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解答
シュレ猫の解答です。
その前に一言。
ここに書いてあるのはあくまで私の理解であるので、間違っている可能性があります。 それを踏まえたうえでお読み下さい。
先ず、問題のおさらい。
箱の中の猫は「死んでもいるし、同時に生きてもいる」状態を取っているのか。
言い換えると、「箱の中の猫は『生と死の重ねあわせ状態』にあるのか」。
結論。
箱の中の猫は、死んでいるか生きているか、どちらかの状態である。
言い換えると、「箱の中の猫は『生と死の重ねあわせ状態』にない」。
解説。
重ねあわせ状態にある物質は、観測されるとその重ね合わせは崩れ、どちらかの状態に決定される
逆に言えば、観測されなければ重ね合わせは崩れない。(これは必ずしも真ではないけど*1)
箱の中の猫は、観測―例えば人が箱を開け見ること―をしなければ、『生と死の重ねあわせ状態』のままであるはずだ。
ここまでは正しい。
ここまでであれば、箱の中の猫は、『生と死の重ねあわせ状態』を取る。
重ねあわせ状態にある物質は、観測されるとその重ね合わせは崩れ、どちらかの状態に決定される
逆に言えば、観測されなければ重ね合わせは崩れない。(これは必ずしも真ではないけど*1)
箱の中の猫は、観測―例えば人が箱を開け見ること―をしなければ、『生と死の重ねあわせ状態』のままであるはずだ。
ここまでは正しい。
ここまでであれば、箱の中の猫は、『生と死の重ねあわせ状態』を取る。
ではどこから違いがあるのか。
それは、「観測」と言うことに対する認識。
恐らく「観測」ということを「人がそれを見る」や「人が測定、検出する」と認識していると思う。
そこに違いがある。
それは、「観測」と言うことに対する認識。
恐らく「観測」ということを「人がそれを見る」や「人が測定、検出する」と認識していると思う。
そこに違いがある。
「観測」は私たちだけがするわけではない。"自然"も行っているのだ。*2
空気中の原子。太陽から降り注ぐ光子。宇宙から降り注ぐ宇宙線。
そういったものが、絶えず物質を観測している。
温度をもつ物質であれば自らの熱を放つことにより、自然に自分自身を観測させている。
空気中の原子。太陽から降り注ぐ光子。宇宙から降り注ぐ宇宙線。
そういったものが、絶えず物質を観測している。
温度をもつ物質であれば自らの熱を放つことにより、自然に自分自身を観測させている。
そのような自然の観測の度合いは、自然の条件や物質の大きさなどにより異なる。
光が届かなければ、光子による観測は受けない、真空中であれば空気中の原子による観測は受けない(減らすことが出来る)
小さく、温度が低い物質は「自然の観測」を”受けにくい”ため、重ねあわせ状態を取ることが出来る。
しかし、大きな物質―例えば箱の中の猫―は自然の観測を”受けやすい”ため、重ねあわせ状態を取ることが出来ない。
光が届かなければ、光子による観測は受けない、真空中であれば空気中の原子による観測は受けない(減らすことが出来る)
小さく、温度が低い物質は「自然の観測」を”受けにくい”ため、重ねあわせ状態を取ることが出来る。
しかし、大きな物質―例えば箱の中の猫―は自然の観測を”受けやすい”ため、重ねあわせ状態を取ることが出来ない。
それゆえ、箱の中の猫は、重ねあわせ状態を取らず、死んでいるか生きているか、どちらかの状態を取る。
以上、シュレ猫の解答でした。
ここから蛇足&想像&感想。
重ねあわせの崩壊によりどちらの状態に決定されるかは、確率により決まる。
その確率は等確率とは限らない。
50%:50%のものもあれば、80%:20%のものもある。
100%:0%のものもある。
その確率は等確率とは限らない。
50%:50%のものもあれば、80%:20%のものもある。
100%:0%のものもある。
実は「重ねあわせ状態」が普通で、
「重ねあわせでない状態」が異常なんじゃないだろうか。
重ねあわせ状態が基本としてあり、
その中の特殊な状態(100%:0%の状態)が、私たちの認識している世界。
そんな考え方も出来る。
「重ねあわせでない状態」が異常なんじゃないだろうか。
重ねあわせ状態が基本としてあり、
その中の特殊な状態(100%:0%の状態)が、私たちの認識している世界。
そんな考え方も出来る。
本では、「重ねあわせ状態ではない」と、断定した感じで書いてあったけど、
これは正確に言うと、「箱の中の猫は『生と死の重ねあわせ状態』にない確率が非常に高い」のではないかと思う。
まあ、『生と死の重ねあわせ状態』を取る確率はどのくらいかと言うと、
「1万年連続で宝くじ1等を当てるってレベルじゃないくらい低い確率」になるんだろうが。
これは正確に言うと、「箱の中の猫は『生と死の重ねあわせ状態』にない確率が非常に高い」のではないかと思う。
まあ、『生と死の重ねあわせ状態』を取る確率はどのくらいかと言うと、
「1万年連続で宝くじ1等を当てるってレベルじゃないくらい低い確率」になるんだろうが。
神隠しとか、ありえない場所に移動した人とか
まさか、これじゃないよなあ・・・。
まさか、これじゃないよなあ・・・。
現在、「重ねあわせが存在する」ことまでは明らかとなっている。
だが、なぜ重ねあわせが存在し、なぜ重ねあわせが観測によって崩れるのか、
その問いに対する解答は未だない。
科学は、ひたすらそのような問いを発し続けてきた。
それらの問いの「玉葱の芯」はあるのか、あるいはこれが玉葱の芯なのか。
それとも、剥いていったら何もなくなってしまうのか。
それは、未だ「神のみぞ知る」だ。
だが、なぜ重ねあわせが存在し、なぜ重ねあわせが観測によって崩れるのか、
その問いに対する解答は未だない。
科学は、ひたすらそのような問いを発し続けてきた。
それらの問いの「玉葱の芯」はあるのか、あるいはこれが玉葱の芯なのか。
それとも、剥いていったら何もなくなってしまうのか。
それは、未だ「神のみぞ知る」だ。
*1:
書いていて気付いた。
「観測により重ね合わせは崩壊する」は真であっても、
「重ね合わせの崩壊の原因が観測である」は真であるとは限らない。
重ね合わせの崩壊は観測以外のものが原因である可能性もある。
それが存在するかは分からないが。
書いていて気付いた。
「観測により重ね合わせは崩壊する」は真であっても、
「重ね合わせの崩壊の原因が観測である」は真であるとは限らない。
重ね合わせの崩壊は観測以外のものが原因である可能性もある。
それが存在するかは分からないが。
*2:
「自然による観測」と言う考え方を基にすると、
「人による観測」は、その自然による観測の結果を借りているだけ、
とも言えるんじゃなかろうか。
「自然による観測」と言う考え方を基にすると、
「人による観測」は、その自然による観測の結果を借りているだけ、
とも言えるんじゃなかろうか。
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だんだんとり止めもなくなってまいりましたが、
そんな感じで色々な事について書いてあって、
興味深い本でありました。
だんだんとり止めもなくなってまいりましたが、
そんな感じで色々な事について書いてあって、
興味深い本でありました。
- - -
本当は一昨日に書くつもりでしたが、
一昨日は、仕事で疲れて(「仕事”に”疲れて」じゃないよ)寝てました。
これくらいで疲れてちゃ、毎日10時とかまで残ってる先輩に笑われるなあ。
昨日は、アットウィキにつながらなかったため、書けませんでした。
アットウィキ、頼むよ・・・。
本当は一昨日に書くつもりでしたが、
一昨日は、仕事で疲れて(「仕事”に”疲れて」じゃないよ)寝てました。
これくらいで疲れてちゃ、毎日10時とかまで残ってる先輩に笑われるなあ。
昨日は、アットウィキにつながらなかったため、書けませんでした。
アットウィキ、頼むよ・・・。
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>しょささん
>観測によって位置が決まるというより、存在が確率的に分布しているイメージが強いなぁ。
基本的に、その認識であってるんじゃないかと思います。
で、観測によりその存在確率が変化するのではないかと。
>しょささん
>観測によって位置が決まるというより、存在が確率的に分布しているイメージが強いなぁ。
基本的に、その認識であってるんじゃないかと思います。
で、観測によりその存在確率が変化するのではないかと。
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追記:2007_11_19
上の文章を書いたとき、本の8割ほどしか読んでなかったのだけど、
残りの2割に「なぜ重ねあわせが存在し、なぜ重ねあわせが観測によって崩れるのか」の
一つの仮説が書いてありました。
それは、
追記:2007_11_19
上の文章を書いたとき、本の8割ほどしか読んでなかったのだけど、
残りの2割に「なぜ重ねあわせが存在し、なぜ重ねあわせが観測によって崩れるのか」の
一つの仮説が書いてありました。
それは、
「平行宇宙説」
重ねあわせが崩れるときに、こっちの宇宙とは別の宇宙が生まれ、
こっちの宇宙で右回転に決まると、
あっちの宇宙では左回転に決まるんだそうな
それだと、いろんなことが矛盾と無理なく説明できるんだとか。
ほんまかいな。
こっちの宇宙で右回転に決まると、
あっちの宇宙では左回転に決まるんだそうな
それだと、いろんなことが矛盾と無理なく説明できるんだとか。
ほんまかいな。
-
矛盾のない(だけの)論理を立てるのは簡単だ。
例えば、「それは、神がそのように創ったからだ」という論理。
それには全く矛盾はない。その論理が間違っていることは証明できない。
それを否定しようとするあらゆるの問いに対して、
「それは、神がそのように創ったからだ」それだけで答えることができる。
その代わり、それが正しいことを証明できない。
矛盾のない(だけの)論理を立てるのは簡単だ。
例えば、「それは、神がそのように創ったからだ」という論理。
それには全く矛盾はない。その論理が間違っていることは証明できない。
それを否定しようとするあらゆるの問いに対して、
「それは、神がそのように創ったからだ」それだけで答えることができる。
その代わり、それが正しいことを証明できない。
科学は、「真理」(と言う表現でいいかは分からないが)
それ自体を見ているわけではない
現実に現れる現象を見て、
それら全てに当てはまる、それら全てを上手く説明できるものを求めているに過ぎない。
「真理の影」を見ているに過ぎない。
そのようにしかできない。
それ自体を見ているわけではない
現実に現れる現象を見て、
それら全てに当てはまる、それら全てを上手く説明できるものを求めているに過ぎない。
「真理の影」を見ているに過ぎない。
そのようにしかできない。
その影を観察し、研究を重ねることで、
より詳細に、実体を予測することはできる。
しかし、どれだけ詳細に実体を予測しようとも、
実体自体は分からないままだ。
仮に、予測が実体と一致していようとも、
実体を知らない私に、それを知る術はない。
より詳細に、実体を予測することはできる。
しかし、どれだけ詳細に実体を予測しようとも、
実体自体は分からないままだ。
仮に、予測が実体と一致していようとも、
実体を知らない私に、それを知る術はない。
果たして実体自体を、「真理」自体を
見る術はあるのだろうか。
見る術はあるのだろうか。
カテゴリ: [日記] - &trackback() - 2007年11月18日 08:02:01