八甲田雪中行軍遭難事件

摘要

八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。

災害の特徴・キーワード


人的被害

  • 死者199名
  • うち6名は救出後死亡

特記事項

当時はロシアとの戦争を控え、陸軍の冬季訓練は喫緊の課題であった。そんな中、厳寒地での戦いを想定し、日本陸軍第8師団は1902年1月23日より雪中行軍の演習を計画した。
計画では青森市街から八甲田山の田代新湯へ1日で踏破する予定であったが、その行軍の途中に起こった山岳遭難事件である。
初日にはすでに行軍のさなか暴風雪の気配があったため、装備の乏しさと天候悪化を懸念し、将校たちにより駐屯地へ帰営することも検討されたが、見習士官や長期伍長など下士を中心とする兵たちの反対もあり、行軍を続行した。
翌24日2時ごろ、ようやく帰営の決定がなされたものの、その後遭難。落伍者が相次ぎ、夕方には雪濠を掘ろうにも、道具を携行していた物はすべて落伍しているという有様であった。
そのため、吹き曝しの中で露営することになったが、この露営地で最も多くの凍死者が出る結果となった。25日未明にはここですでに70人もの死者・行方不明者を出していた。
その後、予定通りに戻らないことで青森屯営は24日は田茂木野、25日は屯営内で帰りを待ったが、26日に捜索隊を派遣。27日に最初の生存者を発見できたものの、最後の生存者を収容したのは雪中行軍開始から第11日目の2月2日、最後の遺体収容は5月28日の事であった。
折しも、2日目であった1月24日に北海道の旭川では日本の観測史上最低気温である氷点下41度を観測するほどの寒波が襲った最中の事件であった。


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出典


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最終更新:2021年09月08日 23:21