寛文高田地震

摘要

1666年2月1日(寛文5年12月27日)申の下刻(16~17時) に北陸地方・越後国(現在の新潟県) にて発生し、越後高田(現・上越市) を中心に被害をもたらした地震である。寛文高田地震、越後西部地震とも称される。震源は越後西部、現在における上越市付近とされ、地震の規模はM6.4~6.75(6 3/4)前後と推定される。
名称の通り、当時城下町であった越後高田を中心に被害をもたらした地震であり、都市直下型地震に分類されると言える。なお、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市) でも有感であったとの記録が残る。


災害の特徴・キーワード


被害内訳

  • 越後国(現・新潟県)
    • 犠牲者は600人とする説と1,400~1,500人とする説あり。
      • 家老の小栗正重と荻田長磐らが倒壊家屋により圧死したほか、越後高田藩家中150人(120人) 余が死亡。
    • 侍屋敷700余り倒壊。民家の倒壊も多数。
    • 高田城の本丸、二の丸、三の丸にも被害。
    • 夜には火災も発生した。
    • 当時4.5mほどの積雪があった。
      • 火災の際、雪壁に阻まれて避難ができなかった人が多数出た。
      • 屋根からの落雪によって下敷きになるなど、豪雪地帯の冬季ゆえの犠牲者も発生したとされる。

特記事項

江戸時代前期に発生した歴史地震である。高田平野西縁断層帯や高田平野島縁断層帯などからなる高田平野断層帯を震源とする活断層型地震とされ、震源近くにあった越後高田藩高田城下を中心に被害をもたらした都市直下型地震に分類される。
高田平野においてはこのほかにも越後南西部地震(1502年)、宝暦高田地震(1751年)等、高田平野断層帯を震源とする地震がたびたび発生している。
また、被害内訳でも述べた通り当時発生していた積雪が避難の妨げになったり、落雪による犠牲者が発生したことから、複合災害としての側面も持ち合わせていると考えられる。

出典


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最終更新:2022年06月25日 15:47