誰かが泣いている声がする。
ああ、これはゆめだ。
灯りのひとつもない無明の暗闇のなか、心身を侵す激痛と発熱に麻痺した思考で──それでも理解する。
痛みと熱にすべてがばらばらになって、曖昧になって。溶けて。俺という自己が引き剥がされ、その奥底にあるものが引き出されて、見えるような。浮き上がる泡にも似た、あわいの夢。
以前にも何度か痛みの底で、こんな風に夢を見ていた。
見る内容は一様じゃない。ただひとつだけ共通しているのは、
アルコ・イリスの何処でもない場所を見ているのだろうということだけ。
夢は時に誰かを助けるものだったり、時に恐ろしい何かに追い掛け回されるものだったりした。
誰かと見知らぬ土地を旅する夢であることもあったし、お祭りを楽しむ夢を見たこともあった。
細部は概ね茫洋として切れ切れだ。傍らにいるのが誰かもよく解からない。
ただ、見知らぬのに、懐かしいと思う。仔細を理解できないことが、苦しいと思う。
知りたい、思い出したいと思う。──まるで自分から喪われたものであるかのように。
そんなことがある訳もないのに。
だって俺は、アルコ・イリスの外になんて数えるほどしか出たことがないし、記憶が欠落した覚えもない。
だから、これは……どんなに俺の心をかき乱すものであっても、夢でしかないのだ。
今日の夢は、はじめ何も見えない夢のように思えた。
目隠しでもされているように視界が暗く覆われてしまっている。
けれど、直に気づく。
違う。視界だけを覆われている訳じゃない。
暖かい体温を感じる。速くなった鼓動が聞こえる。誰かに抱き締められているのだと把握する。
強く、強く、何処にも奪われまいとするように、誰かの腕の中に強く抱きすくめられている。
あんまりきつく抱き締められているものだから、俺からは相手の顔は窺えない。他の何も見えない。
自分の状況もよく解からない。四肢の感覚がない。ひどく、寒い。熱いのに、寒い。
それでも、解かる。俺を抱き締めて、奪われまいとする誰かは泣いている。哭いている。
ほとほとと雨のように熱い雫が俺に降りかかる。
涙を流して、俺を抱いたひとが叫んでいる。嘆いている。
俺ではない別の何者かに向けて、「連れて行かないで」と必死に請うている。
その泣いて希う声に聞き覚えがある気もする。やっぱり気の所為かもしれないけれど。
聞いていると心が痛くなる。全身を苛む痛苦とはまた違う、切ない、物悲しい痛みだ。
泣いているのが誰かはわからないけれど、こんな声を上げさせたいわけじゃなかった。それだけは解かっていた。
なかないで、と伝えたいのに、俺は声ひとつ出すことが出来ない。
涙を拭ってあげたいのに、抱き締め返したいのに、俺には動かせる腕がない。
もどかしくて、何か出来ないかと思考を巡らせようにも、痛みで千々に乱れる意識では何も思い浮かばない。何も考えられない。
その内、何かとても大きな力で無理矢理引っ張り上げられる。温かな腕の中から引き剥がされる。
どこまでも青い空が見えた。
空の上には竜がいた。大きな、巨きな、強いちからを持った竜が、六体。
形も色もぼんやりとしかわからないのに、それでもその偉大な生き物たちはドラゴンだと、奇妙な確信があった。
俺は身動きの出来ないまま、竜たちの方に引き寄せられる。手足のない身体はもがくことも出来なかった。されるままだ。
「連れて行かないで」「引き剥がさないで」「一緒にいさせて」
地に残されたひとが叫んでいる。血を吐くように、嘆願している。
その姿は遠ざかってよく見えない。
ただ、澄んだ銀色だけが目に付いた。綺麗な、綺麗な色。やっぱり胸が苦しくなる。
かなしかった。さびしかった。俺も気持ちは同じだった。
知らないひとであるはずなのに。誰かも解からないのに。
あの銀色のひとと一緒に居たかった。ずっと、ずっと、傍に。ずっと。
でも、叶わない。竜たちは首を横に振る。願いは否定される。
姿が、声が益々遠ざかる。俺の意識も遠くなる。
沈んでいく。闇の底に。泣き声だけが雨のように降り止まない。
ああ、なかないで、ほしいのに。
待ってて。きっと、いつか、きっと。会いに行くから。
もう泣かないでいいように、ずっと傍で守るから。
だから、待ってて。いつか。いつか。
聞こえるはずもないのに、願った。願った。声にならない声で叫んだ。
「 」
──泣く声に混じって、最後に名前を呼ぶこえが聞こえた気がした。
「……っ、? ぁ……」
ぼんやりと反射で開いた眼が痛い。視界が白い。はっきりしない。
眩しさに慣れなくて、のろのろと目を覆う。当たり前の話だが腕がある。
夢を見ていたような気もするが、よく思い出せない。
幾度か明るさに慣れさせるように瞬きを繰り返す。
其処で気づく。左眼が──何か白いもので覆われている。綿紗(ガーゼ)か何かを当てられているのだろうか。少しひんやりと冷たい。気持ち良い。
やがて、はっきりしてきた意識と視界が認識したのは、まるで見知らぬ部屋の天井だ。
少し古びているが暖かい色身の木目の天井。少し視線を落とすと、落ち着いた調度で整えられた客室らしいと解かった。
慌てて身体を起こそうとしたが、どうにもぎしぎしする。身体が重い。まるで何日も眠っていたかのようだ。
それでもどうにか、自分が横たわっていたベッドの上で身を起こしながら、俺は──
フィロスタインは自分の置かれている状況がつかめず、首を捻った。
「……こ、こ、は……?」
声が咽喉に張り付く。暫く発音していなかったような掠れ方。やはり身体にブランクを感じさせる。
見れば衣服も完全に寝巻きだ。やわらかい生成りのゆったりとした夜着。見覚えのないものでサイズも大きい。明らかに借り物だ。
そこまで理解して俺は漸く、自分がここにいたるまでの状況を思い出す。
……ああ、そうだ。俺は"竜蝕"に見舞われて、ヴェイたちの前で醜態を曝して倒れてしまったのだった。
彼らがここまで俺を運んでくれたのだろうか?
病院というには薬品のにおいがしないが、少なくとも安全に休めそうな場所ではある。
なんにしろものすごく申し訳ないことをしたと頭を抱えたい。
蝕の苦痛は筆舌に尽くし難く、俺はひたすら痛みに呻きのた打ち回るだけの荷物と化していたことだろう。
事情を知られている『地下』の皆にも見せたくない姿である。何も知らない地上の者であるヴェイたちにはさぞ奇異に映っただろう。
謝罪と説明をしなくてはと頭を悩ませつつ、部屋中を見回した。
中途、窓の向こうを見遣れば、萌黄の射光布が掛かっている向こう側はひどく明るい。少なくとも夜が明ける程度の時間は経過しているようだ。
まだ微熱程度は残っているが、竜蝕の痛みが殆ど引いていることから考えても、結構な時間が経っているのだろうと思う。
眼に入る範囲には誰も居ない。何時も傍にいる剣たちの影さえない。部屋の中には俺一人。がらんとしてひどく静かだ。
本当にひとりぼっちになる、というのはそうそうあることじゃなくてなんだか不安になる。
少なくとも、直ぐにどうこうなる状況ではなさそうだが、このままでは何も確定的なことはわからない。
俺が倒れた後の情報が欲しかった。
「……"黒帳(ドゥンケルハイト)"……?」
自然と唇が愛剣である黒い刃の名を紡ぐ。そう遠くない位置に存在があることは感じていた。
呼ぶ声はそのまま、召喚の合図となる。契約を交わした魔剣は、余程距離が離れるか、界を隔てられでもしなければ俺の声に答えてくれるはずだ。
幸い、応えは直ぐに有った。
《皇子(みこ)──ッ!》
手の中に慣れ親しんだ重みが現れる──とはいかなかった。代わりに横合いから確りとした腕に抱きすくめられる。
一瞬目を丸くしたが、直ぐに"霊素物質変換(エーテライズ)"で精霊体を具現していた"黒帳"だと気づく。
「すまない。心配をかけたな」
漸くこわばりの取れてきた腕を、黒騎士の背に回して、ぽんぽんと撫でて労わる。
その動作で落ち着いたらしい。小さく咳払いをして"黒帳"は俺から身を離し、寝台の傍に跪いた。
《いえ。それよりもお目覚めになられてよかった。皇子は一週間も眠っておられたのですよ》
黒髪に碧眼、白い肌と色合いこそ俺と似通っているが、俺よりずっと精悍で落ち着いた面差しをした人型の"黒帳"は、ゆるりとひとつ首を横に振った後、衝撃的な言葉を吐いた。
「そ、そんなにか!? その間何もなかったか? ヴェイもまた襲われたりしなかったか?」
そこそこ長く眠っていただろうという自覚はあったが、それでも一週間と言う具体的な数字を聞いてしまうと多少慄く。だが、それ以上に気になるのは現状だったので、俺は直ぐに問いを足した。
《ご心配なく。御身とこの屋敷──ヴェイバロート殿の家は、我らで交代してお守り致しました。この一週間、殆ど外には出ていませぬが、ヴェイバロート殿が気にかけて日々情報を持ってきて下さいましたゆえ、ある程度は把握
しております。『特区(した)』も地上(うえ)も皇子が気にかけるような一大事はおきておりませぬ》
「ならば一安心だ。そして、やはりこの一週間はヴェイに世話になったのだな……出会ったばかりだと言うのに借りばかり積もっていく気がするぞ」
"黒帳"の返答は俺の知りたかったことを概ね満たす内容だった。ある程度予想していた事とはいえ、答え合わせが済むと申し訳なさで小さく溜め息が零れる。
一宿一飯どころではすまない。倒れる前に負った傷も綺麗に治っているし、魔剣たちも世話になったのだと思うとどう埋め合わせればいいのやら。
《では、まずは後ほどヴェイバロート殿に顔を見せに行かれるのがよろしいでしょう。一週の間、あの方も皇子の容態を気にしておられましたから》
「そうする。しかし、一週間か。今回の蝕は長かったな……」
普段の竜蝕は三日程度。早ければ一日弱で収まる。父さまと共に入ればもっと早くに収まることもあるし、完全に意識を喪ったまま過ぎるというのは稀で、余程蝕が重かった証左に他ならない。
まあこうして意識も戻ったことだし、多少何時もより重かったこと自体は気にしても仕方ない気はするが。
《エラバガルス殿と離れておられる、というのも影響されたのでしょう。ミステル嬢が薬を持ってきて下さらなければ、もっと長く眠っておられたかもしれませぬ。常備薬だけでは危うかった》
「なっ!? ミ、ミステルが地上に来ているのか?」
"黒帳"よ、静かな顔でさらっと重大事を口にするのは止めて貰いたい。俺は一気に心配になった。
思わずベッドから立ち上がりかけて、目眩でふらついたところを"黒帳"に支えられる。口惜しいがまだ本調子ではないようだ。
しかし、大人しく寝ていていいのかわからなかった。
何しろミステルはひとりでは"地上"に来ることが出来ない娘なのだ。過去のトラウマからか、地上は気になるけれどひとりで行くのは無理だ、怖いとよく零していた。
だから、何かの用事があるときは決まって『特区』の誰かと共に来る形になるのだが、それでも長時間は苦手なはずだ。
どういう経緯でかは知らないが、そんなミステルがわざわざ俺に薬を届けにきてくれたのだという。
いくら契約した獣たちの目があり、俺を捜すのも難しくないだろうとはいえ、街中を随分走り回る羽目になっただろう。
不安や怖い思いをしなかったか。今はどうしているのか。気にならないはずがなかった。
「ミステルは何処に? 大丈夫なのか?」
《それは──……》
支えてくれた"黒帳"に眉を下げながら尋ねると、忠実な剣は答えを口にしかけたが──部屋の外から聞こえてくる賑やかな声と近づいてくる複数の足音に途切れた。
《お嬢! 顔役殿のおうちでさあ、五月蝿くしちゃいけやせんって!》
「硬いこといいっこなしなのよ、"六道薙(フラートゥス)"! "黒帳"が呼ばれたってことは若さまが目覚めたってことなのよ!? 急ぐのよ!」
聞き間違いようもない。今俺が心配していたミステル本人と、彼女についているらしい"六道薙"の声だとわかった。ついでになんだかメヘメヘとヒツジらしい鳴き声もする。
《……どうやら、ミステル嬢はご自分で来られたようですな。後のことは、ご本人にお聞き下さい》
小さく笑って"黒帳"は俺から離れ、ドアの方へと向かう。一度チラリと此方に向けられた目線の意を解し、俺は再度寝台に腰を下ろしつつ頷いた。
「ミステルと"六道薙"なのよ。開けて欲しいのよ! 駄目でも開けちゃうのよ!」
部屋の前でみっつの足音が止まり、どんどんと慌しくノック音が続く。元気な様子にかすかな笑みを消せないまま、"黒帳"は声の主を、部屋の扉を開いて迎えた。
《ミステル嬢、それでは誰何の意味がなかろうに。……とはいえ、逸る気持ちは解かるゆえ、お入りなさい。もう意識もはっきりしておられる》
「よかったのよ! 若さまー!!」
"黒帳"との遣り取りもそこそこに、俺が何か言うより早く、部屋に飛び込んできたミステルは、駆け込む勢いのまま俺に抱きついてきた。
ついでに足元には、もこもことしたひつじがタックルを仕掛けてくる。うっすらと淡い煌きを帯びた毛皮。ミステルがつれている中でも特に可愛がっている夢ひつじ・ドリィだ。
あまりの勢いに少しだけ態勢がぶれたか、それでもどうにか倒れる無様は曝さず、ミステルを受け止める。
"黒帳"同様人のかたちを取った"六道薙"は、灰色の双眸を此方に向けて安堵の表情を見せると、会釈をひとつした後は"黒帳"と共に壁際に控えた。
まずはミステルがゆっくり話せるようにという気遣いなのだろう。"六道薙"は年嵩の男性的な人格をしているからか、日常の場面においては年少の相手に甘いところがある。
唇の動きでありがとうと伝えると、魔剣たちは揃って穏やかに微笑んでくれた。
その間にも俺の身体はぎゅうぎゅうときつくミステルの腕のなかに絡め取られていたのだが。
「もう、大丈夫なの? 痛くない?」
ぎゅっと腕を回したまま、ミステルの大きく澄んだ翠火の瞳が、様子を窺うように真っ直ぐ見上げてくる。
"黒帳"にしたようにミステルにも手を伸ばす。綺麗な薔薇色髪を乱さぬ程度に、ミステルの頭を優しく撫でた。
「ああ、すまない。もう平気だ。ミステルにも助けられた」
返答を向けながら、眠っている間動かしていなかった顔の筋肉をゆっくり動かして笑いかけると、ミステルからも安心したような笑顔が返ってきた。
「ほんとに、ほんとによかったのよ! でも、若さま。こういう時は『すまない』じゃなくて『ありがとう』って言うのよ?」
迷惑をかけてしまったという罪悪感が胸を過ぎるが、こんな風に無垢に笑うミステルを見ると下手な顔は出来なかった。
素直に案じて、回復を喜んでくれる。そのことに感謝するべきだと思った。
「そうだな。ではもう一度。本当にありがとう。……しかし、ミステルこそ大丈夫なのか? 何時も地上は怖いといっていたのに……」
『特区(した)』で過ごしている時と変わらない調子のミステルを見るに、俺の心配は全て取り越し苦労という気が既にしたが、彼女自身の言葉で経緯や気持ちをちゃんと聞いておきたかった。
問われたミステルはほんの少し胸を張ると、自分の体験を語り出す。その声は何かをやり遂げた証らしく僅かに誇らしげだった。
「王さまの代わりに王さまの一部を預かって。ドリィとこっちにお使いに出て……やってみたら、案外頑張れたのよ。習うより慣れろだったのよ。此処まで来るのにも地上のひとに案内してもらったり、若さまが寝てる間にもヴェイとかにいっぱい親切にしてもらったの。それで前より地上のこと怖くなくなったのよ?」
「……ミステルは、すごいな」
ついつい余計なことまで煩ってしまう俺とは大違いだ。ミステルは真っ直ぐな気持ちで、予想なんて軽々と飛び越えて成長していく。こうして日々を重ねれば、ミステルの心は何れ本来あるべき形に追いつくのかもしれない。
率直に賞賛を口にするとミステルはてれたように俺の腹の辺りにぐりぐりと頭を押し付けた後、顔を上げてはにかみ混じりに笑った。
「あんまり褒められると照れちゃうのよ。でも王さまと若さまの為だったもの! だからこの一週間頑張れたの。無茶してないのよ? ミステルひとりの力じゃなくていろんなひとに助けてもらったから、平気だったのよ」
「わかってる。顔を見れば解かる。ミステルは嘘や誤魔化しをしないものな。みんなにも教えたら喜んでもらえそうだ。ミステルの地上嫌いがよくなったと」
「大げさなのよ、若さま。それより、王さまに若さまが目覚めたって報告しないと。きっと心配してるのよ」
照れ隠しに目を細めた後、話題を変えるようにミステルが口にした言葉には俺は首を横に振って見せた。その必要はないと知っていたからだ。
「平気だ。多分、もう伝わっていると思う。父さまは割と細かいところまで俺の状態がわかるからな」
俺のほうからは大まかな様子がわかる程度だから、引き比べると少し羨ましい。
もちろん互いにプライベートはある。望まなければ伝えないということも可能だ。父さまは俺などより余程力が強いから、強引に読み取ることも出来るのだろうけど、きっとしない。そういう方ではないから。
ただ、状態が伝達されるというのは時と場合で良し悪しが変わる。今回地上で倒れたのも全て伝わってしまったはずだ。
竜眼による蝕や影響は、父さまから眼球を預かった時に話し合って互いに了承していることだけれど、地上でこうなったのは初めてだから、余計な心配をかけてしまったのだろう。申し訳ない。
『俺はもう大丈夫。心配させてごめんなさい』──言葉まで届く訳ではないが、気持ちはぼんやりと届く筈。だから、心の中でそっと父さまに謝った。家に戻った時には感謝と謝罪を直接伝えたいと思う。
「あ、そういえばそうだったのよ。じゃあ、後はヴェイなのよ。今日はお仕事お昼でおしまいだっていってたから……」
俺と父さまの間にある共鳴を思い出した様子のミステルが頷き、もうひとりの報告するべき相手のことを口に出した時だった。
「仲良くしてるトコにお邪魔しちまって悪ィけど入るぜー?」
ドアの向こうから明朗な声音が聞こえたのとほぼ同時、遠慮なく扉は開け放たれた。
最終更新:2011年07月06日 23:07