「──先ずはこいつを見てくれ」
殆ど空になった食器類を横に退け、ヴェイは上着のポケットから折りたたまれた紙を一枚取り出すと広げて見せた。
ふわりと仄かにインクの匂い。まだ新しい新聞で、日付を見れば──『虹陰暦999年/4の月/第4巡り/藍の日』と記されていた。即ち今日付のもの。『
アルコ・イリス クロニクル』の最新号だった。
私は『アルコ・イリス クロニクル』を愛読しているけれど、流石に『特区(ちか)』まで直に届けて貰う訳にはいかないから、地上に住む協力者の所に届けて貰ったものを後から受け取って読んでいる。その為、概ね半日から一日程度遅れての閲覧となる。
今、ヴェイが広げた最新号は、まだ私が目を通していないものだった。一先ず、言われるままに記事に目を通し──私は眉を潜めた。
「これは……」
"蜜月(ハニームーン)通りにて惨殺死体発見さる" 。見出しからして嫌な予感がしていたが、内容は私の予想を裏切らなかった。頚部から上を切断されていた被害者と思しき集団の名前は──先日、『特区』に進入し、我らが住居を騒がせた者らが名乗っていたものと同名であった。何でもかんでも繋がりがあると結び付けてしまうのは早計だが、このタイミングで起きた殺人事件が無関係と考えるのも楽天的過ぎる。
「リリアローゼ経由で聞いたそっちへの侵入者の特徴と、現場から上がってきた死体の特徴──大凡一致してるぜ」
新聞から目を上げ、ヴェイの方を見ると、私の考えを読んだかのような言葉がかけられた。
「口封じか何かの為に殺された、のだろうか?」
「んー、俺も始めはコイツらがヘマやらかした仕置きか、フィロの言ってるような理由でバッサリ、って考えたんだけどな。どーも、コトはそう単純じゃねえみたいなのよ」
私の思い付きを受けて、軽く首が切られる手真似をして見せたヴェイだったが、金色の目は少しも笑っていなかった。
「俺のほうで調べてみたところ、"被害者(コイツら)"に『特区』での仕入れを命じたのは、"竜胆(ゲンディアナ)通り"の裏じゃあ、それと知られた魔道具販売の大店チェリウス商会。会長のコロナ・チェリウスは悪い奴じゃあねえんだが、表通りの方に新店舗を出すとかで焦っちまったのかね、今回のことに及んだみてえだ」
ならば、そのコロナ会長なる人物が全ての黒幕かとも一瞬考えたが、それだけでは終わらぬのだろう。早合点を口にしなかった私を褒めるようにヴェイは少しだけ笑って、それからまた話を続けた。
「とはいえ、コロナの旦那の人柄を考えっと、失敗したからって文字通り首切りとか、ありえねーわ。口封じにしたって、もっと穏便に済ませるだろうよ」
金掴ませてアルコ・イリスから出てってもらうとかな、そう言ってヴェイは苦笑を浮かべた。口ぶりはまるで、知っている人間を語るような声だった。もしかしたら、ヴェイはコロナ・チェリウスと面識があるのかもしれない。
「らしくない、ということか。ならば、それ以外の介入者が居ると?」
「ご名答。そう──コロナ・チェリウス自体唆されたのさ。侵入者どもを殺したのは、その唆した奴らの関係者だろう」
頷いた後にヴェイは更に説明を足した。コロナ・チェリウスに誰が『特区』からの仕入れを持ちかけたのか。
始めは冒険者からの噂であったという。『特区』に秘密裏に入って、無事珍しい採取物を持ち帰り一山当てた者たちがいるという噂。
それだけのあやふやな話では流石に商店の主が、非合法の仕入れに手を染めるには足りない。
加えて、元々チェリウス商会と懇意にしていた遺跡からの仕入れ問屋からも似たような──もう少し詳細な話を聞いたのだという。
『特区』内部の仔細と思しき見聞話、手に入る品々の種類、内容、それらを聞いたことがコロナ会長の決断を後押ししてしまったらしい。
「非合法でも何でも、本来議会が独占している商品を仕入れるルートが手に入れば、得られる金銭は莫大だ。金が要るところに儲け話。そうそう美味い話があるもんじゃねえって解かってても、魅力的だったんだろうよ。ま、その決断は間違い。周到に張られた罠だったんだけどな」
ヴェイは苦々しげな様子を隠そうともせずに呟いた。
「調べてみたらよ、噂のモトを流した冒険者たちにも、遺跡からの仕入れ問屋にもひとつの共通点があったのさ。全員が全員、とある新興宗教にお熱だったんだよ。……"沈黙の輪"って知ってるか?」
「確か、秘密を共有し、沈黙を守ることで恩恵が受けられる──とかいう教義を掲げている宗教団体、と記憶しているが。コロナ・チェリウスに情報を流したもの全員が、その"沈黙の輪"の信者だったというのか?」
「ありえねー偶然だろ。その上、コロナの旦那自体が、先立って"沈黙の輪"への勧誘を受けてると来てる。更に付け加えるなら、"沈黙の輪"の教義においちゃ、首を落とすのは秘密をばらした裏切り者への処刑や、秘密をばらしそ
うな奴への見せしめの意味があるらしいぜ。一度は勧誘を受けたコロナ・チェリウスなら、意味を察してぶるっちまうだろうな。秘密を共有する気がないなら、嫌が応にもその気にさせましょ、ってトコかねえ。しかし、これだけ解かってても、立証が難しいあたり性質が悪い」
ヴェイは眉を潜めて俺の問いに答えた。誰が命じたという訳ではなく、『特区』進入教唆の最終決定はあくまでもコロナ・チェリウス自体のものである、というところがポイントだ。
ただ話をした、噂を流した、それだけでは警備隊には如何ともしがたい。
「首狩り事件の犯人がアイツらって物証が取れりゃ、なんのかんのと理由つけて調査の手を入れられるんだがな。今のところあるのは状況証拠だけだ。確かにそうだ、という確証がねえ」
お手上げだとヴェイは諸手を挙げて見せた。おどけながらも、やはり目は笑っていない。手を出すに出せない状況を、ヴェイがどう思っているのかよく伝わるようだ。
「進入指示の件だけで言うなら、罪悪感に耐えかねてコロナの旦那は数日中には自首するだろう。あの人の性格からすると、命や評判惜しさに"沈黙の輪"と握手してニッコリってぇのは難しいだろうからな。話した事の裏づけはその時警備隊に取らせるつもりだ」
様子見てあっちと握手するようならこの情報全部警備隊にまわすけどな、と付け足したが、ヴェイの口ぶりはコロナという人物の人柄を信じている様子が見て取れた。
正直、『特区』への進入指示を出した人間に良い感情は抱けなかったが、それでも──その人物もまた騙され唆されたのだというなら、多少は悪印象も和らぐ。叶うならヴェイの信頼が裏切られないことを、願った。
しかし、背後に居る団体は検挙できず、唆された一応の指示犯は遠からず出頭するというなら事件は解決、ということで良いのだろうか。だとするなら、ヴェイがわざわざ私を呼ぶ理由はない気がする。
「……けれど、此処で事件は終わらない、か?」
「ああ……コロナ・チェリウスの件は、今動いている流れの一端に過ぎねえと俺は踏んでる。だから、態々地下からご足労願った、ってワケだ」
推測を肯定してヴェイが頷いた。形の良い唇からは重たげな吐息が零れる。けして楽しくない話題がこの後も続くのだろう。
「前々から『特区』に関しちゃ様々な噂が飛び交ってる、ってのはフィロも知っての通り。真贋が定かじゃねえくらいに玉石混交だ。それでも一先ずのところは、表向きの看板どおり危険な場所……って方向で落ち着いてたんだがな。近頃そうもいってねえのよ。そんなに危険な場所じゃない。議会が封鎖してるのはあそこが宝の山なのを隠してるからだ。無事に帰ってた来た奴が何人も居る。──コロナ・チェリウスが仕入れに動いた後もこの手の噂は続いてる。まるで、人を行かせたい、中を暴かせたいみたいにな」
肩を竦めながらヴェイが告げた言葉に、私は眉を跳ね上げた。噂もまた『特区』を守る無形の鎧だ。危険であると、入ることに益などないと、そう思う者が増えてくれれば、その分だけ侵入者の数は減る。『特区』の秘密、其処に住む者の安寧は守られる。
噂の有り様が揺らいでいる、というのは由々しき事態だった。私の不安を見て取ったか、ヴェイはもう少し言葉を添えてくれた。
「一応、情報屋仲間と伝手を使って、フィロたちが入ったヤツらを追い返した話を殊更吹聴して流してっから、噂が入り混じって極端に冒険するヤツが増えるってこたぁねえと思うけど。あんまいい傾向じゃねえわな。『特区(そっち)』に入る一番手近な入り口は、"虹星の叡知(アルマゲスト)"に申請いらねえ踏破区域の浅いトコだし。もういっそあそこ完膚なきまでに塞いじまうか、って話もあんだけど……今表立っての入り口を完全封鎖とかやると、噂を肯定するようなもんだからな」
侭ならねえのよ、と、少しばかり申し訳なさそうな顔で言うヴェイへと、私は首を横に振って見せた。
「いや、貴方がたは出来る限りをしてくれている。そんな顔をする必要はない。それよりも、これからどうするか、だろう。……先までの流れからして、"沈黙の輪"が『特区』を暴こうとしているのだろうか?」
「んー、どっちかっていうと、"沈黙の輪"と繋がってるヤツが、かね。どっかで一度くらいは聞いたことあるよな? ──『闇色の王』」
ヴェイが声を少し低めて挙げた名前に瞬く。『闇色の王』の名は、私も聞いたことがある。
数多の凶悪犯罪の裏で暗躍しているなどと噂に上っているが、実態に関しては全く持って不明。名前ばかりが一人歩きして、近頃では母親が子供を躾けで脅しつける時に使われたりもしているらしい。
組織の名であるとも、個人であるとも、あるいはその名だけを複数人の人間が騙り、利用しているとも言われる謎の存在。
先日、『アルコ・イリス クロニクル』の紙面にも登場したばかりの名前をこんな所で聞くとは思わなかった。
「……都市伝説ではなかったのか? いや、先頃"柘榴石(ガーネット)通り"の連続婦女殺害事件の指示を出していたらしいと新聞で読みはしたが……『特区』以上に多種多様な噂ばかりで、実体を掴ませぬ存在ではないか」
「ばーっちり実在しちゃってるみたいなのよ。今までは水面下でひっそりってな感じだったんだが、何か情勢変化でもあったのかね。最近活動がお盛んみたいでさ。表に知れるくらいにあっちゃこっちゃ手ェだして、ひっそり騒ぎになってるみたいだぜ? それでも完全に尻尾をつかませねえあたり、底知れねえ。……で、その『闇色の王』……少なくとも、その名を名乗る何者かが、"沈黙の輪"に近頃関与しているってのは、確かな筋からの情報だ。妙な噂をばら撒いたり、活動が不穏になったりしてんのは、どうもそっちの指示らしい」
「まさかそのような者に目をつけられているかもしれないとはな。頭の痛い」
正体の知れぬ何者かほどややこしい相手もいない。思惑、目的、やり口。そういう物を読むことで予想できることというのは多く、相手を知ってこそ事前の対抗策を練ることもできる。
何も解からなければ相手の動きを待つ他なくなる。手遅れになってから──『特区』に何かあってからでは遅いというのに。
私の顔には、不安が現れていたらしい。私の肩に、伸びてきたヴェイの手が置かれた。
「そんな顔すんなって。ワケ解かんねえ相手だからって、簡単に調べるのを諦めたとあっちゃ、情報屋のヴェイの名前が廃るってもんだ。"沈黙の輪"の方に内定勧めてるし、別の筋からも探ってっからもう少し待ってくれよな。……フィロの力を借りたいのは、その先だな。情報集めて、あちらさんの目的が見えてから、阻止のために動いてもらいてえのよ。先ず間違いなく荒っぽいコトになる」
私を気遣うような面持ちで、ヴェイが告げた言葉に否はなかったが、ひとつ頷いてから私は疑問を口にした。
「私としては、『特区(した)』のことが絡む以上、情報を回して貰い、そのうえで動くことに問題はないが──貴方なら、もっと動かしやすい相手がいるのではないか?」
例えば、議会関連の誰がしかとか。そう視線で訴えるとヴェイは首を静かに横に振った。
「……『議会』の全員が信頼できるわけじゃねえ。知ってのとおり、元々『議会』は一枚岩じゃないが、今回の件に関しては、特に信用なんねえもん。噂の一部がさ、踏み込みすぎてんの。『特区』がどんな景色だとか地形はこうだとか、そんな話まで混ざってるんだぜ? 多少なりと実情を知らなきゃ流せねえ噂だ、アレは。そっちのヤツが地上に来て態々噂を流すのはリスクしかねえだろ。となると、昨今の『特区』に纏わる噂の件、議会の誰がしかも一枚噛んでる可能性が高い。"塔"絡みって可能性もあるが、半々の博打を打つのもな」
眇められた金瞳は鋭く、肉食の獣じみた輝きを帯びている。口にした情勢は彼にとってけして気分のいいものではないようだった。私の肩から手を離し、ヴェイはゆっくりと肩を竦める。
「そうなると下手に議会絡みの誰かしらは動かせねえ、ってワケ。個人的な知り合い動かしても良いんだけどよぅ。ちっとばかしやりすぎちまうヤツが多くてさ。腕が立って、口が堅くて、真剣に物事に取り組んでくれる──そういうワケで、お前が良いな、って。俺は、信頼できる味方が欲しいのさ。『特区』に絡むことなら、誰より真摯に取り組んでくれるだろ?」
「当たり前だ。私にとって、──『特区』は家だ」
向けられた、試すような視線を真っ向から受けて頷いた。あの場所を守る為に動くことに、何の迷いもあろうはずがない。
「上等。……って、これだけ言っておいて『特区』狙いじゃなかったら、マジごめんなんだけどな」
「杞憂ならばそれでもいい。大丈夫だった、という保証が得られるならそれに越したことはないのだし。何にしろ、情報の対価だ。力を貸すと約束する」
「ありがとよ。俺としてもできれば、『特区』絡みじゃねえといいんだけど。……ま、希望測だけで話すのはやめとくわ」
ひらりと片手を振ってヴェイは苦笑した。恐らくヴェイには──私などよりずっと多くの情報や情勢を知る彼には、今動き出そうとしている絵図の予測もある程度立つのだろう。
「何にしろ、最悪の事態にならぬように動きたい。ヴェイ……調査の方、改めて、頼む」
私が頭を下げると、やめやめ、と顔を上げることを促す声が直ぐにかかった。
「頭下げられることじゃねえよ。俺は先に調査する人。フィロは後で実働する人。分担作業、フィフティフィフティ。『特区(そっち)』に何かあって、外部に内情バレとかした日にゃ、議会だって一蓮托生だぜ? そうでなくても、"沈黙の輪"も『闇色の王』も気になるとこだし」
催促に従ってすぐに頭を上げると、軽い笑みを浮かべたヴェイの顔。堅苦しいのはなしだとそう言われているような気がした。
ヴェイと話していると、なんというか気を抜かれる。悪い意味ではなく、気負わずに話せる。不思議な人物だ。
「……そう、言って貰えるならありがたいが」
「フィロは良くも悪くも真面目だよな。ロゼばあさんの図々しいとことか腹黒さをもうちょい学んどけよ? リリアローゼってば、俺のこと顎で使ってニッコリ笑顔がお礼代わりってのが割りとあるんだぜ?」
「いや、それは流石に図太すぎると思う」
ロゼを見習うのは私には当分無理そうだ。
すまない、と乳母の無体が申し訳なくなって口にすると、そういう所が真面目っていうんだよ、とくすくす楽しそうに笑われた。
「なんだかんだで俺も、あのひとの伝手とか人脈借りること多いから。持ちつ持たれつよ。貸しはバンバン作っときゃ良いし、借りができたって思うんなら、どっかで返せばいい。フィロもそういう感じで気楽に構えとけ。──ってことで、堅苦しい話はここまで、な。現状報告オシマイ。協力体制オッケー。目的終了。こっからは、またプライベートタイムってことで──」
ヴェイの言葉が中途で打ち切られたのは、外から遠慮がちなノック音が聞こえてきたからだ。私と彼の目とがドアの方に向く。
「ああ、そーいや、まだデザート来てなかったわな」
「丁度良いタイミングではないか。話も、ひと段落ついたことだし」
ここからは、デザートを肴にのんびり語るのも悪くないかもしれない。色々と不安はあるが、今思い悩んでも仕方ないことでもある。
英気を養いつつ、最近の地上の話をヴェイに聞くというのもよさそうだ。情報屋をしているという彼からなら変わった話題が聞けそうなことだし。いい土産話になるかもしれない。
そんな思いながら席を立つ。先の料理が来た時と同様、私がドアの向こうを確かめるつもりだった。
そういえば、まだ猫妖精の声を聞いていないな、と思った瞬間に、扉をはさんで声がした。
「……開けても、いいですか、にゃ? ……デザートを、お持ちしましたの、にゃ」
瞬間。私とヴェイの間に小さな緊張が走る。
偶々かもしれない。忙しくなかったのかもしれない。何にしろ、先程は二重奏だった猫妖精の声が、ひとりぶんしか聞こえなかった。
それにこの声は──心なしか震えてはいないだろうか。
些細な違和感。だが、警戒はするに越したことはない。
私は、地上では通常隠している竜眼の方で──ドア向こうを"視た"。
「──ヴェイ」
殆ど息と変わらぬ小ささまで絞った声音で注意を促す。ヴェイには十分伝わったようで、彼は頷き椅子から静かに腰を上げた。
私が父様から借りている眼で見たものは。
猫妖精がひとりと、その背後に隠蔽術式をかけて潜伏する何者かが複数。魔術を準備しているかもしれない。大きな魔力を幾つか感じる。
小さく震える猫妖精の背後にひとり。見えざる刃が何時でもその小さな体躯を一刺しできる位置で構えられている。
殺気の類や気配は抑えられているが、どう見積もってもこの状況は──襲撃だ。
にゃあ、と、か細く鳴いて、ケットシーはもう一度ドアをノックする。今度は先程よりも少しばかり必死に。
「開けて、構いませんか、にゃ? お客、さま」
どうする?
壁を破りでもしない限り、入り口は一つ。気づかれずにヴェイだけを逃がすのは難しい。
"眼"で場所を補足しているとはいえ、ドア越しに複数を同時に仕留められるか?
しかし、賊であることが明白とはいえ事情がわからぬ。此処は地上だ。問答無用で殺めれば良いというものではない。
相手も何がしかの魔術を構築している可能性がある以上、加減した上で一撃で落とす、というのは損じる公算が高い。
一瞬の間に目まぐるしく廻った私の思考を断ち切ったのは、
「いいぜ。もうデザート待ちくたびれてぺこぺこよ。すぐ開けるからさ、ちょっと待っててな」
ヴェイだった。
何も変わらぬ軽やかな声でドアの外に返す様子は、まるで気づいてなどいないかのよう。
だが、表情は真剣そのものだった。私が驚いて彼を見ていると、ヴェイは少し眉を下げて、ごめんな、と小さく唇だけの動きで伝えてきた。
ああ、そうか。彼は。
私が『特区』の民を見捨てられないように、"
蜜月通り"の住人が脅かされるのを看過できないのだ。
大義名分があっても、見捨ててこの場から逃げるという選択肢を取ろうとはしないのだ。
それを理解すれば、私の行動はひとつだった。
「今、鍵を開ける」
廊下へと言葉をかけて、ヴェイを後ろに、扉に向かう。
猫妖精も、ヴェイも傷つけさせない。気づかぬ顔をして、正面から迎え撃つのみ。
指先で"黒帳"と"六道薙"の柄を撫でる。扉を開けた瞬間、抜き放てるように。
忠実な二本の魔剣は私の意を汲み、触れた指先を通じて音なく了承の意を伝えてくる。
先ずは何事もない時と同じく、内開きの覗き窓を開けて様子を窺おうとした。
瞬間、
「────ッ!!」
隙間から投げ込まれた"何か"をヴェイの元に向かわせまいと、反射的に腕を広げて庇った私の前で、視界が、空間が、捩れ、歪み──形を、変えた。
最終更新:2011年07月06日 22:57