07◆幻影水鏡
切磋琢磨が自分の弱さを自覚し、涙を見せることなく逃げていたころ。
同じく駐車場の一角においては対照的に、泣きながら逃げていた男がいたことをここに描写しておかねばなるまい。
「うえぇええん……何なんだよあの小娘ぇ……私の手が胸に当たった瞬間、人が変わりやがった!
これでは心機一転どころか、反転だっ! ……わた、私のルール能力……自分でも恐ろしすぎる!」
男の名前は心機一転。モノクロカラーの服に身を包んだおかっぱ頭の彼はといえば、
それまでの親の金を使ってゲームばかりしていた生活から一念発起、遊ぶ金はみんなからだまし取ろう!
と考えて即行動、会社を立ち上げる名目で友人や恩師から援助金を借りて(当然返す気はない)、
IT系のベンチャー企業の社長に収まり脱☆税しまくる人生設計を予定していたという、
巷でもなかなか見られない最高にアレな心機一転ぶりを見せた、いわゆるデキるクズ人間である。
そんな彼に与えられたルール能力は、彼の豪快な心機一転ぶりに見合ったとんでもないものだった。
最初に心機一転が見つけ、殺そうとし、
でも返り討ちに遭いそうになった少女――勇気凛々に使ってしまったそのルール能力は、
《胸に手を当てた人のスタンスを180度反転させる》というもの。
心機一転のこのルール能力にかかれば、どんな善人でも悪人に、そしてどんな悪人でも善人へと一転してしまい、
そのことを疑問に思うことすらない。
なぜなら《ルール能力が発動した時点で、対象者は最初からそういうスタンスだったことになる》のだから。
せいぜい、今まで何で正反対の行動や言動をしていたのかを自分に問いかけるくらいだろう。
このルール能力に気付いたとき、心機一転は戦慄した。
目の前の少女が、傍目にはなにも変わったようには思えないのに、発する空気だけが全く違うものになってしまったとき、
彼は思ってしまったのだ。
ああ、私は――なんてことをしてしまったんだ、と。
だから逃げた。「善人は守り、悪人は殺す」と言うようになってしまった少女が怖かったのもあったが、
なにより、自分の罪から目を背けるために心機一転は逃げたのだ。
「殺すことは……ルールで許されているし、何より自らが生き残るために必要だからやると決めた……。
でもあれは、《あれ》は! あんなことが本当に、許されていいんだろうか?
人を、人の人生を終わらせるわけじゃなく……まったく思想を別人にすりかえたまま、続けさせるなんて。
洗脳や催眠でさえない! 反転だぞっ!? 業が深すぎるっ……! 私は……私は、どうすれば……!」
やみくもに車の間を抜け、時々後ろを振り返りながら、あてもなく走り続ける。
一ミリメートルでもいいから遠くへ離れたかった。逃げる方向も、どこまで逃げるかも、全く考えていなかった。
ただあの、自分が造ってしまった反転少女に、もう二度と会うことがないのなら。どこであろうと良かったのだ。
例えそれが――新たに出会うことになる、参加者の元であっても。
「待たれよ。そこの、白黒衣装の男。何をそんなに急いでいる」
「ひぃ!?」
心臓が跳ねた。涙が強制的に止まるくらい近くで、心機一転は何者かに声をかけられた。
振り向けば、そこには年のころ四十ほどの、着物姿の男が立っている。
どこか一般人とは違う静かな佇まいだ。車の陰から全身を現すと、とても背が高い。
時代劇に出てくる侍みたいだ。もちろんちょんまげではないが、髪型は少しくせ毛のようで跳ねている。
浅葱色の着物の袖を揺らしながら目を鋭く光らせる男は、突然の闖入者をじっと見定めようとしている風だった。
あまりの驚きに逆にパニック状態が緩まり、フリーズしていた心機一転を見回すと、
警戒を解いたのか、男は礼を一つしたあと自己紹介をしてきた。
「此方は鏡花水月と言う者だ。舞台役者を二、三十年ほどやっていた。貴様は?」
まさに役者といった、よく通る声だった。気圧されそうになるが、どうにか心機一転も言葉を返す。
「し、心機一転だ。ちょっとした会社の社長をしていたりする。……役者まで連れてこられていたのか、驚いた」
「とはいえ、名は知られていない小さな座の役者だ。そう畏まらず接せ。時に貴様、何をしていた?」
「えっ」
「急ぐ用など、この地に無いだろう。それに貴様、荷物はどうした。皆持っているのではないのか?
この、学生時代を思い出させる大鞄を」
「え、ああ、デイパック……あ、置いてきたんだよ、向こうに、というか、あまり質問攻めにしないでくれっ……!
今、ちょっと、混乱してるんだよ。あんたこそ、今までひとりで何を?」
「此方はずっと、ここにいた。波風を立てれば月が消えるからな。動かないことにしたのだ」
妙に難しい言い回しにさらに頭が混乱した心機一転だが、無駄に理解力はあるので、
鏡花水月の「水月」が水面に反射する月だということと、月とツキ(運)をかけてるんだろうということから、
波風立てればツキがなくなる→どうやら不用意に動くのは危ないと考えてじっとしていたらしい、と読解し、結論づけた。
ずいぶん分かりにくい言い回しをする男だ。
目の前の着物姿の役者をそういう男だと把握した心機一転は、次に取るべき行動をとりあえず考え始める。
反転少女、勇気凛々は……自分を追ってきているかどうか分からないが、少なくとも声は聞こえない。
最悪出会ってしまっても、恐らくは心機一転は悪人にカウントされているから、殺されることはない。
殺されるのは、善人だけ。でもスタンスは180度反転しているから――ええと、あの少女はなんて言ってた?
そうだ、「知らない人であっても、誰もが本質的にはいい人なんだと考える」とか言っていた。
(最初は善人として考える、が逆になるんだから……あの少女は、恐らく初対面の奴はとりあえず悪人だと考えるわけだ。
だから、善人であることが分かるまでは殺されないはず……)
では……この鏡花水月という役者は、善人か? それとも悪人か?
そう、そこが一番の問題。
(落ち着け心機一転。あの少女から逃げるのももちろんだが、私はまず、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。
慎重に、この男が殺し合いに乗っているかを聞き出して、
こいつが乗っていたら逃げる。乗ってなかったら一旦すり寄って武器を奪って逃げる。これで完璧だろ……!)
だいぶ落ち着いた頭がはじき出した答えは、泣きはらした目の不恰好さとは裏腹になかなかすっきりとしていた。
勇気凛々は今のところ脅威にはならない。だがまだ自分のルール能力やこれからのことについては、保留としたい。
時間が必要だ、と思う。
しかし結論が出ても、武器がないと殺人も自衛もできないのだ。だったら狙うは、武器の強奪。
「え、えっとだな。私はさっきいろいろあってっ、それで今逃げているところなんだ」
「……ほう? 誰から」
「ゆっ、勇気凛々という少女だ。あの少女、あいつ、かわいい顔して、とんでもない奴だった」
しどろもどろになりながらも、心機一転は嘘を交えつつ、鏡花水月に探りを入れることにした。
少女から逃げていることは明かす。ただ、自分が少女を殺そうとしていたことや、ルール能力については隠す。
「でかい剣をペンライトみたいに振り回すんだ。私は殺されそうになって、武器もデイパックも捨てて逃げてきたんだ。
あ、あんたも早く逃げた方がいい! 私は殺し合いには乗ってない、あんたもそうだろう?
一緒に……そう、娯楽施設まで逃げて、あいつに勝つ方法を考えよう! 一人じゃ無理でも、二人なら……」
大ぶりなジェスチャーを交えながら、状況を説明すると同時に二者択一を迫る。
一緒に逃げるか、逃げないか。この選択のどちらを取るかで、相手の腹積もりを見定めようというわけだった。
数々の友人たちを騙して金を巻き上げた心機一転の口はよく回る。
ほとんど考えるより先に言葉が流れ出ていくような感覚で、あとから失言に気が付いて顔を赤くすることもたまにある。
が、今回はどうやら上手く回ってくれた。
鏡花水月から引き出された答えは、心機一転が最も欲しかった答えだった。
「すまぬな。残念だが、此方は先に言った通り、此処から一歩も動かぬことにしている。故に同行はできない。
しかし貴様があの、娯楽施設に逃げこむというなら……これを持って行け。きっと何かの役に立つだろう」
なんと鏡花水月は、デイパックから閃光弾をひとつ取り出すと、心機一転に向かって投げ渡してきたのだ。
閃光弾なんてものを見たことがなかった心機一転は最初何かと思ったが、
受け取ってみた丸い玉の表面にはちゃんと「閃光弾です。目をつむってから使ってね(はぁと」と書いてあり、
「なんか胡散くさいっ……! いや、でも偽物にしてはずっしり感もあるし、造りも手が込んでるか。
え、というかコレ、本当に私が貰ってもいいのか? あんた、勇気凛々に襲われたらどうする気なんだ」
「心配無用。此方に渡された武器は、それ三つだったのだ。貴様には内一つを与えたまで。
もしその少女が現れ、此方に危害を加えんとするならば、残りの閃光弾を使用して少女を捕らえ、
説教でも食らわせてやるとしよう。それが……此方の役目と心得た」
役目、という部分に強くアクセントを振った発音に、心機一転は少し首を傾げる。
しかしそれはもはや、彼にとって気にすべきことではなく。武器を向こうからくれた幸運に対して喜ぶ方が先だった。
「そうか! ありがとう! じゃあな!」
有無を言わさず閃光弾をポケットに入れると、一分一秒が惜しいと言った風体を装って心機一転はそこから立ち去った。
あとには心機一転に向かって手を振る、鏡花水月の姿が残されるのみだ。
いや、違った。
「……やはりな。奴の目的は此方の武器だったか。どんなルール能力を持っているのかまでは見れなかったが、
とりあえずは事なきを得て良かった。なあ、《私》」
「そうだな《私》。そして、非常時に備えて待機させておいた、《私たち》」
「そうだな」
「そうだな」
「ああ、そうだな」
「この調子で《幻影》を操っていけば、此方の勝利は見えたようなものだな……」
ぞろぞろ、ぞろぞろと、十人から二十人単位で車の陰から現れたのは、その全てが鏡花水月の姿形と同一であった。
さらにその一人一人が、それぞれ違う武器を持っていた……竹刀に大槌、鉄の槍から火縄銃、大薙刀。
煙玉、火薬玉から、心機一転に渡した《と思わせた》閃光弾まで、それらは各種よりどりみどりだ。
「さあ《私達》。まだこの演目は始まったばかりだ――引き続き、役割を演じよう。
他の参加者たちをただひたすら、惑わす。鏡花水月は、そう簡単には尻尾など掴ませぬぞ……!」
応、と《鏡花水月たち》は返事をして、ふらり、ふわりと煙のように消えていく。
圧倒的幻術――このすさまじきルール能力の有効範囲は、現在鏡花水月がいるA-2エリアの、全部。
故にエリア内をいまだ把握中の鏡花水月は、動かないのではなく、動けないのだ。
そう……《自分のいるエリア内に質量をもった幻影を発生させる》という、自らの選んだ役割を、完全なものにするために。
鏡花水月は、ただ座すのみ。
【A-2/駐車場A地区】
【心機一転/ベンチャー企業社長】
【状態】健康
【装備】なし
【持ち物】《幻影の閃光弾》
【ルール能力】胸に手を当てた人のスタンスを180度反転させる
【スタンス】逃亡→保留中
【鏡花水月/舞台役者】
【状態】健康
【装備】不明
【持ち物】不明
【ルール能力】自分のいるエリア内に質量を持った幻影を発生させる
【スタンス】A-2に迷い込んだ参加者をただ惑わす
用語解説
【閃光弾】
爆発の際の音や光によって付近の人間に一時的な失明、眩暈、難聴、耳鳴りなどの症状と、
それらに伴うパニックなどを発生させて無力化することを狙う手りゅう弾の一種。
……だが、この四字熟語ロワでのそれはどうやら鏡花水月のルール能力によって作られた、
エリア内にいる限り触れる幻影にすぎない偽物である。エリアから出た瞬間に心機一転のポケットの中から消えるだろう。
最終更新:2012年01月11日 23:38