一つのものに対する視点と見え方の違い
※この話は
視点や感性の多様性と事実・事象(1)の続きです。ここに出てくる語彙や物事、発言に対してはその中で述べた「定義」に沿い、それぞれの登場人物がその認識の元で行なっている事が前提です。
例えば、ここに一つの円柱があるとする。
ある人は、上から見て「円だ」と答える。
またある人は真横から見て「長方形だね」と言うかも知れない。
どちらも、視点を変えただけで、双方にとって一つの事実を述べただけに過ぎない。
気づきや寄り添いで事実どうしの衝突は避けられるはず
ただ、見方によってはここに二つの食い違う事実が、一つのものに対して出てきていると捉えることが出来る。
その時、相手と視点をあわせて「確かにこっちから見ると長方形だ」と言う人も居るだろうし、視線を移す際にそれと気がついて「あ、なるほど、円柱か」と言う人も居るかも知れない。
或いは、視点が違うからと言う事実だけを理解し、見え方の違いがあるのは当然だと気にせず放置しておく人も居る。
この場合困るのは、「いや円だ」「違う、長方形だよ」と目線一つ変える努力をせずに、頑なに互いの中に現実として「存在する事実そのもの」を否定する事では無いか?
互いに見たままを言っているはずであり、その「互いが見ている現実」自体は曲げようがないはずであるにも拘わらず。
事実の否認が招く危険
この場合は角度によって違う図形として観察が可能だから、食い違いが出るのも理解出来る。
極端な話、球を見ても四角だと言い張り、そのまま相手をねじ伏せようとする人が多い。
言い方を変えれば、「マウント」を取った挙げ句、相手が呆れて去って行くのを見たり、覆すまでもない屁理屈をぶちまけて一方的な「勝利宣言」をして増長していくことも少なからず見てきた。
繰り返す。極端な話ではあるが、これと同じ様なことが日常で行なわれているのである。
これが社会一般に通用すれば悲劇である。
同様の人がどうしても立方体が必要となる場面で、これは立方体だと言い張り、球を持ってくる。そして、周りがいくら諫めてもその球が立方体であるという認識を覆そうとはせず、強行的に立方体として用いようとしていると仮定する。
仮に、ここが工場であればラインが止まるか、万一形となったとしても製品としてはとてもではないが出荷できないであろうし、機械であれば故障や不具合の原因になる。踏み台にしようとしたのであれば怪我、最悪打ち所が悪ければ死んでしまうかも知れない。
A(この場合は立方体)が必要な場面だと定義されているのであれば、B(この場合は球)をAと言い張って無理矢理用いることに利点は何も無いばかりでなく、その結果、重大な結果をもたらすことも往々にしてある事は覚悟しなければならない。
仮に無知であれば良いという話では無い。無知は良いとしても、無知を認めない事がむしろ危険だし、恣意があれば尚のことである。
障害など、人によってはどうしようも出来ない壁がそこにあるのかもしれない。そこに配慮は必要である。
しかしながら、配慮は配慮であって、配慮ではそこにある現実や事実をねじ曲げることは出来ないし、その結果の危険性を変える事は出来ない。変える事が出来る物は変えていくとしても、違うものは違うと切り分けて考えていかなければならない。
極端な話をすれば、かりにあなたが断崖絶壁に立っているのであれば、押した人が精神疾患をかかえていたにせよ、障碍者であったにせよ、ただの殺人鬼であったにせよ、押された弾みで足を踏み外してしまえば落ちるという結果には変わりは無いのである。
何故運転免許一つ取るのに技能試験や筆記試験、身体検査等が必要なのかよく考えて欲しい。
出来ないことを無理にやらない、やらせないこともまた必要なのである。(人命がかかっているのであれば尚更)
思い込まない、自分を騙さない、見たままを理解するだけでは駄目なこともある
長々と話したが、個人の認識はどうであれ、自分勝手に事実をねじ曲げたり、自分が見えているものだけが全てと思い込んでしまうのは非常に危険なことである事だけでも理解してもらえれば、と思う。
ことに、人というのは思想や理念と言ったノイズがその視界をゆがめてしまうことが多々あるのだから。
最終更新:2020年03月08日 09:20