「リュティスを離れたい、と?」
「はい、違う土地へいって、見聞を広めようかと思います」
「そうか……」
ジョゼフの言葉に、王は否ともよしとも答えなかった。
「知識を深めるだけながら、城の書物だけも十分すぎるほどではないのか?」
長い歴史を誇るガリア。
その王宮に保管されている書物の量は尋常のものではない。
「いえ、確かにそれも修養にはなりますが、実際に見聞きするのとは違いましょう」
「一理あるのう」
王はそう言って、顎を軽く撫でた。
「じゃが、本当のところは、どうなのだ?」
王はジョゼフの目を見ながら、そうたずねた。
ぴしりと、のんびりとしているけれど、強い圧力のある声であった。
「かないませんね」
ジョゼフはきまりが悪いと風に、笑ってみせた。
その笑みを見て、王の眼が微かに細められる。
「正直なところ申し上げますと、隠居したいのです」
「ほ、そりゃまた……」
王は肩をすくめるようにして、驚きの声をあげた。
「城の生活には、飽きたということですか?」
王の横に陣取る王妃は、どこか棘のある口調でそう言った。
口調のみならず、その視線も刺々しかった。
「そんなわけではありませんが」
攻撃的な母親に対して、ジョゼフは笑うよりない。
事実、別に飽きたわけではないのだ。
そのほうが、良いように思えるから、そうしようというだけである。
単純な話であった。
「私は、別に止めませんが」
王妃は何か釘でもさすように、王を見ながら扇で口元を覆った。
「まあ、あなたがいても、王家の恥になりこそすれ、不足になることはありませんからね」
「母上もお口が悪い……」
「事実でしょう」
王妃は切りつけるように言って、視線をそらした。
「ただでさえ出来の悪いお前が、その上素行まで悪くすれば、まったく救いようがありません」
「私は、真面目にやっておるつもりですが」
はて、とジョゼフはとぼけた顔をして見せた。
「おだまりなさい。私がただの案山子と思っているのですか」
王妃はぱちんと扇を閉じて、ジョゼフに向かって突きつけた。
「聞いていますよ。最近、どこぞの平民の娘を拾ってきて、囲い者にしているそうですね」
「囲い者とは……」
やはり他人からみれば、そのように見えるらしい。
「参りましたな」
ジョゼフは困った顔で、頭を掻く。
「田舎貴族ならばいざ知らず、それが仮にもガリアの王子のすることですか!」
「いささか、誤解があるようですが」
ジョゼフは内心で怒りを覚えはしたが、ここで怒っても仕方ないと、口調も柔らかに弁明する。
「確かにメイドを一人雇っているのは確かですが、別にやましいところはありません」
「よくもまあ、ぬけぬけと……」
王妃は憎々しげにジョゼフを睨みつける。
それにしても、この母は何故ここまで怒っているのか。
ジョゼフが立腹するよりも困惑するよりなかった。
まさか、息子におかしな虫がついたので、怒ったり、妬いたりしているわけでもあるまい。
お気に入りのシャルルならばまだわかるが。
あるいは言葉通り、王族としての体面というものを気にしているのかもしれぬが。
のらりくらりとしたジョゼフの態度に、次第に王妃は興奮を強めてきているようだった。
ヒステリーを起こした女性、ことに権力を持った女性がそうなると始末が悪い。
(面倒なことになりそうな……)
ジョゼフが適当な言葉を考えると、
「ま、良い。好きにせい」
王妃を無視するように、王は言った。
「お前がそうと決めたのなら、それも良かろう」
「ありがとうございます」
父王の助け舟を、ジョゼフはありがたく受け取ることにした。
どっちにしろ、このまま母と話していても建設的な会話にはなるまい。
「あなた……」
王妃が抗議しようとすると、じろりと王の視線がそれを遮った。
「ただしな、ジョゼフよ? いったん隠居してしまった以上、次の王になる資格は失うぞ?」
「次の王は、シャルルでは?」
別に今さらあれこれ審議する必要性など感じられぬ。
(何を今さら……)
ジョゼフは苦笑するだけだった。
「それは、わしの決めることだ」
「そうですか。出すぎたことでした。申し訳ありません」
確かに、その通りではある。
ジョゼフは父王に頭を下げる。
「うむ……」
それから、隠居の許可をもらったジョゼフは足取りも軽く退室していった。
「あなた、どういうおつもりです、あんなことを……」
ジョゼフが出て行った後、王妃は咳きこむように呼吸をしながら、王に食ってかかった。
わずかだが、眼が血走っていた。
「どうもこうも、出て行くというのだから仕方あるまい。まさか、軟禁でもせよというのか?」
「そうではなくって……。あんな許可を出せば、どうせ田舎で羽目をはずして、ろくでもないことになるに決まっています!」
王妃は叫び散らした。
「ははは。女遊びに夢中になると心配か? ま、母親としては複雑だろうが、若いうちは女に精気をしぼられるのも勉強だ。ほっておけ」
王は呵呵大笑するばかりであった。
「……そのせいで、ガリアの家紋に傷がつくとは思いませんの!?」
「傷か。魔法が使えん無能王子だ、これ以上の傷など今さらどうということはないわ。お前もさんざん言っとるだろう」
王の言う通り、王妃は今まで、魔法の使えぬジョゼフに冷たく当たってきた。
「お前など、生まれてこなければ良かった!」
と、憎々しげに言い放ったことは一度や二度ではない。
「……ですが、ですか」
「かまわんさ。ほっとけ」
さすがに王妃はそれ以上何も言わなかったが、その顔は明らかに不服そうだった。
(隠居か。まさか、あのジョゼフがなあ……)
王はジョゼフの出て行った扉を見つめながら、ため息をつく。
(急に<良い顔つき>になったと思ったら、その矢先に自分から王位を投げ捨ておった。ま、これも運命というやつだ……)
横では、王妃はまだ何やらぶつくさと言っている。
(やれやれ、法界悋気というやつか。まったくもって、女というやつは……)
不出来な息子の行動が気に入らぬ、というわけであろうか。
王の口から漏れるため息は、いつしか苦笑へと変わっていった。
「はい、違う土地へいって、見聞を広めようかと思います」
「そうか……」
ジョゼフの言葉に、王は否ともよしとも答えなかった。
「知識を深めるだけながら、城の書物だけも十分すぎるほどではないのか?」
長い歴史を誇るガリア。
その王宮に保管されている書物の量は尋常のものではない。
「いえ、確かにそれも修養にはなりますが、実際に見聞きするのとは違いましょう」
「一理あるのう」
王はそう言って、顎を軽く撫でた。
「じゃが、本当のところは、どうなのだ?」
王はジョゼフの目を見ながら、そうたずねた。
ぴしりと、のんびりとしているけれど、強い圧力のある声であった。
「かないませんね」
ジョゼフはきまりが悪いと風に、笑ってみせた。
その笑みを見て、王の眼が微かに細められる。
「正直なところ申し上げますと、隠居したいのです」
「ほ、そりゃまた……」
王は肩をすくめるようにして、驚きの声をあげた。
「城の生活には、飽きたということですか?」
王の横に陣取る王妃は、どこか棘のある口調でそう言った。
口調のみならず、その視線も刺々しかった。
「そんなわけではありませんが」
攻撃的な母親に対して、ジョゼフは笑うよりない。
事実、別に飽きたわけではないのだ。
そのほうが、良いように思えるから、そうしようというだけである。
単純な話であった。
「私は、別に止めませんが」
王妃は何か釘でもさすように、王を見ながら扇で口元を覆った。
「まあ、あなたがいても、王家の恥になりこそすれ、不足になることはありませんからね」
「母上もお口が悪い……」
「事実でしょう」
王妃は切りつけるように言って、視線をそらした。
「ただでさえ出来の悪いお前が、その上素行まで悪くすれば、まったく救いようがありません」
「私は、真面目にやっておるつもりですが」
はて、とジョゼフはとぼけた顔をして見せた。
「おだまりなさい。私がただの案山子と思っているのですか」
王妃はぱちんと扇を閉じて、ジョゼフに向かって突きつけた。
「聞いていますよ。最近、どこぞの平民の娘を拾ってきて、囲い者にしているそうですね」
「囲い者とは……」
やはり他人からみれば、そのように見えるらしい。
「参りましたな」
ジョゼフは困った顔で、頭を掻く。
「田舎貴族ならばいざ知らず、それが仮にもガリアの王子のすることですか!」
「いささか、誤解があるようですが」
ジョゼフは内心で怒りを覚えはしたが、ここで怒っても仕方ないと、口調も柔らかに弁明する。
「確かにメイドを一人雇っているのは確かですが、別にやましいところはありません」
「よくもまあ、ぬけぬけと……」
王妃は憎々しげにジョゼフを睨みつける。
それにしても、この母は何故ここまで怒っているのか。
ジョゼフが立腹するよりも困惑するよりなかった。
まさか、息子におかしな虫がついたので、怒ったり、妬いたりしているわけでもあるまい。
お気に入りのシャルルならばまだわかるが。
あるいは言葉通り、王族としての体面というものを気にしているのかもしれぬが。
のらりくらりとしたジョゼフの態度に、次第に王妃は興奮を強めてきているようだった。
ヒステリーを起こした女性、ことに権力を持った女性がそうなると始末が悪い。
(面倒なことになりそうな……)
ジョゼフが適当な言葉を考えると、
「ま、良い。好きにせい」
王妃を無視するように、王は言った。
「お前がそうと決めたのなら、それも良かろう」
「ありがとうございます」
父王の助け舟を、ジョゼフはありがたく受け取ることにした。
どっちにしろ、このまま母と話していても建設的な会話にはなるまい。
「あなた……」
王妃が抗議しようとすると、じろりと王の視線がそれを遮った。
「ただしな、ジョゼフよ? いったん隠居してしまった以上、次の王になる資格は失うぞ?」
「次の王は、シャルルでは?」
別に今さらあれこれ審議する必要性など感じられぬ。
(何を今さら……)
ジョゼフは苦笑するだけだった。
「それは、わしの決めることだ」
「そうですか。出すぎたことでした。申し訳ありません」
確かに、その通りではある。
ジョゼフは父王に頭を下げる。
「うむ……」
それから、隠居の許可をもらったジョゼフは足取りも軽く退室していった。
「あなた、どういうおつもりです、あんなことを……」
ジョゼフが出て行った後、王妃は咳きこむように呼吸をしながら、王に食ってかかった。
わずかだが、眼が血走っていた。
「どうもこうも、出て行くというのだから仕方あるまい。まさか、軟禁でもせよというのか?」
「そうではなくって……。あんな許可を出せば、どうせ田舎で羽目をはずして、ろくでもないことになるに決まっています!」
王妃は叫び散らした。
「ははは。女遊びに夢中になると心配か? ま、母親としては複雑だろうが、若いうちは女に精気をしぼられるのも勉強だ。ほっておけ」
王は呵呵大笑するばかりであった。
「……そのせいで、ガリアの家紋に傷がつくとは思いませんの!?」
「傷か。魔法が使えん無能王子だ、これ以上の傷など今さらどうということはないわ。お前もさんざん言っとるだろう」
王の言う通り、王妃は今まで、魔法の使えぬジョゼフに冷たく当たってきた。
「お前など、生まれてこなければ良かった!」
と、憎々しげに言い放ったことは一度や二度ではない。
「……ですが、ですか」
「かまわんさ。ほっとけ」
さすがに王妃はそれ以上何も言わなかったが、その顔は明らかに不服そうだった。
(隠居か。まさか、あのジョゼフがなあ……)
王はジョゼフの出て行った扉を見つめながら、ため息をつく。
(急に<良い顔つき>になったと思ったら、その矢先に自分から王位を投げ捨ておった。ま、これも運命というやつだ……)
横では、王妃はまだ何やらぶつくさと言っている。
(やれやれ、法界悋気というやつか。まったくもって、女というやつは……)
不出来な息子の行動が気に入らぬ、というわけであろうか。
王の口から漏れるため息は、いつしか苦笑へと変わっていった。
「シェフィ、いるか?」
ジョゼフは何度かドアをノックしてみたが、返事は返ってこなかった。
生活パターンとして、今の時間は大体部屋にいるはずだから、どこかへ出かけているということはないだろう。
「……留守か?」
ジョゼフは、ノックする手を止めて、しばらくじっとしていたが、やがてハッとしてドアノブをつかんだ。
鍵はかかっておらず、あっさりとドアは開く。
シェフィールドは、机に頭を乗せて寝息を立てていた。
机の上には、児童向けの絵本が開かれたままになっている。
文字を読む勉強をしていて、つい眠りこんでしまったらしい。
ジョゼフは起こさぬよう、そっと少女を抱き上げ、ベッドに運んでやった。
(眠っていても、人の姿のままか……)
最初の頃は、彼女は眠る時には人形に戻っていた。
あるいは、ひどい失敗などをして落ちこんだ時も、人形に戻ってしまうことがあった。
けれども、そういったことは、もうほとんどなくなっていた。
彼女が最後に人形に戻ったのは、一体いつだったろうか?
「私がこの姿でいられるのは、ご主人様が気にかけてくださっている証」
いつか、シェフィールドはそう言った。
それがどういうことなのか、未だにわかるようなわからぬような、なのだが。
(もう、人形じゃないのかもしれんな……)
そっと毛布をかけてやりながら、ジョゼフは愛しい少女の寝顔を見る。
(もう、ではないか)
寝息をたてるシェフィールドの唇を見ながら、ジョゼフが足音をたてないようベッドから離れる。
人の魂を、心を宿して。
同じ土に還る命を持って。
きっと、彼女は最初から生きていて、
(人と、俺と同じ……なのだろうなあ)
ジョゼフはぎゅっと拳を握り締めた。
部屋を出ようとした時、部屋の隅っこに置かれた、古ぼけたチェストが目に入った。
シェフィールドの個室となる以前、この部屋は物置代わりに使われていた場所だった。
この古いチェストは、その名残のようなものだ。
一見ただのチェストに見えるけれど、魔法で中が三倍ほどの広さになっている特殊なマジックアイテムである。
幼い頃、ジョゼフはかくれんぼの時にここへ隠れたことがあった。
(ここなら見つからんと思っていたが、シャルルのやつはディテクト・マジックで簡単に見つけてしまったな……)
今からすれば、懐かしい思い出だった。
弟はとっくに忘れてしまったかもしれないが。
そんな時だった。
ジョゼフの耳に、誰かの泣き声が聞こえたような気がした。
(シェフィ?)
しかし、シェフィールドはすやすやと寝息をたてているだけだ。
(気のせいだったか?)
疲れているのかもしれぬと思いながら、ジョゼフは今度こそ部屋を出ようとして、愕然とした。
部屋の隅に何か小さなものがいる。
(賊か!?)
反射的に杖を手にしたが、それが存外に小さいものだと気づいて、やや心を落ち着けられた。
そもそも、賊がしくしく泣いているというのも、おかしな話である。
(何者だ?)
声をかけようと、静かに近づいてみた。
それは小さな子供だった。
壁に拳を叩きつけるようにして、声を殺して泣いている。
身なりからして、使用人の子供ということはない。
明らかに貴族階級の子供である。
(まさか、迷子か? しかし、こんなところに……)
どうにも、その泣き方が尋常とは思えない。
その青い髪から察するに、どうやら王家の血筋、少なくとも流れをくむ者であることは確からしい。
「おい……」
どうしたのだ? そう話しかけようと思った矢先、ジョゼフは声を失った。
泣いている子供はジョゼフとそっくりだったからである。
(なに……?!)
まさか、父の隠し子であろうか。
少なくとも、自分に身に覚えはない。
仮にあったとしても、この子供は見たところ七つか八つだ。
仮にジョゼフの子供だとすれば、ジョゼフが十歳の頃の子ということなる。
そんなことは、まずありえない。
「おい、お前……」
触れようと手を伸ばした矢先、子供はふっと消えてしまった。
まるで、幻か何かのように。
ジョゼフは唖然として、しばらくそこを動けなかった。
(なんだ、俺は、一体何を見たんだ?)
幽霊か、それとも妖精の悪戯だろうか。
怖いとか、不気味というのではなく、何か不思議な気分だった。
この世の秘密の一端を、図らずも覗いてしまったのではないか。
しばらく呆けたままでいたところ、
「んん……」
シェフィールドの声に、我にジョゼフは返った。
「ジョゼフ様……?」
シェフィールドはまだ寝ぼけ眼なのか、とろんとした表情でジョゼフを見ている。
「ああ、すまないな。起こしてしまったか?」
ジョゼフは何だか気恥ずかしくなり、わざとおどけるように言ってみせた。
「いいえ……」
シェフィールドはベッドから降りて、すたすたとジョゼフに寄ってくる。
「――どうした?」
「あの……」
シェフィールドはちょっと困ったような、そしてどうしたわけか気遣うような優しさの宿る目で、ジョゼフを見上げた。
「うん、どうかしたのか?」
ジョゼフはドギマギとして、少しだけ顔をそらす。
「夢の中で、小さなジョゼフ様が泣いていらっしゃいました」
シェフィールドは、妙なことを言う。
「俺が……?」
ジョゼフはさっきの幻を思い浮かべた。
(あれは、やっぱり俺自身だったのか。しかし、なぜあんなものを見たのだ?)
シェフィールドの夢にも出てきたということは、この部屋に何かあるのか。
部屋の中を注意深く見ながら、ジョゼフは色々と考えてみた。
まさか、幽霊というわけでもあるまい。
それから、先ほど幻を見たあたりへと近づき、壁などを調べてみる。
けれど、別に怪しいものはないようだった。
(ここに、何か?)
壁に手を触れながら、ジョゼフは顔をしかめた。
不機嫌になっているわけではなく、思考を深くしているためである。
(ふふ、こんなことをするのも、ずいぶんと久しぶりだな。子供の頃は時々こうして……)
この時、だった。
ジョゼフの心の中で、がちゃりと鍵がはずれる音がしたようだった。
(ああ、そうだったか)
ジョゼフは目を見開き、大きく息を吐いた。
「ジョゼフ様、どうされました?」
シェフィールドがあわててジョゼフのそばに走る。
「……なあ、シェフィ。お前の、その夢の中に出てきた、小さな俺は」
そこまで言って、ジョゼフはシェフィールドの顔を見る。
いつもの、邪気のない少女の顔がそこにあった。
「いや、何でもない。少し、子供の頃を思い出した」
笑って立ち上がり、シェフィールドの肩を抱いた。
「……♪」
シェフィールドはジョゼフの表情にほっとして、心地良さそうに、胸に頬をつけた。
(そうだった。子供の頃、よくここへ隠れては泣いていたものだ……)
魔法が使えぬことで、何度味わったかしれない悔しさや悲しさ。
誰とも会いたくなくなった時、ジョゼフは物置だったこの部屋で、涙を流していた。
一体何度そんなことを繰り返したのか、思い出したくもなかった。
このことは、誰も知らない。
弟のシャルルでさえもだ。
(すっかり忘れた……。いや、忘れたような気持ちになっていたが……)
ジョゼフはそっと壁を撫でてみた。
何もないようだが、ここにはジョゼフの暗い涙が染みついているのだろうか。
(そんな場所を、シェフィールドの部屋にするなんて、まったく俺という男は……)
つくづくと、自分で自分が情けなくなってくる。
思わず、苦笑が漏れた。
夢の中のことをたずねた時、シェフィールドが見せた表情。
それで、全てわかったような気がした。
この少女が、コンプレックスとか、絶望という暗い想念で潰れそうになっている幼い頃のジョゼフを、どうしてくれたのか。
そこから先は、口に出す必要はなかった。
出すのは野暮というものである。
誰もしてくれなかった、あるいはジョゼフ自身が、してやらねばならなかったことを、彼女はしてくれたのだ。
(もしも、もう一度<あいつ>と、いや<俺自身>と会うことがあったのなら……)
その時は、今度こそジョゼフ自身がやらねばならぬ。
できるかどうか、ではなく、やらなければならないのだ。
(いや、絶対にできるし、絶対にやる)
ジョゼフはそう決心して、シェフィールドの顔を見た。
彼女には、まったくどれだけ感謝していいのかわからない。
それなのに、また感謝せねばならぬことを増えてしまった。
嬉しい反面、ひどく情けなくもある。
「シェフィ……」
「はい」
「お前がいてくれて、良かった」
ジョゼフがそう言うと、シェフィールドは花のようにパアァ……と微笑んだ。
ジョゼフは何度かドアをノックしてみたが、返事は返ってこなかった。
生活パターンとして、今の時間は大体部屋にいるはずだから、どこかへ出かけているということはないだろう。
「……留守か?」
ジョゼフは、ノックする手を止めて、しばらくじっとしていたが、やがてハッとしてドアノブをつかんだ。
鍵はかかっておらず、あっさりとドアは開く。
シェフィールドは、机に頭を乗せて寝息を立てていた。
机の上には、児童向けの絵本が開かれたままになっている。
文字を読む勉強をしていて、つい眠りこんでしまったらしい。
ジョゼフは起こさぬよう、そっと少女を抱き上げ、ベッドに運んでやった。
(眠っていても、人の姿のままか……)
最初の頃は、彼女は眠る時には人形に戻っていた。
あるいは、ひどい失敗などをして落ちこんだ時も、人形に戻ってしまうことがあった。
けれども、そういったことは、もうほとんどなくなっていた。
彼女が最後に人形に戻ったのは、一体いつだったろうか?
「私がこの姿でいられるのは、ご主人様が気にかけてくださっている証」
いつか、シェフィールドはそう言った。
それがどういうことなのか、未だにわかるようなわからぬような、なのだが。
(もう、人形じゃないのかもしれんな……)
そっと毛布をかけてやりながら、ジョゼフは愛しい少女の寝顔を見る。
(もう、ではないか)
寝息をたてるシェフィールドの唇を見ながら、ジョゼフが足音をたてないようベッドから離れる。
人の魂を、心を宿して。
同じ土に還る命を持って。
きっと、彼女は最初から生きていて、
(人と、俺と同じ……なのだろうなあ)
ジョゼフはぎゅっと拳を握り締めた。
部屋を出ようとした時、部屋の隅っこに置かれた、古ぼけたチェストが目に入った。
シェフィールドの個室となる以前、この部屋は物置代わりに使われていた場所だった。
この古いチェストは、その名残のようなものだ。
一見ただのチェストに見えるけれど、魔法で中が三倍ほどの広さになっている特殊なマジックアイテムである。
幼い頃、ジョゼフはかくれんぼの時にここへ隠れたことがあった。
(ここなら見つからんと思っていたが、シャルルのやつはディテクト・マジックで簡単に見つけてしまったな……)
今からすれば、懐かしい思い出だった。
弟はとっくに忘れてしまったかもしれないが。
そんな時だった。
ジョゼフの耳に、誰かの泣き声が聞こえたような気がした。
(シェフィ?)
しかし、シェフィールドはすやすやと寝息をたてているだけだ。
(気のせいだったか?)
疲れているのかもしれぬと思いながら、ジョゼフは今度こそ部屋を出ようとして、愕然とした。
部屋の隅に何か小さなものがいる。
(賊か!?)
反射的に杖を手にしたが、それが存外に小さいものだと気づいて、やや心を落ち着けられた。
そもそも、賊がしくしく泣いているというのも、おかしな話である。
(何者だ?)
声をかけようと、静かに近づいてみた。
それは小さな子供だった。
壁に拳を叩きつけるようにして、声を殺して泣いている。
身なりからして、使用人の子供ということはない。
明らかに貴族階級の子供である。
(まさか、迷子か? しかし、こんなところに……)
どうにも、その泣き方が尋常とは思えない。
その青い髪から察するに、どうやら王家の血筋、少なくとも流れをくむ者であることは確からしい。
「おい……」
どうしたのだ? そう話しかけようと思った矢先、ジョゼフは声を失った。
泣いている子供はジョゼフとそっくりだったからである。
(なに……?!)
まさか、父の隠し子であろうか。
少なくとも、自分に身に覚えはない。
仮にあったとしても、この子供は見たところ七つか八つだ。
仮にジョゼフの子供だとすれば、ジョゼフが十歳の頃の子ということなる。
そんなことは、まずありえない。
「おい、お前……」
触れようと手を伸ばした矢先、子供はふっと消えてしまった。
まるで、幻か何かのように。
ジョゼフは唖然として、しばらくそこを動けなかった。
(なんだ、俺は、一体何を見たんだ?)
幽霊か、それとも妖精の悪戯だろうか。
怖いとか、不気味というのではなく、何か不思議な気分だった。
この世の秘密の一端を、図らずも覗いてしまったのではないか。
しばらく呆けたままでいたところ、
「んん……」
シェフィールドの声に、我にジョゼフは返った。
「ジョゼフ様……?」
シェフィールドはまだ寝ぼけ眼なのか、とろんとした表情でジョゼフを見ている。
「ああ、すまないな。起こしてしまったか?」
ジョゼフは何だか気恥ずかしくなり、わざとおどけるように言ってみせた。
「いいえ……」
シェフィールドはベッドから降りて、すたすたとジョゼフに寄ってくる。
「――どうした?」
「あの……」
シェフィールドはちょっと困ったような、そしてどうしたわけか気遣うような優しさの宿る目で、ジョゼフを見上げた。
「うん、どうかしたのか?」
ジョゼフはドギマギとして、少しだけ顔をそらす。
「夢の中で、小さなジョゼフ様が泣いていらっしゃいました」
シェフィールドは、妙なことを言う。
「俺が……?」
ジョゼフはさっきの幻を思い浮かべた。
(あれは、やっぱり俺自身だったのか。しかし、なぜあんなものを見たのだ?)
シェフィールドの夢にも出てきたということは、この部屋に何かあるのか。
部屋の中を注意深く見ながら、ジョゼフは色々と考えてみた。
まさか、幽霊というわけでもあるまい。
それから、先ほど幻を見たあたりへと近づき、壁などを調べてみる。
けれど、別に怪しいものはないようだった。
(ここに、何か?)
壁に手を触れながら、ジョゼフは顔をしかめた。
不機嫌になっているわけではなく、思考を深くしているためである。
(ふふ、こんなことをするのも、ずいぶんと久しぶりだな。子供の頃は時々こうして……)
この時、だった。
ジョゼフの心の中で、がちゃりと鍵がはずれる音がしたようだった。
(ああ、そうだったか)
ジョゼフは目を見開き、大きく息を吐いた。
「ジョゼフ様、どうされました?」
シェフィールドがあわててジョゼフのそばに走る。
「……なあ、シェフィ。お前の、その夢の中に出てきた、小さな俺は」
そこまで言って、ジョゼフはシェフィールドの顔を見る。
いつもの、邪気のない少女の顔がそこにあった。
「いや、何でもない。少し、子供の頃を思い出した」
笑って立ち上がり、シェフィールドの肩を抱いた。
「……♪」
シェフィールドはジョゼフの表情にほっとして、心地良さそうに、胸に頬をつけた。
(そうだった。子供の頃、よくここへ隠れては泣いていたものだ……)
魔法が使えぬことで、何度味わったかしれない悔しさや悲しさ。
誰とも会いたくなくなった時、ジョゼフは物置だったこの部屋で、涙を流していた。
一体何度そんなことを繰り返したのか、思い出したくもなかった。
このことは、誰も知らない。
弟のシャルルでさえもだ。
(すっかり忘れた……。いや、忘れたような気持ちになっていたが……)
ジョゼフはそっと壁を撫でてみた。
何もないようだが、ここにはジョゼフの暗い涙が染みついているのだろうか。
(そんな場所を、シェフィールドの部屋にするなんて、まったく俺という男は……)
つくづくと、自分で自分が情けなくなってくる。
思わず、苦笑が漏れた。
夢の中のことをたずねた時、シェフィールドが見せた表情。
それで、全てわかったような気がした。
この少女が、コンプレックスとか、絶望という暗い想念で潰れそうになっている幼い頃のジョゼフを、どうしてくれたのか。
そこから先は、口に出す必要はなかった。
出すのは野暮というものである。
誰もしてくれなかった、あるいはジョゼフ自身が、してやらねばならなかったことを、彼女はしてくれたのだ。
(もしも、もう一度<あいつ>と、いや<俺自身>と会うことがあったのなら……)
その時は、今度こそジョゼフ自身がやらねばならぬ。
できるかどうか、ではなく、やらなければならないのだ。
(いや、絶対にできるし、絶対にやる)
ジョゼフはそう決心して、シェフィールドの顔を見た。
彼女には、まったくどれだけ感謝していいのかわからない。
それなのに、また感謝せねばならぬことを増えてしまった。
嬉しい反面、ひどく情けなくもある。
「シェフィ……」
「はい」
「お前がいてくれて、良かった」
ジョゼフがそう言うと、シェフィールドは花のようにパアァ……と微笑んだ。
ガリアの第二王子、シャルルが兄であるジョゼフのもとを訪れたのは、その日の昼下がりのことだった。
シャルルは、普段あまり見せることのない険しい表情をしており、そんな王子を侍従たちは何事かという表情で見送る。
その時ばかりのことではない。
シャルルは、ここ最近あまり機嫌がよろしくなく、宮廷の人々は少々緊張気味であった。
一方で、ジョゼフのほうは、引越しの準備・下調べに忙しく、ドタバタと落ちついていなかった。
それは別にジョゼフばかりではなく、ヴェルサルテイル、特にその中心グラン・トロワは若干浮ついた空気が流れていた。
その空気は、城内ばかりか、リュティス全体に広がっていた。
理由は、ハッキリとしていた。
「次の王は、シャルルとする」
そう国王が正式に発表したためである。
確かに大ニュースではあるけれども、格別ショッキングという種のものではなかった。
むしろ、大方の予測通りであったことだからだ。
幼少時から、大天才だ、神童だと称えられてきたシャルルである。
誰しも、次の王はこの少年に間違いないと思っていた逸材なのだから、当然のことだった。
王はまだまだ健康・健在であるし、この発表は単純に<おめでたいこと>として、国民は受け取っていた。
「めでたい、めでたい」
「やっぱり、シャルル様だねえ」
「これでガリアは次代も安泰だ」
このことは、ジョゼフにしても喜ばしいものだった。
周囲の注意が一斉にシャルルに集まるので、その分準備が淀みなく行える。
とどのつまり、この騒ぎに乗じてとっと城から出てしまおうということなのだ。
(まさか、父上が気をきかしてくれた、わけでもないだろうが……。良いチャンスだな)
そう考えているジョゼフのもとに、シャルルがやってきた。
ちょうど、部屋で書物の整理をしている時だった。
いずれも暗記するほどに読み返したものばかりである。
だが、孤独だったジョゼフを慰めてくれた友人のような存在であり、城に置いていくのは嫌だったのだ。
「兄さん……」
シャルルが顔を蒼白にして、ずかずかと部屋に入ってきたのである。
「おう、シャルルか。何か用か?」
二人きりだ、気さくにおめでとう、がんばれよとも言ってやるか。
そうジョゼフは思ったが、どうもそんな言葉をかけられる雰囲気ではなかった。
「どういうこと、城を出るって」
シャルルは唇を震わせ、噛みつくように言った。
「いや、いい加減でここでの暮らすのも疲れた。田舎にでも引っこむことにしようと思ってな」
「父上から、聞いたよ」
シャルルはジョゼフを睨むように、いや、睨んだ。
「兄さんが、王位を辞退したって……」
「おい、まるで俺も<王様候補>だったような言いかただな」
ジョゼフは持っていた一冊を置いて、シャルルのほうを向き直った。
「当たり前じゃないか!?」
「建前上はな? だが、その実あってないようなもの、いや……事実なかったものだと思うぞ、俺は」
「兄さん!」
シャルルはきっとなって、ジョゼフに詰め寄った。
「兄さん、何考えてるんだよ……。兄さんは、王子じゃないか!」
「一応はな……」
「それが、いきなり変なメイドを連れて隠居するなんて、どうかしてるよ!」
シェフィールドを揶揄されて、ジョゼフは少しムッとするが、そこはどうにか流して、
「おい、落ちつけよ? 王子だろうが、お姫様だろうが、いい年になれば、結婚して、城を出るのは当然だろう?」
ジョゼフは興奮している弟に、優しく諭すように言った。
「兄さんは結婚もしてないし、父上はまだまだ元気じゃないか」
「それは、そうなんだがな……」
ジョゼフはさて、どう言おうかと、頭を悩ませる。
「お前も、正式に次期の王に決まったことだし、いい機会だと思うぞ?」
「ちょっと待って、兄さん…! 落ち着いて考えよう?」
口から泡を飛ばさんばかりの勢いで、シャルルはジョゼフの肩をつかんだ。
爪が肉に食い込み、痛いほどの力であった。
「おい……」
ジョゼフは痛みに顔をしかめつつ、シャルルの様子がおかしいことに気づいた。
落ち着けと言う、お前のほうこそ落ち着けと言いたい。
顔つきがどこか曇っており、眼の光が尋常のものではなかった。
(シャルルは、こんな顔だったか……?)
長年共に暮らしてきた弟の顔が、何か見知らぬ他人の顔のように思えてならなかった。
何故、弟はこんなにも乱れているのか、さっぱりわからぬ。
思い当たることと言えば、王位継承のことだが、弟がそれに不服を感じたと思えなかった。
時には、魔法の使えぬ兄ジョゼフを気遣って、わざと魔法に失敗するようなこともあった。
だが、同時にガリアでも最高クラスの魔法の使い手という自負もあったはずだ。
(……あるいは、いきなり次期王に指名されて、戸惑っているのか?)
いくら王族といえと、まだ十五の少年にとって、大国がリアの玉座は、確かに重いものであるかもしれない。
(しかし、今日明日にでも即位するというわけじゃあるまいし……)
父が急死でもすれば別だが、王としての教育はこれからじっくりとやっていけばいいではないか。
おそらく、父もその腹づもりであるはずだ。
混乱しているシャルルには、そのへんのことがわかっていないのかもしれぬ。
王に指名されたことで取り乱し、兄にすがってきたということか。
そう考えると、弟の態度も可愛く思えてくる。
考えてみれば、シェフィールドがきてから、シャルルと話らしい話をしていなかった。
今後は、あまり会えなくなるのだから、今のうちに色々と語り合うのも悪くないかもしれない。
「まあ、そう取り乱すなよ」
ジョゼフはシャルルの手をやんわりとはずしながら、努めて穏やかに言って聞かせた。
「父上は後で揉めないように、今から取り決めておいたのだろうさ。別に、今すぐお前に王になれという話じゃない」
「だから、兄さん! どうして、急に出ていくんだよ!」
シャルルは、目を血走らせて叫んだ。
「……」
どうも、おかしい。
会話が噛み合っていないようである。
シャルルの態度も、こちらの言葉がきちんと伝わってくるのか疑わしいものだった。
口ぶりからすると、ジョゼフをここに留めておきたいようにも思える。
何かが<妙>であった。
シャルルという人間から、ネジが何本か抜け落ちてしまったような気配なのである。
どうしてそのようになったのか、理由らしい理由がジョゼフにはわからない。
「お前、少しおかしいぞ?」
「おかしいのは、兄さんのほうだ!!」
今にも杖を抜かんばかりの勢いで、シャルルは絶叫した。
「おい……」
「ここ最近の兄さんは、変だ、変だと思ったけど、本当におかしくなったのかよ!?」
「自分じゃ、そんなつもりはないがな……」
そのように言いながらも、ジョゼフは自分が以前とは違っていることに自覚的だった。
少なくとも、以前の自分が、どうしようもなく愚かだったことはわかっている。
シェフィールドと出会う前の自分が、何とも惨めで救いがたい男だったことは理解しているのだ。
(救いがたいというところは、変わっていないがな……)
それが、どう変わっているのかは自分自身では明瞭にはわからぬが。
「やっぱり、あの女のせいなのかい……」
シャルルは急に声を落として、ジョゼフを睨んだ。
それは、いつも人々から愛され、称えられていた少年には、あまりにも不似合いな、暗い目つきだった。
ジョゼフは背筋に薄ら寒いものをおぼえた。
「シャルル……」
どうにか声をかけようとしたが、シャルルの声がそれを打ち払ってしまう。
「忠義面して、兄さんに擦り寄ってるけど……。そんなので、骨抜きにされたのか、兄さんは!」
「おい!」
その言い草に、ジョゼフもついに大声を出したが、シャルルは怯まない。
「どうせ、王族って肩書きに釣られて、いい顔をしてるだけだ。そんなこともわからないなんて……」
「いい加減にしろ、シャルル! 俺はいい、魔法の使えん無能者だからな。だが、シェフィのことは悪く言うな!」
あれは、そんな娘ではない。
大体、<王族>の肩書きに、表面だけへつらう人間など、どれだけ見てきたことかわからない。
そんな連中と、シェフィールドを一緒くたにするなど、許しがたい侮辱だった。
自分自身を含めたこのガリアに、あの娘のような善良さと優しさを持った者がいるものか。
しかし、シャルルは不快そうに顔を歪めるだけだった。
その顔つきは、ジョゼフに蔑んだ眼を送る母親そっくりであった。
たまらない不快感がジョゼフの心にへばりついた。
「本当に……どうしようもなくなっているんだね、兄さんは」
「何が言いたい……」
「あんな女! どうせ、兄さんのことなんかこれっぽっちも考えちゃいないんだ!! わかっちゃいないんだ!!」
「ふざけるな、お前のほうこそ、何もわかっちゃいない!」
「わからないの? 兄さんは、王族なんだよ……?」
噛んで含めるように、シャルルは言う。
「それが、どうした……」
「あんな卑しい女と、一緒にいちゃいけないんだ! どうしてわからないんだよ!!!」
シャルルの言い分に、ジョゼフは舌打ちをしたくなった。
このハルケギニアにおいて、貴族と平民の区分は絶対だ。
しかし、弟は平民をこうも見下すようなことはなかったはずである。
それがこうも悪し様に言うとは。
(これがこいつの、本音か?)
そうは、思いたくはなかった。
何度その才能を妬んだかわからない賢弟だが、憎むようなことは一度たりともなかったのだ。
だが、これ以上話をしたくもなかった。
これ以上言い争えば、どうにもならなくなるように思えたのだ。
ジョゼフが黙ると、シャルルはさらに追い討ちをかけてきた。
「目を覚ましてよ、兄さん! あんな下卑た女に惑わされてさあ、おかしいよ!!」
もはや、限界だった。
ジョゼフは力まかせに、シャルルの顔を殴りつけた。
魔法では絶対的に劣るものの、その分肉体を鍛えこんできたジョゼフの腕力に、シャルルは床に叩きつけられた。
シャルルは何が起こったのかわからぬという顔で、呆然となって兄を見上げている。
ジョゼフは怒りの形相のまま、弟を睨みつけていた。
握り締めた拳が、震えていた。
シャルルは、普段あまり見せることのない険しい表情をしており、そんな王子を侍従たちは何事かという表情で見送る。
その時ばかりのことではない。
シャルルは、ここ最近あまり機嫌がよろしくなく、宮廷の人々は少々緊張気味であった。
一方で、ジョゼフのほうは、引越しの準備・下調べに忙しく、ドタバタと落ちついていなかった。
それは別にジョゼフばかりではなく、ヴェルサルテイル、特にその中心グラン・トロワは若干浮ついた空気が流れていた。
その空気は、城内ばかりか、リュティス全体に広がっていた。
理由は、ハッキリとしていた。
「次の王は、シャルルとする」
そう国王が正式に発表したためである。
確かに大ニュースではあるけれども、格別ショッキングという種のものではなかった。
むしろ、大方の予測通りであったことだからだ。
幼少時から、大天才だ、神童だと称えられてきたシャルルである。
誰しも、次の王はこの少年に間違いないと思っていた逸材なのだから、当然のことだった。
王はまだまだ健康・健在であるし、この発表は単純に<おめでたいこと>として、国民は受け取っていた。
「めでたい、めでたい」
「やっぱり、シャルル様だねえ」
「これでガリアは次代も安泰だ」
このことは、ジョゼフにしても喜ばしいものだった。
周囲の注意が一斉にシャルルに集まるので、その分準備が淀みなく行える。
とどのつまり、この騒ぎに乗じてとっと城から出てしまおうということなのだ。
(まさか、父上が気をきかしてくれた、わけでもないだろうが……。良いチャンスだな)
そう考えているジョゼフのもとに、シャルルがやってきた。
ちょうど、部屋で書物の整理をしている時だった。
いずれも暗記するほどに読み返したものばかりである。
だが、孤独だったジョゼフを慰めてくれた友人のような存在であり、城に置いていくのは嫌だったのだ。
「兄さん……」
シャルルが顔を蒼白にして、ずかずかと部屋に入ってきたのである。
「おう、シャルルか。何か用か?」
二人きりだ、気さくにおめでとう、がんばれよとも言ってやるか。
そうジョゼフは思ったが、どうもそんな言葉をかけられる雰囲気ではなかった。
「どういうこと、城を出るって」
シャルルは唇を震わせ、噛みつくように言った。
「いや、いい加減でここでの暮らすのも疲れた。田舎にでも引っこむことにしようと思ってな」
「父上から、聞いたよ」
シャルルはジョゼフを睨むように、いや、睨んだ。
「兄さんが、王位を辞退したって……」
「おい、まるで俺も<王様候補>だったような言いかただな」
ジョゼフは持っていた一冊を置いて、シャルルのほうを向き直った。
「当たり前じゃないか!?」
「建前上はな? だが、その実あってないようなもの、いや……事実なかったものだと思うぞ、俺は」
「兄さん!」
シャルルはきっとなって、ジョゼフに詰め寄った。
「兄さん、何考えてるんだよ……。兄さんは、王子じゃないか!」
「一応はな……」
「それが、いきなり変なメイドを連れて隠居するなんて、どうかしてるよ!」
シェフィールドを揶揄されて、ジョゼフは少しムッとするが、そこはどうにか流して、
「おい、落ちつけよ? 王子だろうが、お姫様だろうが、いい年になれば、結婚して、城を出るのは当然だろう?」
ジョゼフは興奮している弟に、優しく諭すように言った。
「兄さんは結婚もしてないし、父上はまだまだ元気じゃないか」
「それは、そうなんだがな……」
ジョゼフはさて、どう言おうかと、頭を悩ませる。
「お前も、正式に次期の王に決まったことだし、いい機会だと思うぞ?」
「ちょっと待って、兄さん…! 落ち着いて考えよう?」
口から泡を飛ばさんばかりの勢いで、シャルルはジョゼフの肩をつかんだ。
爪が肉に食い込み、痛いほどの力であった。
「おい……」
ジョゼフは痛みに顔をしかめつつ、シャルルの様子がおかしいことに気づいた。
落ち着けと言う、お前のほうこそ落ち着けと言いたい。
顔つきがどこか曇っており、眼の光が尋常のものではなかった。
(シャルルは、こんな顔だったか……?)
長年共に暮らしてきた弟の顔が、何か見知らぬ他人の顔のように思えてならなかった。
何故、弟はこんなにも乱れているのか、さっぱりわからぬ。
思い当たることと言えば、王位継承のことだが、弟がそれに不服を感じたと思えなかった。
時には、魔法の使えぬ兄ジョゼフを気遣って、わざと魔法に失敗するようなこともあった。
だが、同時にガリアでも最高クラスの魔法の使い手という自負もあったはずだ。
(……あるいは、いきなり次期王に指名されて、戸惑っているのか?)
いくら王族といえと、まだ十五の少年にとって、大国がリアの玉座は、確かに重いものであるかもしれない。
(しかし、今日明日にでも即位するというわけじゃあるまいし……)
父が急死でもすれば別だが、王としての教育はこれからじっくりとやっていけばいいではないか。
おそらく、父もその腹づもりであるはずだ。
混乱しているシャルルには、そのへんのことがわかっていないのかもしれぬ。
王に指名されたことで取り乱し、兄にすがってきたということか。
そう考えると、弟の態度も可愛く思えてくる。
考えてみれば、シェフィールドがきてから、シャルルと話らしい話をしていなかった。
今後は、あまり会えなくなるのだから、今のうちに色々と語り合うのも悪くないかもしれない。
「まあ、そう取り乱すなよ」
ジョゼフはシャルルの手をやんわりとはずしながら、努めて穏やかに言って聞かせた。
「父上は後で揉めないように、今から取り決めておいたのだろうさ。別に、今すぐお前に王になれという話じゃない」
「だから、兄さん! どうして、急に出ていくんだよ!」
シャルルは、目を血走らせて叫んだ。
「……」
どうも、おかしい。
会話が噛み合っていないようである。
シャルルの態度も、こちらの言葉がきちんと伝わってくるのか疑わしいものだった。
口ぶりからすると、ジョゼフをここに留めておきたいようにも思える。
何かが<妙>であった。
シャルルという人間から、ネジが何本か抜け落ちてしまったような気配なのである。
どうしてそのようになったのか、理由らしい理由がジョゼフにはわからない。
「お前、少しおかしいぞ?」
「おかしいのは、兄さんのほうだ!!」
今にも杖を抜かんばかりの勢いで、シャルルは絶叫した。
「おい……」
「ここ最近の兄さんは、変だ、変だと思ったけど、本当におかしくなったのかよ!?」
「自分じゃ、そんなつもりはないがな……」
そのように言いながらも、ジョゼフは自分が以前とは違っていることに自覚的だった。
少なくとも、以前の自分が、どうしようもなく愚かだったことはわかっている。
シェフィールドと出会う前の自分が、何とも惨めで救いがたい男だったことは理解しているのだ。
(救いがたいというところは、変わっていないがな……)
それが、どう変わっているのかは自分自身では明瞭にはわからぬが。
「やっぱり、あの女のせいなのかい……」
シャルルは急に声を落として、ジョゼフを睨んだ。
それは、いつも人々から愛され、称えられていた少年には、あまりにも不似合いな、暗い目つきだった。
ジョゼフは背筋に薄ら寒いものをおぼえた。
「シャルル……」
どうにか声をかけようとしたが、シャルルの声がそれを打ち払ってしまう。
「忠義面して、兄さんに擦り寄ってるけど……。そんなので、骨抜きにされたのか、兄さんは!」
「おい!」
その言い草に、ジョゼフもついに大声を出したが、シャルルは怯まない。
「どうせ、王族って肩書きに釣られて、いい顔をしてるだけだ。そんなこともわからないなんて……」
「いい加減にしろ、シャルル! 俺はいい、魔法の使えん無能者だからな。だが、シェフィのことは悪く言うな!」
あれは、そんな娘ではない。
大体、<王族>の肩書きに、表面だけへつらう人間など、どれだけ見てきたことかわからない。
そんな連中と、シェフィールドを一緒くたにするなど、許しがたい侮辱だった。
自分自身を含めたこのガリアに、あの娘のような善良さと優しさを持った者がいるものか。
しかし、シャルルは不快そうに顔を歪めるだけだった。
その顔つきは、ジョゼフに蔑んだ眼を送る母親そっくりであった。
たまらない不快感がジョゼフの心にへばりついた。
「本当に……どうしようもなくなっているんだね、兄さんは」
「何が言いたい……」
「あんな女! どうせ、兄さんのことなんかこれっぽっちも考えちゃいないんだ!! わかっちゃいないんだ!!」
「ふざけるな、お前のほうこそ、何もわかっちゃいない!」
「わからないの? 兄さんは、王族なんだよ……?」
噛んで含めるように、シャルルは言う。
「それが、どうした……」
「あんな卑しい女と、一緒にいちゃいけないんだ! どうしてわからないんだよ!!!」
シャルルの言い分に、ジョゼフは舌打ちをしたくなった。
このハルケギニアにおいて、貴族と平民の区分は絶対だ。
しかし、弟は平民をこうも見下すようなことはなかったはずである。
それがこうも悪し様に言うとは。
(これがこいつの、本音か?)
そうは、思いたくはなかった。
何度その才能を妬んだかわからない賢弟だが、憎むようなことは一度たりともなかったのだ。
だが、これ以上話をしたくもなかった。
これ以上言い争えば、どうにもならなくなるように思えたのだ。
ジョゼフが黙ると、シャルルはさらに追い討ちをかけてきた。
「目を覚ましてよ、兄さん! あんな下卑た女に惑わされてさあ、おかしいよ!!」
もはや、限界だった。
ジョゼフは力まかせに、シャルルの顔を殴りつけた。
魔法では絶対的に劣るものの、その分肉体を鍛えこんできたジョゼフの腕力に、シャルルは床に叩きつけられた。
シャルルは何が起こったのかわからぬという顔で、呆然となって兄を見上げている。
ジョゼフは怒りの形相のまま、弟を睨みつけていた。
握り締めた拳が、震えていた。