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72系
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車両の性能
製造年1952年-1958年
運用終了1985年
軌間1,067
電気方式直流:1,500 V
最高運転速度:95 km/h
駆動方式:吊り掛け駆動方式
運用終了1985年
軌間1,067
電気方式直流:1,500 V
最高運転速度:95 km/h
駆動方式:吊り掛け駆動方式
概要
国鉄72系とは大日本帝国の国有鉄道が保有していた車両で直流式通勤形電車。72系とは、同一の設計思想により製造された電車を便宜的に総称したもので国鉄正式の系列呼称ではない。書籍等によっては、これらグループの電車をクモハ73形を基幹形式とみなした73系と表記する場合や、63系とを総称して63・72・73系と呼称する場合もある。広義には、1944年から1950年にかけ製作された63系電車に1951年以降安全対策・体質改善工事を実施して改称したグループ、戦前製20 m級2扉車(32系、42系)の4扉化改造車(制御車・付随車のみ)を含む。ここでは主に狭義の72系電車(新製車)について記述することとし、63系改造編入車についても後段において記述することとするが、戦前型改造車については、それぞれの項で記すものとする。63系時代については国鉄63系電車を参照。72系新製車の半鋼製車グループは、基本的にモハ63形の基本設計を踏襲し、20m 級切妻車体に幅1,000 mmの片引扉を4箇所設けた構造を採用している。窓も63系以来の3段窓が踏襲されたが、63系体質改善工事車と同様、中段も上昇できる構造となった。貫通扉は引き戸で貫通幌付きとなり安全性が向上した。車体外板も戦前型並みの標準板厚に戻り、63形では省略されていた扉上部の補強帯(ヘッダー)が復活し、台枠部分にも外板が張られた。モハ72形は完全な中間車となり、モハ63形では扉はすべて運転台のない後位側に引かれていたが、車体中央から2枚ずつ車端側に引かれる構造となった。屋根高は63形の3,720 mmに対して3,650 mmとされ、若干屋根が浅くなり、車端部の断面から受ける印象が変わった。モハ72形は完全な中間車となり、モハ63形では扉はすべて運転台のない後位側に引かれていたが、車体中央から2枚ずつ車端側に引かれる構造となった。屋根高は63形の3,720 mmに対して3,650 mmとされ、若干屋根が浅くなり、車端部の断面から受ける印象が変わった。電動台車は、新型の軸ばね式鋳鋼台車であるDT17(のちの増備車での電動台車は、鋼板プレス溶接構造のDT20になる)に、また付随台車も同時期製造の80系や70系と共通の軸ばね式鋳鋼台車のTR48となり、主電動機は従来の63形と同等のMT40を改良したMT40A(端子電圧750 V時定格出力142 kW)である。後にMT40Bに変更された。主制御器は自動加速のカム軸式多段制御器ではあったが、63系の電空カム軸式(空気圧作動式)のCS5から、80系で採用されていた電動カム軸式のCS10に変更され、作動性や加速性能が向上した。ブレーキは従前からのA動作弁によるAMA/ACA/ATA自動空気ブレーキを踏襲している。
運用
72系は4扉車体による圧倒的な輸送力・客扱能力を活かし、山手線・京浜東北線や中央本線(中央線快速)、城東線・西成線(現:大阪環状線の前身)、片町線、京阪神緩行線など、首都圏・関西圏の通勤路線で1950年代から1970年代初頭まで広く用いられた。また、クモハ73形を使用することで最短2両編成でも走行でき、運用上小回りが効いたため、首都圏近郊の電化支線区では2 - 3両編成でも運用された。しかし、1957年以降の高度経済成長期に入ると、72系はまず列車密度の高い中央線や、駅間距離の短い山手線等から撤退を始めた。輸送力のひっ迫した過密路線では、高い加速力と強力なブレーキ力を兼ね備えた高加減速車両を使うことで、列車の運転密度を上げる必要があった。中央本線や山手線のような路線に、72系の走行性能は早期に不適となっていたのである。72系が新性能車両に比して最も劣る点はブレーキであった。新性能電車に搭載された電磁直通ブレーキに比べ、72系の旧弊な自動空気ブレーキは反応が遅く操作も難しい。また、モーターを発電機として作動させることで制動力を得る発電ブレーキも装備されておらず、総合的な制動力は新性能車両に比べて相当に劣っていた。また、吊り掛け駆動方式も不利に働いた。101系以降の新性能電車は、高回転モーターと超多段制御器を使うことで低速域から高い加速力を得ていたが、72系の制御器は旧形電車としては段数が多いものの、定格回転が1,000rpmに満たない低回転大出力モーターとの組み合わせでは、高い加速力を得ることは困難であった。しかし、高速走行では142kWの大出力のゆとりを活かす余地もあり、駅間距離の比較的長い京阪神緩行線などでは、限界一杯の100 km/hでの走行を行うこともあった。主要幹線で遅い時期まで運用された例は、首都圏では1972年の常磐線、京阪神地区では1977年の阪和線や片町線とされる。首都圏の通勤路線で最後まで72系が運用されたのは、1980年引退の鶴見線であった。72系に限らず、旧形国電の1970年代中期以降における急激な退役は、車両の老朽化による故障多発と、旧形電車の検査周期が新性能電車と比較して3分の1と短く、コストが嵩むことが原因であった。大都市での用途を失った72系は1960年代後半以降、新たに電化された御殿場線や房総地区、呉線等に、また17m旧形国電置き換え用として仙石線や可部線に転用された例もあった。この際、御殿場線と呉線で使用される一部のクハ79形・サハ78形にはトイレが取りつけられたが、従来の気動車列車や客車列車と比較して座席数が少ない、保温が十分ではない、トイレが少ないなどの理由から、利用客には不評であった。特異な運用例としては1971年-1975年の年末年始に臨時荷物列車として、村上駅-大垣駅(東京経由)間という長距離運行を行ったことがある。1980年以降の末期は、可部線と富山港線での運用が残存していたほか、仙石線でアコモデーション改良車が運用されていたが、可部線からは1984年、仙石線と富山港線からは1985年に撤退し、これをもって72系は全車両が一般営業から退いた。