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備後渡辺氏
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山田渡辺氏を指す。山田渡辺氏は、現在の広島県福山市沼隈半島一帯を領有し、山田一乗山城主であった武家である。
山田渡辺氏の居城
一乗山城
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別名黒木城ともよばれ,沼隈半島の南東部熊野盆地に存在する城跡で,中世の豪族渡辺氏の居城である。
渡辺氏は,鎌倉時代末期に山田荘に入り,後足利氏に属し勢力をのばした。一乗山(七面山)に築城するのは渡辺越中守兼の時代といわれ,入城したのは文明年間(1469~1486年)とも永正年間(1504~1521年)ともいわれる。またこの頃兼は日蓮宗に帰依し,菩提寺常国寺を建立した。
渡辺氏は,鎌倉時代末期に山田荘に入り,後足利氏に属し勢力をのばした。一乗山(七面山)に築城するのは渡辺越中守兼の時代といわれ,入城したのは文明年間(1469~1486年)とも永正年間(1504~1521年)ともいわれる。またこの頃兼は日蓮宗に帰依し,菩提寺常国寺を建立した。
住所・所在地
福山市熊野町大字上山田
福山市熊野町大字上山田
藁江城
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城跡は、かつて入海が深く入り込んでいた藁江の谷間の奥まったところに存在する。赤坂から金江に越える農免道路と平行して南側に昔からの往還が走っている。この旧道を金江小学校のところから東に進むと金見八幡社の丘を過ぎたところから右手にやや広い谷間が広がっている。幸田の集落だ。城はこの谷間を二つに割るように東から突き出た山頂に築かれている。比高は70メートルばかり、北に金江から熊野に越す旧道が通っており、城はこの往還を意識して築かれたことが分る。
山頂近くに、小さなお堂が建ち、城に上るにはこの道を利用する。私がはじめてこの城に登ったのは5年ほど前のことだが、地元の方の案内でやっと上ることが出来た。
かつては山頂近くまで耕作されていたらしく、曲輪の跡とも畑の跡ともとれる平坦地が続き、城郭の跡との見分けは難しい。山頂の本丸跡は二〇メートルに10メートルほどの平坦地で、東側に幅20メートルほどの堀切跡が残っている。曲輪跡と考えられる削平地は北東に延びる尾根上に多く見られ、熊野越えの道を意識して築かれた城であることを確認できる。
城主は藁江氏と伝わっている。
「西備名区」はこの城と、北にそびえる赤柴山城との関係について面白い伝承を記録している。同書によると、赤柴山城にいた藁江九郎左衛門繁義は、応永五年(一三九八)、同城を渡辺源左衛門尉春綱に譲って、藁江城に入り、同十七年(一四一〇)、渡辺氏が山田(福山市熊野町)に帰ったので、再び赤柴山城に帰ったと言う。
山頂近くに、小さなお堂が建ち、城に上るにはこの道を利用する。私がはじめてこの城に登ったのは5年ほど前のことだが、地元の方の案内でやっと上ることが出来た。
かつては山頂近くまで耕作されていたらしく、曲輪の跡とも畑の跡ともとれる平坦地が続き、城郭の跡との見分けは難しい。山頂の本丸跡は二〇メートルに10メートルほどの平坦地で、東側に幅20メートルほどの堀切跡が残っている。曲輪跡と考えられる削平地は北東に延びる尾根上に多く見られ、熊野越えの道を意識して築かれた城であることを確認できる。
城主は藁江氏と伝わっている。
「西備名区」はこの城と、北にそびえる赤柴山城との関係について面白い伝承を記録している。同書によると、赤柴山城にいた藁江九郎左衛門繁義は、応永五年(一三九八)、同城を渡辺源左衛門尉春綱に譲って、藁江城に入り、同十七年(一四一〇)、渡辺氏が山田(福山市熊野町)に帰ったので、再び赤柴山城に帰ったと言う。
※画像からは、おそらく新池なので藁江との関連性は、低い。
住所・所在地
広島県福山市金江町藁江
広島県福山市金江町藁江
赤柴山城
国道2号線を津之郷から赤坂方面に行くと、南にくっきりと頂を平らにした山が見える、赤柴山城跡だ。
台形の山の上にお椀を載せたように見えることから「茶臼山」とも呼ぶ。
この山に登る登山道はない。農免道路を金江へ越える手前のため池の東から高圧線の管理道を登り、鉄塔からはしゃにむに稜線を目指す。尾根筋へ出れば山道があり、山頂の城跡に出る。
城は、山頂の本丸を回の字状に2段から3段の帯曲輪がめぐり、その東西には堀切も残っている。山頂からの眺めは絶景だ。
南は松永湾から田島・横島、遠くは因島、北は赤坂から山手にかけての平野が一望の下だ。ここに城が築かれたのも納得できる眺望である。
南は松永湾から田島・横島、遠くは因島、北は赤坂から山手にかけての平野が一望の下だ。ここに城が築かれたのも納得できる眺望である。
住所・所在地
広島県福山市金江町藁江
広島県福山市金江町藁江
山田渡辺氏の功績
- 室町時代
渡辺基の子の持は足利尊氏に従って武功をあげ、備後国深津郡山田荘の地頭職を与えられた。持のあと、忠・直・重と代々続いた。応仁の乱において、山田渡辺氏は東軍についた。
- 桃山時代
渡辺元は、将軍・足利義昭が織田信長によって京都から追放されたのち、毛利輝元の後ろ盾の下で義昭に近侍し、その身辺を警固した。それゆえ、渡辺一族の群を抜いた活躍に義昭が感動したことにより、白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許す御内書が下された。白傘袋と毛氈鞍覆とは、室町時代守護大名家に許された印であり、山田渡辺氏のような地方の国人にこれを認めたことは既に義昭の周囲に旧幕臣が近侍していないことを端的に示している。
- 江戸時代
没落
しかし、関ヶ原の戦いで西軍につき(毛利家の家臣だった為)、江戸幕府から一乗山城退去を命じられ、その後は没落していくことになった。以後、新たに入封してきた福山藩主の水野勝成に仕えた。なお、水野氏の時代は側室を出すなどそれなりの家格を保っていたが、天領時代・阿部氏時代になると、次第に再び没落していったという。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍につき(毛利家の家臣だった為)、江戸幕府から一乗山城退去を命じられ、その後は没落していくことになった。以後、新たに入封してきた福山藩主の水野勝成に仕えた。なお、水野氏の時代は側室を出すなどそれなりの家格を保っていたが、天領時代・阿部氏時代になると、次第に再び没落していったという。
更に言うと毛利家と水野家、浅野家にも仕えた渡辺家が江戸時代にいた為に渡辺氏は、福山市だけでなく広島市にもにいるとされる。というかいる。
毛利家の家臣の渡辺氏は、江戸時代以降は、青雲家と言って区別がされていている。
毛利家の家臣の渡辺氏は、江戸時代以降は、青雲家と言って区別がされていている。
渡辺(渡邉)氏の家紋・渡辺星
(※好きな方は、家紋があるのでダウンロードしてもいいよ。ただしそれでトラブルになったとしてもこちらは、一切、責任を取りません。自己責任でお願いいたします。)
紺青に金色の渡辺星(プルシャンブルー、ネイビーブルー)
紺赤に金色の渡辺星
(主に皇室関係を表す赤色なので皇室関係者だった渡辺氏が使っているカラーかもしれません。)
(主に皇室関係を表す赤色なので皇室関係者だった渡辺氏が使っているカラーかもしれません。)
黒に金色の渡辺星
藍色に紺青の渡辺星