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陰陽。内と外。
内は陰、外は陽。
陽は共有されるもの、外に積極的に出すもの。
それにより強められる。
陰は内に向かって深めるもの。
外に向けたり、共有されるものではない。
そうするべきではない。
それは独りで考えるものであり、社会の中の自分が出すべきものではない。
せいぜい許されるのは、親しい友人と話し合う、くらいなものだ。(もしくは”師”が居る場か、)
それが社会の中で出ることを許されるのは、”物語”の中だけである。
ここでいう物語は、「映画」「小説」「ドラマ」など。
その中では、陰を出すことが許される。
なぜならば、それはそれを受け取るのはあくまで、”自分独り”であるから。
またそれを作る側も。
但し、殆どの場合、その中に”救い”が、陽が存在することが条件になるが。
内は陰、外は陽。
陽は共有されるもの、外に積極的に出すもの。
それにより強められる。
陰は内に向かって深めるもの。
外に向けたり、共有されるものではない。
そうするべきではない。
それは独りで考えるものであり、社会の中の自分が出すべきものではない。
せいぜい許されるのは、親しい友人と話し合う、くらいなものだ。(もしくは”師”が居る場か、)
それが社会の中で出ることを許されるのは、”物語”の中だけである。
ここでいう物語は、「映画」「小説」「ドラマ」など。
その中では、陰を出すことが許される。
なぜならば、それはそれを受け取るのはあくまで、”自分独り”であるから。
またそれを作る側も。
但し、殆どの場合、その中に”救い”が、陽が存在することが条件になるが。
例を挙げると、本屋とそこにある本の関係。
本屋にいる人、また店の雰囲気が陰であっては不味い。
人は来たがらない。
が、店にある本が陰であっても何の問題もない。
むしろそれの為に来る人もあろう。
本屋にいる人、また店の雰囲気が陰であっては不味い。
人は来たがらない。
が、店にある本が陰であっても何の問題もない。
むしろそれの為に来る人もあろう。
で、Webページはというと位置づけは微妙である。
殆どのコンテンツは無属(ただの情報)、陽、また本屋の本と同じ位置付けである。
特殊なのは日記。
日記というのは、本来独りの持ち物である。読み手は想定しない。
従って、陰に属する。
だが、その日記が人の目に触れる可能性が発生した瞬間に、それは変わる。
少なくとも、完全な陰は許されない。
自分はそう感じてしまう。
またその様に完全な陰でないことや、人目に触れることにより、陰は弱まってしまう。
仮に完全な陰を出したところで、それは甘えに繋がり、また漆黒ではなくただの汚泥と成り下がる。
殆どのコンテンツは無属(ただの情報)、陽、また本屋の本と同じ位置付けである。
特殊なのは日記。
日記というのは、本来独りの持ち物である。読み手は想定しない。
従って、陰に属する。
だが、その日記が人の目に触れる可能性が発生した瞬間に、それは変わる。
少なくとも、完全な陰は許されない。
自分はそう感じてしまう。
またその様に完全な陰でないことや、人目に触れることにより、陰は弱まってしまう。
仮に完全な陰を出したところで、それは甘えに繋がり、また漆黒ではなくただの汚泥と成り下がる。
解決するまでは、誰の目にも触れないようにすべきかも知れない。
カテゴリ: [精神] - &trackback() - 2006年04月23日 02:51:54
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