信玄は目を開けた。
今なら手足を縛りつける縄さえも、力まかせに引きちぎれるように思う。
濃姫を見据えながら、唇の両端を吊り上げた。
「……ひっ」
目が合った瞬間、小さく悲鳴を上げて怯えるように後退った濃姫の黒い瞳には、荒ぶる虎の姿が
映っていた。
今にも相手に飛びかからんとする姿勢の、しかし闇夜に光る双眸には気高い静謐さを宿す、
老健な虎。
泥と血と白い液が混じり合って垂れる顔面は武田信玄の面影を残しつつも、まだら模様の化粧に
よって、人外の形相と化している。
濃姫の瞳を通して己の姿を見た彼はふと、唐土伝来の伝承を思い出した。
虎に姿を変えるという人間の話だ。
ある日、突然に獣に姿を変えてしまう話。あるいは浴びるほどの大酒を呑んだ者が、虎に
変生してしまった話。
荒唐無稽な話と思っていた。しかし濃姫の目の中を覗き込めば、人が虎に化けるという
奇異な話も現実味を帯びる。
いよいよ怯えた濃姫の指が拳銃の引き鉄を引き、彼めがけて鉛の弾が襲いかかるが、弾道は
大きく逸れて、頭上の土壁を崩すだけだった。
彼は歯を剥いて笑い、言った。
「鉛の弾で、ワシを倒せるとでも思うておるのか」
天井付近の明かり取りから冷ややかな月光が仄かに射し込み、濃姫を照らす。
極度の狼狽からか大きくぶれる女の虹彩の中で、虎は見えざる明月を仰ぐように首をもたげると、
太い声で吼えた。
今なら手足を縛りつける縄さえも、力まかせに引きちぎれるように思う。
濃姫を見据えながら、唇の両端を吊り上げた。
「……ひっ」
目が合った瞬間、小さく悲鳴を上げて怯えるように後退った濃姫の黒い瞳には、荒ぶる虎の姿が
映っていた。
今にも相手に飛びかからんとする姿勢の、しかし闇夜に光る双眸には気高い静謐さを宿す、
老健な虎。
泥と血と白い液が混じり合って垂れる顔面は武田信玄の面影を残しつつも、まだら模様の化粧に
よって、人外の形相と化している。
濃姫の瞳を通して己の姿を見た彼はふと、唐土伝来の伝承を思い出した。
虎に姿を変えるという人間の話だ。
ある日、突然に獣に姿を変えてしまう話。あるいは浴びるほどの大酒を呑んだ者が、虎に
変生してしまった話。
荒唐無稽な話と思っていた。しかし濃姫の目の中を覗き込めば、人が虎に化けるという
奇異な話も現実味を帯びる。
いよいよ怯えた濃姫の指が拳銃の引き鉄を引き、彼めがけて鉛の弾が襲いかかるが、弾道は
大きく逸れて、頭上の土壁を崩すだけだった。
彼は歯を剥いて笑い、言った。
「鉛の弾で、ワシを倒せるとでも思うておるのか」
天井付近の明かり取りから冷ややかな月光が仄かに射し込み、濃姫を照らす。
極度の狼狽からか大きくぶれる女の虹彩の中で、虎は見えざる明月を仰ぐように首をもたげると、
太い声で吼えた。
おわり




