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デジタル生命、リアル生命に関する考察、メモ書き。
”遺伝的アルゴリズム”を利用した”人工生命”を作ったことがある。
作成したものの1例は、ここのAL迷路探索である。
作成したものの1例は、ここのAL迷路探索である。
このアプリは、デジタル生命(以下フィーラ)が自身を変化させながらゴールへ向かって進む、というものである。
始めは殆どの個体がスタート付近で力尽きるが、しばらくするとコースを前進するものが現れる。
そして、次第に進む距離を伸ばしていき、いずれはゴールに到達する。
始めは殆どの個体がスタート付近で力尽きるが、しばらくするとコースを前進するものが現れる。
そして、次第に進む距離を伸ばしていき、いずれはゴールに到達する。
フィーラ達は実に様々な動きで前に進もうとする。
壁を這うように進む者、壁を跳ねる様に進む者、壁にぶつかりながら無理矢理進む者、etc...
(これは説明するより、実際に見てもらったほうが早い)
だが、これらの動きはこのような動きをするように設計者がプログラムしたのではない。
これは、彼ら自身が生み出した動きである。
壁を這うように進む者、壁を跳ねる様に進む者、壁にぶつかりながら無理矢理進む者、etc...
(これは説明するより、実際に見てもらったほうが早い)
だが、これらの動きはこのような動きをするように設計者がプログラムしたのではない。
これは、彼ら自身が生み出した動きである。
設計者がプログラムした動きは単純なものである。
フィーラは4本の触角を持ち、各々の触角が壁に触れているか否かを認識する。
触れているか否かによって、進む方向は異なる。
どの方向にどの程度の力で進むかは、個体(の遺伝子情報)によって異なる。
また、よりゴールに近づいた者が遺伝子を残すように設定してある。
これだけである。
これだけで、様々な動きをしゴールに到達する個体が現れる。
フィーラは4本の触角を持ち、各々の触角が壁に触れているか否かを認識する。
触れているか否かによって、進む方向は異なる。
どの方向にどの程度の力で進むかは、個体(の遺伝子情報)によって異なる。
また、よりゴールに近づいた者が遺伝子を残すように設定してある。
これだけである。
これだけで、様々な動きをしゴールに到達する個体が現れる。
ゲーム等をやると分かるが、プログラムによって作られたキャラクタが出来るのは、
通常、”定められた動き”だけである。
例えば、前に進む、ジャンプする、球を撃つ、自キャラに向かってくる、etc...
各々の動きの組み合わせによって複雑な動きも可能ではある。
通常、”定められた動き”だけである。
例えば、前に進む、ジャンプする、球を撃つ、自キャラに向かってくる、etc...
各々の動きの組み合わせによって複雑な動きも可能ではある。
しかし、それは想定された動きの範囲を出ない。
むしろ、出てもらったら困る。
それはバグ。設計ミス。プログラムの穴。
むしろ、出てもらったら困る。
それはバグ。設計ミス。プログラムの穴。
実は、人工生命も想定された動きの範囲内でしか動きを生み出すことは出来ない。
だが、その範囲内、”世界のルール(可能性)”の中でなら、”目的”に向かって様々な独創性を発揮し得る。
だが、その範囲内、”世界のルール(可能性)”の中でなら、”目的”に向かって様々な独創性を発揮し得る。
人工知能・人工生命には”閃き・独創性”はない(出来ない)と言われるが、
私は、可能性の中でならそれを発揮し得ると考える。
その、可能性(ルール)と目的をどの様に設定するかが問題なのだが。
私は、可能性の中でならそれを発揮し得ると考える。
その、可能性(ルール)と目的をどの様に設定するかが問題なのだが。
ルールの中で独創性を発揮する。
これはリアル生命と同じではないだろうか。
リアル生命、つまり私達はこの世界の中で成し得ることを駆使し、目的に向かって進む。
自らの遺伝子を変化させ、進化と言われることを成し、目的へ向かう、またより効率的に目的を成す。
これはリアル生命と同じではないだろうか。
リアル生命、つまり私達はこの世界の中で成し得ることを駆使し、目的に向かって進む。
自らの遺伝子を変化させ、進化と言われることを成し、目的へ向かう、またより効率的に目的を成す。
デジタル生命も同じでは?
違うのは、住んでいる世界、世界のルール、世界の枠組、可能性。
違うのは、住んでいる世界、世界のルール、世界の枠組、可能性。
だとすると、デジタル生命にリアル世界と同じ世界を(世界のルールを)与えることが出来たなら、
デジタル生命とリアル生命の違いは無くなる。
デジタル生命とリアル生命の違いは無くなる。
最新のスパコンでは、人体の動きを全てシミュレートするだけの計算量を持つものもあるらしい。
(近いうちに可能になる、だったか?)
近い将来、デジタル世界に生まれた者達と友人になれる日も来るかもしれない。
(近いうちに可能になる、だったか?)
近い将来、デジタル世界に生まれた者達と友人になれる日も来るかもしれない。
人工知能・人工生命(以下”人工生命”で統一)は心を持ち得ない、という主張がある。
私は、”持つ可能性はある”と考える。
私は、”持つ可能性はある”と考える。
人が”物”であるのなら(人間の動き、思考、感情等の全てが物理現象のみで成り立っているのなら)、
同じ”物”である人工生命が、それを得られないはずが無い。
同じ”物”である人工生命が、それを得られないはずが無い。
もし、人が”物”とは違うのなら(物理現象以外のものを持っているのなら)、
人工生命にその”物とは違う者たらしめているもの(以下”心素”)”を与えれば、心を持つはずである。
人工生命にその”物とは違う者たらしめているもの(以下”心素”)”を与えれば、心を持つはずである。
それが可能か否かは、また別の議論であるが、
”人という器”に心素が宿るのである。人工生命に宿ってもおかしくは無い。
”人という器”に心素が宿るのである。人工生命に宿ってもおかしくは無い。
オカルト的な話になるが、
人に近い”形”のものに、その心素は宿るのかも知れない。
”形”とは、外見、構造のみを意味するのではなく、その性質を意味する(?)
、、、自分でも意味不明。
人に近い”形”のものに、その心素は宿るのかも知れない。
”形”とは、外見、構造のみを意味するのではなく、その性質を意味する(?)
、、、自分でも意味不明。
長いし、主張が2,3あるせいで文章がまとまらないし、
論理的に破綻してるとこあるし、事実と主張が明確でないし。
まあ、memoということで。
論理的に破綻してるとこあるし、事実と主張が明確でないし。
まあ、memoということで。
カテゴリ: [駄文] - &trackback() - 2006年02月25日 19:02:26
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