※グロテスクな表現もあったりするんじゃないかな。
アルコ・イリスには時折、月から雨が降ることがある。明るい月が上天にかかり穏やかな虹色の雨が降る。
レオがそれに気がついたのは、クォールの研究室に入って四日目のことだった。師に誘われ、研究終了後にシャトラグルに興じていた時だ。
シャトラグルは升目に区切られた盤と駒で様式的な戦争を遊ぶ。多種多様な駒とルールが存在するが、この夜指したのはごく一般的な王殺し。
駒をつまむ師の左手は少しゆがんだ形をしていた。中指が、やや短い。駒を打つ時、第一関節まで失われているのが見て取れた。
戦争遊戯はレオの完敗に終わる。レオは驚いた。ズルする気はないが嫌でも先が見える“未来視”を、クォールはごく正統的に位押しで押しきる。
「レオ君。このゲームは駒を取る遊びじゃない。流れを取るんだ」
それからもレオは新しく与えられる慣れない仕事を続ける。一番新入りの弟子として働きながら、たまに師の指について思う。何か事故でもあったのかと思うけれど、レオの見た範囲ではむしろラザロの研究よりも事故の確率は少なそうだ。やっていることは物騒だが、扱うもの自体はごく普通の魔術士と変わりない。
レオを取り巻いていた金属と油の気配が少しづつ紙と薬のそれに置き換わっていく。
結局、指についてはレオは何も聞けない。もっと歴の長い弟子たちは無口で研究に関する最低限の連絡しか口にせず、疑問は疑問として残った。
クォールの研究室の弟子たちはとにかく私語が少ない。師にボロクソに罵られるのさえ覚悟すればラザロの研究室では何を言ってもよかった。そしてラザロは弟子が黙っていてもそれはそれできっちり罵るので、弟子たちは言わなきゃ損とばかりに色々なことをさえずった。閃いたアイディアについて。研究の進め方について。まったくの私事について。
翻ってみれば活力があったとも言える。皆ごめん、とレオはまた罪悪感に涙ぐむ。
それについて師が語ったのは、月から雨が降った夜だった。煌々とした満月が夜空の中心にあり、しんしんと雨が都を湿らせていく。
「この指は、」とたまたま居残っていたレオに、月を見上げながら師は言う。相手は誰でもよさそうだった。「月にあるんだ」
何を言ってるんだろう、と自分のことを思い切り棚に上げてレオは思う。
「治せるんじゃないですか?再生魔術専攻の人だっているんですし」
「治さないんだよ。無いことが有ること以上に豊穣であることが時としてある。月にある骨の欠片が僕をして“土地殺し”たらしめる」見上げるクォールは血の気の通わない表情でそうつぶやく。
「でも、良い頃合いかもしれない」
やがて、そうも言った。
「何がですか」
「指を取り返しに行くのさ。次に月の雨が降った時に行こうと前から考えていた」
そのままひょいと月にまで行きそうなことを言う師に、レオはえも言われる不安を覚える。ただ、「これから行くんですか」とのみ声を出す。
「まさか。夜が明けてからにするよ。だって、今は雨が降ってるじゃないか」
翌朝には雨はすっかりあがっている。
塔を出て、クォールは翡翠通りに進んだ。目的地まで飛ぶことも跳ぶこともできたが、歩いて行く方がふさわしいようにクォールには思えたのだった。
翡翠通りは名前の通り緑が多い。塔のある
中央区に近い所でも数多くの街路樹と花壇、公園が並び枝葉を大きく通りの上に張り出して陽の光を奪い合う。下は緑のトンネルの中のような、都市の真ん中のくせに変に静謐な雰囲気が漂う。並ぶ店も花屋、薬草屋などが多い。
外壁に向かうにつれさらに大通りと言う姿からはどんどん離れていく。ある地点では樹齢数千年の大きな木が道の真ん中をふさぎ、翡翠通りそのものがそれを左右に迂回している。ある一角ではアルコ・イリス市街の中でありながら山中の小道のような有様になる。半ば土に埋もれた砕螢緑の敷石と木にもたれかかった翡翠通りの看板が、かろうじてここが大都市の七大通りの一つなのだと告げている。山歩きの格好をした市民と挨拶を交わして狭い道をすれ違い、クォールは進む。
見た目で言えば翡翠通りは七本の大通りの中でも特に個性的だ。空からアルコ・イリスを見下ろせば、淡い緑の道に沿って自然の緑が入り混じり、ところどころ森や山や湖さえ市街とモザイクを形造る。湖の中には城を抱えた島があると言うし、森の中にはエルフの集落がある。山には未発見の薬草や珍獣、洞窟もあるらしい。それでいてどれもほんのしばらく走れば繁華街に出るような都市の中に平然とおさまっている、そう言う奇妙な懐の深さを持つエリア。その中を翡翠通りが曲がりくねり太さを変え枝分かれしながらも、途切れることだけはなく貫いている。
月の丘にほど近い、土の匂いのするトンネル道の中の露天でクォールはお茶とサンドイッチを買った。お仕事ですか、とノームの店主が問う。これから遠出するんです、とクォールは答える。
クォールが懐かしい月の丘の前までたどり着いた時、そこは昨夜の雨で水を得た植物の香りに包まれていた。熟れて行く季節のつかの間の繁栄の香。アルコ・イリスが存在しなかった頃から繰り返された繁栄と死。よく飽きないものだと靴で草を踏みながらクォールは呆れる。この辺りは敷石を割ってそこかしこから草が手を伸ばす。
何も変わらない。まったくよく飽きないものだ。
背よりも丈の高い草が茂っていた。少年はかき分けながら進む。
侵入者に追い散らされる虫の悲鳴、茎の折れる草の匂い。前日の雨がもたらした濃い空気。
少年は意識することはなくただ夏を過ごす。汗をぬぐう。
月の丘、とそこは呼ばれていた。翡翠通りに沿って市街地の中に飛び地のように残る青々とした大地。都市が原野だった頃のかすかな記憶。近くの少年たちがひと夏を過ごす場所。
アルコ・イリスで最も月に近い丘。そこには月から雨が降った時、見たことのない都が現れるという。
どうでもいい。そんな噂、少年は全く信じていなかった。だが、妹は信じていたのだ。
「アイツが居ないと僕が怒られるのに……」
月の丘の叢を奥へ奥へと登っていく。もしも誰かが見ていたならば、少年がどんどんその場に居ながら“遠く”なっていく光景が見えただろう。
肩ほどの高さに草が茂っていた。クォールは道を外れて叢に入ろうとはしない。
まだ、それは出来ない。道の沿って打たれた杭とその間に張られた錆ついた鎖。そして、共通語で描かれた看板。「塔指定霊地・非常に危険につき封鎖中 立ち入ろうとすることを禁ず」
立ち入り禁止、ではない。立ち入ることが出来ないように警戒魔術が施してあるのだ。侵入者に耐えがたい不快感を与える、といったものが一般的だ。
しばらく立ったまま、クォールは過去を思う。
こういった場所に立ち入る際には塔の導師級以上の承認と保護を得なければいけない。まさに導師であるクォールは自らの責任のもとで、やがて警戒魔術を「『令』」の一言で停止させる。
慎重に、どこか畏れるように。
クォールは十数年前の自らの影を追って叢を歩く。
唐突に、草を左右に裂いていた腕が宙に突き当たる。
少年は叢を抜けた。そのとたんに目を見開く。
見渡す限りの広大な荒野だった。白っぽい沙と岩が起伏するそこには草も動物もいない。沙漠と言うにふさわしいそこは、昼間のはずなのに黒々とした空に星々を浮かべている。
異様な光景にあわてて一歩下がると、しっかりと叢が少年を抱きとめてくれる。
少年は境界に立っていた。彼の住む街である翡翠通り脇の丘と、見たこともない砂漠と。見下ろすと靴が、土と沙の境を踏んでいた。少年の小さな足の下で豊穣と死とがくっきりと分かれている。
月の都。まさか。
以前誰かから聞いた話。アルコ・イリスの地下に広大な遺跡を作った文明は、空間を捻じ曲げ月にまで植民し栄華を誇った、それが月の都だと。おとぎ話だと思った。この先にそんな物があるのだろうか。
逃げようと思った。ここはおかしい。見たこともない都、なんか行きたくない。どうせまともな所じゃない。
踵を返して両親の待つ家に帰ろうとしたまさにその時、少年は見つけた。
沙漠をほんの二十歩も進んだ所に落ちている、革表紙の日記帳。
見れば、小さな足跡が叢を抜けて砂丘を登っている。
じゃり、と沙が靴の下で砕ける。
今日は。沙漠に踏み込んだ瞬間、大きな青い星が頭上に見える。遠く明るく青く、見ていると悲しいほどに美しい。
呪われた“世界視”の夢のようだ。塔の最大の敵の夢がこんなに美しいとはクォールには不思議に思える。あまり頭上を見ないようにしながらクォールは砂丘に向かって歩を進める。周囲は漆黒の空間。
クォールは妹が嫌いだった。小さく煩く、親の前でだけは良い子で。泣きながらいつも気がつけば一番いいものを持っていく。お菓子もおもちゃも絵本もそうだった。
だから、クォールは親が初めて自分にだけ買ってくれた日記帳が本当にうれしかった。妹がいくら泣いても、親はその時だけは我慢しなさいと諭していた。妹はまだ字が書けなかったから。
寝る前に何度も何度も妹に自慢し、貸してくれという頼みを聞かず。もったいぶって、その夜降った月の雨について日記を書いた。
起きると妹も日記帳も消えていた。
「おーい」
と兄である少年は叫ぶ。声は不思議な響き方をする。空気を震わせた感じがまるでしない。叫ぶ端から虚空に吸い込まれて消えているような、数歩離れればもう自分の声が聞こえていないような、頼りない感覚。
もう帰りたかった。
日記帳を拾い上げて、少年は涙のにじむ目で砂丘を見上げる。
このまま帰ったら父も母も少年を許さないだろう。それはとても怖い。
でも、この沙漠も怖い。
あいつが全部悪い、と大嫌いな妹のせいにして「おーい、出て来い!来ないとぶつぞ!」と叫んで、そしてその声もまたかき消えて。
しょっき。
何か音が聞こえた。この異様な虚空で初めて聞いた音。少年はぴくっと肩をすくめる。
その音は金属が出す音に聞こえた。その音は鋭利な感じがした。その音は冷たい感じがした。
その音はすぐ近くから聞こえた。
しょっき。しょっき。しょっき。
見たくないのに。
少年は後ろを振り返る。
強いて言うならウサギに似ていた。長い耳のようなものが頭部から突き出した金属人形。耳の間にはぐらぐら揺れる、肌色の何か。金属の棒をデタラメに組み合わせたような胴体を前後にゆすって、その人形はよたよたと不格好に歩み寄って来る。
しょっき。頭部の上で耳が鋏のように噛みあう。何かが切断されぼとりとウサギの後ろに落ちる。よくは見えなかったが、切断面は赤黒い。
少年は泣きながら砂丘を登る。
逃げていた。静かで静かで、少年は助けを呼ぶ気も起きない。
金属ウサギはゆっくりとゆっくりと体をゆすりながら、それでいてぴったり少年の背について来る。しょっき、とまた汁を引いて何かがぼとりと落ちる。
なんで、なんで、なんで。あんなものに僕が追いかけられるのか。
夢のようだった。静謐でどこまでも虚ろな沙漠と皮膚に刺さりそうなほど鋭い星明かり。その中を心臓を痛めながら少年は走る。
幾つもの砂丘と果てしない沙。蹴飛ばした石が地を叩く音さえ聞こえない。ただ、自分の鼓動と呼吸が静寂を破る。
いや。足音が少年を負う。ぞっくぞっくと金属の足音がついて来る。
朝だったはずだ。翡翠通りにいたはずだ。それなのに。
「こっちへ」
無音の荒野を渡る声。砂丘の向こうで誰かが呼ぶ声。
考える間もなく。少年はそちらに走っていく。
砂丘の裏も、また沙で。助けてくれるようなものは何も無くて。今度こそへたり込んで少年は泣く。
暗くて、静かで、一人で、でも追われていて。
手を引かれた。
しょっき、しょっき。
記憶の底を切り刻むように、十数年前と同じ出迎えがクォールを迎える。懐かしい友に会うように、クォールは金属を振り向く。
今見ると、どこかおどけたような金属の顔。
無言で体をゆすりながら近寄るウサギ。しょっきと鋏状の耳が閉じ、迷い込んだらしい哀れな狸の足が落ちる。幸いなことに、切り刻まれている獣はすでに死んでいた。
「『明夜、樹氷、笹』」
クォールはごく静かに唱える。力ある言葉に従い、円柱状の吹雪が鋏ウサギを包んで巻き上がる。数歩離れたクォールには全く感じ取れない、塔の上級汎用自衛魔術、極局所のブリザード。
風圧で圧壊したのか、極低温で破断したのか、氷に粉砕されたのか。一呼吸の間に雪嵐は収まり、バラバラに凍りついた破片がとさとさと沙に落ちる。
クォールはしばらく霜のこびりついた残骸を眺めてていた。クォールにとって対物攻撃用の呪文は専門外だが、それでもあっけなく壊れる程度のモノ。
この程度のモノに追われる少年の影を探して。
やがて導師は沙の作る斜面をゆっくりと登る。
砂丘の中を掘りぬくように、崩れかけた石造りの部屋があった。二人はそこに身をひそめる。外からはまず見えないような、砂丘に開いた小さな穴が入口だった。
「危なかったね」
招き入れたのは同い年くらいに少年には思える。砂色の良く整えられた長い髪に彫像じみたまなざし、着ている外套までも砂色で、ただケープが深い空の色だった。足を崩して座り、入り口から見える小さな星空を見上げ、抑揚の乏しい奇妙な口調で続ける。
「あれはクロィェク。タチの悪い猛獣だよ。しばらくここにいれば行ってしまう」
無表情ながらも気をかけてくれる。
「君は?」
あまりにも奇妙であまりにも静謐な、人間離れした相手に恐る恐る少年は問いかける。
「昔、ここは街だった。人が何人も住んでいたんだ」
直接は答えず、相手は部屋を漠然と手で指して見せる。細い肩の上で砂色の髪が揺れ、さらさらと鉱石のような音をたてた。
背の高い鉛色の壁は繊細なレリーフが一面に施されている。非常に精巧な人物と抽象的な図案の都市が描かれ、何かの物語を示しているようだった。奇妙な神話のようにも壁画によるほら話にも見える。
「この部屋もかつては街の一部だった。ここらは、そこらじゅうにこういう部屋が埋もれている。ここは都だったんだ」
「ここが、月の都?」
「そう。僕は“都守り”。ここの管理者だ。いつの日にか住人が帰って来る。それまで待つのが僕の仕事なんだ」
おとぎ話から抜け出てきたような“都守り”は、そう言って立ち上がる。
「行こう。もう、クロィェクは行ったはずだ。案内するよ」
最終更新:2011年07月05日 10:59