンザは結局何もできなかった男だったのだと、エーエルは糾弾する。
 ゆえに、今シャルリシア寮生達に残された道も、エンザが彼女たちに手渡したメダルも、全てできそこないである。それを頼りに進もうとしたところで、全てが崩れ去るのは必至。
 ならば、全てをあきらめるほかはない。それがシャルリシア寮生達の取る手段というもの……エーエルは、そう決定づけていた。
 そして、ラピスがその時、わかった、と頷いた。しかし、彼女が理解したのは。
 そう語るエーエルの言葉についてではなく……エンザ・ノヅキという男が、エーエル達よりも遥かに弱い力の持ち主で……しかし、決して現実に屈しなかった存在であるということについてだ。
 ここでどれだけエーエルがエンザを蔑もうと……ラピスは確信していた。その生き方にて、勝ったのはエンザの方だと。
 それが無難だから、できそうにもないから。そんな理由だけで、軽々と犠牲を強いる道を選択しようとした人々よりも、圧倒的に力で劣っていたにもかかわらず……はるかに価値のある道を、エンザは作り続けていたのだから。
 ……何の確証もないような道を、その命を懸けて歩まされてもいいのか。エーエルは、そう語ったラピスを睨むような視線と共にそう質問したが、それに対し、ラピスは、確証がある道しか選択できない者は、知を探求するものである資格すらない、と切り返し、ジャックもまたそれに同調し、自分達もまた、エーエルの意見に屈するつもりはないことを表す。エーエルはそこで、エンザの残した不確かな道を、迷いなく受け止めているシャルリシア寮生達の態度を見せられ、少し、その言葉をとどめた。
 そして、その数瞬の静寂を割って、次にはクレハが語りだした。
 エーエルは、あのエンザの記憶を見ることで、シャルリシア寮生達に諦めろ、ということを伝えるつもりであった。
 しかし、実際にはその逆だ。その記憶を見たからこそ、自分達は諦められない。
 ラピスもそんなクレハに頷きつつ、それに、とつづけた。
 あの記憶の中で、わかったことの一つ。本当は、自分達が何をすればいいのか、エーエルだって知っているのではないか。
 ……そう。その通りである。
 エーエルは、エンザが、そして今シャルリシア寮生達が望む未来のためにできることが、どのようなことであるか知っているし、おそらくはそのための手法も持っているのだ。
 そこでまた、少しの静寂がある……そしてエーエルは、言った。
 そうまでして、傲慢になりたいのかと。
 シャルリシア寮生達が死を迎えたところで……大局的に、世界は何も変わりはしない。
 それをちゃんと考えたのだろうか?自分たちが生きようとあがくことが、潔く死を迎えるよりもむしろ、多くの人を苦しめるだろうと。
 ……だが、それにはミルカが答えを返した。
 そう。自分達が、何かをしなければならないのだと。
 自分達の中に、やがて世界を滅ぼすかもしれないものがいて、たとえ不確かであろうと、それを根本的に対処するための手段を、今自分達しか持ちえないというのであれば。
 自分達はそれを、確かに行っていかなければいけない。その真実を知ったものとして。それは、自分の生き死にだけの問題では、決してないから。
 そのミルカの返答を聞き……エーエルの視線が、また少し鋭くなった。そしてエーエルは、改めて聞く。
 シャルリシア寮生達がこれから選択しようとすることが、このままシャルリシア寮生達が死を迎えることよりも、全てに対して良い結末を導いてくれるという事を、信じられるのかと、その決意を値踏みするように。……そう、この瞬間、エーエルはシャルリシア寮生の前で初めて、エンザが残し、シャルリシア寮生達が受け止めた「道」に、否定以外の態度を向けたのだ。
 そして、それに答えるシャルリシア寮生達の言葉は、信じられる、というものだ。そのことに一切の迷いはなかった。レシィは、失敗することを考えていない、と言い切り、そしてラピスは、続けて答える。
 ここに来る前に、チーフと口論をした。
 チーフは言った。自分が誰かを助けたいと思うように、その誰かもまた、自分のことを助けたいと思ってくれているもの。だから、それを忘れてはいけないのだと。
 しかし、ラピスはそれに納得はしない。ラピスは、あくまで自分の命にその価値を感じられないから。だから、自分の命のために、そのすべてをかけることはできそうにない。
 でも、それでも自分は、誰かのためならすべてをかけることができる。全力でその手を取りに行くことができる。
 ラピスは、そんな自分を肯定できる。なぜなら、生きるという事は、身勝手なことだから。……そうでなければ、人は人足り得ないのかも、しれない。
 そして、今ここにいるミルカ達シャルリシア寮生は、ラピスにとって、とても大きな価値のある人々なのだ。
 だから戦う。それが、多くの人を巻き込む危険性のある事だとしても。
 自身にとって価値があると信じられることを、偽らないために。そしてそれ成すことで、全てを救うこともできるはずだから。

 シャルリシア寮生は答えた。信じる、と。
 エンザが残した道を。シャルリシア寮生達を確かに信頼する者達の力を借りることで、心の魔に打ち勝つという希望を。
 それは、大きな被害につながりうる危険もあると知ったうえで……それでも、信じた。自分を、自分達を信じてくれる人達を。
 そして、そこでジャックが口にしたように、そのために自分達を集めてくれた、エンザのことを。
 そして、そこまで生にすがるというのなら、と口にしつつも、エーエルはついに頷いた。そう、そんなシャルリシア寮生達に力を貸し……彼女たちが、ティオルジュに対抗する手段を開くことををだ。
 その瞬間、ラピスが明るい笑顔を浮かべながら素直に感謝を示したため、わずかに調子を狂わされたりはしたものの、エーエルは、そのやり方を自分に任せること、そして、もしその結果が失敗に終わり、シャルリシア寮生、あるいはその周囲の人々が窮地に陥るとしても、それをエーエルは助けないことを明示する。しかし、それは一同にとっても異論はなく、むしろジャックが言ったように、逆に、その場でシャルリシア寮生達が行うどのような行動にも、文句や妨害は挟まないことを望むほどだった。そんな一同の考えを聞いたエーエルは、元よりそんなことをする気はない。なぜなら、何が起ころうと自分には関係ないはずの事だったのだから、と答えるのであったが、その言葉はなぜか、それを自分に言い聞かせているようにも思えた。……とそこで、ラピスがもう一つ、エーエルへ申し出をする。
 それは、自分達が首尾よく、心の魔、ティオルジュを打ち倒すことができたなら。
 その時は、心の中だけでもいい。エンザに、謝ってほしい、と。
 ……何を謝るのかも指示せず、それを誰かに示すことも求めない。そんなラピスの願いに、エーエルはそれでも、あの愚か者に謝ることなどない、と答え、頷かなかった。
 しかし、そう答えるエーエルの視線が、ラピスからわずかにそらされたことを、ラピスは確かに見ていた。そんなエーエルの仕草に、ラピスはほんの少し微笑を浮かべたあと、それ上の追及はしないのだった。
 そんなラピスを少し憎々しげに見つつも、エーエルはそこで、明日の朝エルクレスト・カレッジに向かう宣言をし。一同はそれまで自由時間を得ることになった。
 その間で、モルガンやクリテンに事の経緯を説明したり、そのままアヴァロンイチオシの土産品を買って行ったりとして一同は過ごすのであったが……その時間はすぐに過ぎ去る。

 次の日、エーエルは一同が集まっていることを確認するや否や、ほぼ強制的に転送魔法を使用すると、気づけば一同はエルクレスト・カレッジの前にいた。
 そしてたまたまその転送先に居合わせたアーゼスと共に、突然の絶叫が響き渡るのであったが、それを引き起こしたエーエルは全く関与することなく学園に向かって行ってしまい、一同も状況についていけないアーゼスを取りなしつつも、それについていった。
 有無を言わさぬ勢いで進むエーエルをなんとか追いかけていくと、最終的にエーエルが入ったのは、魔法通信部の居城、放送室だ。そこでは今まさに、放送部部長のシェアが今日の放送を始めようとしていたところであったが……彼女の戸惑う声に一切構うことなく、エーエルは強制的にその放送に割り込み、宣言する。

 エルクレスト・カレッジにいる全ての人間につぐ。
 私は、エーエル・ラクチューン。これより、大講堂にてすべてを語る。
 シャルリシア寮生達がどのような存在で・・・何をしようとしているのか。あの者達が隠していたそれを、お前たちは知る権利がある。
 あの者達が自分勝手な未来を選択する余地があるように、お前たちにも選択の余地はあるのだから。

 そう告げたエーエルの声は、校内のすべてへと響き渡り、全ての人の心へ、ざわめきを生み出した。
 そして振り返ったエーエルは、シャルリシア寮生達に、もう後戻りはできないのだとも告げた。ここから、シャルリシア寮生を信頼し、肯定する者達だけでなく……それを否定するものもいることを知らなければならない。
 しかし、一同にとっては、それはすでに下した決断であり、覚悟だ。
 エーエルがこれからこの学内で行おうとしていることに対し、一同は正面から向き合う覚悟をするのだった。


 戦う。それが君達の下した決断だ。
 自身が生きるために、これ以上の犠牲を生まないために、勝利する。その方法をエンザが残していてくれたことを信じ、自身の人生を取り戻す。
 しかし、エーエルはまだ信じていない。君達が、それを成すことができるほどの信頼を、人から得たのかどうかを。だから、このような手段に出たのだろう。
 ……全ての人間から肯定される存在はなく、それは選択においてもしかりだ。エーエルは、人びとが君達を否定するということを、立証しようとしている。
 ……そんな時、君達は何を信じるだろうか。
 そのような否定を受けてもなお前を向き続ける、自身の意思か。
 否定ではなく、自身を肯定してくれる人の言葉か。
 はたまた、そのどちらかにも至らないのか。
 それはまだわからない。しかし、ある男は、その両方を信じた。そして立ち上がっていた。
 ……男の信じる、人生の幸せの、ために。

アリアンロッド・トラスト第十五話「人生への願い」完


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PC達がこのシナリオで出会ったキャラクターまとめ

ミトジャック


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最終更新:2016年09月25日 13:16