テノリライオン

野ばら 4

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匿名ユーザー

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―――10月9日 土曜日―――


 ……背中が、痛い。
 自分の息が熱い。 心臓が、どくどく言ってる……?


「……嘘ぉ……」

 とてつもなく重い体をどうにかベッドから起こして、私は呻いた。

 熱が、出てる。 見事に風邪だ。 昨日の雨のせいかしら……というか、他に考えられない。
 溜息をつこうとして、代わりにげほげほといがらっぽい咳が出た。

「まいったなー……」
 ふーっと大きく息を吐いて、再度枕に頭を落とした。


  *  *  *


「おや、ローザちゃん、具合でも悪いのかい?」

 食料はある程度買い込んでおいたけど、風邪薬を切らしていた。 出来れば何か消化のいいものも欲しいし。 どうにか寒気と関節痛と戦いつつ、厚着をしてのろのろと家を出る。
 と、通りがかった近所のおばさんが声をかけてきた。 昔から私にあまり警戒心を抱いていない、気のいいおばさんだ。

「……何でもないです、大丈夫」

 弱っている時は、あまり人と接したくない。 手負いの獣みたいな心理だと思う。 妙に刺々しくなって、復調するまで誰の目にもつかない所でじっとしていたくなるのだ。
 心配そうなおばさんの視線をすげなく振り切って、私は大通りへと進み出す。

「は……ふ」
 俯いて荒い息を切らしながら、競売所の方に向かう。 人いきれが辛い。 視界が妙に狭くて、通りすがる人を避けるのが精一杯だ。
 そうしてふらふらと歩いていると。 角から出てきた人影と、まともにぶつかってしまった。
 踏み堪えきれず大きくよろける私の腕を、その人影がとっさに掴んで支える。
「……どうしました」
「え」
 その聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる――ヴォルフだった。
 私は内心舌打ちをする。 よりによってこんな時に、私に干渉する人に立て続けに会うとは……

 「ちょっと、買い物に」
 そう言った途端、大きく咳込んでしまった。
「――風邪ですか」
 まあ顔も赤いだろうし、この厚着だ。 バレない方がおかしいか。 それでもとにかく、放っておいてほしい。 落ち付かない。

 しかし、そんな願いも虚しく。 彼は私を引き上げてちゃんと立たせると、家の方に足を向けさせながら言った。
「薬と食事を買って行きます。 家で寝ていて下さい。 すぐ戻りますから、鍵は開けておいて」
「……大丈夫よ、大した事ない。 今日はオフでしょ、いいから自分の用事をしてて……っ」
 また咳込む。 強く拒絶するように言っているつもりなのに、声が嗄れて情けないほど迫力に欠けているのが、自分でも判る。
「雨に晒した私にも責任があります。 戻っていて下さい」
 聞き入れる様子の全くない彼。 何とか構うなと追い払おうとして振り向くと、彼は既に競売所の方へと歩いて行ってしまっていた。

「……うー」
 無視して街をうろついても、見つかったら追い返されてしまうだろう。 そんなやりとりをする体力も、正直言って今は無い。
 甚だ不本意だが、これは戻っておいた方がいいか――
 私は不承不承ながら、二重の意味に重い足取りで家への道を引き返した。

 家の扉を閉め、そのまま一階のテーブルで待とうとして諦めた。 歩いたせいで全身のだるさが跳ね上がり、とてもじゃないが横にならないといられなさそうだった。
 息を切らせてようやく二階に上がり、厚い上着を脱ぎ捨てて咳と共にベッドに崩れ落ちる。自分の息と、心臓の音がうるさかった。


「……起きられますか」
 間近で聞こえた人の声に、はっと意識が戻る。 短い間に眠ってしまったのか。
 扱いづらい目をこらしてその方向を見ると、ヴォルフがテーブルをベッドの方に寄せ、その上に栄養剤と水、そしてお粥を置いていた。

「とりあえず食べて、栄養剤を飲んで寝て下さい。 着替えてから」
 そう言われて初めて、自分が外に出た時のままの格好で寝ている事に気がついた。

 食事と薬。 よかった、有り難い。
 けど、しんどそうにしている所は、見られたくない。

「……大丈夫」
 浮かされ放題の頭で渦巻く葛藤の中、目も合わせず起き上がりながらそう言うのが精一杯だった。

「ゆっくりでいいですから。 下のテーブルにあった家の鍵を、借ります」
 それだけ言い残すと、ヴォルフはとんとんと階段を降りて行ってしまった。 続けて扉が開いて閉まる音、そして外の路地を歩く足音が去って行く。

「――――」
 また、反駁の余地がなかった。
 私はごほごほと咳をすると、諦めてお粥に手を伸ばす。 今はもう、これしか出来ることが無い。
 何とか食べ終え、栄養剤を飲んでから着替えて布団に潜る。 後はどうにか、熱が引くまで耐えるしかない……


  *  *  *


 どれくらい経ったのか。 ふっと、穏やかに目が覚めた。

 ――暑い。 ああそうだ、熱が、出たんだっけ――でもさっきより、体はずいぶん楽になったような気がする。
 熱は……まだ落ちてなさそうだなぁ、どうしよう――

「……、…………」

 何だろう。 どこからか、小さい音が聞こえてる。 人の声かな。
 私、窓でも開けっぱなしにしちゃったかしら……

 うっすらと、目を開ける。


  *  *  *


 窓は、少しだけ開いていた。
 外はすっかり夕暮れ。 鈍く輝くようなオレンジ色の光が南西向きの窓から低く差し込んで、まだ明かりをつけていない室内をほの暗い暖色に染めている。
 窓際には、夕映えのスポットを浴びるように、窓からすこし斜めに外へ向けた鉄製の椅子。 そこに、背の高い人影が座っていた。

 長い足を組んで、膝の上には開いた本が乗っている。 背もたれに深く寄りかかって、手はページの上に置かれて動かない。
 白い髪が夕日を吸い取り、淡いオレンジに染まっていた。 広い肩幅。 きりっと尖る耳の影。
 読書は中断されているのか、視線は本に落とされておらず。 その顔は細く開いた窓の先へと向けられていて、私の所からでは彼の細い頬しか伺う事ができなかった。

「………………」

 そして――聞こえて来るのは、外からの話し声なんかじゃなかった。

 彼が。
 低く小さく、歌っていた。


 私は、熱でぼんやりと霞む目で、奇妙に現実感の薄いその世界にうつろに身を委ねる。
 人がいる、という気が、しなかった。 ただそこに、歌が流れている――

 聞いたことのないメロディだ。 とぎれとぎれに聞こえる歌詞は何語だろう。 判らない。 ゆったりと、でもしっかりしていて――何の歌かしら。 流行りのものじゃ、なさそう。

「……、…………」

 ……ううん、違うな。
 歌い方が、上手いんだ。 何となく歌っているようなのに、かすれたり、外れたりしない。
 彼に歌われた音符が夕焼けの光にピンで留められていて、手を伸ばせば触れる。 そんな感じがする。 一音一音をちゃんと把握していて、それを一つずつ丁寧に出してあげてるんだ。

 お堅い性格ってのは、こんな所にも出るものだったっけ……?


 動いたりはしなかったのに、ヴォルフがふと気付いたようにこちらを見た。 ああ、歌声がやんでしまった。
「目が覚めましたか」
 本をぱたんと閉じる。 ゆっくりと立ち上がって椅子に本を置き、窓を閉めながら言った。
「即席の食事を少しと、薬を貰っておきました。 食欲が出たら――」
「……歌、上手いのね」

 未だオレンジ色の世界から戻ってきていない私の脈絡を欠いた言葉に、彼が振り向いた。
 改めて私の顔を見る。 その目が、ふっと柔らかくなったような気がした。

「――生まれが、吟遊詩人の家系なもので。 教育の名残です」
「へぇ……おうちが……。 いいお家なの……?」
「そう大きくはありませんが――何故、そう思いました」
「なんとなく。 きっちり、してるから」

 そうでないことは明らかだが、照れ隠しのように彼は部屋の中程まで歩いて、天井から下がる明かりを小さく点けた。
 ぽっと灯る白い光が、閉じた窓の隙間からわずかに射し込む夕日のオレンジを、更に薄める。
 その明かりの中、彼はゆっくり椅子へと戻ると置いた本を取り上げ、少しだけ椅子をこちらに向けてずらすと再度そこに腰を下ろした。

「親御さん、厳しかったの……?」
 熱にうかされているせいだろうか。 何かのたがが外れたように、ぽろぽろと問いかけがこぼれ出て来る。
「特にそんな事はありませんでしたが」
 嫌そうな風もなく、私の方に視線を向けて、聞かれた事には淡々と答える彼。
「だってなんか、いーっつも冷静……お家柄だったりとか、するの?」
「感情に乏しいのは生来です。 家族は皆普通でした」

 語っている内容を憂うような空気も見えない。 肉親を恋しく思う色もない。
 正の感情も負の感情もなく、ただ事実だけをあるがままに受け容れている。 それが、生来だと。

「普通……自分が、ちょっと変わってるとは、思ってるんだ……」
「そのくらいの自覚はあります」
「周りと違って、嫌じゃなかった……? 変な奴って言われたりとか……」
「そういう事にあまり感心を持てないので。 褒め言葉と思っておきました」


 じりじりと絶え間なく体を苛む熱よりも、更に熱い、焦げ付くような羨望が私を襲った。

 ――なんて。 なんて、羨ましいんだろう。
 私も、あんな風に強く、軽やかにいられたら――どんなにか、楽だったかしら――

「いいなあ……」

 言葉と一緒に肺の中の空気を全部吐き出すようにして、私は嘆息した。
 途端にげほげほと大きな咳に見舞われる。 そんな私の様子を見て、彼は腰を上げた。
「ちゃんと休んだ方がいい。 明日、また来ますから」
 言いながら本を置いてベッドに歩み寄ると、鉛のように横たわる私の体に布団をかけ直す。 その重みで、薄いかけ布団の上に私の上着が重ねられている事に気が付いた。

 しばし戻ってきた、静けさ。 耳の中で、目が覚めた時に聞こえていた歌声が小さく鳴っている。 それを聞きながら、そろそろ開けているのが辛くなってきた目を上げて、私はもう一つだけ彼に訊いた。
「どうして、詩人にならなかったの……? 歌、上手いのに」

 ……あれ?
 もしかして、今、ちょっとだけ――笑った?

「なれると思いますか」

 吟遊詩人。 二呼吸の間、考えて。
 私も、火照る頬の下で、笑った。

 そうね。 およそこんな、無感動な吟遊詩人なんて。

「――ありえ、ないわね……」


  *  *  *


 テーブルに、薬と飲み物を出して。

 また明日、と一言言い置いて。

 明かりを落とし、階段に姿が消え。

 下で扉の閉まる音がして。

 薄暗い部屋に、いつもの静寂が戻っても。


 無愛想な赤魔道士のかすかな歌声が、いつまでも空気に残って、私の頬を撫でていた。


to be continued
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