物語にはかならず生と死がかいざいする。
理解に生と死がなければ、ただゴブリンのカードが戦闘で青くなるのと、なんらかわらない。
理学的にいえば時間の総積が価値なのだから、時間的価値をまずとりださないと、生いぜんに死がわからない。
観念をしらない子供が、黄泉の石柱をわらってこわすように、時間的価値をしらないとは、そういうことなのだ。
だが理律をしったからといって、よいカードワースのシナリオができるとは限らない。
本人らしさがまず時間的価値なのであり、それがいじってつくりあげたんだから、それがたとえ価値的不良であっても、根本が時間的価値があるのだから、それは不でなく正というなら正だ。
だったら、発生の発芽じたい黄金比的正解がおきないとおきないのだから、まず自分のやることは時間的価値に肯定される。
それなら違法とはなんだろう。犯罪とは金をはらえば正になるのなら、観念のもつれはまずまちがいなくある。
ならば対者の感情はなんだろう。時間的価値がなぜ肯定なんだろう。わからない。
しかしさらに宇宙学的に天体から観測すれば、時間的価値が不なら、地球の自経はずれて、軌道が銀河系からくずれる。しかしいまだ宇宙局から異変のニュースはない。
だから宇宙の黄金律が正なら、時間的価値は正でなるなら、小的比較対象体の人間はミニマムになんかのショックでいなくなるかもしれない。
だからこういうことがいえる。
小的比較対象体の人間のいちカードワースユーザーも、シナリオをつくるときは時間的価値の最終保持者の気分になって、ユーザーの遊戯のために、自分の小宇宙(コスモ)をつくることができる、ということだ。
だから、ここからが大事だ。今まではレストランで食物を運ばれるまえのナプキンをつける行為とおもっていい。
時間的価値とはいったが、この観念は、言葉の厚みに、意味的価値を集積させることができるが、カードワースのシナリオをつくるうえで、どこまで馬鹿になって価値を複合しつづけるかである。
理解と意味と宇宙、これは無の色体になって、忠実に操作者の意図にうごきつづけるが、どういう活動が一番効率よく時間的価値をはぐくむのか。
かなりであるが、音楽の存在はでかい。これは最近のこだわりではmidよりmp3の方がもてはやされているが、中途な古参から意見をいわしてもらうと、midでもパワーポジリティーは爆発的にもっている。
まず、場面をおもいだすとき、人にもよるが、名場面はまず音楽から記憶を読みださないか。
音楽が全体をつつむうえで、これが場面を名場面にするどころかムードをはき違えて、たんじゅんに音楽ミスをおかすと、途端に記憶のやる気をうしなわせる。
これがヒッチコックの場合だと、場面の色にあえて正反対の音楽をとりつけて、反対色で場面を強調する映像的レトリックもあるが、レトリックが合わない選択すると、かなしいことがおきる。
まず個人差あれど、さいしょが音楽だ。
つぎに画像である。とくにカード画像のキャラクター画が、つまらなく少年誌的だと、いくら小説にもまさる名文をはいても、すべてが、むなしくうつるのは、筆者の年齢もあるかもしれないが、だいじなのは、社会をやすくとらえがちを狙ってでなく素でかんちがいされてると、おもいこまれることが、いちばんのシナリオ的ダウンといえる。
最後に文章だ。これはながくやらないと、鉄人がかんがえたラーメン屋みたいに、一番表現としていいダシを思いつくことは不能。こればっかりは年数をかせがないと、絶対ねらいどおりに、ピン全たおしなど、むちゃなことだろう。