「どうぞ、先生」
「誰が先生だ」
勧められた杯を退ける。
蜜月通りの運河に浮かぶ船の酒屋。約束通り自警団のごろつきと何かしらの交渉の後、夜半に二人は釈放された。即座にこんな通りを立ち去りたかったが、一応恩人の少女ザナに強引に「顔見知りの酒場」とやらに連れ込まれた。
「あのな、言いたくはないが俺は今塔の導師じゃない。ただの無職だ。……魔法だって使えない」
「それでも、魔法を教えて下さい。それなら出来るでしょう。立派な術師になりたいんだ」
「じゃあ人体爆散魔術を教えてやる。『爆ぜる音、肉の筋、蒸発と圧壊、鼓動と虚無と鎖骨と鋼、腸よりも長い死、かの者に至れ』と死ねばいいのにという思いを込めながら唱えて対象に手を向けろ」
「先生、わたしは、本当に魔術を学びたいんだよ」
「塔で学べ」
「はっ。私のような者は門に近づいただけで焼き殺されますよ」
一瞬、作っていた恭しい態度が消えて鼻で笑う。あわてて「いえ、決して塔を悪く言ったつもりじゃないんですけど……」
「いや。そんなもんだろう」
才能あるもの誰にでも開かれた魔術の拠点。そうは言うが、実際にはその開かれた門に誰にでもたどりつけるわけではない。才能がある、ということを証明するだけでも市の勤め人にとってはなかなかに荷重な投資を迫られる。この辺の住人にとっては試験を受ける基礎教育だけでも受けられないだろう。
「俺とて幸運だっただけだからな」
ラザロ個人は幼いうちに旅の術師に才能を見いだされ塔に連れてこられた。今は蓬莱の学園で教鞭を執っているという恩人のことをふと思う。今の姿は見せられたものではない。
「だから先生。先生のような人に会えたのは一生に一度のチャンス。先生、私に才能があると思いますか」
「俺が知るか」
ラザロは少女の必死の願いを一言で切り捨てる。魔術の才能、など聞きたくない言葉でしかない。
「私の父は凄い術師でした。母さんに聞いただけですけど。きっと私も才能があると思うんです。だから」
「ふん。凄い術師、ね。名前は何と言う」
「…………知りません」
ああ。この辺の安娼婦の娘かと合点が行く。学院の学生どもで悪い遊びに手を出す連中もいる。おそらくそいつらがあることないこと自慢話を吹きこんで、それを母親から聞いて真に受けているんだろう。馬鹿のボンクラの落とし種か。
「でも!私の名前は偉い魔女の名前から取ったんですよ。父が残してくれた名前なんだって」
「ザナ。どんなふうに綴る?」
「えーと、あのバツみたいなのから」
「Xana? “虹の塔”のザナフィアか」
「そう。凄い魔女だと」
「凄いは凄いが。塔を建てた魔女だ」
だが、最後には自分の建てた塔の導師達を敵に回して滅びた魔女。まともに塔で学んだ者なら娘に贈る名前にはしないだろう。これも母親が聞きかじりで付けたに違いない。
馬鹿げている。こんな箒みたいなひょろ長いもぐり酒売りに魔術教えてスラムで暮せというのか。
「借りを返せなくて悪いが、これ以上この街にいたら俺は怒りで腐ってしまう。故郷に帰ることにした」
俺はもう駄目だ。あまりに憎み過ぎ、それを果たす手段は何一つない。あの追剥は確実にラザロの何かをへし折った。
「そうだな、これを」
ラザロは懐から辛うじて無事だった紙とペンを取り出しでさらさらと一通の手紙を書く。親愛なるハルトマン、から始まり貴君の忠実な友ラザロ、で締めくくる。
「紹介状だ。これを持っていけば試験くらいはしてくれる……と思う。今の俺よりは役に立つだろう。これで借りを返したことにしてくれ。じゃあな」
深夜の蜜月通り。地方行きの乗り合い馬車の付く通りに向かってラザロは歩を進める。
「…………なぜ付いてくる」
「先生。無理だよ。紹介状持ってたって私のようなのをまともに相手にしてくれるヤツなんかいない」
まあそうだろうな。仮に何かの間違いで才能に恵まれていて試験を突破したとしても、そこから先塔で学ぶための学費はどうするか、貧民窟育ちが塔で学んでいけるのか。まあ無理だ、とは塔で長く生活したラザロの経験上の結論だ。幼年以来の叩き上げかきちんと経済基盤が外にある入学組が塔の主流なのだ。
「だから俺か。無理な話だ」
「頼むよ。住むところは私が用意する。食事も服も。あんまり稼ぎはないけれど、魔術士になれるなら全部払ってもいい。だから」
「それこそ冗談じゃない」
「でもどうやって故郷に帰るのさ。その間の食べ物は?」
「…………」
「パンに困ったことが無いんだね」
確かに塔では食い物に困ることは一度もなかった。それ以前は?もう実感としては覚えていない。だからラザロはもう答えずに歩く。
大股で歩くラザロに、肩を落としながらザナはどこまでも付いてくる。やがてうらぶれた小さな広場に出た。乗合馬車の待合場所だが、裏通りと表通りの境の倉庫地帯で夜には人通りは絶えている。
ラザロは五〇年前の娼館経営者である小男の銅像前の木箱に腰掛けた。ベンチのような気の利いたものはここいらにはない。朝まで待つつもりのラザロ。その脇で未だ立ちつくしているザナ。
「初めて見た夢はなんだ」
沈黙に耐えかねたラザロがぽつりと少女に聞く。
「……え?」
「聞こえなかったか。魔術の才能は初めて見た夢が規定する……と言われている。別に誰かが証明したわけでもないが、経験上確度は高い。お前の覚えている最初の夢はなんだ」
魔術に関係する問いに、必死にザナは記憶を掘り返す。
「はい。多分……とても大きな丸い、青い球を見上げている夢」
「何?」
ラザロは少女を振り向く。目を閉じてザナは思い出しながら語る。
「とてもとても大きくて、ものすごく綺麗なんだ。球の表面に小さな小さな人や動物がへばりついていて……やがてその球はどこかに行ってしまう。真っ暗な中に私は残されるんだけど、また別の球が目の前に現れて。それは前とは違うんだけど、やっぱり凄く綺麗で表面にはいろんな生き物や城があって。幾つも幾つもそんな球が私の前に現れて消えていくんだ。赤っぽいのや緑色のもあったけど」
半ば呆然としてラザロは呟く。
「馬鹿な。“世界視”の夢だと?悪い冗談だ。どこでその話を聞いた?」
「へっ?」
目を見張る元導師に逆に驚くザナ。
「何ですか。その“世界視”って」
「まさか――塔の、」
言いかけたラザロ。聞きいるザナ。
その間を一本の鉄杭が飛び過ぎ、小男の像をぶち抜いて粉砕した。
「すっげぇ」
一発で破壊された銅像銅像を見て、思わず上機嫌につぶやく“追剥”。チビの学生から話を持ちかけられた時には半信半疑も良いところだったが、箱は聞いていた以上の性能だった。一発外したが、すかさず次の鉄杭が箱の中で装填される音がする。
今度はきっちりと当てようと……しかし、人影が二つだと?暗くてどっちが目標かよくわからん。あのガキは二人いるとは言っていなかったが。
ガキの言い分は明瞭だった。深夜、この広場にあの追放導師がやって来る。殺せ。死んだらアルコイリス・クロニクルに乗るだろうから確認したら報酬を払ってやる。大丈夫、必ずこの箱は元導師に致命傷を与える、それは間違いない……そういう話。
まあいいかと適当に人影の一つに狙いをつける。どっちも殺せばいいだけだ。別に人を死なせるのは初めてじゃない。殺人が好きな訳じゃないが、もうさほど嫌いでもない。部屋の生ゴミを片付けるのと同じ、ちょっと生理的に抵抗感のある仕事。それだけのことだ。
一方、圧倒的な力を振るうのは大好きだ。
追剥は迷うことなく引き金を引く。
腰かけていた木箱が木端微塵に粉砕された。鉄杭は圧倒的な速度で街路の敷石を砕いて地面に突き刺さる。噴き上げた破片が細かい傷を幾つも作る。
ラザロは気がつくと像の台座の影に引きずり込まれていた。ザナだ。
「何なんだアイツ!」
「知るか。俺だってわからんが、ヤツは俺の工具を持っている。クソッ、塔に敵がいるな」
「工具?アレが?」
化け物を見るような目でラザロを見るザナ。思わず悪いことをしたような気になって目をそらした。
「堅い岩盤や岩に杭を打ち込むための道具だ。工事などで役に立つと思って作ったんだ」
言い訳じみた説明をしてしまう。
「岩に突き刺さるって」
「そうだ……フ○ック!」
台座からザナを突き飛ばし、自分も反対側に転がるラザロ。一拍遅れて台座を貫通した鈍い輝きがラザロとザナのいた空間を引き裂いていく。脚だけ残っていた娼館主が高い音を立てて転がった。
「娘、そのまま消えろ!俺を狙っている」
舌打ちしながら叫んでラザロは広場から外につながる細い道に向かって走る。月明かりに身をさらす。ふざけおって。俺の工具を武器として扱い、よりによって俺に向けるだと?
塔の敵の姿を思う。誰だ。恨まれる覚えはないでもないが、命を狙われる覚えはさすがにない―――と考えるラザロの至近を通過する鉄色の風。数瞬して聞こえるやや遠い破壊音。細かい性能を思い出しどっと冷たい汗が噴き出す。五拍に一度、鉄杭が打ち出される。収納方式も工夫したせいで満載で三〇本鉄杭があの箱には入っている。なるほど武器だと自分の作品に呆れる。思っている間にもう一本、今度は脇を掠めて飛んでいく。
逃げ切れる。あと一発かわせば小道に逃げ込める。ラザロは頭の中で五を数えた。四まで数えた時になるべく急激に曲がる。自分の前を杭が通過する。避けた。
いや。今度の杭は地面を狙っていた。またふきあがる破片と衝撃に脚を掬われ、ラザロは地に叩きつけられる。昨夜同じ相手に痛めつけられた傷にまた激痛が走る。胸を強く打って呼吸が出来ない。だが、走らなければ永遠に呼吸できなくなることは確実だ。
立ち上がる。脚がもつれる。ゴミなど落ちている決して清潔とはいえない広場で無様に転がり、次の杭から身を隠そうとする。
耳を掠めるほどの至近距離を杭が通過し破片を撒き散らす。衝撃で一瞬意識が危なくなるが、唇を噛んで耐える。何故俺がこんな、と思いながらまだ安全な小道を求めて這うように立ち上がろうとした。できなかった。
「ゲームセットだな、おっさん」
月明かりの下を悠々と歩み寄る追剥の、昨夜脳裏に刻んだ顔。自分の力の興奮に顔を赤らめ、見たくもないやにや笑いを浮かべて舌舐めずりしている。左腕に自分の作った工具を据え付けている。胸には売れ残りの銅星のアミュレットがぶらぶらと元持ち主を囃すように揺れていた。
「ぐっ」
ローブの端が地面に杭で縫いとめられていた。深々と刺さった杭は抜けそうもない。こんなことなら導師制服なんぞ捨ててしまえば良かったと未練を恥じる。たった数歩の、しかし今のラザロには超えられない距離で箱を構える追剥。
「まあ動くなよ。変な所に当たってのたうつのはさすがに見たくねぇ。キモいからな」
勝手なことを言う追剥を睨みつけるしか今のラザロにはできない。本当に目から光線が打てるらなら打ちたいくらいだ、とこんな時に下らない記事が脳裏をかすめた。
死の実感などまるでない。こんなものか、という奇妙な驚きだけを感じている。
「誰の差し金だ」
「言うかよ。一応前金貰ってるんだぜ。報酬全部貰ったらこんな街出て行ってやる。もう虹なんぞ見飽きたからな。だからおっさん、死ねや」
追剥はラザロの頭にまっすぐ箱を向けている。引き金を引き絞る追剥の指を、ラザロは凍りついたように見ている。汚い指が曲がり、力がこもる。ふとその指が緩む。
「おっと。腹を撃つのがクライアントの要望……というか指定だったかな」
箱をラザロの腹に向ける。胃の腑を締め付けられる思いとともに、浮かびあがる一つの名前。
「“未来視”のレオか?」
「おっといけねぇ。まあいいけどよ、どうせ死ぬんだから。へえ、あのガキはレオってのか」
いい加減なことを言って笑う追剥。
ふざけるなという憤りと何故あいつがという疑問を抱え、ラザロは震える。ふざけるな。死んでたまるか。こんなゴミに殺されてたまるか。ラザロは無駄でも飛びかろうと覚悟を決めせせら笑う追剥の口元を睨む。
「なんだぁ?いいから死ねよ」
追剥が言うのとほぼ同時。
「『爆ぜる音、肉の筋、蒸発と圧壊』」
「あ?」
壊れた銅像の当たり、ひょろ長い娘が立っていた。まっすぐに手を追剥に向けて一度ラザロが早口で言っただけの呪文を口にし……いや、詠唱している。
「『鼓動と虚無と鎖骨と鋼、腸よりも……』」
「何だコラ、てめぇ何ぶっ呟いてやがる!」
身の危険を感じたのか箱をザナに向ける。よけようともせずに詠唱を続けるザナ。
「『長い死、かの者に至れ』!死ね!」
一瞬の沈黙。追剥は別に爆散する様子もなく、ただ一度「……えくしっ」とくしゃみをしただけ。そのおかげで放った鉄杭はザナを外れ夜空を撃ったのが唯一の効果。
「何が死ねだ。くしゃみさせる呪文かよ」
笑う追剥に横から「そうだ」と声がかかる。ほぼ同時にローブを脱ぎ捨てたラザロの拳が頬を撃つ。
「……んっがッ、何あがいてんだおっさん!」
身勝手な怒りの声をあげて掴みかかる導師を殴り返す。踏んできた喧嘩の場数がたちまちモノを言い突き飛ばされるラザロ。怒りにまかせて至近距離から杭を撃つ。
腹にくらって弾き飛ばされ倒れるラザロ。頬をさすりながら冷たく見つめる。
「まだ生きてんのか。しぶてぇ。きめぇ」
貫通こそしなかったものの、脇腹を深くえぐられている。内臓にまで脱する明らかな致命傷を受けながら、ラザロは腹を押さえて呻く。
「アホだなーあんた。無駄に苦しみやがって。ちょっと待ちな、あのクソアマ殺してからトドメ刺してやっから」
「ごほっ……アホはお前だ」
血を吐きながらラザロは嘲笑う。
「あ?」
何を言っているんだ?と純粋な疑問形で聞き返した追剥。その足元から白い霧があふれ出す。たちまち視界が真っ白に染まる。
「何だ……何だこりゃあ!おっさん、何しやがった!」
「愚か者は救えん。導師を……“親和の”ラザロを、致命傷ごときで倒したと思い込むのだからな」
手にした銅星のアミュレットを手に食い込むほどに握り締めてラザロは言う。
「何だよコレ!クソ!聞いてねぇぞ!魔術使えねぇんだろうが!」
霧を振り払おうと動く追剥。だがその追剥を追うように霧は移動し常に包み込む。白い霧の中から鉄杭が打ち出されるが、すでに方向を失った男の放つ鉄杭は地面を捉えるばかりだった。
むやみに飛ぶ鉄杭をかいくぐってザナがラザロに駆けよる。
「あれは」
「魔術ではない。以前に手懐けた獣だ。ガレアスよ、」ラザロの声に答えるように、霧の中から大人の腕程の爪が七本ちらりと外気に触れた。「そのバカ者を持って行っていいぞ」
ほんの数秒。おぞましい歓呼の唸り声とちぎれるような悲鳴、何かを砕く音が広場に響いた。
「アレが……アレが、言ってた遊び?」
数瞬の後。血だまりとごくわずかな残骸を残して異界の獣は消えた。残骸と言うのは髪の毛の固まりや砕かれた骨、中身の残ったブーツ等。それを見ながらザナは呆けたように聞いた。
「遊びだ。人を襲わせたのは初めてだが。しかし」
こみ上げる血にせき込む。我に帰ったザナが導師の傷を調べ、絶句する。
「……誰か呼んで来るから、」
立ちかけるザナの手を掴むラザロ。
「ふん。ぐっ……それでは間に合わんことくらい見ればわかるだろう」
「先生。それは」
「時間がない。良く聞け。導師は致命傷では死なん。回復魔術くらい用意しているものだからな」
「でも、魔術は使えないって……」
「お前がいる」
苦しそうに、だが揺れることなくザナを指差す。
「……無理だよ!そんな、わたし」
「黙れ。聞け。お前には才能がある。俺の言った呪文を一度聞いて使えたのだ」
「でも、あいつ爆ぜなかった」
「誰が本物の人体爆散術をあんなところで教えるか。アレはああいう呪文だ」生意気な学生にゆーっっくり詠唱してやってビビらせるためにラザロが書いた、詠唱だけおどろおどろしい呪文。
「お前はおそらく強い……最悪の素質を持っている。お前は“世界視”だ。俺が言う呪文を唱えろ。出来る」
「無理だよ。いきなりそんなの、だって、」
少女は涙を湛えておびえている。そのザマを見たラザロは手を放し、地面に横たわって目を閉じた。
「……先生?」
「先生と言うな。……消えろ」
ラザロは二度同じことを言うのは死ぬほど嫌いだ。魔術が必要な場面でおびえるヤツに魔術士の資格はない。そんな奴を励ますほどラザロに余裕はない。
死を待っているラザロに、手の置かれる感触が乗る。
「…………いいか。『純白よりも白き白、平地の甘き泉………』」
「弟子に、してくれますか」
詠唱よりも先に降ってきた言葉に思わず口の端が緩む。死にかけの魔術士に取引とは、良い根性をしている。
ラザロは血を流しながらうなずいた。
「……『純白よりも白き白、平地の甘き泉』」
「『高潔なるもの、卑劣なるもの、等しき死、遠き死……』」
「『高潔なるもの、卑劣なるもの、等しき死、遠き死』」
蜜月裏通りに、一組の魔術士師弟が誕生した。
最終更新:2011年06月13日 17:51