それは実に綺麗な甲虫だった。夕日を溶けた黄金そのものの輝きで跳ね返している。時折太い脚が少年の手を引っ掻き血が流れるが、少年はそれでも細い指を握り虫を放さない。
貧しい寒村のはずれの森の中、少年はとり憑かれたように手中の黄金の甲虫に見入っている。
遠くで母親が探している声を聞いても少年は虫から目を離さない。これは宝物だ。何よりも大切なものだ。これに比べたら、貧しい大麦パイの夕食なんか無くても良い。この虫だけがあれば他に何も要らない―――
ああ、とラザロは納得する。夢だ。記憶にある最も古い夢。黄金の虫を捕まえる夢。
日が暮れてすっかり夜になるまで、少年だったラザロは虫を見つめている。やがて母親がやって来る。ラザロは母親を喜ばせようと黄金の虫を見せる。だが母はそんなものは捨てなさい、とラザロに命じる。どうしても虫を捨てられないラザロは、黄金の虫を自らの胸に押し当てる。虫はするりと胸に入り込み小さな心臓を食いつくす。そして、代わりに自分が黄金の心臓になる……
何度となく見た夢だ。
やがて、知っている通りに母親が探しにやってきた。その場にいない者の視点で見下ろしながら、母親に虫を見せる少年をラザロは不思議な感覚で見下ろしている。小柄で薄汚れていてトロくさい。弱く無知で畑仕事もろくに手伝えない極潰しのガキ。
少年は虫を母親に見せる。顔をゆがめて捨てるように言う母親。夢の中で“親和の”ラザロはみすぼらしい女だと思う。少年は必死で母に逆らい、甲虫を自らの薄い胸に押し当てる。
夢を見ているラザロは自らの胸に手を当てた。長らく忘れていた小柄で薄汚れていている弱いガキだったころ、何の価値もない極潰しだった頃。肉の心臓を失ったとしても、それでも黄金が欲しかった。
だが、今ラザロの見ている夢の中では黄金の甲虫は少年の胸を食い破らなかった。必死に何度も薄いボロのシャツに虫を押しつける少年。羽根がもげ、角が欠け、脚が折れる。どんどん虫は黄金の輝きを失いただのゴミクズになって行く。
やがて諦めた少年に母親が告げる。その虫は死んでいると。がっくりと肩を落とす少年は、虫を捨てて母に手をひかれて家に帰って行いく。
暗い森には、死んだ虫とラザロが残された。
頭が痛い。まずそう思った。続いてまぶしさを知覚する。
頭蓋骨の形をした痛みに呻いて、ラザロの周囲に世界が戻って来る。夜は明けているようだ。
嫌々ながら目を開けると黒ずんだ天井が見えた。黄金どころか腐った油色のゴミ虫が一匹、天井を這っている。
寝ていた板ベッド枠に手をかけ、身を起して周囲を確認する。分厚そうな木の壁に囲まれた部屋。反対側にもベッドが壁から突き出すようにしつらえられていて、影が一つ壁に背を持たれ掛けさせている。
「気がついた」
一瞬、大きな鳥か何かのようにラザロには見えた。軽い印象の痩せて背の高い少女が対面に座っていた。くたびれているが清潔そうなシャツを着て灰色の髪と蜂蜜色の目を持ち、すっきりと背を伸ばした姿で腰かけている。
「…………何だここは」
「よっぽど飲んだくれていたのか?自警団の“休憩室”だよ。あんた道で寝ていたんだろ。運んできたヤツが言っていたけど」
「俺は……クソ」
呟いた瞬間にまた激痛が走る。痛みと共に記憶も戻る。全身痛みながら体を探るが、あらかた魔術具を奪われていた。銅星のアミュレットもなくなっていることを確認して顔をしかめる。
「おのれガキめ……」
顔は覚えているぞ、と思うが有効な報復手段もない。
「ああ。追剥にでもやられたのか」
「……まあそうだ」
間抜けだな。吐き捨てるように少女が言う。
「この辺は初めて?」
「初めてということもないが……」
言っても若い頃に酔った仲間と覗きに来ただけだ。もう二十年前の話だ。最も一緒に来た悪友はそのまま裏通りのどっぷりハマって塔から出て行ってしまったが。
「どうせ興味本位で来たんだろ。ざまあ無いな。蜜月裏通りの自警団はタチが悪い。あんたも取り調べされてタカられるよ。カネはあるか」
「無い」カネを作るために闇市に来たのだ。
「カネを持ってきてくれる家族は?」
「いない」
「友達も」
「…………」
「はっ」
少女は嗤ってごろりとベッドに寝転がる。
「あんた本当についてないね。一度ここに連れ込まれるとここのやつらは保釈金を積むまでなかなか出さないから。半年は覚悟したらいい」
「自警団と言うのは武装して徒労を組んだチンピラか」
「口が悪いな。表通りはそうでもないけど、裏通りはそうだね。遊びに来たのか」
「遊びか。こんなところにどんな遊びがある」
「大抵の楽しみはあると思うけど。あんた、趣味は?」
「ずいぶん前には妖国の獣を呼び出して手懐けていたが、アレはなかなか楽しかった」
「なんだそりゃ。やっぱ酒やり過ぎなんじゃないか?」
深いため息。ほんの数日前までは塔の俊英として振舞っていた物を。居場所も仕事も財産も失った。今はこのしょうもない牢獄から自分を救いだす手さえない。半年ここで過ごす、と言われても何の実感もない。信じられん。金の虫の夢ではないが、一連の悪夢を見ているようなものだ。
「あんた、職は」
黙り込んだラザロにしばらくして少女が尋ねた。
「ない。……追い出された」
「そうか。私は酒売りだ。もぐりだから捕まったが……ほら」
当たりを見回して、シャツの中からそっと小瓶を取り出した。
「西方の竜の血を使った酒だ。見ろ、青い焔が燃えているだろう。これを売っているんだ。飲むか。ひと口だけタダでくれてやるよ。まともに買ったら銀貨で購わなきゃいけないものだけど、これから酒どころじゃないだろうからね」
少女は寝たまま小瓶を投げる。ラザロが手に取ってみると確かに中で青い炎じみた照り返しがちらちらと揺れていた。目を細めてしばらくその小瓶を覗きこんでいたラザロは、やがて蓋も開けずに投げ返す。
「飲まないのか」
不思議そうに見つめ返す少女。
「何が竜の血だ。安酒に青色鉱と龍晶と火炎蓮の実をまぜただけだな。見た目はたいそうだが、そんな物が入っているんじゃ味は飲めたものじゃないだろう。体にも悪そうだ」
「………………その通りだ。どうして分かった?」
「金属魔術が俺の専門だった。先週まではな」
「あんた……いや、あなたは塔の魔術士、ですか」
急に身を起こす少女。ラザロの来ているだいぶ汚れてしまった服の、導師の証である金房の襟飾りに目をとめた。
「この間はな。“親和の”導師
カーロウ・ラザロと呼ばれていた」
「塔の。導師様」
少女はしばらく呆然とラザロの顔を見ていた。やがてベッドから降りて床に片膝をついた。
「何だいきなり」
「私はザナと言います。ずっと魔術士になるのが夢でした……私を弟子にしてくれませんか。私が今日中にここから連れ出して見せます」
昼過ぎの
中央区。
“追剥”は上機嫌で塔に向かっていた。あの鈍臭い元導師から巻き上げたアイテムはかなり良い値になった。後は使い道不明で蜜月の組織が引き取ってくれなかった銅星を売り飛ばせば、しばらくのんびり暮らせる。女だ。それから酒だ、と追剥は笑う。
追剥は塔のガキどもにツテがあった。追剥が手に入れた物が役に立つなら気にせずカネを出す物わかりのいいヤツら。
「よっ」
気軽に警備の赤ローブに手を振って正門前を通過。中には入れないので塔脇の公園に入る。いつもの肉パイ屋の脇のベンチに腰掛ける。そのうちに知った顔がやって来るはずだ。
カネの使い道を考えながら待っていると、五分もしないうちに背中から肩を叩かれた。
「さすが塔の学生様、むやみに早い……って、誰だお前」
「キミがここに座るのを見てさ。先輩たちはまだ来ないよ。そんな物を売るより良い取引があるんだけど」
眼鏡をかけた小柄な学生が立っていた。細長い包みを持っている。
「あのさ。初対面でこういうことを頼むと変なヤツだと思われるかもしれないけどさ。コレとお金上げるから人を殺してくれないかな」
「………あ?」
午後のさわやかな公園にて。眉を上げる追剥。夢を見るような目つきの少年。
レオは、目の前の人間が引き受けることを知っていた。
最終更新:2011年06月13日 17:51