アマネオ

共時性転換点(1994年秋)

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amaneo

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 その日、名呑町は異常に冷え込んだ。朝方の町並みには、濃霧がじっとりと生きた毛皮のように纏わり付き、白くぼやけている。

 町の至るところで凍死した猫たちが四肢を張りつめ、ごろりと人形のように転がっていた。氷点を遥かに下回る記録的な冷気は原因不明であり、名呑町に住む人々は、心臓の隅に黒く小さな針が突き付けられたような不安を感じていた。

 とあるアパートの101号室。蓮田ヒカリはマハカメリア宮の腹を枕にして眠っていた。アマーニはヒカリに絡み付くように寝ている。その下はやはりマハカメリア宮であり、呻いている。

 城戸ユウキは寝ているうちに三人に蹴り飛ばされ、コタツの外で腕を組み目を閉じていた。
「ううン、ア、ハ」

 喘ぎ声にも似た呻きに、城戸が目を開けた。近づいてマハカメリア宮の顔を覗き込んだ。
「いったいどんな夢だよ」

 マハカメリア宮は眠ったまま泣いていた。小さく鼻をすする音がする。
「見捨てないで」

 城戸は黙って傍にあったティッシュを取り、その涙を拭った。


 葦の舟には男女不明の赤ン坊。海へと繋がる川辺には、女が一人立っている。
「どうせあなたは私など。存在せずとも生きていく」

 黒い和服に身を包んだ蓮田ヒカリは、そう言って舟を押し出した。舟に載せられた一本の風車がからからと乾いた音を立てた。
「みんながこれまでそうしたように、私を置いていくのでしょう」

 時代がかった口調で呟く。袖からのびた白い腕が、水に濡れた。霧の出た川は、一寸先もおぼろげで、葦の舟は飲み込まれるように消えていった。
「どうせ私は誰にも望まれない」

 蓮田ヒカリはそこで目を覚ました。マハカメリア宮の腹を枕にしていたはずが、いつの間にか一人で部屋の窓際、寒さが辛い場所に寝ていた。

 涙が目尻にたまり、乾いたのか、塩が出ていた。かりかりと爪の先でそれを落としていると、暗がりから城戸が話しかけてきた。
「怖い夢でも見たのか。カメちゃんも泣いてるんだ」

 ヒカリはマハカメリア宮を見た。寂しそうな寝顔に触ろうとしてやめる。何故かヒカリには怒りが込み上げてきた。
「誰だって怖い夢くらい見るよ。カメちゃんだけじゃない」

 


「僕、私、僕、私、また捨てられちゃった」
マハカメリア宮の寝言が鬼気せまるように叫んだり混乱したように泣いたりしたので、アマーニや城戸は心配でたまらなかった。蓮田ヒカリだけが離れ、膝を抱えて座っていた。親指の爪を噛んでいる。城戸がマハカメリア宮の肩を揺すり、起こした。
「えと」

 目を覚ましたマハカメリア宮はそこがリリジョン101号室であること、城戸が目の前にいることを確認して、頬を染めた。
「ええと」

 赤く腫らした目を擦り、恥ずかしそうにアマーニ、城戸、ヒカリを見た。おもむろにアマーニに抱きついた。彼女は何も抵抗せず不思議そうにしている。

 次に城戸に抱きついた。彼は「やめろよ」と突き飛ばした。しかしマハカメリア宮は嬉しそうだ。

 最後にヒカリに抱きつこうとしたが、「本気でやめて」と言われて引き下がった。マハカメリア宮は一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに切り替えた。
「僕は。いや私は。やらなきゃいけないことがわかったよ。皆を見捨てないことだ」

 そう言ってキッチンに行き、ストーブ用の灯油を鍋に注いだ。ガスコンロの火をつける。三人が慌てて止めようとするが、マハカメリア宮は聞かない。
「皆早く逃げて。ここは危ないから」

 話が通じないことを悟った三人は転げるように外へ出た。やがて黒い煙とともにマハカメリア宮が出てきた。
「この101号室は燃やすんだ」

 外から全員で眺めていると、他の部屋の入居者たちが避難してきた。全員、リリジョン101の信者だ。
「放火は重罪なんだぞ。どういうことだ」

 城戸がマハカメリア宮を問い詰める。
「私達の存在を否定する法律なんて、くだらないと思わない?」

 マハカメリア宮は続けて語りかける。意志のはっきりした力強い瞳で。
「私達は本当に安らげる101号室を、魂が混じり合う場所に作らなきゃいけない。皆がそこへアクセスしてたどり着き、私の子供になるために」

 城戸は、俺の何が悪かったのだろうと考えていた。ヒカリは親指の爪を噛みちぎった。アマーニは無表情。
「夢の中で、今度は花奥さんに伝えなきゃ。『星の落とし子』の本尊を作ってもらわないと」

 そこまで言うと、マハカメリア宮は子守歌を口ずさみはじめた。それは幼い頃、養護施設で聞かされていたものだった。

 赤く燃える101号室に向かって朗々と。

 ――私のこども、私のこども。何にかえても守ってあげる。眠れ、眠れ。抱きしめて温かくしてあげるから。


 

 

 花奥恵は高校の美術室で眠っていた。蓑虫のように寝袋に入り、傍には空の弁当箱が置かれている。

 茶屋ヒノスケがそっとドアを開けて入ってきた。その後ろに続いたのは恵の祖母、花奥葉子だった。厚いファンデーションで粉っぽく白い顔には、所々にシワの影がある。

 二人は寝袋ごと恵を持ち上げ、真夜中の廊下を儀式を行うどこかの部族のように移動する。階段をひたすらにおりていき、踊り場を越え一階に着く。
「やめてよ、何、何」

 目が覚めた恵は、声を出そうとするが出ない。それでも口を動かす。
――ふざけんなよババアッ!

 もぞもぞと抵抗すると、どすんとリノリウムの床に落ちた。腰に激痛を感じながら這い出る。頭上の二人は口喧嘩をしている。顔を上げると、二人は恵の母親と男に変わっている。

 恵は男の顔を見るが、それはおぼろげな形にしかならない。恵の母親は頬のやつれた貧乏神のようだった。
「あの子にはもう会わせないわ。私達の相手もしないで一人で生きていけばいいでしょ」

 男が母親の肩を掴んで揺さぶる。
「どうしてだ! 忙しくて相手できないのは悪かったが、だってそれはお前が主婦やりたいって言うから!」

 母親は紙のように薄くなって倒れ、全身が痣だらけの青黒い塊になって頬を押さえる。
「暴力。皆さん見ましたか。この男は暴力を振るった」

 どこからかブーイングが起き、黒い腕が校舎の隙間から湧き出てくる。窓の外から大きな血走る目玉が覗いて喚きたてる。
「そりゃあ可哀相だ。夫の暴力にさらされて、DVだ。DVだ。DVだ。DVだ。いま流行りの」

 ざわめきを割るように、突然祖母の声が恵に聞こえた。
「バカ女だね。妻が我慢すれば良いこと。男は暴力を振るうものよ。私たちは我慢してここまでやってきた。あんたにできないハズがない」

 祖母は母親の髪を引っ張り、壁にぶつける。校舎の壁は豆腐のように崩れた。校舎の外から明るい陽射しが内部を照らした。母親と祖母が掻き消えた。

 男は笑って恵に近づいてくる。しかし逆光で姿がよくわからない。黒い人影が次第に大きくなる。

 そして恵は、逃げ出した。人影をすり抜け太陽の方へ。

「助け、助けて」

 恵は自分の身体が軽く痙攣したのを感じて目が覚める。

 美術室の中で、恵は寝袋に入っていた。ぼりぼりと頭を掻き、窓からまだ弱い朝陽が差し込んでいるのを見つめた。夢の中で口論する母親と父親らしき男。それに祖母がいたことを思い出した。
「あれは昔の私の記憶? でもあんなの覚えてないし。忘れてたのかな」

 寒さにくしゃみが出た。再び寝袋に深く入ろうとすると、そこに人間大のクリオネのような生物がいた。
「え」

 ヌルヌルした黄緑色の粘液を分泌し、寝袋の中で下着姿の恵の脚と絡まっている。
「オカアサン、オカアサン」

 ラジオノイズのような声を出して身体を上ってくる。恵はあまりの不快感に「それ」を蹴飛ばし、寝袋を出た。

 離れたところから美術室の椅子を持ち上げて構える。寝袋は尾の方から胎動するように波打ち、入口から数十本の触手が出ている。それは周囲をマッサージする指のように動き回った。

 恵は椅子を投げ、寝袋を潰す。それを見ないようにして美術室を出た。ドアを閉じて、下着姿のまま朝の校舎をぺたぺたと走った。
「あのすいませーん! ええと、あのう」

 誰かの助けを呼びたいが、気が動転してうまく言うことができない。ふと廊下の窓から、プールサイドに人影が見えた。マハカメリア宮だった。恵を見て手招きしている。

 美術室を振り返ると「それ」が這うようにやってきている。頭部が裂けて展開し、蝙蝠の羽のように広がる。裂け目からは無数の蛇のような触手が後方の身体を引きずっていた。

 一階から校庭へ出て走り抜ける。プールサイドにマタニティドレスを着たマハカメリア宮が立っていた。

 恵はフェンスをよじ登る。傍に立つと、マハカメリア宮は大きな胸をした女性だとわかった。
「君はあれよ」

 マハカメリア宮は後ろから近づく「それ」を指差して嬉しそうに語りかける。恵は気分が安らぐ。
「君には親はいない。私だから。『それ』も私。皆が私なの。だから私、皆の母親になりたい。『子供』が欲しい。『家族』が欲しい。わかりあえる全ての繋がりの星の――落とし子」

 マハカメリア宮は腹をさすった。恵は追ってくる「それ」がいなくなっていることに気づく。目の前のマハカメリア宮の頭が割れ、プールに飛び込んだ。水の中から声がする。
「私は誰でもない――『それ』――私は『ゑびす』――私は『ヒルコ』――私は『星の落とし子』。この世界から捨てられ、いないことにされた私や皆――母親を欲しがる皆を再懐胎して私の子供にする」

 プールから浮き上がったマハカメリア宮は光に包まれた醜悪な「それ」に生まれ変わっていた。

 マハカメリア宮は傍に寄ると、恵の手を取った。それから自分の乳房に当てた。恵は怖ず怖ずとその感触を確かめた。
「お母さん!」

 恵は自分の身体が軽く痙攣したのを感じて目が覚める。心臓が早鐘を打つ。寝袋の中には何もいない。寝ている間に泣いていたのか、涙が目尻を濡らしていた。恵の口から嗚咽が漏れた。