02 戻れない理由 後編

 同じ日、「グリューエン」で悲鳴が聞こえてから、
 幾らかの時が過ぎて。夕刻前。

 ―――北に流れる川の上流域で、一つの炸裂音が響く。



 そこにあった光景は、さながら神話の一片のようだった。





 二匹の竜が、低空を疾風(はやて)に駆けて争っている。





 日の光に輝く水面を擦れ擦れに、掠めあう爪と牙とが斯いては、
 更に飛沫を散らす。

 燦爛するその透明な煌きの中で、獣と獣が、力強くしなる鋼の如き身と風を唸らせる翼でもって、まるで踊るように闘っていた。


 一匹は、森の新緑から木漏れ日を紡ぎだした様な、翠と鈍金のまだら模様。
 一匹は、空の写る川面の流麗をそのまま描いた様な、碧と蒼のグラデション。


 そしてそれぞれの背には、長柄を片手に騎乗する、二人の主人がいた。


 翠(みどり)の竜には、乱れのない黒髪を結った、平服にも雄々しい体躯の戦士が。
 碧(みどり)の竜には、刈り揃えた金髪の華奢な、兵装にも凛々しい細身の騎士が。


 互いに竜の手綱を巧みに操り、隙を見ては相手の背に回って得物を薙ぐ。
 その一閃を受け止めては突きを出して、跳ね返しては打ちつけて。
 牙と爪の頭上で、もう一つの鋭い攻防を繰り広げる。



 長らく続いて見えた勝負は、再度の炸裂音で急転を迎えた。

 その冴えた輝きの蒼い身体から放たれたとは思えぬような、燃え盛る熱塊が碧の竜の喉元から、咆哮と共に下方に打ち出され。川底の小石が、吹き上がる水蒸気と共に礫(つぶて)となって散弾する。
 それらに巻かれて、一瞬の怯みを見せた翠の竜の足元を狙い、対する吼えた竜がほぼ全重量を踵(かかと)に掛けた一撃を滑り入れる。耐え切れず、大きく傾いだその背から腰を浮かせた黒髪の男の肩口めがけ、兵装の騎士の長柄による鋭い突きが的確に抉り込まれた。更に、それを押し出すが如く、騎士は自らも竜から足を浮かせて、飛び込んでいくようにその勢いをかける。

 それらは全てが水面より頭一つ上、低中空で起こった出来事である。

 共に大きく身を宙に放り出され、このままでは翠の竜は主人を押し潰して倒れるか、と見えた所で。突き飛ばされた側は、自ら手綱を離し身を縮め、受身を取るように背から川面に落下して着水した。

 腰ほどの深さしかない水に、飛沫をあげて大きさのある男の体躯が沈む。
 そして、二体の竜の着水によって、それよりも更に高く、大きな衝撃による飛散が轟いた。



 「――― ぶ はぁっ !!」


 声を上げて、水中から顔を出した男の喉元に、仁王立ちで着水した兵の長柄が突きつけられる。


 「私の勝ちだ。」


 その柄の先に刃は無く。鍛錬用に造られた、殺傷性のない代物ではあったが。鋭い眼光と共に言い放つ声は、刃よりも真剣の如き切れ味すら感じさせる。そんな響きを持っていた。

 それに対し、ウィドはあっさりとその手を挙げ、降参を示す。


 「やあ、負けた負けた。流石に騎竜戦でお前には勝てんな。」


 衝撃で解けた、水を吸った黒髪を後ろに流して、あっけらと笑う。
 金髪の騎士はそれを気に食わない顔で見下ろすと、柄を降ろして舌打ちした。

 彼らの後ろでは、既に勝敗を理解し、戦闘意欲を収めた二匹の竜が身震いで水気を飛ばしていた。湿気を帯びた鱗の煌きが眩しい。


 「自分は一度も火弾を使わず、よくも言ったものだ。腰抜けめが。」


 騎士は言い捨てると背を向け、水を蹴って岸辺へと上がっていく。水飛沫が散って濡れた角刈りの頭部を一度、掌で拭って神経質そうに首を振る。
 その後ろを付いていくように、ウィドも立ち上がって川淵に上がった。


「使う機会を失っただけだ。手を抜いた訳ではないさ。」

「お前は昔からそうだ。せめて外すフリでもするなら許せるものを、最初から使う素振りも見せていない。知っているとも。だから気に食わんのだ。」

「そんな事は無いと言っているのに。…昔から、平行線だなぁ。この話は。」


 手早く長い髪だけ絞ってしまうウィドに対し、胴と関節のみの軽装とはいえ、鎧を着込んだその人の動きは水を吸った革の重みに少々ぎこちない。
 様々な不快を顕わにして、苛立ちと共に鎧の留め金が乱暴に外されていく。

 その様子に、ウィドは一度瞬くと、いつもより更に困った笑顔で頬を掻いた。


 「なぁ…お前、その下は胴着一枚じゃないのか?

  ―――屋外で女がそれでは、格好がつかんぞ。セレーラ。」


 砂利の地面に、ゴトリと重い音を落として胴鎧を置き、その人が振り返る。

 「彼女」の衣服はなるほど、袖もなく簡素な胴着のみで。
 厚い鋼に隠れていたらしい胸の上には、それなりの膨らみが鎮座していた。


 刈り込まれた頭の清々しい、凛とした顔で、セレーラはウィドを鼻で笑う。


「安心しろ、私が女と分かるのも、そう見えるのもお前だけだ。こんなゴブリンかトロールでも居ればまだマシな場所で、格好など気にするだけ馬鹿げている。」

「お前な…勘弁してくれ。万一でも人が通りかかったら俺が見咎められる。ほら、これでも羽織っていろ。どちらにしろこの季節、まだ肌寒いからな。」


 簡易外套らしい大きな布を投げ渡されて、彼女は一応素直に肩に羽織った。男物の上着をかけると、剥き出しの肌の白さと骨の細さは、鍛えられている筈でもより繊細なものに見えるか。
 岸に転がる岩に腰掛けて、彼女は水辺を見やる。


「もし、この光景を見て通報されるとしたら、お前よりはペルシェとリヴィエルが原因になる方に私は賭けるがな。野生のレッサードラゴンが二匹では、何も知らぬ国外の一般人なら一小隊でも連れてこようとするだろう。」


 そこでは、先程までの闘争心は何処へ行ったか、ペルシェは水を浴びるように首を曲げ、[河川(リヴィエル)]の名を冠した碧の雌竜は、気持ちよさげに翼を洗っていた。水面に溶けそうなブルーグリーンの鱗の輝きが、傾き始めた日を反射している。
 川辺に積んでいた荷から適当な布を取り出して顔を拭いながら、ウィドもその眺めに首を向けた。


「だから、わざわざこんな所まで来ているんだろう。方角は違うが、騎兵団が毎日飛竜を訓練させに飛ぶ場所より、街からはもっと距離がある。慣れた者以外は来ない。
 …あー。じゃ、なくてだな、まぁそれでも一応、格好というものは…」

「その距離をわざわざ毎日。アルコ・イリスまで往復か。 自分が街で生活できないのと天秤にかけて、ペルシェと暮らす為だけに?―――こんな、人っ子一人通らぬ場所で。」

「…それは。」


 通る声音の硬い響きに、低い、弱りきった返答が漏れた。
 川のせせらぎが、竜の緩慢な身動きの音すらかき消して。空気が静まり返る。


「中央に戻れ、ダーウィード。…皆、お前を待っている。」


「 …。」


 無言のままウィドは俯いて、ただ、首を振った。黒髪が一筋落ちる。


「俺は兵を辞した。もう竜騎兵団には戻らん。そう決めた。」

「お前が決めても、誰がそれを許した?誰も許していない。」


 答えを無下にも一蹴して、セレーラはその黒髪を睨みつけた。


「団長はお前の辞職願いを保留にして、休職扱いにしている。エウゲニーも、クラースもテオドールも、お前とペルシェの場所を空けたままだ。ラルゴはじめお前の率いた者達も、いつお前が戻るのかと気にかけている。ギディオンも… …泣いていた。奴は。」


 友の名に、ウィドの顔色が変わった。今度はセレーラの方が、俯いて眼を細める。 


「あの時、本来ならお前の向かう先はギディオンが担う筈だった。お前がこうなったのは自分のせいだと。」

「違う。誰のせいでもない。これは俺の問題だ。」

「そう思うなら戻ってやれ。お前の生きる場所はこんな所には無い。少なくともお前を必要として、慕う仲間が居る、名誉も責任もある。
 …ペルシェを突き放しきれないのが、何よりの答えではないのか。」


「それでも… …今、俺に必要なのは生きる場所じゃない。

 帰る場所なんだ。分かってくれ、セルリアンヌ。」


 その答えに、今度こそ憤りを顕わにした顔で、セレーラの青の瞳に怒りが灯った。


「囚われ続けてどうする。お前が探している物は既に私達が失った物だ。探すならせめて、自分の居場所で探せば良いだろう。」

「だから。それを探している。このまま兵に、また戦場に戻れば、今度こそ俺は何処にも帰れなくなる。何処にもだ。」

 「…だからと言って、こんな生活をいつまで続ければ気が済む。屋根の下で眠れぬというだけなら、山奥でなくともいくらでも住める所はある。まるでボランティアじみた仕事ばかり請け負って、それでも一つ所に留まれずに…そうやって彷徨い続けて、その先はどうするつもりだ?」

 「俺が帰りたいのは、そういう場所だ。…でなければ。」


 いつもの、いつも通りの穏やかで優しい、困った苦笑だった。


「そこにも辿り着けないというなら。俺が、俺を許せないままなら。
 もう、他に行き着きたい場所も、帰りたい所もない。

 …妻と子の所に行きたいとは言わないさ。

 すまんな。義姉上(あねうえ)。」


 それを見て、義姉と呼ばれたセレーラの顔がひどく歪む。


「…お前のせいじゃない。お前のせいであってたまるものか。
 妹が、アンジェリカが亡くなったのは、誰のせいでもない。

 あの子は赤子を守ろうとした。ただ帰りを待っていた。それだけだ。」

「それでも…なぁ。そういう事なのだから仕方ない。
 …だからあまり、ほれ。義弟を苛めないでくれるか?な?

 ――― ぅぶ。」


 へにゃと笑った顔に、先ほど投げ渡した外套が丸めて叩きつけられた。


「黙れ。同年のくせに誰が弟か。下手をすれば妹でなく私の婿だった男が。」

「だから、お前、それが嫌で頭まで丸めたのだろう?なら姉弟になるだけマシだったじゃないか。俺もお前から家督を奪うつもりどころか、嫁に貰う気など無かったが…せめて、なぁ、短くするだけで良かったろうに…何も刈り込まなくとも。勿体無い。」


「中途半端は性に合わん。」


 長さがあれば、さぞより見栄えがしていただろう短い金糸の髪を眺めて溜め息をつくウィドに、セレーラはぴしゃりと言い放つ。そっぽを向いて、身支度を始めた。


「まぁ、いい。野垂れ死んでいないだけ安心した。今日の所は帰る。
 お前を待っている者が居ると私は言いに来た。それだけだ。」


 鎧を着直し、細く澄んだ音色の指笛を吹けば、音を聞き分けたリヴィエルだけが水の中から彼女を振り返る。ペルシェの方はとうに陸に上がって丸まっていた。


 「皆には、よろしく伝えておいてくれ。」

 「ふざけるな。それこそ自分で言いに来い。…もう、日暮れか。」


 脇に置いていた竜の乗用具を装備させながら、赤くなり始めた空を仰いでセレーラが呟く。それを追って、上を見たウィドが目を細めた。


 「ああ。綺麗な茜色だ。―――アンジェの髪と同じ。」


 思い出すものは同じだったのだろう。セレーラもまた、遠い眼をしていた。


「…アンジェは…私の髪のように金色が良かったと、いつも羨ましがった。」

「そうだったなぁ。それで俺が、金も良いがその茜色の方が好きだと、アンジェにうっかり口を滑らせたせいで。隣に居たお前に、内心を気付かれたんだったか。」


 照れるような、昔を懐かしむような。あるいは泣きそうな。そんな顔で、ダーウィードは笑う。


「妹の方の内心もな。あれからだ、あの子が私の髪をしきりに羨ましいと言わなくなったのは。…もう、随分と昔の話だ。」


 顔を背けるようにセレーラは用意の済んだ竜に飛び乗って跨ぐと、すぐさま踵を返した。その背にウィドが声をかける。


「下流の林まで飛んでいって、そこから走れ。そこまでなら大抵誰も見咎めない、その方が早く帰れる。―――またな。」


 返事はなく、小さく片手を挙げたのが見て取れた程度だったが。数歩を駆け出すと同時、重装の竜は胴の装備を開いて、碧の翼を大きく広げた。

 茜色の空に飛んだ、その竜の背から、指笛の音が聞こえる。

 ウィドと共に、ペルシェもそれを耳にして首をあげた。竜の耳の音域に響く、細い細い、竜騎士特有の合図。今、送られてくるのは個体を呼ぶものとはまた違う、「仲間」に呼びかける時の揺らぎのある高音。
 それに応えるように、ウィドもまた久しく、同じ指笛を吹いた。しばしの別れの挨拶のかわりに。
 赤い空に、森に、水面に、笛の音がハミングして消えていく。


 夕日に向かって飛ぶそのシルエットは。

 天空(セルリアン)に舞い上がる、天使(アンジェリカ)に似ていた。



 今はもう、アンジェの色が天に。
 セレーラが翼をもって地に居るのに。

 おかしな光景だと、そんな事を思った。









 天空に風は止まず。
 天使の羽音は聞こえても、その姿はない。

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最終更新:2011年06月13日 16:28
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