テノリライオン
風と光の野へ 前編
最終更新:
corelli
暗い。
ぴちゃーん、とどこかで水の音がする。
水――飲めるかな。いや、飲めた所で何になるというのか。
くすくすと歪な笑いが漏れる。頭の中、少し離れた所で私を観察するもう一人の私が、そろそろ危ないな――と冷静に観察していた。
まるで深海のように冷たい闇の向こうを、おぼろな白い影が横切った。ああ、骸骨だ。
「まだ、分からない……?」
首を傾げて呟く。もたれていた岩壁から背を離し、抱えた膝にことりと顎を乗せて目を閉じた。
「ヴェー……ア、ルオー……ルオーム、フォルトゲブラート……」
ただ本を読んでいるだけなのに汗だくだ。
喘ぎにも似た溜息。ああ、何だってこんなものを見つけてしまったのだろう。
けど、そのまま書棚に戻すなんて、俺にはできなかった。
俺が見逃してもいずれは誰かが――だったら――いや、その方がよかったのか。
ページを繰る手が止まる。この定式は……違う、さっきの応水竜呪文の末尾じゃない。その前に見かけた……どこだったか。何冊前か。重要とは思わなかったから、メモを取り忘れた。
ああ、また錯綜してきた。溜息をつき、背もたれによりかかる。
脇に山積みになっている資料の本に手を伸ばす。その指先に、ぱしっと軽い痛みが走った。糸くずのような電流が爪にからみつく。
「大人しくしていてくれよ……」
溜息をつき、手をさすりながらのろのろと立ち上がる。限界だ。少し眠りたい――
* * *
ウィンダス森の区、平穏な日々を送る人々はまず訪れることのない、最奥のエリアの更に奥。うっそうとした森なりによく晴れた、明るい昼下がり。
私はシーフギルドに顔を出していた。
「仕事」の報告と、その報酬を受け取る為だ。
仕事と言っても、いわゆる世間一般の者が世間一般の冒険者に個別に依頼する類の、通称クエストと呼ばれるあれではない。シーフの技術を使って冒険者を「営んで」いる者も世界には多くいるけれど、私はそちら側の人間ではなかった。
で、冒険者ではないシーフの仕事といえば――まぁ概ね想像がつくと思う。
当然活動時間は、お日様とは無縁の領域。そんな仕事明け直後に足を運んだので、すこぶる眠い。少し立て続けに働きすぎたか。
2つしかない簡易受付カウンターが両方塞がっていたので、間近にあったベンチに腰を下ろして沈み込んだ。猫耳隠しのベレー帽を目深に下げ、目を閉じる。
後ろの方だけちょっと結んだ茶色い髪と同じ色、短い毛の密生する尻尾を腰に巻き付けてついでに腕と足も組み、大人しく手続きが終わるのを待つの構え。
少ない窓から差し込む日光が、薄暗い室内で帯を作っている。その中を微細な光の点が漂う。ほこりっぽい。ちゃんと掃除しているのだろうか。
そんな事を思いながらついうとうととしかけていると、傍らに小さくかすかな気配が近付いてきた。そちらの方向の目だけ薄く開けて見る。
「よう、ねぇちゃん。手ぇ空いてるか」
シーフに「仕事」を斡旋・分配する簡易窓口の向こうで見かけた事のあるタルタルが、無愛想に私に声をかけて来ていた。
「んあ……仕事?」
「ああ」
珍しい、何か急ぎの依頼でもあるのだろうか。通常はシーフの方からギルドに出向いて、その時に斡旋可能な仕事をもらうものだけど……。
「んー、まぁ今一仕事終えて報酬待ちしてる所だから、空いてるっちゃ空いてますけど」
「ちょっと『特殊』だ。 調査込み3日、10万。いいか」
「……OK」
金額的には悪くない。もぞもぞと居住まいを正す。
『特殊』とは。上層部絡みあるいは極秘度・危険度高し、故に報酬も高めというタイプの依頼の事を指す言葉だ。
主義としてあまりハイリスク・ハイリターンは好まないし、そもそもそういう機密度の高そうな類の仕事はたいてい決まった者に専門的に卸されるもの。それが待合室の木のベンチでうたたねをしていた一介のシーフである私に振られるというのは、余程手が足りていないのか。
それとも最近の実績を見ての事だろうか。確かにここしばらくは小さいながらもそこそこに依頼もこなし、ミスや遅れもないけど。
――まぁ、どっちでもいい。生活の為に金は必要なのだから。
普段はまず足を踏み入れない、建物の奥へと案内される。地味に装っている表と違って、遠慮のない金のかけ方をした造りだ。重厚な壁に重厚な扉、天井全体が光る魔法の照明。長い廊下。
だが物を隠すことのできる調度品はほとんどない。足音を吸収する絨緞もない。シーフギルド故の、半端な贅沢さが白々しい空間を黙々と進む。
前を歩くタルタルが止まり、そこにあった扉の一つを叩いて「お連れしました」と中に声をかけた。どうぞ、と厚い扉を通してくぐもった返事が返ってくる。
「入れ」
彼が顎をしゃくる。私がノブに手をかけて開いたのを見届けると踵を返し、彼は扉の横の壁によりかかった。
「……失礼します」
扉をくぐると、奥の机から立ち上がる、髭を生やしたにこやかなヒュームの男に迎えられた。
「どうもどうも。突然お呼び立てしてしまって済みませんね。お引き受け下さるそうで、恐縮です」
――何だこの愛想の良さは。まるで受付嬢か客商売かという勢いだ。幹部というのは逆にこういうものなのだろうか。逆に居心地が悪い、早く進めてもらおう。
アルカンジェロです、と名乗り、彼が手で示す椅子にさっさと座る。
「で、どういう内容でしょう」
「はいはい、では早速。もうお気付きの事とは思いますが、色々な意味で多少デリケートな仕事となります。遂行中は勿論、無事終了後も他言無用詮索無用、必要以上の質問もお受けできません。あなたからの情報漏洩が認められた場合はそれなりのペナルティがあります。よろしいですね?」
「はい」
私の簡潔な返事に満足したように頷くと、彼は丁寧な口調で詳細を話し始めた。
数日前、ウィンダスの魔道図書館からある一冊の本が持ち出された。
本のタイトルは「古代精霊魔法概要補足」。犯人は黒魔道士、エルヴァーンの男。その男はそのまま本を持って、デルフラント地方はベドーへと逃走したらしい。
目的は、その本を取り返して来る事。抵抗するようならその男は始末して構わない。
「という訳で、こちらが今回のターゲットの男です」
と言って幹部の男は一枚の写真をテーブルに置いた。
手に取って見る。短い白い髪。ひょろりとして気弱そうに見えなくもない、いかにも魔道士然としたエルヴァーンだ。
「それとこれを。こちら名義になりますが、帰りの移動の際にお使い下さい」
そうつけ加え、瞬間移動の呪符を一枚渡される。普通のものとは違う刻印がいくつかあり、帰還場所はここ、シーフギルドと刻まれていた。これはまたずいぶん気が利くというか、信用されていないというか。それらをポーチに仕舞いながら私は尋ねる。
「……で、彼はベドーのどこに?」
「あの土地にいくつかある、横穴に掘られた部屋のいずれかに陣取っているのでしょう。獣人がうろついている表では落ち着いて本も読めませんしね。ただ別件でベドーに潜入していた者の報告によると、地下を抜けた深部の方にはそのような人影はなかったと。恐らくはより手前のいずこかに隠れているのでしょうね」
「この問題の本はどういった……という質問は?」
魔道士が図書館から持ち出した魔術書に、一体何の用があるのだろうか。ダメもとで尋ねる私の言葉だったが、幹部の男は物分かりよさげに微笑む。
「それにはお答えしておきましょう。目を引かない地味なタイトルはカモフラージュなんでしょうかな。今までに発見されていなかった新しい、いえ、とても古い開錠の呪文が記されているという事です」
「開錠……それで、うちですか」
納得する。ある意味シーフギルドにこれ以上親和性の高い魔法もないだろう。
「ええ。しかしその本の存在は黒魔道ギルドの、極めて最上層部だけにしか明かされていないようでして。まぁ当然と言えば当然なのですが、どうも保護と言うよりは隠匿、秘匿の態度を向こうのギルドは取っています。そんな極秘裏全とした態度がこちらの不信感を買いましてね」
うんうん、と男は一人頷いて自分の主張を肯定してみせ、一息置いてまるで演説のように続ける。
「そんな物騒な呪文が、まぁ言ってみればその分野の素人の独占下に入っていてはいかにも危なっかしい。どんな間違った使われ方をするか判ったものではありませんし、世の治安にも関わります」
演説よろしく一気にそこまでまくし立てた所で、彼は私の無感動な表情に目をとめ、笑って肩をすくめる。
「……ま、当然そんなものは建前ですけどね」
* * *
前金を受け取り、私は幹部の部屋を後にした。
3日以内の仕事だ、明日の朝イチから動けばいいだろう。一応ベドーの地形も確認しつつ、今日の所はひとまず休んでおきたい。
ウィンダスの緑豊かな町並みをぶらぶらと歩きながら、水の区に入る。もう日も傾いて、サルタオレンジの色のきれいな夕焼けが広がり始めていた。
タルタルの子供たちが、木で出来た橋の上を笑いさざめきながら走っていく。夕飯に帰るのか、それともまだ遊び足りないのか。
私はうーんと伸びをしてその笑い声に背を向け、ここしばらく根城にしている安宿へと戻る。
質素な明かりを灯した玄関先で、その宿を経営しているタルタル一家の子供と鉢合わせた。
「…………」
私の姿を認め、彼は弾けるような笑顔で駆け寄って来るが、その口元から言葉は出てこない。無言だ。
「はい、ただいま」
私は言いながら彼にそう笑って、私の足にまとわりついてくる彼の頭を撫でる。
彼は数年前に、事故で聴覚を失ったのだそうだ。気の毒な話だが、それにもめげず明るく育っている。強い子なんだなだと思う。
そのタルタルの子はどういう訳だか、長期の逗留客である私に妙になついてしまっていた。仕事柄あまり一般の人とは親しくしない私の、一体何が気に入ったのかはさっぱり分からないが。
「ん、何?」
男の子が何かをせがむように、私の手を引っ張った。引かれるままについて行ってみると、水辺に渡された橋の隅に、木の皮で編まれた小さな虫かごが置かれている。中では一匹の羽虫が細かく羽をこすり合わせ、りーん、りーんと涼しげな音で鳴いていた。
男の子はそれに顔を寄せ、首を傾げながら問うような目で見てくる。
「ああ、ちゃんと鳴いてるかどうかってこと?」
私の表情でその音色を知りたいのだろう。私は橋の上によいしょとあぐらをかいた。籠を取り上げて目を閉じ、耳に寄せてみせる。
鈴を細かく振るような、思いがけず可愛らしく清らかな音が私の耳を満たし、一瞬その心地よさに身を委ねる――が。
優しく弛緩しかけたその心を、明日への緊張感がぐいと引き戻した。
そろそろナイフの研ぎ直しをしなくては。今日の仕事では刃先が鈍っていたからか、返り血の始末が面倒だった。そう、あとは侵入用の万能鍵を補充して――
私は目を開け、男の子に笑いかける。きれいに鳴いてるよ、と言う代わりに、指で丸を作ってみせた。彼は嬉しそうに笑い、私の手中の虫篭を覗き込む。
時は夕暮れ。二人の周囲の水辺を、薄緑の光点が優雅に舞い始める。
この安らかな明かりも、聞こえないけれど美しい虫の音も、この子のもの。
私が享受するものじゃない。
そして翌朝、私はウィンダスを後にした。
* * *
――遡ること数日 同じくウィンダス 黒魔道士ギルドマスターの部屋――
俺は卓の上に開かれた、一冊の本に目を落としていた。その本の向こうには、小さな体に長(おさ)の雰囲気と荘厳なローブを纏ったタルタル。ここでは師と崇める、黒魔道士ギルドマスターだ。
小さなマスターは眉根を寄せたまま、陰鬱な声を搾り出す。
「……間違いないようだな……」
「はい。マリウスの印と記録年度もそうですが、何より原始的な姿隠しと音消しの呪文の片鱗が伺えます。信憑性はかなり高いかと」
目の前のタルタルはじっと動かず考え込んでいる。やや長い沈黙の後、彼は口を開いた。
「これは――封印すべき物かもしれぬ。しかし……」
言われるまでもなく、勿論それは俺も思った。思ったに決まっている。でも。
「対応消去法の記述がありません」
マスターの逡巡を咎めるように、俺は思い切って強い声を出す。
「本当に開発がされなかったのか、それともできなかったのか、あるいはまたどこかに埋もれているのかは判りません。しかしそれすらも曖昧なまま再度闇に葬ったら、」
マスターはすっと手を上げて、熱っぽい俺の言葉を遮った。
「判っておる。 お前の言いたい事は判る。私にも同じ気持ちはあるのだよ」
年相応に皺の刻まれた顔を歪ませて、志す魔術を同じくするマスターは、バルトルディよ、と絞り出すように言う。
「特にお前は優秀で熱心な学徒だ。お前にもこの呪文にも、賭けてみる価値は十分にあるだろう。しかし――危険だ。見れば判る、ここまで徹底して原始的ということは、そも検証の段階で……」
「ええ、お察しの通りです。図書館ではかろうじて抑えましたが――」
再度唸るように考え込むマスター。しばしの沈黙の後、彼は首を横に振った。
「……駄目だ、やはり危険すぎる。一歩間違えばお前だけでなく、周辺の人間までも……」
分別あるマスターの憂慮は想像の範囲内だった。俺はいくらかの申し訳なさを感じながらも、用意していた台詞で畳みかける。
「ベドーに入ろうかと思います。あの地の打ち捨てられた部屋を一つ使って。可能な限りの防御も張ります。対応消去の割り出しと本則改良の足がかりだけでも、何とかして見つけ出したいのです」
負けじという気持ちで食い下がる。 食い下がっている自分が怖かった。
俺の目の前で、マスターは深々と溜息をついた。俯いてソファから立ち上がり、ゆっくりと部屋の奥に置かれた彼の机に戻る。椅子に深々と座り机の上で指を組むと、その目から迷いは消えていた。
「判った。お前に任せてみよう。食料などは定期的に運ばせる。魔導図書館には手を回しておこう。資料も好きなだけ持ってい行くといい。が、内容が内容だ。ある程度の目処が立つまで、この事に関わる人間をこれ以上増やすことは厳禁だ。そして」
思わずソファから身を乗り出す俺を押し返すように見据え、マスターは厳しく言い渡す。
「万が一の場合は……鎮圧に、かからざるを得ないという事を忘れるな。くれぐれも、くれぐれも注意するのだ。私を、お前の前に立たせないでくれ。ゆめゆめ無理だけはしてはならん。いいな」
「勿論です。ありがとうございます、マスター」
俺はソファから立ち上がり、深々と一礼した。
それと同時に、高揚感と恐怖が急速に現実味を帯びて体を満たしていくのを感じる。
俺は、間違っているかもしれない。だが、もう後戻りはできない。
そして翌朝、俺はウィンダスを後にした。
* * *
手にした写真をはためかせる、強い風。
ジュノへ向かう飛空挺の甲板で船べりにもたれながら、私は標的の写真を眺めていた。
何度見ても、まるで勤勉な学生のように無害な面立ち。多少頑固そうな雰囲気も見え隠れしているけど、腕力に訴える者特有のふてぶてしさは微塵もない。対するに不安を覚える相手でないことだけは確かなようだ。私はのんびりと呟く。
「できれば殺しは遠慮したいからねぇ……」
そんな事を言いながら、薄い写真を持つその手で。
私はこれまで幾度も、己に刃を向けるものを容赦なく「排除して」きた。罪悪感などというものが、麻痺してしまったのか元々なかったのか、それすらも曖昧になるだけの時間が、この世界に身を置いてからは過ぎていた。
しかしそれでも、殺すと決めて能動的に命を奪うことは避けてきたつもりだった。正確に言うならば、そういう仕事を避けてきた。それは私なりの、どこかで捨て損ねた「最後の砦」なのかもしれない。
それを甘ちゃんだと思われない為の立ち回りで上塗りをする、そんな必要に迫られもしたが。
無駄に抵抗しないでくれるといいんだけど――。まだ私は、そんな勝手な願いを抱く。
写真から目をそらして、くるりと振り向く。見下ろす眼下には荒々しい海。行く手に目を移せば、うっすらと浮かぶ長い長い橋と、その先に塔のように突き出す、白く巨大な都市が姿を現すところだった。
物思いを打ち切り、私は懐に写真をしまって船室へ引き返す。下船準備をしなくては。
降り立ったジュノの街は相変わらずの喧騒だった。特に下層は、行き交う冒険者の常軌を逸した熱気にうんざりさせられる。
しかしここが、世界で一番情報の集まる場所なのだ。多少の不快感くらいは我慢しなくてはならない。
「ふぅん……」
が、その街角でも人混みをすり抜け辿り着いた酒場でも、ベドーに篭もったであろう彼や、例の呪文についての噂は全く聞くことができなかった。
やはりギルドの言う通り、相当な規制を布いているのだろうか。それとも本当にひっそりとベドーにいるだけで、誰も気付いていない――?
これ以上粘っても、特に収穫はなさそうだった。私は諦めて宿屋に荷物を預け、少し武器の手入れをしてからチョコボを駆り、ジュノを後にした。
ロランベリー耕地を抜けてパシュハウ沼へ。
進むにつれ晴天、曇天、小雨と天気が悪くなる。
目的地が近付いてくる。
* * *
錆びた大地、ベドー。
獣人族の拠点の一つだけあって、大小様々のクゥダフがうようよしている。大地の酸化を進行させる雨がしとしとと降り注ぐ。ぞっとしない光景だ。
「全く、こんなシケた所に引き篭もって……」
私はその地に踏み込むと同時に、自分にサイレントオイルとプリズムパウダーを素早くふりかけた。
獣人対策ではない。バレるときはバレるものだが、万一いるかもしれない「見張り」に対する用心だ。
降り止まない雨がうっとおしい。 早く終わらせよう。赤銅色のぬかるみの中を、私は静かに進み始める。
「……お迎えは、なしかしらね」
ベドーには、要所要所にクゥダフ達が地形の段差部分を掘り抜いて作った部屋がある。
扉は鋼鉄製でスライド式、内部は奴らの作った棚や照明器具などが並んでおり、おどろおどろしいながらも妙な生活感をかもし出している。
その部屋を近い所から用心深くチェックし始めたが、見張りはおろか、中にも外にも人の影は全くない。
用心しながらひとつ、ふたつ。みっつめ、冒険者達が頻繁に使う通りから、やや外れた所に位置する扉。
そこだけ、周囲にモンスターがうろついていない事に気がついた。
「……怪しい、のか?」
更に神経を研ぎ澄ませる。感覚の網を周囲にぴんと張り巡らせながら、ゆっくりと扉に近付いた。
相変わらず見張りはいないようだ。空気の動く気配はない。
段差にめり込んで作られた扉、その穴に体を滑り込ませ、岩壁に背をつけながらじわりと扉に手を伸ばす。
「…………」
私はすっと手を引っ込めた。いやな感じがする。
物理トラップの醸し出す違和感とはまた違う何か。かといって魔法がその発動トリガーを待っている気配でもない。何だ――これは。
ともすれば総毛立ちそうなその正体不明の気配を極力無視して、もう一歩扉に身を寄せてかがめ、中の様子を伺ってみた。しばらくそのまま静止する。
と、かすかにではあるがぱらりと紙を捲る音と、続けて衣ずれの音がした。恐らく一人分。
ビンゴだ。
私はそのままの姿勢で短剣を抜くと左手で持ち、扉の隙間にゆっくりと差し込む。
手先と耳に全神経を集中させ、少しずつ手首を捻ってみる。反応なし。すっと抜く。
相変わらず消えないいやな感じが気になるが、正体が判らない以上様子を伺っていても仕方がなさそうだ。いずれにせよ対応するしかない。
部屋の作りは、これまで見てきたものとほぼ同じのはず。テーブル程度の家具以外には遮蔽物も何もない小さな部屋だ、一気にいこう。
短剣を右手に持ち替えて立ち上がり、扉に手をかけてわずかに力を入れた。鍵はかかっていない。
深呼吸、ひとつ。
がらっと扉を開ける。床から壁から書物にうずもれ、扉に背を向けて机に向かうエルヴァーンの姿を部屋の奥に認めた。
彼が音に振り向くより早く室内に駆け込んだが、その時。
「――!!」
私の目の前に白い霧がぱっと現れ、避ける間もなく目、耳、鼻にその霧が流れ込んでくるような奇妙な感覚が走った。
奇妙で――痛い!
反射的に息は止めたが、ここで目まで閉じては相手の思う壺だ。にじむ寸前の視界の中で、標的が驚いて振り返り立ち上がるのが見えた。写真の男だ、間違いない。
痛みをねじ伏せ、再度床を蹴って跳ぶ。部屋の中央にあったテーブルを飛び越えると、丸腰で棒立ちの彼の後ろに素早く回り込んでその右手をぎりっと捻り上げ、中空で逆手に持ち替えた短剣を彼の頚動脈にびたりと押し当てた。
一瞬で詰みだ。男の素人そのものの鈍さに、予期していたとは言え少々拍子抜けする。
まるで柔らかい布がふわりと床に落ちるように、部屋に静寂が戻った。霧はいつの間にか消えていた。
「……何の用ですか」
ややあって、黒魔道士が呑気な質問をする。驚いた、意外に冷静だ。
「『古代精霊魔法概要補足』。出してもらおうか」
かろうじてドスのきいた声を出す事はできた。彼の背後にいるのと、向こうの方が背が高いことで、目に残る痛みに思い切りしかめた顔も見られずに済んでいる。
一体あの霧は何だったのか。眼球が猛烈に痛い。しみる薬が入った時のように痺れて、まともに開けていられない。
気付けば耳も覆いをかぶせられたように、聞こえてくる音が遠く重くなっていた。
とは言え、彼が何らかの魔法を発動する暇はなかったはずだ。その素振りも、雰囲気も見えなかった。やはりトラップだったのだろうか――
「……シーフギルドの手の方ですね。済みませんが、出せません」
きっぱりと断ってくれた。ほう、大した肝の据わり方じゃない。
「大人しく渡してもらえれば、命は取らないけど?」
儀礼的にお約束のセリフを口にする。言いながら一生懸命目をしばたたかせた。痛い。
「出せません。命は取っても、本は取って行かないで下さい」
自分の置かれた状況が判っているのだろうか。震えもしない声で、彼は繰り返し拒否する。何だろう、ここまで強情――いや、冷静なのも珍しい。
しかも、頼んでいるというよりは諭しているような口ぶりだ。教室で騒ぐ生徒を注意するような、お前は何も判っていないんだという思いを言外に匂わせた、教師や学者にありがちな見下した態度。気に入らない。命乞いはどうした。
喉元に当てた短剣に少し力を込める。
「事情は知らないけど、何もそこまでギルドに義理立てすることもないでしょうに。不法侵入みたいな泥棒行為はシーフに任せておけばいいんじゃない?
生兵法は怪我の元だよ」
「泥棒行為?」
そらっとぼけている。まどろっこしい。
「世間に知られていない開錠の呪文なんか、うちが放っておくわけないでしょう。長居する気はない、出しなさい」
「……一体何を。これは、そんな平和なものじゃないですよ」
「は?」
「これは、この魔法は――生き物の五感を、奪います」
* * *
あまりに突拍子もない内容に、一瞬何を言われているのか判らなかった。
かすかに短剣から力が抜けたのだろう。先を促されたと思ったらしい黒魔道士が喋り出す。
「現時点で判っているだけで、視覚、聴覚、嗅覚……もしかしたら皮膚感覚までも奪うかもしれません。人間をとことんまで無力化しようとする、とんでもない呪文です。しかもまだ完全には解析できていません。こんな危険なものを、シーフギルドなんかに任せられるわけがない。そちらにも専属の魔道士はいるのでしょうが、手に負えるとは思えません。お言葉ですが、それこそ生兵法です。未熟ながらも黒魔道士の名にかけて、渡す訳にはいかない。お引き取り下さい」
怯えた風もないどころか、まるで自分の土俵に上がったかのごとくとうとうとまくし立てる彼に、私は苛立ちを抑えきれなかった。
何でもかんでも、自分の理屈で事が進むと思うのか。手も口も互いに一つずつなら、そこに刃を持っている方が勝つのだ。それを理解してから抵抗してもらいたい――。
私は低い声で言い返す。
「どんなハッタリだか知らないけど、呪文の内容が違った所で私の仕事の内容は変わらないよ。そいつをどうするかは、上が判断する。私はそれを頂いて帰るだけ。運び屋に荷物の説明なんかしても無駄だわ」
「言ってるでしょう、解析できていないって。それはつまり、解除の仕方も分かっていないという事なんです。その割り出しを今、私が必死でやっているところです。シーフギルドでは無理だ。頼むから引いて下さい。ここで止めるのは危険すぎる」
彼の口調が徐々に切羽詰まってくる。呪文の為か、はたまた己の命の為か。私は鼻で嗤う。
「よくできた言い訳だね。だけどまぁどんなに言った所で、私にはそれが本当かどうかは判らない。思い止まりようがないよ――」
「いいえ」
低い声で彼が言った。重篤の患者に宣告する医者のような、重々しい声。
「あなたはもう判っているはずだ。あなたがここに飛び込んで来た時の霧。あれがそうです。感覚器官に支障が出ているでしょう」
目の痛みがなかなか引かない。男の声が低く聞こえる。
「……あんたがやったの」
「まさか。違います。暴走しているんです」
「暴、走……」
降って湧いたような単語に、つい息を呑む。
「この呪文は、原始的と言っていい程の非常に古い言語で書かれています。つまり」
息継ぎ。ナイフの刃に脅かされたままの、彼の首が俯く。
「研究の為にいじりまわすだけで、効果の一部が現れてしまっているんです。少しの刺激で発動してしまう。だから私は自分の周りに防御壁を張り続けています。こんな人気のない所に来たのも、万が一の暴発の被害を最小限に留める為です。もしここから持ち出されて、魔道の素養を持つ者が不用意に読み上げてしまったら。保障できません。無関係な人にも被害が……」
* * *
私は不覚にも呆然としていた。途中から彼の話も耳に入っていない。
嗅覚はかろうじて無事のようだが、視界にはまだもやがかかっている。耳も重い。これまで物理的にも魔力的にも経験したことのない感覚だ。
元々が丈夫で強力なミスラの感覚器官だから、ここまでで済んでいるのかもしれないが。これだけ時間が経ってもまだ回復しないのは、確かに経験上有り得ないことだ――。
元に、戻るのだろうか。じわりと恐怖が足元から這い上がって来る。
そして思い出す。
ウィンダスの宿屋の男の子。耳が聞こえない。虫の音色も、母親の声も、心震わす音楽も。
取り上げられてしまったのだ。事故で。彼に罪はないのに。私や彼のように自ら危険に飛び込んだ訳でも、それに荷担していた訳でもないのに。それは文字通りの、純然たる、被害者、だ。
そんな人が増えるというのか。そんな人を簡単に増やせる呪文を、古代の魔術師どもはどういう目的で開発して、しかもそれっきりにしたと言うのか。
音だけじゃない。月の光も花の香りも、風の冷たさや陽だまりの暖かさも失って……。
無責任極まりない。負えもしない罪をそうとも認めず放置して、己の偉業に悦に入ったまま死んだのだろうか。
一触即発の呪文。もしそれが本当なら。いや、私の目と耳が証明している。
私の中で、何かがぱきんと弾けた。
「……あんたたちは」
手から力が抜ける。短剣が彼の首筋から離れた。
「――え?」
黒魔道士の男が戸惑ったような声を出す。警戒を解いてはいないのだろう、まだ振り向かない。
「あんたたち黒魔道士は、そんな救いのない魔法を作ってるの? いじくりまわして楽しいの? ええ略奪に来た私が偉そうに言えた義理じゃないわよ、でもね」
彼の右手をねじり上げていた手が離れる。
「見えない聞こえない嗅げない、肌の感覚もなくなる!? ある意味致死呪文よりずっと陰湿だわ! そんなもので一体何をしようって……」
部屋を見回す。その本が見つかればびりびりに破いてやろうと思ったのだ。が、少しの刺激で発動する、という彼の言葉を思い出して諦めた。
「……燃やしなさいよ」
私は知らず、地の底から響くような声を出していた。
「ええ確かに、そんな馬鹿げたものをここから持って出るのはごめんだわ。でもあんたがここでその胸糞悪い魔法を必死で研究してるのも、許せない」
ゆっくりと彼が振り向く。獣人によって天井に据え付けられたドーム型照明の青白い光が照らす中、私たちは初めて向かい合った。
彼の瞳に警戒の色が強い。が、私の顔を見て、彼は驚いたように目を見開いた。僅かに口元も開いている。
何よとばかりに痛む目で睨み返す私。
一時の感情に流されて仕事を放棄しているのは判っていた。どんなに非人道的でも、いやだからこそこれはシーフにはうってつけの呪文なのだということも、頭では理解していた。解錠呪文なんていう用意された嘘よりも、ずっと信憑性高く。
しかし目と耳の混乱と一緒に、ウィンダスの男の子の姿が、私の頭の中でどうしようもなくぐるぐる回っている。
無理だ。私には無理だ。何という半端者。
無責任な呪詛の言葉はなおも溢れる。
「解除できない? ならなおさら、呪文そのものを破棄しちゃいなさいよ。そうよ大体、解除できれば五感を奪ってもいいっていうの?
それともそんなご大層な研究なの、それは!?」
若いエルヴァーンは黙って聞いている。肩と、長く尖った耳の先が落ちているように見えた。ふん、と私は鼻を鳴らす。
「……さよなら。一生呪文が解析されなくて、あんたがここから出て来られない事を祈ってる」
彼から勢いよく顔を背けて出口に向かおうとして、初めて気がついた。目の痛みからか、涙が出ている。やはり皮膚感覚も麻痺しているのか、全く分からなかった。
もういい。ギルドには失敗したと伝えよう。しばらくは仕事に支障が出るかもしれないが、致し方ない。
すたすたと鋼鉄製の扉に向かい、手をかけようとした時。何かの力場が突然後ろから私を包んだ。
「なっ……!」
また暴走か、それとも彼か。
体ごと振り向くと、歪み始める風景の向こうで黒魔道士も同じように驚いた顔をしているのが分かった。彼の仕業ではないのか。
はっと気付く。魔力の奔流は私の腰のポーチからだ。
「呪符――!!」
思わず叫ぶと同時に、私の姿は部屋から掻き消えた。
to be continued
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