【元ネタ】史実
【CLASS】アーチャー
【マスター】
【真名】メフメト二世
【性別】男性
【身長・体重】178cm・69kg
【属性】混沌・中庸
【ステータス】筋力D 耐久E 敏捷E 魔力D 幸運B 宝具A
【クラス別スキル】
対魔力:E
魔術に対する守り。
無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。
単独行動:D
マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。
ランクDならば、マスターを失っても半日間は現界可能。
【固有スキル】
軍略:C
一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。
自らの対軍宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。
未知への探求:A
己が是とする憧憬への飽くなき渇望。好奇心の強さ。
時に荒唐無稽とさえ映る夢想を周囲の人間にも是とさせるこの強い意志は、
場合によっては
カリスマとしても機能し得る。
人間の限界:A
英霊が持つ「天・地・人」三属性の中の、二つの属性に有利な補正を得る代償に、
残り一つの属性からは非常に不利な補正を押し付けられる人属性の英霊だけが持つハイリスクハイリターンスキル。
アーチャーの場合、「天と人」に対して有利になる代わりに、「地」に対して不利になるようスキルが機能する。
彼は人も、神も恐れない。恐れるのは悪魔のみ。
【宝具】
『千年帝国鎖す弩級砲火(トプチュ・ウルバン・クンダクチュルク)』
ランク:C++ 種別:対城、対民宝具 レンジ:20~60 最大捕捉:600人
征服帝メフメトの「撃て(アテーシ)!」の号令とともに放たれる、宝具『破城の弩級大砲(トプチュ・ウルバン)』の砲火。
欠点こそ多大に内包しながらもコンスタンティノープル陥落に大きく貢献したこの放火の威力は、
あらゆる防御・陣地を一斉射のもとに打ち破るだけの威力を有し、
砲火の轟音と閃光、その後に生まれる破壊跡は対峙した者の心に恐怖を植え付け、渦として拡散させる。
大砲自体にチャージ、ディレイが長すぎるというデメリットがあるが、
砲火による恐怖が伝播すればするほど、大砲の性能が上昇し、もう一つの宝具へと繋がる。
『暗黒の時代は来た、遥かな羅馬の栄光は彼の手に(ムフティシャン・ファーティフ=ルーム・カイセリ)』
ランク:A 種別:対陣宝具 レンジ:20、30、66 最大捕捉:666人
ローマ(ビザンツ)皇帝が実行できなくなって久しい、古代ローマ皇帝の成せる権力暴威『絶対皇帝圏』の構築。
宝具『千年帝国鎖す弩級砲火』による征服者に対する恐怖によって完成するこの世界は、
文字通り「自己の願望を達成させる」、メフメト征服帝が通った生前の戦場のすべてを、
継ぎ接ぎしたような死屍累々の暗黒地点として展開される。
一度展開されれば解除まで脱出不可能な他、この宝具の中では大砲のチャージ、ディレイはゼロとなり、命中精度も大アップ。
さらに砲火と破壊跡で拡散される恐怖の値も大幅に向上するが、メフメト自身の魔力でこの戦場を長く保たせることは不可能。
宝具開帳中は、常に攻撃の手を緩めず、恐怖を以て敵を蹂躙し続けなければならない
(事実上、メフメトの攻撃が途切れれば、即座にこの『絶対皇帝圏』は解除される)。
【Weapon】
『無銘・剣』
トプカプ宮殿に所蔵されている剣。刃はやや湾曲している。
メフメト自身に胆力はあっても、この剣での戦闘能力は並みのサーヴァントには遥かに劣る。
戦略で相手を押し潰し、一時であっても戦術的有利を握らせないことが肝要であろう。
【解説】
オスマン帝国第七代スルターン。“征服の父”とも、“キリスト教最大の敵”とも称される。
ビザンツ帝国を滅ぼし、30年以上に及ぶ在位期間のほぼ全てを戦火の中で過ごした。
アンカラの戦い以降急激に国力を衰退させて以来の時代に、ムラト帝と奴隷との間に生まれた彼は、12歳でスルターンとして即位。
若年故の未熟ゆえか臣下の多くが従わなかったために、一時帝位を父帝に返上したが、父帝崩御に伴って5年後に再度即位。
早速征服路線を引き継ぎ、ローマの末裔としての実はすでに霧散していたビザンツの首都コンスタンティノープルを包囲・陥落、
これをついに滅ぼしエディルネからこの地に遷都、以降イスタンブルと改称し、オスマン帝国目線での都市復興を実行した。
その後はベオグラード包囲戦でフニャディ・ヤノーシュ率いる軍の想像以上の優先の前に惨敗し、苦い記録を戦績に刻んだが、
征服路線は変更せず、セルビア、ボスニア、ギリシャ、トレビゾンドと次々に平定。
ワラキアでは
ヴラド三世のゲリラ作戦を前に多くの戦術的敗北を収めて撤退を余儀なくされたが、計略を用いてヴラドの失脚自体は成し、
最終的に抗戦の勇がいたアルバニアなども含めた東欧のほぼ全土を手中に収め、西欧にまで手を伸ばした。
オスマン帝国を、名実ともに“帝国”とした英君だが、最期は遠征の企画中に病死(毒殺とも)。
キリスト教側の歪曲とする説もあるが、その外見は病気からの極度に肥満しているとも、逆に死人のように痩身ともされた。
狂信者などと言われることもあるが、非ムスリムの民に対しても“ある程度”は寛容であり、
また異国の芸術文化にも深い興味を示した彼の時代の宮廷は、国際色豊かであったことは、想像に難くはない。
最終更新:2016年06月20日 20:29