“レッドポイント”に詰める兵士どもは実に良く訓練されているようだ。きびきびとした動きに良く手入れされた武具。かなりの水準の緊張感を保って勤務に励んでいるようだ。有能、そして塔の実践派の言い回しでは“頼りになるが少しばかり厄介”な連中。
「厳しい指揮官がいるのだろうな」
他人事のようにそう評して遺跡探査の書類審査を待つ。
中継点周辺は天井が高い。ある意味でラザロにとっては馴染みの金属光沢のあるねじれた木々が赤い森を地下に広げ、全体的には奇妙な解放感のある空間を作っている。
「ここが遺跡ですか」
物珍しげに見回すザナ。田舎者のようだ、とラザロは感想を抱いた。田舎出身なのはラザロの方で、ザナは生まれも育ちも生粋のアルコイリス市民だというのに。
「その入口だ。ここは安全なエリアだと言われている。血を流して勝ち取った、人間の土地と言う訳だ」
やや揶揄するような口調になる。幾たびか塔の導師と言う立場でその土地の拡張に間接的に関わった。実践派の学生どもを送り出した事もある。その立場を追われて始めて直接自分が遺跡に踏み込むわけだ。皮肉と言えば皮肉だが、笑えるほどに思いは軽くない。
「コレの上で毎日暮らしてたんですね」
「まあな」
「変な気分だ。履いてた靴が実はナマコだった見たいな感じですね」
「まあな」
相槌を打ってからそれは違う、と思ったが言う程の事でもないから黙るラザロ。
ちょっとイラついた。
「先生、書類に書く姓、私はなんて書いたら良いですか」
「ビッチとでも書いとけ」
下らない事を言い会っている間、「元塔の導師殿、か」隊長らしい女性が何度も書類を見直している。褐色の肌の、戦歴が磨いたような強い瞳が印象的だった。ヴァレーリヤと名乗った。
「疑問点でもあるのか。不備はないはずだが」
「形式的には完璧だ。しかし塔の追放処分を受けた人物による申請は前例がない」
「塔の処分など内規ではないか。今は市民だが、大法典を犯した訳ではない」
「…………理屈はそうだな。どうやって虹星の叡智の審査を通った?」
「普通に」
実際には多分にかつての知識を利用した。蛇の道は蛇、と言う程のことでもなかった。一番無能な奴が担当する部署に、一番申請が殺到する時期にそっと紛れ込ませて送っただけだ。
「ならこちらとしては通るなとは言えん。だが職務としていくつか聞いておかねばならん。まず、申請書によると魔術士二人ということだが」
特にザナを睨み据える。
「あまりに無謀な編成に見えるが。成人して間もない若者をつれてピクニックに行くには向かない場所だ」
「死にに行く気はない。脅威への備えはしている」
「だと良いが。皆そう言って死んでいくんだ」
用意してきた杖を掲げるラザロを疑わしそうに見ながらもヴァレーリヤが次の点に移る。
「目的は。何か当てがあって潜るのか。期間は」
「回収したい品がある。一度キャンプをする支度をしている」
「どういった物か答える気はあるか」
「魔術に関するものだ。持ち帰ることが出来たなら申請はする」
「そうか」
もう隊長は書類も脇によせる。
「もう見ないのか」
「当人が目の前にいるのに、書類の方を見ている必要があるとは思わない。書類から以上の情報を得られるくらいには人を見てきたつもりだ」
小気味いい理屈だ。だがこういう信念を抱える大人がラザロは苦手でならない。無駄にぶつかり合う経験を何度した事だろうか。
「ならこちらも質問だが、俺たち以外にこの先に今誰かいるか」
「いや、今日はいない。さて、ここからは雑談だが」と前置きをして「学院の実践派には平素様々な力を貸してもらっている。まずは礼をいいたい」
「俺には係わりが無い」
「そうだったな。とにかくあの連中には感謝している。特にその力には。だが、私としてはある疑問を常々抱いていた。やつらは遺跡について独自に関与する方法を持っているのではないか、例えば、我々のポイントをすり抜けて遺跡に出入りし収穫品を持ち帰る。そういうことを日常的にしている者がいるのではないか。そうとしか考えにくい痕跡にしばしば行きあたるのだ。そういった行為について、実践派としてノウハウを蓄積しているのではないか」
「ふん」
確かに塔の人間には、街の規律を内心軽んじている者がいることは否定できない。ラザロ自身そういう傾向がある。同じ調子で遺跡についても面倒な管理をすり抜けることをかえって誇るようなやつらに、まるで心当たりがないわけではない。
「知らんな」
実践派に今さら義理などないが、教えてやる義理もない。第一、今まさにラザロが手に入れようとしているモノは管理をまともに通すわけにはいかないモノに他ならない。
「知らないなら仕方ないな。思いだしたら教えろ。こちらとしても聞かなかったとしても見逃す気はない。
それとこれだけは言っておく。書類がそろっているなら文句はないが、いい年をした大人が成年したばかりのひよっこを連れて遺跡に潜るのは、どうしても気に入らん。必ず連れて帰ってこい。一人で戻るようなことがあったら、戻って見つけて来るでここを通す気はない」
「そのつもりだ。これでもこの弟子は俺の生命線でな」
「あの手のヤツは嫌いだ」
妙に広々とした迷宮の通路を歩きながら師が吐き捨てる。文献を当たって書いてきた一枚の地図を見ながらのことだ。
「かっこよくて強そうでしたけど」
「だから嫌なんだ。仕事に信念を持ちこむヤツは、口うるさい。面倒だ」
散々に罵る。特に緊張感というものはない。ラザロが杖と共に持っている鏡状のアーティファクトが怪物の存在を探知すれば警告を発するはずで、これが盗賊の代用だった。任せきりで良いのかな、と弟子は思わないでもない。もっとも探索者の経験などないから任せるしかないのだが。他にも一山ほどザナもアーティファクトを背負っている。重い。
ひんやりとした空気。地下なので当然ややよどんでいるが、それ以上に張りつめたような甘い危険の匂いがする。年に数回ある、ユニオンの出入り前後の街の気配に似ている。
ラザロの杖が青白い魔術光を灯しているが、楽々とその光を飲み込むほどに闇は深い。すぐ先に魔獣が隠れているような気がしてザナは少しだけ震えた。
「先生。出入りの管理をごまかす方法って本当にあるんですか」
恐怖を隠してそう聞く。ビビってる事を悟られたらなめられる。そういう裏通りで生きてきたザナにとっては馴染みのある技術で、それが少しだけ安心させた。
「らしいな。塔に直通のポータルを密かに設置した連中がいると言う話だ。他にもその気になれば転送魔術を使えるやつを噛ませるとかいろいろ手はあるだろう。もっとも警備の連中だって怪しければ突っ込んで調べるだろうし、その辺は化かし合いだ」
帰って来た師の声は平静そのものだった。自分のアーティファクトに自信があるのだろう。迷宮の闇さえ侮っているように聞こえる、障害を全て蹴散らしてきた人間の声。ザナはその声を信じる。
「塔と警備隊は味方じゃなくて敵なんですか」
「ではない。協力している。ただ組織とそれに属する個人は微妙に違う立場を取りうるし、一部に虚偽を含む協力だって成立しない訳じゃない。全体として利益を生む体制であれば少々の問題は目をつぶられる。そういう場合もある」
「ふうん」何事か考え込む弟子。「裏通りではそんなことはないですね。ユニオンには全部正直に接するか、まるっと全部嘘で固めるか」
「そうか」
「でも先生。私たちは今回は関係ないですよね。嘘もごまかしも」
ザナはそう言った。魔術光と遺跡のヒカリゴケの曖昧な灯りの下で師匠は口の端をゆがめて笑う。
「ザナ。この際だから言っておくが“世界視”は塔の敵で、それに関する研究が禁呪だ。まさか本当に禁呪に手を出す羽目になるとは皮肉としか言えんが」
「えっ、“世界視”ってそんなにヤバイんですか」
「そうだ。お前は禁止されている」
身も蓋もなく言っておいて「今の俺は塔の内規などに従う義務はないが、かといって馬鹿正直に禁呪の研究書を手に持ってレッドポイントに戻るのは芸がなさすぎるからな。まあ行ってからだ」
言うラザロは、反応があらわれた鏡を見て弟子に手で危険が近い事を知らせる。
闇の先から現れた黒ずんだ扉が、行く手を遮っている。ザナは背中の器具の山に手を伸ばす。
冒険者とも言えない二人の探索者の最初の遭遇の時だった。
『そうだ。お前は禁止されている』
迷宮の壁が人間の声を伝える。“彼”にとっては実に不快な響きだった。しなやかで美しい外皮も、黒く滑るような鱗も、誇りと力を現す爪も持たない柔らかい生き物の言葉。近づいてくる。
“彼”は立ち上がった。今では“彼”に従うようになった人型の下級妖魔もボスの様子に狩りが近いことを見てとる。豚に似たモノが三体、犬に似たモノが二体。恐怖と力だけで“彼”が従えた狩りの駒。それが棍棒や牙をわずかに鳴らす。
“彼”は燃えるような眼を見開いて人間を待つ。彼は人間が不快だった。もっと言えば“彼”は全てが不快だった。
素晴らしい、溶かす雲と引き裂く大気と凍え砕く海と。そういう故郷から無理矢理“彼”と仲間をこの腐った世界に呼び出したのは人間だ。ふざけたことに呼び出す仕組みを作った人間はどこにもいなく、探すうちに仲間とはぐれ、以後出会わない。どういう訳か仲間は全て消え去ったようだった。
以後、この不快な世界で“彼”は憤って来た。もはや“彼”は不快そのものとなって、ただ一つの楽しみのためにこの広大な牢獄に住んでいる。引き裂くこと、泣き叫ばせること。そう言うことだ。
ドアを両脇から囲むように手下を配置する。“彼”自身はやや離れた所から人間の侵入を待つ。愚鈍な手下は例えノックの後で扉を開かれたとしても人間どもに先手を取られるだろう。だが、どういう訳かここにやって来る冒険者という連中は自分たちが不意を打って切りかかった後、さらに後ろから襲われるとは思わないらしい。
足音を忍ばせているようだが、今まで引き裂いてきた冒険者どもよりも格段に歩き方が雑だ。一匹は堅く、もう一匹は柔らかい。そういう二匹。
たっぷりと泣かせよう。中身をぶちまけて踏みにじってやる。歪んだ期待で“彼”は音にならない笑いを漏らす。聞こえもしないだろうに手下どもも含み笑う。“彼”はこちらの食事を必要としない。引き裂いた残骸は手下の餌となる。
“彼”は腐らせる炎を用意する。剣と、魔術と、悲鳴と。そういうひと時を楽しむために。人間の振り下ろす刃をなぎ払うほんの一瞬だけは“彼”は人間に好意を持つ。玩具として。
“彼”は素晴らしい一瞬を待った。“彼”の駒も。
―――扉をぶち抜いて握り拳ほどの金属の筒が部屋に飛び込み、激しい閃光と大音響を伴いながら幾百もの致命的な金属片を撒き散らした。
「うわ、酷いですね」
数も不明なほど原型をとどめない魔物の残骸が、ペースト状になって床に池を作っている。嫌そうにそれを避けながらザナは部屋の中に踏み込む。先ほどの一発を打ちだしたスプリング・バリスタに次弾を込めながらまた背中に戻した。
「だから長靴を履いてこいと言ったろう」
言ってラザロは部屋の向こうにあるはずの扉を探す。何分古い資料をもとに作った地図だからあまりあてにはならない。ラザロの靴の下、黒いひと固まりの残骸がわずかに残った片目で睨みつけ、唇だけで呪詛の言葉を呟いていた。が、踏んでいる男は地図に気を取られて気がつかない。
「でも遺跡探検ってコレで良いんですか。何かイメージと違うんですが」
「部屋にいる生物を殺してから入れば安全確実だろう。別に経験を積むために来てる訳でも怪物の所持品を漁りに来ている訳でもないんだから。出来る事なら冒険者連中がするようなトタバタは遠慮したいからな」
そのために自分たち以外に誰かいるかレッドポイントで確認したのだ。
「行くぞ。時間が無限にある訳ではない」
言って踏み出したラザロの踵の下で何かがぐちゃりと潰れる。その不快な感触に舌打ちしながら「汚れることも考えて、替えの靴も持って来るべきだったな」と、そんなことを言うのだった。
ずいぶん深い区域に踏み込んだ。遺跡には暗い色調の巨石の壁と砂利の道に変わっている。
害意があったり空腹だったり単に前方にいたりした怪物をアーティファクト任せで淡々と挽き、控え目に言って地下遺跡大虐殺を繰り広げながら師弟は進む。本職の冒険者が見たら迷宮の石畳を叩いて嘆いたであろう。
「幸い、対処できないタイプの怪物はまだ会ってない。今後ともこうあってほしいものだ」
「コレで対処できないと言いますと」
自分の持っている武器の威力にやや魅入られて、ダメな高揚感に包まれているザナが聞く。
「極端に堅いヤツ、極端に柔らかいヤツ、肉体を持たないヤツ。あるいは、字義通りの意味での強者。攻撃を悟ってすぐに距離を取るだけの鋭敏さを持ったやつとかな」
「そんなのがいるんですか」
「いると聞いている。例えば、俺の知人が遺跡に潜った時に会った遺跡獅子というのはそういうヤツだそうだ」
「遺跡獅子。獣ですか」
「南の大陸に産する大型の獣を魔術で迷宮に適応させた生き物だ。草原を往くように自在に遺跡を動き回って、動くものを何でも狩る」
「……怖いですね」
ザナが素に戻る。
「そうだな。だが怖いというよりは謎めいている。ザナ、肉を食う獣が一匹生きて行くためにどれだけの土地が必要か知っているか」
「え。いえ」
唐突な師の試験に答えられない弟子。
「学べ。読め……一匹の獣を養うに、
中央区程の土地があってもまだ足りないらしい。博物学をやっているやつがそう言っていた。その獣が、この地下で種を維持している。この地下は獣や妖魔やあと蜥蜴とかの種を存続させるほどに豊かなのだ。何かの仕組みでこの遺跡は膨大な生産力を持っている。それは今なお稼働しているとしか考えられん。全体でこの遺跡がどれほどの規模と生産力を持つか、その秘密に至れば
アルコ・イリスは倍の人口を養えるやも……どうでもいいことだが」
専門外の分野に着いて適当に考察を加えながら気楽に行く。その間もばすんばすんと敵の存在を感知するたび金属筒を打って前方の安全を確保する。
やがて、二人は一枚の扉に行きあたる。
「待て……ここだ」
また一発撃ち込もうとしているザナを止めてラザロが地図を示す。
何の変哲もない木造りの扉に見えた。ただ、三重の円とその上に重ねられた鳥のレリーフが扉の上部に白い石で彫り込まれている。
「間違いない。ザナフィアの研究室だ」
「へえ……また来るのが面倒な所に住んでたんですね」
「ザナフィアには敵がいたからな。本人が行き来するだけなら直接跳べばいい」
ザナフィアの研究施設が塔以外にあるのは幸いだった。ザナフィアの研究に近づくことそのものが禁止行為だが、塔の外部にあるのであればそれは塔の人間は近寄ってはいけないと言うだけの意味に過ぎない。そして塔に無関係の人間が興味を示すような場所でもない。
「でも、一発撃ち込んだ方がいいんじゃないですか。鍵とか罠とか有りそうだし」
「野蛮な娘だ。千年近くの歴史を少しは敬え。おそらく何か仕掛けがあるはずだ」
行ってラザロは慎重にレリーフに手をかざす。しばらく探るようにしていると『汝に問う』と魔術の作る声が響く。
「ほらな。魔術士は己を知る者のために知識を遺す。知恵を示せば道は開くのだ」
納得したように幾度も頷きながら言うラザロにかぶせて声が『故郷で飼っていたペットの犬の名前を答えよ』
沈黙。
「先生。これ、本人が鍵を忘れた時とかのための質問じゃ」
「ああ。うん。どうやら、そうだな。よし、ぶち破れ」
実際はさらにいくつかの魔術的警備機構を黙らせるのに、その場で必要な魔術をラザロが作成しザナが詠唱するという絶望的に労苦を経て師弟は目的の部屋に入る。魔術理論家と唱えれば発動する“世界視”の組み合わせだからこその力技だったが、達成感を味わうにはあまりにも二人は疲れた。おそらく外ではすでに虹が夜空に伸びていることだろう。
ザナフィアの部屋は千年の時が流れたにしてはずいぶんと清潔だった。水色に塗られた粗末な卓や椅子と言った調度に、小さな書棚。ベッドに寝具まで水色で統一されていた。好きな色調だったのだろう。何人かの美しい人間やエルフの若者を描いた肖像画が壁に飾られている。他に小さな戸が二つあり、キッチンや浴室や手洗いなどもすぐにでも使える状態だった。迷宮内キャンプの用意などまるでいならかったくらいだ。
ラザロは壁に発光する杖を立てかけ、塔の創始者の卓に向う。
「力ある魔女の部屋にしては小奇麗なことだ。そこらの小娘の部屋のようではないか」
卓上の盆に盛られた梨に似た果実を手に取ってみる。瑞々しく露さえ流れそうな鮮やかな緑。ラザロはそれを弟子に放ってやる。
「うわ」
「千年前の果物だ。食ってみるか。おそらく食えるぞ。まったく、なんという潤沢な力か」
「あ、美味しい」
食わないだろうと思って投げたら本当に食った。少しは考えろとラザロは思う。
能天気な弟子にイラつきつつも卓の引き出しと書棚とを漁り、目指すものを見つけ出す。ザナフィアの研究ノート。さすがに少し呼吸が速くなる。“世界視”の、ザナフィアの研究の中枢。塔で言えば禁忌中の禁忌だ。“世界視”が唱えるべき呪文も載っているだろう。これまた最上級の禁呪。これを滅ぼすために戦った導師達の系譜にラザロは属する。
裏切りだ。だが、先に裏切ったのはやつらだ。
躊躇いは一瞬だった。むしろ一瞬でも躊躇ったことが異常ともいえる。ラザロはなめした革の装丁のノートを開く。女性的な、だが不揃いな字が並んでいる。
「悪筆だな、“虹の塔”」
千年の間、幸いにして魔術に関わる言語は大きな変化を遂げなかった。いくらか意味がつかめない単語があるが概ね問題なく読める。すぐに理解することは出来そうにないが、とりあえずは読めれば十分なのだ。
「先生。休まないんですか。持ってきた食事とか」
「適当に食って休んでろ。俺はこれから一晩がかりの仕事になる」
「手伝います」
「要らん。寝てろ。明日帰りに十全に働けるようにしておけ。魔術を使うのはお前だけなんだからな」
弟子に背を向けたまま水色の椅子を引いて座る。小さい。小柄だったようだ、ザナフィアは。
護りの術を解除せずにすり抜けるような魔術をラザロは用意した。だからこの部屋は、力ある魔女の術に護られている。迷宮一安全な部屋と言ってもいいだろう、とラザロは思う。
「何をするんですか」
食事をしながらザナが問いかける。
「これを持って出たいが、あいにく戦利品『ザナフィアのノート』などと申告は出来んからな」
ラザロは荷物から自分のノートを一冊取り出す。中に十冊以上の真新しいノートが詰まっている。
「俺は俺のノートを持って入って、俺のノートを持って出る。欲しいのは研究の蓄積だけだ。知識はコピーできる」
こんな作業は学生時分の板書以来だ。俺は二十年かけてまたこんな地点に戻って来たのか。そう複雑な思いを抱えながら一心にラザロはペンを走らせる。徹夜仕事になるのは明らかだった。
ペンが紙の上を走るこつこつという音を聞きながらザナはまどろんでいた。時折ぱたっと乾いた音がして、そのたびにあやふやに続いていた夢が師の背中の光景に変わる。
青白い移り気な灯りを頼りに手を動かすラザロ。
ふと目覚めて、大人の背がそこにある。それだけで鼻の奥がつんとするほどに嬉しい。
「先生」
「あ?」
ラザロが本から視線だけ振り向く。
「起きていたのか。寝ろ。アホでもボンクラでもお前はスペルユーザーなのだから寝ておけ」
いつもの説教さえもどこかやすらぎの気配を乗せて石造りの迷宮では響く。
「先生」
「何だ」
「ザナフィアは何をしたんですか」
非常に漠然とした事を聞いてみる。内容なんて何でもいい。ただ声を聞いていたかった。こういう質問なら嬉々としてラザロは解説するだろう、という狡い読みも半分寝た頭で考えた。
「ザナフィアか。偉大な魔女だ。力ある、始める者。落ちた星を追い、この地に塔を建てた。伝説では一夜にして異界から“虹星の叡智”を呼び出したと言う。俺たち全ての師とも言える」
ゆっくりと、手を動かしながらラザロはそう答えてやる。緩やかに続くラザロの話。持ってきた毛布にくるまってザナは目を閉じてそれを聞く。内容なんてどうでも良くて、ただ安心がそこにあった。危険な遺跡の底なのに。
「ザナフィアは、”世界視”は世界を裏切った。以後塔では”世界視”の存在は必然的に世界を裏切るものと規定される。少なくとも”世界視”にはその蓋然性がある」
裏切り。その言葉を胸の中で夢と転がす。”世界視”は裏切る。魔術士の手紙を焼く夢を見る。
「文明は自分たちが世界の一部である、という事実そのものに挑戦しようとした。世界を人間の一部にしてしまおうと試み、そして失敗した。これは俺の仮説だがな。かつて世界視である“虹の塔”のザナフィアが遺跡のために塔を建てたのも、同じことをしようとしたからだ。
そして“世界視”は再び失敗した……」
低いラザロの声が迷宮の壁を緩やかに叩いている。この声で塔で授業をしていたのだろう。
いつしかザナは話を聞いたまま、また眠りに落ちる。甘ったれたガキのように。
最終更新:2011年06月23日 10:40